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樋口めぐむ『ねじれた本気』

小説家の樋口めぐむさんが、今月も新作を寄稿してくださいました。つきあうということの痛みと、さもない日常生活の幸せ。そして…。思わずハッとさせられたり、衝撃を受けたりするかもしれない、樋口さんだからこそ書ける短編作品です。ぜひお読みください。

樋口めぐむ『ねじれた本気』

小説家の樋口めぐむさんが、『ねじれた本気』という新作短編を寄稿してくださいました。つきあうということの痛みと、さもない日常生活の幸せ。そして…。思わずハッとさせられたり、衝撃を受けたりするかもしれない、樋口さんだからこその作品です。ぜひお読みください。(2016年4月)



ねじれた本気

「人間は何を考えているのか分からない、だから何をしでかすのかも――」
 とトオルがため息を吐いて語尾を濁す。何をしでかすのかも分からないと言いたいのだろう。そりゃそうだ。それが分かったら超能力者だ。道路に連なる葉桜の緑がまぶしい。
 カフェの屋外テーブルに陣取り、おれは昼間からビール、トオルはイチゴのタルトと紅茶を飲んでいる。トオルとはお互い若い頃に結構本気で付き合った。いや、おれがのめり込んだだけだったのだろうか。いまとなっては曖昧なのだけれども、好きすぎて別れ話が成立したときは悲しくはなく、むしろ清々した気分だったことを憶えている。
 三十を過ぎて、トオルは普段から眼鏡を掛けるようになった。眼鏡のレンズに葉桜の緑が淡く映っている。風は如何にも春のそれで心地よい。
 人間は何を考えているのか分からないとトオルは言うが、おれなんて、おれが何を考えて行動するのか分からない。実際のところトオルとは月に一二度会ってメシやお茶をするが、愉しいと思ったことはいっぺんもない。こいつと一緒にいて馬鹿笑いをしたことがあるだろうか。
 桜並木の向こうの道路をカラフルな外車が静かに走って行った。
 トオルは平凡な勤め人だけれども常に難しいことで頭を一杯にしていて、いまだって「暴力と憎悪が連鎖する時代が続く」なんて寝言を口にしている。そんな暗いことばかり考えるから心をやられちまうんだ、トオルはおれと付き合っている頃から、決して病気ではないけれども、病的な面を持っていた。
 例えば、「集団と共に閉ざされた空間に居るなんて耐えられない」から電車に乗れないとか、やっぱり他人が怖くてランチタイムのラーメン屋に入れないとか。
 おれだって人混みは苦手だ、満員電車でゴリゴリ押してくるおっさんのハゲ頭をど突きたいと思うのはいつものことだ。
 でも、生きている以上ある程度他人に邪魔をされるなんて当たり前の話じゃないか。おれだって知らない誰かに迷惑を掛けることもあるだろう。それはトオルも同じだ。
「何がひとびとを暴力に走らせるのか。貧困は大きな要因だろう。衣食住、それから性と孤独に不満がなければ、ひとはそれほど攻撃的になることはないと思うのだけれども――」
 耳たぶを引っぱって、「知らんがな」と言いたい。おれには遠い国のテロだの戦争だのよりも、眼の前のビールのほうが大事だ。
 おれと別れてからトオルは二三人の男と付き合ったようだが、どれも長続きしなかった。ここ数年は色っぽい話を聞かず、どうも、生涯独り身で過ごす未来も想定しているらしい。トオルの選択をとやかく言う気はないし、実際言わないが、おれはそこまで思い切れない。惹かれ合う相手と抱き合う悦び、共に過ごす時間、あの味を忘れたくはない。とは言え、おれもまだ独り身なのだが。
 トオルは付き合っていた頃に無精ひげを生やしていて、トオルに乳首を舐められると、ひげが周囲の肌をチクチク刺して厭だった。でも、何度も繰り返すうちにそれを待っている自分がいたのだ。痛みさえも、悦びの材料にするんだ、おれって奴は。
 トオルの言い草じゃないけれども、おれはトオルの話し相手に向かないと思う。なぜって友だちが多いし、セックスは適当にしているし、衣食住が充たされれば万事不満はない。
 なのに、なぜおれを相手に世界情勢がどうしたの宗教問題だのオイルマネーだの小難しい話題を出すのだ、トオル。
 でも、尋ねなくても知っている、たぶんトオルは喋りたいだけなのだ。喋りながら整理している、こんがらがった糸をほどいている。そりゃ鏡を相手にしゃべれば虚しいだろう、聞き役くらいにならなってやるさ、一度は惚れた男なんだし。
 トオルがしゃべっている。空が青い。おれは店員を呼び止めてビールのお代わりを頼んだ。
 トオルと別れた夜、トオルの居ない部屋で、馬鹿みたいにオナニーをした。ひと晩に三回やった。擦りすぎでちんこが痛いのに止められなくて、そのときおれは肌に刺さる無精ひげの感触を思い出していた。
 おかしなものだ、付き合っているときは喧嘩が絶えなくて、でもセックスは欠かさなかった。おれはトオルへの不満を解消するために、トオルはトオルにしか分からない不安を紛らわすために、互いの体を利用した。
 でもセックスが、ふたりの結びつきを強くしただろうか。答えは否だ。事が終わると、おれはいつでも砂を喰わされたような気分になり、訳も分からず不機嫌に黙り込みそれはトオルも同じだった。
 たぶん、おれたちは間違えたのだ、おれたちは恋人になるべきではなかった、友人が最高の関係だった。その証拠に、こうして飯を喰い詰まらない話を延々聞かされても、おれたちは口論ひとつしない。
 でも、喧嘩ひとつしない関係が物足りないこともあり、しかし平穏の有り難みも骨の髄まで染み込む年齢になり、例えばトオルとの飯が愉しみで、刺戟が欲しいが平凡な暮らしも有り難い、矛盾している、おれたちの暮らしなんて矛盾の上に成立しているんだ、正しいことばかりを盲信していたら変になっちゃうぜ、トオルみたいに。
「そういえば、どんべえがさ」
 トオルが突然笑顔になった。トオルはどんべえと言う名前の柴犬を飼っている。どんべえの話をするときだけは、トオルの顔に陰がなくなり、人間って小さいことに幸せを認めるんだな。まあ、それって悪いことじゃない。
 トオルを殺そうと思ったことが一度だけある。付き合っていたときだ。あまりにも分かり合えないことに絶望し、殺そうと思った。それがどれだけ悪いことか分かっていたし、自分が変になっていることも知っていた。
 でも、本気だったのだ。
 殺さなかったのは、新聞屋の集金がまだ済んでいなかったからで、新聞屋に金を払わずに警察に捕まったら迷惑かけちゃうな、とそんな馬鹿馬鹿しい理由でおれは一度は握った包丁をキッチンの包丁立てに戻したのだ。
 本気って、やばいな。好い方向に作用すれば、好い事態好い結果につながるのだろうけれども、間違った本気が間違った方向に向かうと、それが例えばテロとかになる。怖いのは、包丁を握り締めているとき当人は、自分が間違えているなんて露ほども気づかないことだ、むしろ使命感に燃えちゃって。世界中には間違いが、時季を終えた桜の花弁みたいに転がっている。
 会計を済ませてカフェを出た。まだ早い時刻でおれはジムに行くことにし、トオルは地下鉄で帰るそうで駅の近くで別れた。
 トオルが駅の構内に姿を消して、ジムの方角へ少し歩いて、強烈な爆発音が背後に轟いたのは直後のことだ。
 爆風でおれは転倒し、それはおれだけではなく通りを行くあらゆるひとが地面に倒れ、駅のほうから割れた硝子の破片がすぐそばまで飛んできており、それを呆然とおれは見ていた。駅の窓硝子はすべて吹っ飛び、窓や入り口からは黒煙が昇り、空を不気味な色に染めている。
 何が起こったのか分からず、立ち上がると耳がキーンとして聴力が一時失せ、そのときようやくトオルのことを思い出して駅に駆け出そうとした瞬間に第二波が来た。一発目よりも小さいが確かに爆発が起こり駅の窓から黒煙と共に炎が上がった。
 誰かに腕を掴まれて逃げるよう促されて、おれは周囲の群衆と共に駅から遠ざかるために只々走った。段々と聴力が戻り、パトカーや救急車、消防車のサイレンの音がなんとか聞こえた。
 駅に仕掛けられた爆弾が爆発したと知ったのは、駆け込んだ自宅で見る緊急報道番組のお陰だった。すでに報道各社に犯行声明文が送られて、「この堕落した文明を全て塵に戻す」と書いてあったそうだ。声明文を送り付けた者共は、本気なのだろう。そうでなければ、あんな蛮行は起こせない。人間が何を考えて、何をしでかすのか分かったものではない。
 おれはトオルのケータイに電話をしている。何度呼び出し音が繰り返されても、出ない。

〈了〉