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白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第四回「エセ国家」

白鳥健治さんの連作小説『同じ色の膚』。男どうしで愛し合うにはあまりにも厳しい時代の淡い初恋を描いた大河小説のような趣の作品です。主人公と黄少年が結ばれる日は、果たしてやってくるのか……時代を越えたせつなさを感じ取ってください。

白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第四回「エセ国家」

第四回 エセ国家

夕方、私が日本人居住区に帰ってくると、母が血相を変えて家から飛び出してきた。
「満緒!」と、普段は穏やかなはずの母が聞いたこともないような大声で私を呼んだ。「あんた、どこへ行っていたの?」
こんなに興奮している母を私は初めて見た。私の腕にすがりついた時、私のシャツの片袖がないことに母は気づき、「あんた、そんなナリをして、いったい……」シャツの袖は、黄の額の傷を塞ぐために、私が自分で引きちぎったのだ。母は私に対して不審をつのらせた。
「ああ、列車がもうないのよ。列車が昼間からずっと動いていないの。私たちは内地に帰れなくなってしまった!」
母のけたたましい声に、同じ日本人居住区に住む向かいの家に住む小父さんが、パイプを咥えたまま心配そうに戸口から顔を覗かせた。向いの安藤さんは出版社勤めをしている、洒落た気さくな小父さんだ。とくに隣組だからというわけでもなく、なにかと私たち一家の世話を焼いてくれている。
「ああ、あんた、ほんとうにどこへ行っていたの? 私たちはもう帰れない。あんたを待っていたおかげで、私たちの乗る列車はもうなくなってしまった!」
母は私の肩を掴み、私の体を激しく揺すった。それでも私は固く口を閉ざし、黙って俯いていた。黄に会いに行ったとは言えなかった。
「奥さん、この子のせいじゃないよ」と、様子を見かねて小父さんが口を出した。向いの家には私より2歳年上の、去年高等科を卒業したシンチャンもいた。一時期、私はシンチャンとよく遊んだことがあって、小父さんも実の子供のように世話をしてくれていたから、きっとかばってくれたのだろう。
「どちらにしても私らは乗れなかったよ。だって、今日の列車の乗客は、ほとんどがこの街の要人で占められていたんだから! 私ら民間人は駅でずっと立ち往生だ」
「そうだよ、小母さん。駅は人でいっぱいで、構内にさえ入れない有様だったんだから!」と、小父さんの後から出てきた幼馴染のシンチャンも口添えをした。「さっき、駅から帰ってきた友達に会った。朝からずっと並んでいたんだけど、列車が動かないので諦めて帰ってきたんだと。午後からじゃあ、きっと駅の中に入ることすらできなかったよ」
「また明日になったら、列車が動くかもしれないな。それを待った方がいい」
母は、それまで取り乱していたのを恥らうかのように声音を落として、「安藤さんたちは引き揚げないのですか?」
「私らかい? 私らはねえ……」
その時、居住区の向こうから威勢のよい声が聞こえてきた。
「逃げ出す奴は非国民だ! 戦争はまだ終わっちゃいない! 我々はたとえ最後の一人になっても、この土地を守るために闘わんといかんのだ!」
居住区に住む在郷軍人の老人が叫んでいた。隣組の中でも一番威勢のよい老人だ。
安藤さんはため息を吐き、
「まあ、その時はその時ですよ。内地は遠いですから。どこへ行ったってそこへ辿り着くまでには危険が待ち構えていますよ……」
在郷軍人はまだなにか叫んでいる。
「恥を知れ、非国民ども! 一億玉砕の精神を忘れたのか! この五族共和の王道楽土を、ソ連なんかに渡してなるものか!」
表に出て、拳を振り上げ、誰にともなく叫んでいる。老人は息子夫婦と孫たちと一緒に暮らしているはずだ。それにしても息子夫婦はどうしたのだろう? 家からいっこうに姿を現さない。「ご近所に迷惑ですから」と、そろそろ父を嗜めに来てもいいはずなのだが。
「あの人も気の毒な人だ……」と、安藤さんが呟くように言った。「あのおじいさんの家族は皆、今朝早く家を出たんですよ。あの人だけを残して……」
「そうなんですか?」と、母が驚いた声をあげた。
「今朝、ここを立ち去る時に、息子さんご夫婦が、父だけが残りますので、後をよろしくって言い置いて行きました。本当は家族全員で避難したかったんですが、あの人だけが反対したそうです。国を捨てて敵前逃亡を図るのか、陛下のために命を捧げるのが臣民の務めじゃないのかって。だから、あの人の寝ている隙に、こっそり孫だけ連れて出て行ったんですよ」
「じゃあ、あのおじいさんは、家族に見捨てられたっていうんですか?」
「ええ」と、安藤さんは頷いた。「気の毒な人ですよ。朝起きたら、家族が皆いなくなっているんですから。誰彼かまわず怒鳴りつけたくなるのもわかりますよ」
安藤さんとシンチャンは向いの自分の家に引きあげていった。シンチャンは家に入る前にこちらを振り向き、幼馴染の私に向けて小さく笑いかけた。別れの際の相手を思いやるような仕草。それがシンチャンの癖なのだ。
在郷軍人はまだ叫んでいる、叫び続けている……
ああ、あの老人は本当に最後まで戦うのだろうか? 国民学校では竹槍をもって藁に突き刺す訓練をさせられたが…… ソ連兵が来たら、あの人は本当にそうするのだろうか? いや、そうしなければならないのだろうか? ソ連兵は戦車でなだれ込んできているという。戦車に竹槍をもって突進していくのだろうか?
老人の声にぼんやり聞き入っていた私を母が家に入るように促した。私に荷造りの続きをするように命じた。
私はしぶしぶ命令に従った。
「ミッチャン、あんた、本当に何処へ行ってたの? 気がついたらいないんだもの。私ら、本当に心配したのよ」」と、家の中では姉が口やかましく言い寄ってきたが、私はそれを無視して作業を続けた。
一方で、母は、「明日は汽車が動くかもしれない。明日は汽車に乗れるかもしれないよ」と、期待に胸を膨らませ、「玉ちゃん、列車に乗るんだよ」と、幼い妹の賛同を得ようとしている。
妹の玉枝は、「“あじあ”に乗るの?」なんてとぼけたことを聞いたが、母はそれを真に受け、「ああ、乗れるかもしれないねえ」なんて答えている。
「ああ、よかったねえ。玉ちゃん」なんて、姉までもが仲間に加わっている。
満鉄の急行列車“はと”を追い抜き、当時世界最速と謳われた“あじあ”号は、2年前から戦況の悪化により運転を休止させていた。
何言っているんだろう? こんな時に“あじあ”も“はと”もあるもんか! と、沸き立っている家族を後目に、私だけが一人胸の中で反発している。それどころか、ああ、明日も列車が動かなければいい、自分たちはずっとここに残ればいいと、母が聞いたらさぞかし怒り出しかねないことを平然と願っていた。
そうだ、自分はここに残ってあの老人と一緒に…… と、家族のくだらない馬鹿話に耳を塞ぎ、夜になってもまだ叫んでいるのだろうか、今は家族よりも親しみを感じられる相手となった在郷軍人の声に耳を澄ませたりもしたのだ。あの老人は家族に捨てられた。ならば、自分があの老人の家族になろう。自分も本当の家族のもとを離れて、あの老人と一緒に。そして、あの老人と二人で竹槍を構え、この国を守るために敵に立ち向かってゆく勇ましい姿を思い描いたりもしたのだ。

私たち一家はそのまま父の帰りを待った。
夕飯は母が今朝作っておいた荷物の中から弁当を取り出して、皆に分けた。白い飯の握り飯だ。本当ならこの握り飯は列車の中で食べる予定だったのかもしれない。母は、朝早く出勤する父を見送った後、すぐにでもこの家から離れられるようにと、大慌てで家族のための弁当をこしらえたのだ。白米の握り飯、野菜の煮物、漬物、煎り豆、蒸し団子まで。もうここには帰らないつもりで、家に残っているありったけの食材を使ったのだろう。
私が黄に会いたいばかりに外を歩き、彼と彼の家で抱き合っていた間に、母はこれだけの労働をしていた! コーリャンの混じらない白米の飯は実に美味しかったが、私はあらためて自分が家族にとんだ心配をかけてしまったこと、だからこそ滅多に怒らないはずの母が外から帰ってきた私を見るなり人が違ったように興奮していたことに思いあたり、せっかくのご馳走なのに喉を通りにくくさせていた。
父の分の弁当まできちんと取り分けておいたのにも関わらず、その晩、とうとう父は帰ってこなかった。
夜半、父と一緒に働いていた地元民の犀さんが家を訪ねてきた。犀さんは長年、苦力(クーリー)として父のいる職場で働いており、主に機関車の燃料である石炭を積み込む作業を請け負っていた。父とはよほど良好な信頼関係にあるらしく、だからこうして父の家族の心配までして訪ねてきてくれたのだろう。
私の母があまり中国語が得意でないため、犀さんは日本語で話した。
「関さんが新京行きの列車に乗っていきました。それでこのことを家族に伝えてくれと……」
「あの人が列車に…… 私たちをここに残してですか?」
「軍の命令で仕方なかったんです。新京に向った列車は行ったきり戻ってこない。あちらでなにが起きているのかわかりませんが、どこかで立ち往生しているのかもしれません」
「寛城子でしたわよね。空爆されたのは……」と、母が口を挟んだ。
「そうです。新京も決して安全ではありません。普段だって匪賊たちの襲撃には十分警戒しているんですから!」犀さんは、ここで匪賊という言葉を使ったが、匪賊の中には、共産党の配下にある共匪や、日本の支配に抵抗する抗日組織もある。満人である犀さんが、いったいどこまでを指して匪賊と称しているのかは不明だったけど。「線路や鉄橋が破壊されて不通になっているのか、それとも……」
「それとも?」
犀さんは若干ためらってから、
「あるいは、逃げたのかもしれません。機関手たちも列車を下りて、南のより安全な地域へと……」
「あの人も私たちをおいて逃げたっていうんですか?」
「そ、それは違います。新京から戻ってくる列車がなくて、機関手の数が不足しているんです。それで関さんが選ばれた。軍の要人を乗せて、車庫に残っている列車を大連まで運転するようにと、命令されたんです。関さんははじめ嫌がりました。だけど、命令なので仕方なく……」
「大連までだなんて、そんな……」
「関さんは戻ってくると言っていました。列車を必ずハルピンまで戻すって…… 奥さん、それを信じて待ちましょう」
父か戻ってこないとわかると、母は父のために取り分けておいた弁当をふるまった。犀さんは恐縮しながらも、蒸し団子に箸をつけ、「この料理は奥さんが……」と、尋ねた。母が、「はい」と頷くと、ひどく感嘆するふうだった。母の手料理はきっと犀さんの舌を唸らせたに違いない。母は、ハルピン名物の水餃子など、日本人とは思えないくらい中華料理の腕も確かだったから。
ひととおり食事を終えた後、犀さんは慎重に言葉を選びながら(たんに日本語に不慣れなだけなのかもしれないが)、こう告げた。
「今、ハルピンは日本の人たちにとってとても危険な状態です。現地民たちが街で日本人を見かけると暴行を加えるのです。キタイスカヤの通りにある日本人の商店は暴動を畏れて店を閉めています。ヤマトホテルも宿泊客を守るために警備を厳重にしています。暫くは外へ出ない方がいいでしょう。家の中でじっとしている方が……」
「そんなの無理です」と、母はきっぱりと否定した。「うちには育ち盛りの子供が3人もいるんですよ。食べ物はどうするんですか? 毎日買出しに行かないと……」
すると、犀さんはすんなりと、
「買出しくらい、私がやりますよ。リストを作っておいて下されば、私が買ってきます」
その申し出は前もって犀さんの頭の中にあったのかもしれない。母は相手の潔い返事に感じ入った様子で、
「犀さん、あなたは日本人の味方なんですか?」
犀さんは静かに首を横に振った。
「いいえ。でも、日本という国と、そこに住む人たちは別です。私は関さんには恩がある。撫順炭鉱で鉱夫をしていた父が事故で死んで、私が代りに一家の家計を助けるために働きに出ねばならなかった。その時に今の仕事を紹介してくれたのが関さんなんです。関さんは満鉄の炭鉱部に私を推薦してくれた。私はまだ幼くて体も弱かったし、父のような肉体労働は無理だったから、採掘よりは楽だろうと、掘り出した石炭を搬送する仕事を世話してくれたんです。これだってたいへんですけど、爆発や落盤や出水の危険はないですからね。お陰で私たち一家は食いあぐねないで済んだんです」
母は犀さんの顔をじっと見つめた。父よりずっと若かったが、それだけに頼もしく、活動力があった。
「私は、関さんと、それから関さんの家族であるあなたがたの味方です。関さんが戻ってくるまで、あるいはあなた方を遺送のための汽車に乗せるまでは、私があなたがたの力になります」
こうして犀さんは、父ばかりでなく、私たち家族の信望まで勝ち取ったのだ。
だけど、犀さんの箴言と私の家族の期待に反して、次の日も列車は動かなかった。その翌日も列車は動かなかった。私たちは父と、父が運転する列車がこのハルピンに戻ってくるのを待っていたのだが、父も、父を乗せた列車もいっこうに戻ってはこなかった。
意気消沈した家族を尻目に、私は一人腹の中でほくそ笑んでいた。ああ、これでハルピンを去らなくてすむ、黄のいるこの街で暮らせると……
そのまま幾日かが過ぎ、そして、遂にその日が来た。
近所の大人たちが隣組ごとの集会所に集まっていた。私の家族も指定された時間どおりに集まるように命じられていた。頼りにすべき父は留守で不在だったけれども、母は妹の手を引き、私と姉を従えて行った。
集会所の畳敷きの広間には大勢の大人たちがいた。出版社勤めの安藤さんを除けば、だいたいが父の仕事の関係者とその家族たちで、私たちと同じように満鉄の社宅に住んでいた。ソ連参戦後も脱出せずにこの地区に残っていた人たちだ。
大人たちはラジオを前にして一様に息を潜めていた。先日、回覧が回され、この日のラジオ放送を必ず聞くようにとのことだった。大本営発表で、ラジオのスピーカーからガーガーいう雑音混じりの不鮮明な人の声が聞こえてきた。その声を聞きながら、大人たちは力なくうなだれ、肩を震わせていた。なかにはすすり泣きを始める者さえいた。
大の大人が涙を流し、身を震わせて泣いている……  その異様な光景は私の心を捕らえた。その場にいることがなぜか恐ろしくなって、そっと姉と妹の横を擦りぬけ、大人たちから離れた。表に出ると、よく晴れた空の下にぼんやりと立ちすくんだ。
ラジオから洩れてきた人の声は何を言っていたのか定かではなかったが、なにかたいへんな事態が起こりつつあることだけはわかった。
近所から激しい嗚咽の声がするのが聞こえた。声のする方角に向って歩いていくと、私の家の二軒先の家の庭で、老人が一人、ぽつねんと突っ立っていた。あの在郷軍人だ。老人は東の方を向いて、がっくりと肩を落とし、髭まで涙で濡らしている。東の方角にじっと体を向けているのは、ラジオの声がその方角から発せられているからだろう。本国のあの方がどこに住んでいるのか私は知らなかったけれど、きっとそれは日本のお城で、老人はあの方と真っ直ぐ対峙しているつもりになっているのだろう。数日前の、街から逃走してゆく日本人たちを罵倒していた勇ましさなど微塵もない。私は老人に失望し、集会所には戻らずに、そのまま自分の家に向った。
老人の嗚咽が聞こえるほかはしんと静まりかえっている庭にたたずみながら、その老人の嗚咽に感染させられたように、私も堰を切ったようにこみあげてくる感慨に熱く胸を浸らせていた。

        ※

同じ日、ハルビン市内には幾つもの晴天白日旗が翻った。青地に白い太陽の紋章の入った国民革命軍の旗が、街に繰り出してきた地元民の群集によって振られた。
日本の無条件降伏――だけど、満州に住む現地民たちにとってそれは、かねてから待ち望まれていた光復(彼らにとっての日本からの独立・解放)の瞬間だった。キタイスカヤの通りはまるでお祭り騒ぎだ。それこそ元宵節の祝賀記念行事のような。爆竹が鳴り響き、歓声があがる。一週間前なら逃避行の日本人たちで溢れかえっていた通りが、今度は光復を祝う地元民たちで溢れかえっている。
「今日はあぶないよ。どこも中国人たちでいっぱいだ。外には絶対に出ない方がいい」
日本人居住区でそこの住民たちが虚脱状態に陥っている頃、犀さんが私たち家族を心配してわざわざ知らせに来てくれた。犀さんは、一人自分の家の庭にいた私に忠告した。母も姉も妹もまだ隣組の集会所から帰ってきていなかった。
「彼らは興奮している。日本人を見たら、なにをしでかすかわかったものじゃない」
でも、犀さんだって、実はこの騒ぎにうかれている様子なのだ。自分こそが興奮している。上ずったような声の感じでわかる。
私はそんな犀さんの様子に反発を感じた。
ソ連参戦以来、現地民たちの暴行を恐れ、私たち一家も家に閉じこもっての生活を余儀なくされている。買い出しにも行けず、食糧などの必需品はすべて犀さんに頼んで手に入れている。それなのに、である。そんな恩人の犀さんに苛立ちを覚え、黙って従うことに耐えられなかった。
地元民たちが皆、一斉に通りに繰り出している。なら、黄もそこにいるかもしれない。前にキタイスカヤの通りで会ったように、そこへ行けば彼に会えるかもしれない――その想いが私をせきたてた。
「ああ、君、何処へ行くんだ。そっちは危険だよ」
逆らって一人勝手に歩き出した私の後を、犀さんが慌ててついてきた。この時、家には私一人しかいなかったし、このまま鉤のかかった家の前に残っていても仕方なかったのだろうけど。
「大丈夫。日本人だからといって、子供に暴力なんかふるわないでしょう? そんなことをしてなんのメリットがあるんです?」
先日、私はキタイスカヤの通りで満人の少年グループに暴行を受けそうになったばかりだった。そのことはぴったり私の後をついてきている犀さんには言わなかった。
「それはそうかもしれないが……」と、犀さんも不承不承認めた。ただし、反日組織の中には、“滅倭奴(日本人を殺せ)”などというスローガンを掲げているものもある。そうした連中が子供は殺さないなどという根拠はなかった。犀さんがそのことに触れなかったのは、自分と同じ民族の者たちが日本人の子供まで無差別に殺害するだなんて、彼自身が信じたくなかったからかもしれない。
「じゃあ、約束してくれ。外では日本語は絶対に喋らないでくれ。日本語を使えば君が日本人だということがわかってしまう」
「はい。じゃあ、喋りたくなったら北京語で喋ります」
実際にこの時も私は北京語で犀さんと話していたのだ。私が北京語が達者なのは、犀さんも認めざるをえないようだ。
「君はハルピンで生まれたのかい?」
「はい」
「たしかに君は北京語がうまい。君が北京語で喋っているのを聞いて、誰も君を日本人だなんて疑う奴はいないだろう」犀さんはしばらく間をおいた後、「ただ……」と、言いかけて口を噤んだ。犀さんがなにを言おうとしたのか私は気になったが、かまわずに歩を早めた。私としてはこの時の犀さんは勝手についてきているだけで、迷惑な厄介払いしたい相手だったのだから。
そうこうしている間に広い通りに出た。そこで私は歴史の瞬間を目撃したのだ。キタイスカヤの通りを晴天白日旗を振って示威行進する集団と、沿道で手を振って見送る人たち。どの顔も笑顔でいっぱいだ。同じ時刻、日本人居住区では喪失感で虚脱状態に陥っている人たちがいるというのに、この場所は喜びと活気で満ち溢れている。
日本料理店が襲撃されたのだろうか? ガラスが割れ、破片が飛び散っている。その隣の日本の呉服店もそうだ。ショウウィンドウに飾ってあった豪華な着物が舗道に落ちて、踏みつけにされている。連中はあらゆる日本的なものを排斥しようとでもいうのだろうか? すぐ近くにいる満人たちが、広場にあった銅像が引き倒されたという話をしている。その銅像は私も知っている、満州国の建国に貢献した、軍服の胸にいっぱい勲章をつけた軍人の銅像だ。そいつが満人たちの手によって引き倒され、バラバラに解体されているというのだ。「やけにエラそうなジジイの銅像だったよな」「それがさ、さっき見てきたんだけどよ、もう首が胴体から取れてボールみたいに転がっていたよ」
満人たちは笑いながら話している。
武雄に言わせると、中国人は“チャンコロ”というらしい。チャンと狙い撃ちすればコロコロ転がってゆくから。だけど、この時は、日本人の銅像の頭部がボールみたいにコロコロコロコロ……
「すごい、すごい」と、私の隣で犀さんが興奮して呻いた。「さっきよりも人が増えている。みんな終戦を祝っている」
「ひどい……」と、それとは対照的に私は呟いた。
「え?」
「みんな、ひどいよ。日本が戦争に負けたのに、それを祝うなんて…… ここはアジアの民族が皆で築いた国じゃなかったの? みんな日本人と一緒になって戦ってきたんじゃなかったの?」
「それは違うよ。この国は日本の植民地だった。日本人が占領して勝手に築いた国であって、本当に僕たちの望んでいた国じゃない」
「でも、鉄道だって、道路だって、電話だって、この通りにあるビルの一つ一つだって、みんな日本人の作ったものじゃないか! 日本人がいたから、こんな大都市になったんじゃないか!」
「シッ! こんな場所で、声が高いよ、君!」
犀さんが僕の肩を掴み、耳元に口を寄せて囁いた。犀さんに嗜まれて私は口を噤んだ。
犀さんが先ほど言いかけてやめたこと、私に忠告したかったことはこれだったかもしれない。
いくら北京語が達者でも、喋っている内容で日本人だとわかる。かといって日本語を使えば、喋っている内容は知られなくてすむが、自分が日本人であることが間違いなくばれてしまう。
そうだ、周りは敵ばかりだ。私は四方八方敵に囲まれている。幸運にも、傍にいる地元民たちは誰も私たちの会話など耳にしちゃいなかった。皆、うかれ、はしゃぎ、大通りを行進するグループに歓声を送っていたから。
大通りに出ている人々は中国の歌を歌い始めた。光復を祝う喜びの歌。そこに私は金と申の姿を見かけた。彼らの少年グループも大通りに出ていた。連中は歌を歌っている連中とは一線を画して、破壊活動に夢中になっている。この通りの日本的ななにかを見つけだし、破壊するために、眼を光らせて徘徊している。数日前、この同じ通りで、手に武器を持ち、逃げ出す日本人の群れの中から恨みをはらすべき相手を探して襲撃しようと狙っていたように。私は彼らに見つからないように、反射的に沿道の人ごみの中に身を隠した。もしも連中に見つかったら、私が日本人であることが周囲に暴露されてしまうだろう。
「“日本小鬼(ルーベンクイズ)”!」
「“滅倭奴(日本人を殺せ)”!」
彼らは叫び、私はこの大通りに出ている現地民たちに取り囲まれてしまうだろう。
私は沿道の人ごみの中に身を隠しながら、必死になって黄の姿を探した。黄は金や申たちとは一緒でないようだった。
私は、黄が、日本の敗戦を祝ったり、美しいハルピンの都市を破壊しようとしている金や申たちと行動を共にしていないことにほっとした。そうだ、黄はあんな奴らとは違う……
「さあ、もういいだろう? 家に帰りたまえ」と、犀さんが言った。この人にしてみれば、私を好奇心が旺盛なだけの手のかかる子供ぐらいに見ていたのかもしれない。私がここへ来たかったのは、ただの好奇心などではなかったのだけど。私は犀さんに従い、沿道を離れようとした。
その時だった。「お兄ちゃん!」と、聞き慣れた声が私を呼び止めた。
振り向くと、彼が車道から息せき切って私に駆け寄ってきた。
「黄!」と、私は呼び返した。
「お兄ちゃん。来てたの? ねえ、戦争が終わったんだよ! お兄ちゃんもこっちへ来なよ。一緒に祝おうよ」と、私の腕を掴み、歌を歌っている群集の方へ引っ張っていこうとする。
「そんなにうれしいか? 日本が負けて……」
私を引っ張っていこうとする彼の手が緩んだ。彼は笑みの消え失せた、凍りついた顔を私に向けた。
「一緒に戦ってきたんじゃなかったのか? 俺たちのこの満州国を守るために」
「満州は僕たちの国じゃなかったよ。日本の植民地でしかなかった……」と、黄も犀さんと同じことを言った。
「おまえたちを守ってきたのは日本だ。他のアジアの国々を見ろよ。日本が守っていなければ、この国は鬼畜米英の支配下になっていたんだ!」
「よさないか、君、声が高い。こんなところで周りに聞かれたら……」
犀さんが警戒して周りを見回した。
「それから君も」と、犀さんは黄に向って言った。「君はこの近くの子供か? 彼の友達なのか?」
「はい。黄といいます」
「彼を刺激するようなことはよしてくれないか。ここじゃあ場所がまずい」
だけど、私はそんな犀さんの再三の警告を無視して、かまわずに言い続けた。黄にだけはどうしても理解して欲しかったから。
「日本人がいたから、ここにいる人たちは皆、豊かな暮らしができたんだ。道路だって、鉄道だって、電気だって、みんな日本のおかげじゃないか!」
それに電話だ。満州の電話は本国よりも進歩している。ここではダイヤル式の自動電話だが、本国では交換手を介さないと通話先に接続できない。うちにも主に父が職場との連絡用に使う電話があって、父が教えてくれたのだ。
「支配されるのなら、誰に支配されたって同じだよ!」と、黄は叫んだ。その勢いに犀さんが顔をしかめた。黄も私と同じだった。自分の主張を相手に認めさせるのに必死だった。「道路も、鉄道も、この通りにあるビルも、実際に手を汚して作ったのは中国人じゃないか! 満鉄の列車だって、大勢の中国人が撫順炭鉱で掘り出した石炭で動いているんじゃないか! それに、この国で豊かなのは日本人だけじゃないか! 中国の女性は裕福な日本人の家でアマみたいな召使同然の仕事をしている。男は苦力(クーリー)とか、危険で辛い重労働にばかり従事させられている……」
黄の口から“苦力”という言葉が発せられた時、背後にいる犀さんがびくっと体を奮わせたのがわかった。犀さんの父は炭鉱(やま)で死んでいる。犀さん自身だって、石炭を列車に詰め込む、文字通り掌を炭で汚す仕事をしている。
「子供だってそうだよ。僕たちのような子供が、学校にも行けず、煙突掃除の仕事をさせられている。丸裸になって、体中を煤だらけにして、裕福な日本人家庭の煙突を掃除するんだ。仲間にはそれで肺を悪くした者もいる!」
ああ、それは知っている。私の家にも、“親方”と呼ばれている大人に連れられて、煙突掃除の子供が来たことがある。満人の子供が丸裸で、煙のたちこめるペチカの中から出てきた。私と同じ年の子供。丸裸なのは衣服を汚したくないからで、作業着なんか支給してもらえなかったからだ。私はこっそりとその子の作業する姿を穴の開くほどじっと盗み見ていた。煤で真っ黒になったペニスや尻。それらを見て、自分の股間も熱くなるのを感じた。それが私が同じ年頃の男の子に対して性を意識しだした始まりかもしれなかった。
だけど、私は屈せず、叫び返した。
「それは日本人が技術と資本を持っているからじゃないか!」
なんと地元民たちを侮辱する言葉だろう?すぐ後ろには、私と私の家族が世話になっている恩人の犀さんがいるというのに。けど、この時の私にはそれを顧みている余裕などなかった。黄を自分の側に引き止めておくために精いっぱいだったから。二人の感情を踏みにじって、私は言い続けた。
「おまえたちだけじゃ、こんな豊かな国は作れない。日本人は技術の遅れたおまえたちを指導する立場にあるんだ!」
「技術とか、物質的な豊かさだけを僕らは求めているんじゃないんだよ」と、黄は首を横に振り、苦しげに呻いた。
「それに……」と、彼は続けた。「僕の祖父母、母さんの実家の両親はもともと農夫だった。それが、日本人が来て土地を奪った。今じゃ、その土地は北方開拓団のものになっている。満州なんて嘘っぱちだ! 僕の母さんはいつも言っている。この国は偽満州国なんだって、滅んで当然なんだって!」
なにを言うんだ? 私は目を剥いて黄と対峙し合った。この国がなくなったら、私たちはどうなるというんだ? 私たちは日本人と中国人に戻るんだ。もう同じ国の国民でいられなくなるんだ。それでも、君は平気なのか? 私とは別々の国に別れることになっても……
声をあげて黄に問いただしたいのに問いただせない。通りの向こうには金や申のグループがいる。連中は私がここにいることにまだ気づいていない。もしも私が変に騒ぎを起こして連中に気づかれたら、連中はまた私を襲うかもしれない。そうなったら、黄は私の味方をしてくれるだろうか? あの時のように自分の身を挺してでも、私を庇ってくれるだろうか? 
それとも……
だって、彼はたった今、宣言したのだ。もう私の味方ではない。私とは違う側にいることを! 日本料理店のドアが叩き壊された。呉服店のショウウィンドウも割られた。広場で軍人の銅像が倒された。後に残るのは砕け散ったガラスの破片、コンクリートの残骸、瓦礫。こうして満州国は崩れ去った。私と黄との関係もものの見事に崩れ去ったのだ。
いいのか? 
と、私は最後にもう一度黄の顔を見つめ、執拗に心の中で問いかけた。周囲を敵に囲まれているこの場所では、犀さんの警告どおり声に出すことはできないから。
アメ公やロスケに支配されるようになっても…… 膚の色の違う奴らに支配されるようになっても……
黄は頑なな表情を変えずじっと私を見つめ返している。その引き締まった口元が、こう拒絶してくるのを聞いた気がした。
膚の色なんて関係ないよ! 
白人も日本人も変わりがないよ! 
誰に支配されようと、支配されるなら同じことだよ!
いつのまにか近くにいる大人たちが数人、黄と対峙している私のことをジロジロ見ていた。黄と話し合っている私の声が聞こえたのだ。“なんだ、こいつ?”とでも言わんばかりに、敵意を剥き出しにして私を睨みつけている。
彼らは異分子を発見したと、周りの者たちに伝え広めるだろうか? この時、私は、一週間前に金や申たち少年グループに取り巻かれた時よりも比較にならないほどの大人数で周囲を幾重にも取り巻かれているのだが、これら満人たちが一斉に武器を持って襲い掛かってきたら、私はいったいどうなるだろう?
「ああ、なんでもないんですよ! どうか気にしないで下さい! こいつは私の息子なんです。満人ですよ! 長いこと、馬鹿な日本人の学校に入れられて洗脳されたものだから、少々頭がおかしくなっているんです!」
危険を察知した犀さんが、突然背後から私の口を塞ぎ、周囲の者たちにピエロのように笑いかけながら弁明した。私は懸命にもがき犀さんの腕を振りほどこうとするのだが、犀さんは私を窒息させかねないほど強く掌を私の顔に押しあててきた。
すると、「はははっ!」と、私を睨みつけていた群集から笑い声が洩れた。「そうか、そいつはイカレてんのか!」「そのガキさ、さっきからおかしなことばっかり言ってやがるんだ!」「なんだ、オツムが足りないのか!」満人たちは愉快そうに私を罵り、笑い飛ばす。
馬鹿か? そんな10歳しか年の違わない父親がいるものか!
犀さんの、長いこと日本人のもとで従順に動かし続けてきた、石炭の染みついた黒ずんだ掌。今は自分の意思のもとで動き、私の口を塞いでいる掌。私はその掌に乱暴に噛みついた。犀さんが小さく悲鳴をあげ、観念して手を引っ込めた。私は、ようやく自分を絞めあげていた腕から自由になると、周囲を取り囲む満人たち、とくに私を馬鹿呼ばわりして笑い者にした者たちのいる方を反抗的な目で見やった。噛みつくべき第二の敵を探す凶暴な犬のように。そうして周囲を威圧してから、満人たちの囲いの中央を堂々と分け入って進み、沿道を離れた。後方にいる、掌を噛みつかれた最初の犠牲者の様態を気にする素振りも見せずに……