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脅かされる性の自由(3)性解放なくしてゲイ解放なし

ヌードを含む写真集の摘発やハッテン場の摘発、そしてもしかしたら今後もさらに行われるかもしれない摘発…こうした流れがゲイシーンに与える本当に深刻な影響とは? 僕らはこの問題に対し、どのように考え、どのようなスタンスでゲイライフを送ればいいのでしょうか。今回は、そうしたことについて書いてみたいと思います。

脅かされる性の自由(3)性解放なくしてゲイ解放なし

ヌードを含む写真集の摘発やハッテン場の摘発、そしてもしかしたら今後もさらに行われるかもしれない摘発…こうした流れがゲイシーンに与える本当に深刻な影響とは? 僕らはこの問題に対し、どのように考え、どのようなスタンスでゲイライフを送ればいいのでしょうか。今回は、そうしたことについて書いてみたいと思います。(後藤純一)
 

「不道徳」という烙印の影響

 摘発はあったものの、とりあえずハッテン場ではパンツを穿いとこう、(たとえアートだろうと)全裸写真を配布するのはやめとこう、といった指針(回避策)が見えてきたし、これで一件落着…かというと、そうとは言えないものが残ります。

 グレーだった物事も、検挙・摘発があれば、世間ではクロだと見られるようになってしまいます。なぜそれがクロなのか?が不透明(あるいは理不尽)なまま「いけないこと」というラベルを貼られるのです(一種のえん罪のようなものです)。そうやって「RUSH」も「違法薬物」という烙印を押され、ゲイの間でも「ヤバいもの」と見なされるようになりました(「RUSH」は薬事法で販売・譲渡が規制されているだけで、所持・使用は違法ではありません。国立精神・神経医療研究センターの和田清さんも「akta」のトークイベントで「他の麻薬類と比べて有害性は低く、規制するほどのものではない」「むしろRUSHを規制することで麻薬に流れることのほうが問題」とおっしゃっています→その後、RUSH規制に関するパブリックコメントなどによる議論も行われないまま、一方的に規制が進み、2014年4月1日から所持・使用も違法となりました)
 
 レスリー・キーさんの件は、彼が著名人だったこともあり、TVのニュース等でも報道されました。「芸術作品であればフルヌードを含んでいてもOK」という最高裁の判例が出ていることは第1回でお伝えしましたが、逮捕された容疑者としてセンセーショナルに報道されることで、あたかも犯罪者であるかのように扱われたのです(メディア・パニッシュメントと言います)。ハッテン場摘発のニュースも多くの新聞が報道し(決して支援的なスタンスではなく、多分に興味本位な、ハッテン場はわいせつだと知らしめるようなものでした)、ネット上でも拡散されました。
 世間の、ゲイ事情をよく知らない方は、こうした報道を鵜呑みにし、「全裸写真はわいせつ」「ハッテン場っていかがわしい」と刷り込まれ、以降、そういうものを他罰的にあげつらうようになるでしょう。
 その影響は、ゲイ社会にも及びます。以前はフルヌードにも大らかだったはずですが、にわかに「全裸は犯罪」(いけないこと)というムードが醸成され、レスリーさんの写真の件に関しても「全裸だったんだ? それは逮捕されてもしょうがないよね」という声が一部で見受けられました。また、ハッテン場の摘発以後、何かハッテン場自体が「よくないもの」であるかのように受け取られ、ハッテン場に行く人が顕著に減ったと思います(結果、つぶれるお店も出てきました)
 言い換えると、そうしたものが、世間だけでなくゲイ社会においてもスティグマ(社会的不名誉、負の烙印、汚名)を背負うことになったのです。

 「そうしたもの」は、「(芸術作品を除く)全裸写真」や「(たとえ合意の上で集まっている人たちの前であっても)全裸になること」に限定されるはずですが、メディア報道の影響などもあり、「メールヌード」や「ハッテン場」、ひいてはゲイのセックスや性表現自体にも世間から奇異の目が注がれ、「不道徳」というレッテルが貼られる(同性愛嫌悪が増長する)ことになりかねません。
  
 その影響で、たとえば、若いゲイの方が、ゲイであることはOKとしても、ゲイ雑誌のグラビアに出たこと、ビデオに出たこと、クラブでGOGO BOYをやったこと、ハッテン場に行ったことなどを親に知られたとき、理不尽に責め立てられたり、なじられたり(最悪、勘当されたり)…という悲劇が起こらないことを祈ります。
 また、今後もし、ハッテン場やその他の性産業への非道な摘発が相次ぎ、壊滅的なダメージを受けるような事態に陥ったとき、以前だったら「それはおかしい」と声を上げていたような人たちからも「仕方ないよね…」と黙殺される、そうなるのはとても悲しいことです。

 一度押しつけられたスティグマは、克服するのが容易ではなく、時間がかかります(世間のゲイを見る目が変わるのにいったい何十年かかったことか…)。もちろん、いちばんつらい思いをされたのは逮捕されたご本人ですが、摘発によってダメージを受けるのは、予想以上に広い範囲の方たち(ゲイ全体)だと思うのです。
 
 ですから、少なくともゲイコミュニティの中では、「逮捕されたから犯罪だ」ではなく、何が問題なのか、僕らはどう考え、どう向き合うべきなのかを見通す曇りのない目・洞察力(リテラシー)と、決して悪いことじゃないんだという自信・尊厳(プライド)を失わないようにしようと呼びかけるものです。(これが本稿において最もお伝えしたいことです)

ゲイシーンの豊かさを守っていく

 風営法の論議の中で、警察がアルゼンチンタンゴを「(男女が密着して踊る)その性質上、男女間の享楽的雰囲気が過度にわたる可能性がある」として規制すると発表したことに対して、ネット上で罵声や嘲笑が飛び交いましたが、笑ってばかりもいられなくて、昨今の風営法やわいせつ関連の摘発の流れには「男女が(または男どうしが)みだりに接触したり性行為に及ぶこと」を「けしからん」と見なす化石のような道徳観(性規範)が見てとれます。こうした国際社会で笑い者になるような(とてもオリンピックを招致しようとする国とは思えない)時代遅れな価値観を振りかざすことは、「国家が個人に価値判断を押しつけてはならない」という憲法(=国家権力の行き過ぎを牽制し、国民ひとりひとりの権利を守るための法律)の大原則に反する行為ではないでしょうか。

 いったいなぜ、彼らは、こんな失笑を買うような古臭い道徳観(性規範)を持ち出してまで、誰も被害者がいないのに(保護法益が不明なまま)摘発を行うのでしょうか…それは、第2回の「公然わいせつとは?」で書いたような事情なのかもしれませんし、本当のことはわかりません(それを知ったら東京湾に沈められるかもしれません…苦笑)。が、おそらく今、この国は、性道徳に関するバックラッシュ(反動)の流れのただなかにあるのではないでしょうか。
 
 「男女間の過度に性的な接触」が取り締まられるようになると、次は同性間の性的接触に矛先が向けられることは想像に難くありません。男どうしのセックスや性表現自体を「不道徳」だとする摘発や規制(ゲイに対するバックラッシュ)が起こってくると、ゲイシーンが昔のようなアンダーグラウンドなものに逆戻りしていくかもしれません。せっかくここまでいろんな方たちが苦労して切り開いてきたのに…

 ここで再度、お伝えしたいのは、そういう考えたくない事態がもし現実のものになったとしても、ゲイであることや男どうしでセックスすることやそうした表現を決して「よくないこと」だと思わず、自信とプライドを持ちましょう、そして、できるかぎり、今あるゲイシーンの豊かさ、喜び、素晴らしさを守っていきましょう(見捨てないようにしましょう)、ということです。

 『踊ってはいけない国で、踊り続けるために』(河出書房新社)で荻上チキさんは「風営法の改正を求めるダンスユーザーの口から発せられる声が、『ダンスを風俗などと一緒にするな』というものであれば、僕は賛同しません」と語っていますが、激しく同感です。
 セクシュアルマイノリティの権利を求める運動がもし、ゲイのセックスや性表現を蔑ろにし、それらを擁護する運動を切り捨てるならば、とうてい賛同できるものではありません。僕らが共に抵抗し、癒そうとしているのは世間の「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」ですが、その底には「セックスフォビア(性嫌悪)」がある、そこを見逃してはいけないと思います。

セックスフォビアとは?

 松沢呉一さんは2007年のパレードのレポートで、「ゲイシーンの特徴は、テラ出版がその筆頭であるように、先導してきたのがエロ産業であることです」「私もそうですけど、こういったエロ関係者と政党の党首が共存しているのがゲイパレードのいいところ」と書いています。本当にその通りで(筆者もテラ出版出身ですが)、エロにまつわるさまざまなジャンルのゲイビジネスが衰退すれば、ゲイシーンも元気がなくなっていくだろうと思います。
 
 昨年辺りから大ブームとなっている「ちょいエロイベント」が、二丁目の活性化にどれだけ貢献しているかということを思い出してみましょう。先日の「ノーパンスウェットナイト1周年パーティ」にはなんと800人も来場したそうですが、そこには二丁目初めてな方もいらしたりして、コミュニティへの入口となる大事な役割を果たしていたと思います(知らない方のために申し上げておくと、ちょいエロイベントというのは、外からは見えない場所でセクシーな格好で呑んだり、楽しむものです。全裸で踊ったりはしていません)

 しかし、こういう話をすると、「けがらわしい…LGBTのイメージが悪くなる」「二丁目がエロなしでやっていけないんだったら、そんな街、要らない」などと不快感をあらわにする方も、ひょっとしたら、いらっしゃるかもしれません。しかし、考えてみてください。ノンケさんのためには全国津々浦々に歓楽街(風俗店含む)が用意されているのに、ゲイには不要だなどと、どうして言えるでしょうか? その「臭いものにフタ」的な発想の根本にあるのは「セックスフォビア」なのではないでしょうか…?

 セックスフォビア(性嫌悪症)は、ホモフォビア(同性愛嫌悪症)と同様、根深い社会の病と言えると思います。

 欧米の一部のキリスト教は、未だに(同性愛だけでなく)快楽としてのセックスを罪悪であると見なしています(「セックスとは、夫婦が子どもをもうけるためにのみ行うべきもの」)。日本にも明治期以降、こうした「道徳観」が輸入され、軍国主義時代のイデオロギー(産めよ殖せよ&男尊女卑)と結びつきました。戦後はロマンチックラブイデオロギーに取って代わられ、「(結婚を前提として)おつきあいする男女が愛を確認する行為」と形を変えましたが、依然として同性愛も快楽としてのセックスも白眼視されてきました(近年ようやく、男女ともに純粋にセックスを楽しもうとするスタンスが市民権を得てきたのでは?)
 
 快楽としてのセックスを罪悪だとする「道徳観」は、性の抑圧、セックスフォビアへとつながり、さまざまな悲劇を生んできました。たとえば、キリスト教原理主義者が支配的なテキサス州のラボックでは、公立学校で性教育が行われず、代わりに牧師が子どもたちを集めて「純潔を守れ」と教え(エイズは接触で感染する、触れただけで妊娠するなどのデタラメとともに)、結果的にラボックは全米一、性感染症と望まない妊娠が多い町になってしまったのです(こちらの映画で詳しく描かれています)

 日本でも、一部の「良識派」が「寝た子を起こすな」とばかりに性教育を叩く動きが問題になっています。2003年、都立七生養護学校の性教育で使用されていた教材が「過激だ」として都教委が乗り込んで教材を没収、校長や教員らが処分されるという事件がありました。これに対して東京弁護士会が人権侵害だと警告を発しました(ちなみに、この事件の余波は国政にも及び、自民党は「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を立ち上げました。その時の座長が安倍晋三で、「自民党は『過激な性教育』『ジェンダーフリー教育』が、男女共同参画という美名の下に隠れたマルクス主義思想であることを明確にし、学校教育の健全化を図る」などと述べています。詳しくはこちら

 こうした、性教育を「過激だ」とする発想、あるいは第2回の記事で紹介した、ハッテン場摘発の理由として「性感染症が広がる恐れがあった」という発言が出て来たことなどは、HIV予防の活動を阻害するものでしかなく(セックスの禁止ではHIV感染拡大は防げないということが明らかになっています)、セックスフォビアの弊害と言えます。
 また、たとえばゲイの間でも、HIV陽性の友人たちが「遊んでて感染したんだから自業自得」というような心ない中傷を受けた、という話を聞いたことはないでしょうか? 「伝統的な性規範(=夫婦の子作りのため)」から外れたセックスをしている人という点では(恋人だろうと行きずりだろうと)みんな同じなのに…そこにはやはり「セックスはいけないこと」というフォビアがあるのではないでしょうか。
 
 一方で、家族や同僚などに「愛のないセックスなんて認めない」と言われたときに何も言えなくなった、とか、オープン・リレーションシップのカップルが許せない、とか、「愛とセックスは別」という価値観を受け容れがたく感じる、そういう経験をした方も多いと思います。正直、筆者も(今では信じられませんが)最初はそういう感覚でした。しかし、自身の「愛のないセックスはしない」というスタンスは守りつつも、他の方の「純粋にセックスを楽しむ」生き方も尊重しましょうよ(『セックス・アンド・ザ・シティ』のサマンサみたいなものです)と申し上げたいと思います。(ノンケの方に「ゲイも認めてよ」と言うのと同じです)
 

SEX OK!

 仕事でけっこう疲れていたとしても、ジムに行って汗をかいたらとてもスッキリして気持ちよくなった、行ってよかったと思いますよね? セックスも同じようなものじゃないでしょうか。

 仕事やプライベートでものすごくいやなことがあったり、心が殺伐としたり、ぬくもりが欲しくなったりしたとき、セックスで癒される、救われるってこと、ありますよね? セックスしていやだな…って思うことはほとんど無いし(よほど気持ちよくなかったか、リスキーだった時くらいでしょう)、その場限りかもしれないけど、それでも相手のことを愛しいと思ったり、相手も「よかったよ」「ありがとう」なんて言ってくれるとうれしいし。そのまま大恋愛にハッテンすることもあるし、もしかしたら死なずに済むってこともあるかもしれない。いろんな幸福感を感じられます。

「余命1ヶ月の花嫁」という映画がありましたが、もし自分が余命1ヵ月と宣告されたら、今から彼氏は無理だとしても、せめて最高にキモチいいセックスをしたいと思う方も多いのではないでしょうか。孤独に寂しく死んでいくよりは、友達や彼氏に見送られたい、せめて誰かと触れあいたいと切実に願うと思うのです。

(昔の自分がそうでしたが)ゲイの友達もほとんどいなくて、彼氏もいなくて、それでも誰かとつながってたい、ぬくもりを感じたいと思ったとき、ついハッテン場に足が向いてしまう、そして、さほどタイプじゃない相手ともセックスしたり、とりあえずヤッてから友達になろうとしてみたり。
 もしかしたらハッテン場で出会った人が生涯の伴侶になるかもしれないし(今の自分がそうです)、セクフレだった人が親友になるかもしれない。そうやって、セックスによって新しい出会い、つながりが生まれていくのも、この世界の真実だと思います。

 こういう話もあります。
 男に興味はあるけどまだセクシュアリティがもやもやしてる若い子が、ネットでハッテン場のことを知って、恐る恐る出かけてみます。彼は幸い、イケてる人とデキて、とてもキモチのいいセックスをして、いい時間を過ごしてます。そして、ハッテン場を出たあと、笑顔でつぶやくのです。「ぼくは、ゲイだ」(作品名は忘れてしまったのですが、『G-men』誌に掲載された漫画です)
 もちろん、ハッテン場とかじゃなく、古くは文通欄、今だとスマホのアプリなどで知り合い、デートをして、つきあいはじめてからやっとセックスをする、という形でゲイライフをスタートさせる方もいるでしょう。が、彼氏とのセックスであれ、行きずりであれ、男とセックスしたいという欲求が充たされたときに、やっと幸せを実感でき、「自分はこれでいいんだ」と思えるのではないでしょうか(それこそがゲイのコアにあるものです)


「売男日記」
ハスラー・アキラ/
ISSI PRESS
 もしかしたら、セックスって人間関係をややこしくする、とか、病気が怖い、と思っている方もいらっしゃるかもしれません。そういう方はぜひ、ハスラー・アキラさんの「売男日記」を読んでみてください。セックスとは人間性を取り戻すこと(魂の癒し)であり、時には命さえも(世界さえも)救うような、素晴らしいものだと、目からうろこが落ちるような、時には号泣してしまうような、かけがえのない体験ができるはずです。


性解放を夢見て


「ゲイ・アイデンティティ
 抑圧と解放」
デニス・アルトマン/
岩波書店
 オーストラリアで最も早くゲイであることをカミングアウトした政治学者/社会学者のデニス・アルトマンは、アメリカのストーンウォール事件の頃の運動に参加し、ゲイがなぜ抑圧されるのか、抑圧とどう闘うべきか?ということを追究した「ゲイ・アイデンティティ――抑圧と解放」(1971年)を著し、以降のゲイ解放運動のバイブルとなりました。その本の中でアルトマンは、「性解放なくしてゲイ解放なし」ということを述べています。どういうことでしょうか? ものすごくざっくり要約してみます。

 人間は本来、両性愛的、両性具有的なもので、性器だけでなく身体全体から快楽を得ることができるはずなのに、西洋社会はユダヤ—キリスト教の性的快楽の享受に対する強い罪意識によってセクシュアリティを強固に抑圧し、また、家父長制や資本主義と結びついて男女の二分法を固定化し、女性や同性愛者を抑圧してきた。異性愛男性もまた性的に抑圧されており、同性愛嫌悪と暴力を生んできた。
「解放には、身体全体から快楽を得て、そして生殖からも地位向上からも自由であるような、それ自体を目的とする官能的快楽の追求を望むような衝動の復活が含まれている」
「解放は人間関係の重要性を蔑ろにするのではなく、人間関係を法制化したり、モノガミー(※1)や所有制を強制したり、人間をカップルに分割し他のカップルから孤立して生活することが「自然」だと考えることの終結を指摘するものなのである」

※1 モノガミー:もともと人類学の用語で、一夫一婦制、単婚という意味。転じて、1対1の関係性を貫く恋愛のありよう。対義語はポリガミー(一夫多妻制。恋愛で言うと、複数のパートナーを持つことをいとわないありよう、オープン・リレーションシップ)ですが、最近はノン・モノガミー(両方の要素をあわせもつありよう)という言い方もあるようです。

 一言で言うと、「男らしい男性と女らしい女性が結婚して夫婦となり、子どもをもうけ、家族で生活し、生産に貢献しなさい」という規範からはみでる生き方を抑圧してきたことで、いろいろな弊害が生まれてきたのだから、人間本来の全人的で自由な性のありようを取り戻そう、快楽自体を追求するセックスをOKにしよう、ということです。

 もう少し具体的に、アメリカで起こった性革命についてお伝えしましょう。

 今年の5月、ヒストリーチャンネルで「1969:アメリカの性革命」という特番をご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。1960年代、映画『ウッドストックがやってくる』やミュージカル『ヘアー』でも描かれていたように、ベトナム戦争へのアンチテーゼとして若者たちのコミューンが各地に生まれ、男だろうと女だろうと好きな格好をして自由に愛を交わしあおうというムーブメントが生まれました。この「ラブ&ピース」なフラワー・ムーブメントは1969年に頂点を極め、世界中からコミューンに続々と若者が集まり、ニューヨークでは舞台上で前衛劇団が全裸でパフォーマンスする公演が話題となり、カリフォルニアに「社会実験」として全裸で生活する村ができ、というように、アメリカのあちらこちらで性の自由を訴える動きが一気に活発化しました。そのなかで女性解放運動や(ストーンウォール事件に端を発する)ゲイ解放運動も起こってきたのです。

 2007年に公開された『ショートバス』という映画にも、セックスで癒され、救われる人たちが大勢、登場します。ハッテン場のようなサロンのようなお店『ショートバス』で男女が入り乱れてセックスする光景も、(他の監督だと地獄絵図のようになってしまいがちなところを)『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のジョン・キャメロン・ミッチェルは、このうえなく崇高な場面として描いていました(感動的ですらありました)
 
 そういう感じに近いと思ったのは、アメリカのゲイクルーズに乗った時です。参加者のゲイの方たちは、一点の曇りもなくオープンマインドで、自己解放の喜びに満ちていて、空の下で開放感を満喫していました。
 最近の「ちょいエロイベント」にもそれを感じました。心と体を解放して、明るく、ノリよく、おたがいを賛美しあい、抱き合い、喜びを交わしあう、心地よさに満ちた空間です。

 昔は社会のホモフォビアやセックスフォビアを内面化し、自身の性を受け容れられずに苦しむ人も多かったと思いますが、今では本当に(たぶん海外にひけをとらないくらい)肯定的、開放的になってきました。それだけでも、本当に素晴らしいことです(ゲイというセクシュアリティだけでなく、どんなセックスが好きかという「セクシュアリティ」にもYES!と言ってあげましょう)
 
 そして、僕らはまだ、子どもをもうけることもできず、同性カップルとしての権利も一切認められていませんが、社会の受容(ゲイ解放)が進んでいくにつれて、恋愛やセックスだけじゃない「ゲイの幸せ」の幅が広がっていくんだろうなと思います。
 
 これからもっと、性をオープンに語ったり、表現したり、自由に愛しあえる、周りの人もOKと言ってくれる、そういう世の中になればいいなあと心から願います。その方がずっと健全だし、人々の幸福にもつながると思うからです(「ゲイが生きやすい社会はストレートにとっても生きやすい」というのは、そういう意味でも言えると思います)

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