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白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第三回「破られた国境」

白鳥健治さんの連作小説『同じ色の膚』。男どうしで愛し合うにはあまりにも厳しい時代の淡い初恋を描いた大河小説のような趣の作品です。主人公と黄少年が結ばれる日は、果たしてやってくるのか……時代を越えたせつなさを感じ取ってください。

白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第三回「破られた国境」

第三回 破られた国境

1945年になると、戦況はますます厳しくなってくるようだった。大本営は戦果ばかりを伝えていたし、まだ直接の戦地にさらされたことのない満州では、この戦争末期の時代においてさえも本国のような混乱はなかったのだけど。隣国ソ連から流れてくるラジオのニュースが、大本営からでは得られない戦局の確かな一面を伝えていた。満州にはロシア革命から逃れてきた白系ロシア人も大勢住んでいたし、ナチスに追われてきたユダヤ人も住んでいたから。彼らが明日にでも自分たちの生活を左右しかねないソ連やヨーロッパの情勢に関心を向けるのは当然のことだ。そして、彼らを通してもたらされた情報、たとえば、同盟国ドイツの圧倒的不利と連合国優位の情勢は、本国の勝利を信じてやまない日本人の心理に暗い波紋を投げかけた。あちこちから敗戦の噂が囁かれ始め、私たち子供の内心も穏やかでなくなっていた。
私はこの長い冬の間、凍りついた窓から雪の降り積もった外の通りを眺めて過ごした。ハルピンの長く厳しい冬は私の外出する意力を萎えさせた。そうしてしばしば黄のことを考えていた。私と彼はあれ以来会っていない。私が彼の家で彼の体を抱き、彼の母親に見つかって厳しい咎めを受けて以来……
寒い吹雪の晩など、荒れ狂った風が女の気違いめいた泣き声のような音をたてた。空は不気味な濃い闇に閉ざされており、私はその激しく飛び交う白い雪の入り交じった空を見上げているうち、闇の中からぬっと厚いざらついた掌が突き出してくるような気がして怖気づいた。
<“日本鬼子(ルーベンクイズ)”!>
上空で渦を巻く風はそう私を罵り、一日の大半を軍服や国民服を縫うことで費やしてきた女の皺深く冷たい掌で私を打つ。私は慌てて部屋のがたがたと軋む窓枠から離れ、布団を被った。
4月から私は国民学校の高等科へ通うことになった。商業や外国語など実務的なことを中心に学ぶ高等科は、それまで通っていた初等科とは校舎が別になっていた。一つ年下の黄はまだ初等科のままだったし、私はもう学校でも彼の姿を見ることはできなくなっていた。
冬の間だけだったら、耐えられたかもしれない。私と会うことを快しとしない母親と、そんな母親想いの彼のために、限られた季節の間だけだったら、私は彼に会いに行くことを禁じ続けられたかもしれない。
だけど、地上に降りてきた日差しがハルピンの大地の固い根雪を溶かしはじめるように、春は私の胸の隙間にも暖かな日差しを送り込むのだ。
彼を求めずにはいられなくなる。まるで発情期を迎えたオス猫のように、体じゅうの器官が疼きはじめる。足はのっそりと戸外に向い、目は四方をかけめぐる。彼を探しながら歩く。用もないのに一目彼の姿を見ようと、彼のいる満人たちの居住区へ続く道をこっそりと辿る。
きれいに区画整理された日本人街とは見るからに異なる地元民たちの居住区。日頃日本人街と大きなビルの立ち並ぶキタイスカヤの賑やかな通りしか行き来しない私の生活では、地元民たちの本当の暮らしぶりについて知る由もなかったろう。あの日、黄に連れられてこの区域に連れてこられるまでは……
黄は金と申と一緒にいて、今にも潰れそうな古い家の壁にもたれていた。ああ、あれは金の家なのだろうか? それとも申の家だろうか? 金と申も近所に住んでいて、よく一緒に遊んだと黄は言っていた。まるで仲のよい兄弟みたいに。そんな話を聞いて、私は彼らに嫉妬した。何故私も満人に生まれてこなかったのだろうかと思った。このみすぼらしい居住区に、黄と同じ民族として一緒にいられないのだろうかと……
いや、それは違う。私も金も同じアジア人だ。同じ黒い髪で、同じ髪のかたちで(黄は弁髪じゃなかった)、同じ瞳の色で、膚だって同じ色をしている。ここは五族協和の国、民族自立の国だ。日本人と満人の違いなんて問題じゃないはずだ。金にも申にもひけ目を感じることなんかない。私も黄と同じアジアの、同じ満州国の国民なんだ……
ところで、金も申も私と同じ高等科に進んだはずだが、新学期に入ってからまだ一度も学校で彼らの姿を見かけたことはなかった。家の手伝いで忙しいのだろうか? 黄の場合は満人経営主の酒屋で配達の手伝いをしている(品物を届けに日本人街にまで入りこんで来た彼を家の近所で偶然見かけたことがきっかけで、私は彼と親しくなることができたのだが)。それと同様に、彼らもまた家計を助けるためになにか仕事でもやらされているのだろうか? もともと学校にはあまり来ない方だったが…… 
私を見かけると、金と申はあからさまに嫌な顔をして私を睨みつけた。日本人を忌み嫌っている彼らのいる前で、私が黄に近づくのは彼らの反感を招くだろう。あの二人がいなければ、駆け寄って声をかけるのに…… 私は通り過ぎるフリをして横目で黄の姿を何度も眺めた。それだけで満足しようとして、短い間に何度も視線を合わせた。
「ドイツは降伏したんだってよ!」
聞こえよがしに金が言った。
「連合国の敵はこれで日本だけになったんだ」
「日本だけで世界を相手にできるのかねえ」
申がそれに応じ、二人は申し合わせていたようにククッと笑った。
できるさ。
私は心の中で猛然と反発した。
大本営発表は日本の戦況が著しく不利であることを伝えていなかった。それどころか被害に比して戦果ばかりを伝えていた。実際には、ガダルカナル、サイパン、ガム……と、日本軍は玉砕され続けていたし、玉音放送で最初にかかる音楽も、威勢のよい「軍艦マーチ」より、しんみりした「海ゆかば」の方が多くなっていた。さらにこの時期、既に米軍は沖縄に上陸して、本土の目と鼻の先で苛酷な地上戦が行われていたのだけれど。それでも私はそのまま本国の言うことを信じ込んでいた。つまり、神の国の日本が絶対に負けるはずがない、サイパンやガムでの敗北は一時的なものにすぎない、今にきっと巻き返しが起こるのだと……
「ドイツに勝利したソ連が、今度は日本に戦いをしかけるんじゃないのかねえ」
私はもはや声に出して反論せずにはいられなかった。
「中立条約があるんだ。ソ連は敵にはならないよ!」
金と申が小馬鹿にしたように私を見た。
「中立条約? そんなもの、向こうが守ってくれるかよ!」「ドイツとの戦争で忙しいから、そんな約束を結んだだけなんだろう? ヨーロッパでの戦争が終わっちまえば、そんなのもう関係ないよ!」「ソ連は日露戦争で負けているんだ。今が先の敗戦の屈辱を晴らす絶好の機会なんじゃないのか?」
あっという間に敵陣の反撃が始まった。
「でも、こっちには関東軍がいる。いざとなれば、関東軍が国境を守ってくれる」
「馬鹿だなあ。関東軍はみんな南方に行ったんだよ。その中立条約というやつを過信して、北方の守りを手薄にしているのさ。そこが向こうの狙いなのに」
金と申はにやにやして互いの顔を見合わせた。挑発するようにわざとらしくため息を吐いた。
そんな二人を猛然と睨みつけた後、そっと一緒にいる黄に視線を転じた。黄はなにも言わなかった。じっと唇を閉ざして私のことを見返していた。
まるでここにも国境があるようだった。万里の長城みたいな壁が、すぐ私の目の先にも伸びている。そいつは二人の中国人兵士に固く警備されている。私は黄のもとには近づいてゆけない……
私は、彼らから目をそらし、自分の領土に向けて、来た道を引き返した。
「ソ連がなだれ込んできたら、おまえら男はなぶり殺しだよ! 女はみんな強姦されるんだ!」
背後から追い討ちをかけるような金と申の笑い声が響いた。
私の腕がうち震えた。だけど、決めたのだ。絶対に黄の方を振り向くまいと……
やはり私も心のどこかで中国人に対して優越感を抱いた13歳の子供にすぎなかったのだろうか? もう二度と会いには来るまい……あばら家の立ち並ぶみすぼらしい居住区の中の道を辿りながら、自分に言い聞かせた。黄も金と申と同じたんなる中国人の一人なんだ、そんな中国人を占領民族である自分が好きになるなんておかしい、それは自分が男なのに同性の男の子を好きなるよりもずっとおかしいのだと……

更に月日は進んでいった。訪れる日々がどんなに辛く厳しい状況にあろうと、必ず季節は変わり、時代は巡ってゆくものだった。
夏――恐れていたその日が遂に来た。
それに先立って、広島に新型爆弾が落とされたという話を聞いた。米軍機が落としていった新型爆弾で本土の大都市が一瞬にして壊滅した――その話は13の少年だった私の小さな背筋を冷たく震えあがらせた。
そして、満州に住む私たちには、それよりもなお深刻な事態として受けとめるべき時期を同じくするもう一つの事件があったのだ。あの得体の知れない新型爆弾の恐怖も冷めやらぬうちに、さらに差し迫った恐怖としてそれは伝えられた。
8月8日、ソ連が中立条約を破棄し、日本に参戦したのだ。国境が数箇所、ソ連軍の戦車部隊に突破された。翌日には牡丹江(ムータンチャン)と新京郊外の寛城子が空爆を受けている。
広島も、それからその3日後に世界第二の被爆都市となる長崎も、海一つ隔てた向こうの、私がまだ行ったことのない本土の都市のことだが、牡丹江は陸続きだ。このハルピンと同じ黒竜江省の都市だ。そこが空爆されているのだ。
「大丈夫、関東軍がいる。ソ連はここまで来ないよ。日本の兵隊さんが守ってくれるから」と、同じ居住区に住んでいる大人たちは言っていたけど。とくに二軒先に住んでいる退役軍人の老人は、「ソ連なんて恐れるに足りず。奴らか一歩でも国境を踏み越えたら、本国の方角からたちまち神風が吹いて毛唐どもを吹き散らすであろう」なんて豪語していたけど。
でも、それはたんなる子供向けの気休めにすぎない。たいがいの大人は金や申でさえもが言っていた情報くらいしっかり掴んでいた。つまり、中立条約に頼った日本軍は南方にばかり兵を割き、北方の国境警備にまで手が回らなくなっているっていうことを。
それを証拠に、現に北方の国境はたやすく破られている。昨夜は上空に轟くような爆音を聞いた。姉に揺り起こされ、窓から外を見上げたが、闇夜に溶け込んだ機影は見えなかった。ただ遠くで不気味な爆音だけがしていた。その時に外へ出ていた近所の大人たちの話を聞いた。「今のはなんだろう? 我が軍の飛行機だろうか?」「我が軍のじゃない。きっとソ連の偵察機だよ」「だったら、国境防衛軍はなにやっているんだ? なんで迎撃しないんだよ?」
国境を守れるだけの兵隊なんて、この国にはもういなかったのだ。
法治国家であるはずの満州のこの都市は、ソ連参戦のニュースが伝えられた前夜より、凄まじい混乱にみまわれた。キタイスカヤの通りは、自動車と馬車と人で混雑していた。
満州のこの都市にいることに危険を察知した日本人たちが一斉に駅に殺到したのだ。国境が破られた。奴らが戦車でこちら側になだれ込んできている。昨夜は偵察機が上空を旋回していった。いつこの都市も戦場になるかわからない…… 彼らは持てるだけの財産を詰めこんだ背嚢を背負い、家族を連れて、駅で次の汽車が出るのを待っていた。
そんな混乱の中、父はいつもの出勤時刻より早く満鉄の職場へ出かけようとした。どうやら昨夜私が寝ている隙に、職場からの指示が電話で父のもとにされていたらしい。昨夜も遅くまで駅で勤務していたのに。父には家でゆっくり休んでいる時間などなかった。
「お父さん、今日は仕事を休んで、私たちと一緒にいてください」と、母は懇願した。
「汽車を動かさなければならないんだ。この都市の要職にある人たちにまずは安全な場所に移ってもらわなければならない」
「なら、私たちはどうなるんですか? 私たちもここを引き揚げましょう」
母は、同じ居住区に住む日本人一家が朝一番に自家用車で走り去ったのを目撃していた。”武雄君がね、内地に帰るんだと”と、生ゴミを捨てに外に出ていた母は寂しそうに私に報告した。自家用車で私の家の前を走り去ったのは、どうやら私の学校の級友の武雄の家族らしかった。
引き揚げる? 引き揚げるって、どこへ?
私は朝食を取る手を休めて母と父の会話に耳をそばだてた。
「そうだな。おまえたちだけでもどこかに避難した方がよいかもな」
「避難って、どこに……」
「日本だよ。姫路のお義父さんのところだよ」
「あなたはどうするのですか? それに、きっと駅は人で殺到しています。私たちが行っても乗れませんわ」
「私には仕事がある。ここにいて、汽車を動かさなきゃならない。ハルピン駅で、乗客を乗せた汽車が無事に出発するのを見届ける勤めがある」
「でも、こんな時になにもあなたが……」
「誰かが動かさなきゃ、誰も汽車には乗れないだろう? こんな時だからこそ、一人でも多くの人を避難させなければならないんだ」
私は、父と母の話を側で聞いていて、むしょうに体が震えてくるのを感じた。日本へ帰る? この家を捨てて、日本へ帰る? この13年間を過ごしてきたハルピンを離れ、まだ一度も足を踏み入れたことのない祖国、日本へ……!  ふと、黄のことが頭に浮かんだ。もう彼に会えなくなる。このままここを去ってしまえば、もう二度と彼に会えなくなってしまう!  それが私を揺るがした。
「僕も……ここに残る……!」
私は自分でも無意識のうちにそう声をあげていた。驚いた父と母が私のいる方に顔を振り向けた。私は言い続けた。
「僕はここに残る。日本へは母さんたちで帰ればいい。父さん一人をここに残しては行けないもの……」
父は私の肩を掴み、体を近づけ、真剣な眼差しでじっと私の顔を見つめた。
「父さんは満鉄の職員なんだ。鉄路を守る勤めがある。誰かが駅に残って、汽車を動かさなくてはならないんだ。もしも、汽車が止まったらどうなる? ここの人たちは皆、この地に取り残されてしまうだろう?」
「でも……」
「おまえは行かなければならない。おまえは日本の子供だ。やがては自分の祖国に戻らなければならないんだ」
父の顔を見つめているうち、私は急に息苦しくなって、なんだか目に涙がこみあげてくるようだった。
「父さんがいない今、家じゃあ男はおまえ一人なんだよ。ハルピンを離れえたとしても、無事日本まで辿り着けるかどうか……  途中には様々な危険が待ち受けているだろう。いいかい、もしも線路に爆弾でも仕掛けられたらどうなる?」
瞬間、学校で教わった奉天事件のことが頭に浮かんだ。鉄橋に爆弾が仕掛けられ、張作霖を乗せた車両が大破した。当時の時代では国民学校の教師は、それは関東軍の謀略ではなく、蒋介石軍の便衣隊によるものだと説明した。中国国民党のゲリラは鉄橋を爆破する!――その恐ろしいイメージが幼い私の頭の中に住みついていた。
「大連か咸興のどちらかで引き揚げ船に乗れるかどうかもわからないし、ソ連が侵攻を開始しているのなら、途中で奴らに出くわすかもしれない。母さんは、おまえに父さんの代わりとなって、姉さんや妹を守って欲しいんだよ……」
“ソ連がなだれこんできたら、おまえら男はなぶり殺しだよ”
いつか金が言った言葉が蘇ってきて、私を不安にさせる。
だけど、私の意志は変わらない。
ソ連の兵隊が来たら、自分がこの国を守ってやる! 自分は満州国の子供だ、黄と同じ満州国の国民なんだ。日本なんて知らない……
「いいか、もし私が帰らなかったりしたら、おまえたちだけでもここから出て行くんだ。私のことは考えるな。おまえたちの判断で行動してくれ!」
母にそう言い残し、姉に微笑みかけ、妹の頭を撫ぜ、父はいつもと同じように会社鞄を持って出て行った。
母は荷造りを始めた。私と姉と妹にも指示をした。いざとなったらすぐにここから出てゆけるように、大事なものはまとめておくようにと…… 
荷造りをする私の手の動きは鈍かった。姉も妹もてきぱきと身のまわりの物を片付けている。妹が自分のリュックに人形なんか詰めているのを見て、姉が咎めた。妹は泣き出して、父がフランス租界で買ってきたセルロイド製の人形をなかなか手放そうとしなかった。姉と妹が揉めている隙に私は自分の仕事を放棄して、家族の者の眼を盗んでこっそりと家を出た。
真っ直ぐ黄の家をめざした。もう彼には会いに行くまい、彼の住む居住区には足を踏み入れるまいと誓った場所だ。自分に課したその戒律を自ら破ろうとしている。でも、仕方のないことだ。ソ連の爆撃機がいつこの街の上空に飛んでくるかしれないのだから。そうなったら、私はこのハルピンから逃げ出さなければならない。家族と一緒に、持ち出せるだけの荷物を持って…… その前に一目でも黄に会っておきたい、別れを告げたい。その想いが私をじっとさせていなかった。

 ※

キタイスカヤの通り。殺到する人と馬車と自動車であふれかえっている。人々はそれぞれ荷物を詰め込んで膨れ上がったリュックを背負い、この都市からの脱出を図っていた。罵声、叫び、自動車のクラクション、子供の泣き声、馬のいななき、蹄鉄の足音。
キタイスカヤの付近の通りはどこも人通りが激しかった。私は人の流れに逆らうようにして、黄の住む地元民たちの居住区をめざした。そこへ通じる脇道にそれようとした時、まだ人通りの激しい往来で、私は傍観者のように建物の陰に潜んで様子をうかがっている少年たちの一団を観た。彼らはまるで元宵節のお祭りでも見物するかのようで、逃げて行く人々の騒ぎを面白がって眺めていた。その一団の中に黄と申がいた。皆、あの地元民居住区の少年たちなのだろうか? 金と申は近所の仲間たちを連れて、この騒動を見物するために繰り出してきたのだろうか? 
なら、あの中に黄もいるかもしれない……金や申と幼い頃からの遊び仲間だったという黄も……
私はなんの疑問も持たずに彼らに近寄った。同じ年、同じ学校、そして同じ満州国の国民であるはずの彼らに…… 
申が私に気づいた。隣にいた金になにかを囁いた。一堂が挙って私の方に首をねじ向けた。そして、私はこの時になってようやく気づいたのだ。彼らが手に攻撃用の棒を掴んでいることを。
金の合図により何人かが一斉に前屈みになった。転がっていた石を拾うと、私めがけて投げつけてきた。
「“日本鬼子(ルーベンクイズ)”!」
彼らは口々に叫んだ。そうだ、この時とばかりに虐げられていた者たちの復讐が始まったのだ。
飛んで来た石を身をかわしてよけた。が、その間に彼らはばらばらと物陰から飛びだしてきて、あっという間に私を取り囲んだ。皆、満人の子供たちで、私と同じ年齢かそれ以下の者たちだった。金と申は私の正面に立った。どうやらこのグループを指揮しているのはこの2人のようだ。私の国民学校の時の同窓生で、幾度か吉次や武雄の“懲罰”と呼んでいたイジメの犠牲にされていた者たち。だけど、今対峙している二人は、そんな暗いじめっとした少年たちじゃなかった。手に棒を持ち、燃えるように攻撃的な眼差しを向け、誰よりも強く私に憎悪の火花を注いでくるようなのだ。
「“日本鬼子”、“日本鬼子”!」と、彼らは口々に叫んだ。
凄まじい形相で先頭に立った金と申が私に詰め寄った。私は恐ろしさでどうにかなりそうだった。先を急ぐ幾人もの日本人たちが周囲を通り過ぎてゆく。彼らは満人に取り囲まれている日本人の少年などにかまってはいられない。彼らは逃げるので精いっぱいなのだから。私は後ずさりしながら、それでも拳を握りしめ、身構えた。弱みを見せたらやられる……!  私もあの日本人たちの群集に混じって逃げ出したいのをこらえ、背中の毛を逆立たせた針鼠のように身を固く引き締めながら連中を睨み返していた。
「やめてよ!」
連中の一番後ろで誰かが叫んだ。彼だった。久しく会っていなかった間に、その発育期にある成長の過程をはっきりと見てとれる黄が、悲しい顔をして、少年たちのグループの最後尾に突っ立っていた。私は呆然とその方を見やり、恨みのある日本人を見つけだしては暴行を加えるグループの中に彼もが加わっていたことに驚きととまどいを覚えた。
「何を言うんだ、黄!  こいつは日本人じゃないか!」と、訝しげに彼を顧みながら金が言った。
「そうだ、こいつは吉次や武雄たちの仲間だ!」と、申も加勢した。
「で、でも……」黄は立ちすくんでいる私をちらっと一瞥してから言った。「こ、この人はなにも悪いことをしていない……」
「たしかにこいつは直接俺たちに暴力をふるうということはなかった。だけど、こいつもあの“懲罰”という遊びに加わっていたんだぜ!」と、黄の一声で一瞬しんとなった周囲を沸き立たせるように、金が強い声を放った。「おまえは俺や申が吉次や武雄に殴られるのをただ黙って眺めていた。後ろでにやにや笑いながら。 俺は覚えている。俺はこの日が来るのを待ち望んでいたんだ。いつかおまえらに復讐してやれる日が来るのを!」
金はギラギラと目を輝かせていた。憎悪に狂いたち、顔じゅうを赤く上気させ、こちらをぞっとさせるほど恐ろしく殺気だっていた。
「そうだ、そうだ!」
少年たちは再び気勢をあげた。
「“日本鬼子”、“日本鬼子”!」
手にしたそれぞれの武器を振りかざし、彼らは叫んだ。
「吉次も武雄ももう引き揚げた。あいつらは俺たちの“懲罰”が恐ろしくて、こそこそとこの街から逃げだしたんだ!  おまえはあいつらの代わりだ。同じ日本人であるおまえが、あいつらの代わりに俺たちの“懲罰”を受けるんだ!」
金は手に持った棒をかざしてにじり寄ってきた。それが私めがけて振り下ろされてきた。私は素早く身をかわし、よけようとした。「やめて!」
黄の声だ。同時に私の前を誰かの体が横切ろうとした。厚いなめし皮を打つような鈍い音が響いた。私をかばおうとして、金の放った一撃をまともにくらい、飛び出してきた黄の体が、沈みこむようにもんどりと倒れた。
「黄!」
私は彼の横に膝まづいた。体を抱え上げ、仰向けにすると、額が割れていてどくどく血が噴き出していた。真っ赤な血は彼の目蓋を染め、目の中に流れ込むようだった。
「おまえら、なんてことをするんだ!」と、私は彼の傷ついた頭部を膝の上に乗せながら、呆然としている金を睨み上げて言った。「許さないぞ、満人が同じ満人の子に……!」
ばったりと周囲が静止していた。連中は一様に息を潜め、立ちすくみ、生々しい鮮血の噴き出している黄の額の傷口にぼうっと熱のこもった視線を注いでいた。
「大丈夫か?」と、心配そうに屈みこんでいた金が手を差し伸べたが、私はそれを突っぱね、睨みつけた。
愛する者を傷つけられた時、人は自分のこと以上にその傷つけた相手に対して、信じられない憎悪を抱くものだと知った。だが、金も、申も、また彼らの敵側に属する者たち、たとえば、この場にはいない、匪賊に父親を殺されたという吉次も、皆、同じだったかもしれない。この戦争では誰もが犠牲者だった。
金はチッと舌打ちし、「おまえ、さっさと日本へ帰れ!  まだこの街にいるのを見つけたら、今度はただじゃおかないからな!」と、被せるように声を放った。それが最後の威圧だった。彼は、周囲の者たちを促し、昂然と立ち去っていった。私の手に抱きかかえられている、血にまみれた仲間の一人を置き去りにして……

私は自分のシャツの裾を引きちぎって、黄の額に押しあてた。みるみるシャツの切れ端が血で染まってゆき、ぐしょぐしょになった。
「大丈夫か、黄……」と、私は言った。流れこんでくる血を避けるためか、彼は陽射しを仰ぐように目を細ばめている。「前が見えないんじゃないのか?」
「大丈夫……  それよりもう行ってよ。あいつら待ち伏せているかもしれない」
「そんなことないさ。みんな、逃げ出していったよ。君の勇気に怖じ気づいてね……」
傷口を押えつけている私の手の下で、彼はそっと照れるように笑みを浮かべた。私を和ませる、そのおぼろげながら一瞬の隙に見せた弱々しい笑みは、後から来る不安にすぐにかき消されてゆくようだったけれども……
「でも、街で見かけた日本人を襲おうとしているのはあいつらだけじゃないんだ。他にも幾つかのグループがある。早く家へ戻った方がいいよ。いつまでも外にいるのは危険だよ」
「君を放っておいては帰れないよ。さあ、僕が君を家まで送っていくよ。僕の背中におぶさるといい」
「僕なら大丈夫。一人で帰れるから……」
彼は片手で額の傷を押えつけながら、無理に立ち上がった。足許がふらついていた。
「そんな怪我をしていちゃあ、まともに歩けやしないよ。目だってよく見えやしないんじゃないのか?」
私はしゃがみこんだまま、彼に背中を向けた。
「さあ、おぶりなよ」
私の背後で彼は黙っていた。
やがて、おずおずと背中に抱きつく彼の体の重みを感じた。私は彼の両足をしっかりと抱き上げて立ち上がった。年は一つしか離れていないけど、小柄な彼はたいした私の負担にはならなかった。私は、自分の力のあるところを見せようとして、わざと平気な振りをして一歩ずつ足を運んだ。
「本当に僕なら大丈夫なのに……」と、私の背中にしがみつきながらなおも彼は言っていた。自分がひどい傷を受けているというのに、私のことばかりを本気で案じてくれていた。
「もっと凶暴なグループだっているのに……」
「そんな心配なんていらないよ。それを承知でここまで来たんだから……」と軽々しく私は言った。「君に会って別れを言うために……」
「別れって、どういうこと!?」
安易に私の言い放った言葉をぐっと飲みこむような沈黙をおいてから、彼が強い重みのある声で尋ねた。どきりとして、私は返答に詰まった。
「引き揚げるんだね?  そうなんだね?」
私は黙っていた。彼が私の首筋に顔を押しつけた。私の肩を掴んでいる手にぎゅっと力が込められた。
「馬鹿だな。あんな真似をして……」と、私はなんだか熱くなった胸が声を震わそうとするのをこらえて、つとめて何気ないふうを装って言った。「僕はあんな棒っきれなんかかわせたのに……」
「お互い様だよ。いつかお兄ちゃんも僕をかばって喧嘩してくれたじゃないか?」
「お兄ちゃん……  今、お兄ちゃんて呼んでくれたね?」
「え?」
「だって、さっきは僕のことをこの人だなんて呼んだじゃないか……  僕はまだ君のお兄ちゃんでいられるのかい?」
私の問いに、彼は一瞬間をおいてから、弱々しく蚊の鳴くような小さな声になって、
「お兄ちゃんは、お兄ちゃんだ……」
そして、また私の首筋にさっきよりも強く顔を押しあてた。彼の濡れているような湿っぽい鼻先が冷たかった。
彼の家に着くと、私は怪我人を奥の板間に寝かせた。彼の母親はいなかった。私は勝手口に立ち、前にこの家に来た時に見て知っている処方で、小連翹(ショウレンギョウ)の葉を刻み、水を加えて煎じた。十分に血止めをしてから、煎液を彼の額の傷口に塗った。たしかに前にもこんなことがあった。あの時と違うのは、今度は私が介抱する番になっていることだ。それと、私の手当てを受けている黄は、あの時の私とは比較にならないほどの重い傷を負っていること。
ひととおりの手当てを済ませ落ち着くと、ひと彼が体を起こし、私に抱きついてきた。私はどきっとして、反射的に彼の体を支えながら自分から離した。
「いけない、いけないよ……」
「どうして?  あの時は抱いてくれたじゃないか?」と、彼は言った。「もう僕のことが嫌いなの?  満人は日本人にひどいことをするから?」
満人がひどいことをするだって?  今までさんざんひどいことをしてきたのは日本人の方じゃないか……
「いや……」と私はうろたえながら言った。「君の母さんが帰ってくるかもしれないから……  君の母さんが悲しむといけないから……」
すると、彼は勢いこんで言った。
「あの時は僕は勇気がなかったんだ……  でも、今度は母さんに見つかったら、はっきり言うよ。僕はイアンフじゃないって……」
私は真っ直ぐ彼の顔を見つめた。彼は顔を赤く上気させ、気負いたって興奮していた。
「僕はイアンフなんかじゃないんだ。僕がこうするのは自分の意志からなんだ。僕は自分の意志でお兄ちゃんに抱かれたいって思うんだ」
私はいつにない黄の積極的な様子にたじろいでいる。彼も悟っているのかもしれない。もう私と彼の間には未来なんかないこと……
満州国は今、がらがらと音をたてて崩れようとしている。空襲一つない平和で安全な王道楽土が、ソ連参戦のニュースの報じられたたった一晩のうちに脆くも瓦解しようとしている。今日は朝から街のあちこちで騒ぎが起こっている。大通りは沈没船から脱出を図るネズミの大群のような日本人たちで溢れかえっている。明日はどうなるのかわからない。現に今だって自分は、引き揚げ前に一目彼の姿を見ておきたいからと、こうして家族に黙って出てきたのではなかったか?
彼の顔を見つめているうち、だんだんと胸に震えがきて、止まらなくなった。熱いものがみあげてきた。
「黄……」
私は両手を広げて彼の小さな肩を抱きしめた。板間の上に彼を仰向けに押し倒した。無抵抗の彼の衣服を次々と剥ぎ取ってゆく。私も夢中で自分の着ている服を剥いだ。
私と彼は裸になって抱き合っていた。薄暗い部屋の中で、横になり、裸の体を擦り合わせた。あの日初めてこの家で彼の体を抱きしめた時の感覚が蘇ってきた。あの忘れ難い思いが少しも薄らぐことなく私を満たしていった。手を下の方にずらし、彼の股間を掌で包んだ。指先を弾き返すような高ぶった肉の感触が私を捕らえた。彼の物は固く、熱く、私の掌の中で息づいていた。「黄……黄……」と、私は何度も彼の名を呼び、彼の全身をくまなく愛撫した。彼のしなやかな膚の感触は、どんな上質の絹よりもすべやかさで心地よかった。薄暗い部屋でほんのりと浮かんで見えるような彼の色白の華奢な体は、どんな宝物よりも美しく眩しかった。いとおしかった。彼の何もかもがいとおしかった。私は次第に夕暮れてゆく外の気配も忘れて、ただ彼の膚の感触を貪り、それがもたらす甘美な陶酔感に酔いしれていた。そして、今度は誰にも妨げられることなく、互いに尽きるほど十分にこの魅惑の境地を堪能し合ったのだ。
「お兄ちゃん……」ふと彼が小さな声で呟いた。「日本には帰らないで……」
「……」
「いつまでもここにいて。もしお兄ちゃんに乱暴するような奴がいたら、また僕が守ってあげるから……」
「ああ……帰らないよ」と私は答えた。
「本当?」
「ああ……僕はハルピンで生まれ、ハルピンで育った。ここが僕の故郷なんだ。いつまでもここで君と一緒にいるよ……」
<男はなぶり殺しだよ! 女はみんな強姦されるんだ>――いつか金が放った台詞は恐ろしかったけれども、実際に自分がそのような危険な目に遭うまでは、本当には理解していなかったのだ。この時代にこの場所にとどまることが、私たち日本人にどれほど過酷な運命をもたらすのかということを……
黄は私の胸に顔を埋め、白布を巻いた傷ついたばかりの小さな額を押しつけてきた。私は彼の震えている肩をしっかりと抱きしめた。二人のしぼんだペニスの先が軽く触れ合った。彼の背に回した掌に力を込め、額を押しつけている彼の頭にそっと頬を擦り寄わせながら、私は胸の内でこう繰り返した。
帰らない…… 日本には帰らない……