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白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第六回「生死の彷徨い」

白鳥健治さんの連作小説『同じ色の膚』。男どうしで愛し合うにはあまりにも厳しい時代の淡い初恋を描いた大河小説のような趣の作品です。主人公と黄少年が結ばれる日は、果たしてやってくるのか……時代を越えたせつなさを感じ取ってください。

白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第六回「生死の彷徨い」

第六回 生死の彷徨い

「お兄ちゃん……」
夢の中で誰かが呼ぶ声がしている。
「お兄ちゃん…… ねえ、お兄ちゃん……」
甲高い子供の声。黄の声だ。
闇の中を彷徨っていた私は、立ち止まり、背後を振り返った。誰もいない。でも、人の気配を感じる。かくれんぼの鬼みたいに、物陰に潜んだ仲間からしっかりと行動を覗かれているような……
「黄……」と、私は答えた。喉が嗄れ、声がでない。でも、夢の中で呻くように繰り返した。「黄……黄……」
気づいた時、私は布団に寝かされていた。ぼんやりとかすんだ目に見慣れた部屋の天井が映る。首をもたげようとすると、頭がずっしりと重く、ズキズキと痛んだ。
「気がついた…… お兄ちゃん、気がついたわ!」
傍らで威勢のよい妹の声がした。夢の中で私を呼んでいたのは妹だった。続いて別の顔が上から私を覗きこんだ。両目いっぱいに涙を溜めている母の顔だ。
どうやら私は昨日からまる一日眠り込んでいたらしい。頭には丁寧に包帯が巻かれている。
「ああ、ミッチャン、よかったねえ……」
傍らには安藤夫人の顔も見えた。彼女もまるで親戚のように私のことを心配してくれていた。
なら、姉は……? 姉が私の顔を覗きこまないのはどういうわけだ?
「姉さん…… 姉さんは……?」
と、尋ねたつもりだったが、喉がひりひりして声が出せない。
だからなのか、返事はなかった。母も妹も黙っている。代りに安藤夫人の嗚咽が聞こえた。私にはその意味がわからなかった。
それから数日間、母と妹が代わる代わる様子を見に、私の寝ているベッドに来た。とくに母は体を動かせない私のために、水や食料を運んでくれたり、下の世話をしてくれた。たまには向いの家の安藤夫人が覗きに来ることもあったし、一度、悲しげな顔をした犀さんがじっと私のことを見つめていたこともあった。
それにしても……
姉がいっこうに姿を見せないのはどういうわけだ? 私と同じようにソ連兵に怪我でもさせられて、別の部屋で寝込んでいるのだろうか? 確かめたい。だけど、私はベッドから起きて立ち上がることすらできないのだ。
ある日、私が寝ている部屋で、女の子の話し声がした。一人は妹の声だ。妹は大好きな“お千代ちゃん”で人形遊びなんかしている。私の寝ている部屋は私と姉と妹の共同部屋だったから、怪我人とはいえ私に気兼ねすることなく姉と妹も自由に使っていいわけだ。妹の他にもう一人女の子がいる。妹はその子と人形遊びをしているのだ。
私は、妹と一緒にいるのは姉だと思った。姉は無事だったのだ……! なんだか着ている物がみすぼらしかったけど、きっと変装のためだ。ソ連兵の目を引かないために、わざと汚らしい恰好をしているのだ。そうして私は、妹と遊ぶ姉の声に安らかに耳を傾けていた。
だけど、人形遊びが済んだのか、妹は私の寝ているベッドに寄ってきてこんなことを言った。
「これ、私のお兄ちゃん。頭に怪我しているの」
え? なんだよ? それ……!? 
そうして、今度は私に向って、
「お兄ちゃん、友達のナッチャンだよ」
もう一人の女の子の顔が興味深げに私を覗き込んだ。
違う、姉じゃない。私は愕然とした。どこかの知らない女の子だ。妹よりは若干年上だが、姉よりはずっと幼い……
「ナッチャンはねえ、開拓団にいたんだよ。ソ連が来るんで、こっちまで逃げてきたの」
知らない子がじっと私を見ている。ひょっとしたら私と同じ年かもしれない。妹は、年の近い私と女の子が親しくなれるものと期待して、その子を私に紹介したかったのかもしれない。私が同年代の異性に当然関心を持つものとして…… まじまじと私を見つめる女の子に私は笑顔一つ向けられない。私には無理だ。私は黄が好きなんだ。そんな襤褸をまとった見すぼらしい女の子なんか興味ない。それより、姉さんだ。姉さんはどうしたんだ? ああ、妹と一緒にいたのはてっきり姉だと思ったのに。
「お兄ちゃん、ナッチャンの話、聞きたい?」と、妹は私に尋ねた。「ナッチャン、ここまでたいへんな思いをして逃げてきたんだって。途中でソ連軍の戦闘機にも追いかけられたんだって……」
私は、妹の期待を裏切ってあからさまに首をそむけた。私は姉に会いたいのだ。声が出せたら、姉さんを呼んでこいと、この年下のガキどもに命令してやるのに……!
沈黙の後で、「行こうか?」と、おずおずと気兼ねするような女の子の声が響いた。「お兄さん、具合よくないみたいだから……」

以来、妹は私のベッドに寄りつかなくなった。私の寝ている部屋は妹の部屋でもあるのだけど、この部屋に入ってきさえしなくなった。
私が友達のナッチャンを無視したことで臍を曲げているのだろうか? 妹は多少頑固なところがあるから……
ここ数日間妹の姿を見ていないのも気になるが、それにもまして気がかりなのは姉のことだ。何故姉は姿を見せないのだろう? いったい何がどうなっているのか…… 外の様子がいっこうにわからない。
そんな時、ふと窓の外で声がした。母が誰かと喋っている。男の声? 誰かわからない、聞いたことのない荒っぽい野太い声だ。私はおそるおそるベッドから下りた。両足を床に着け、そろそろと窓辺に近寄る。カーテンの隙間から、眩しい外光が瞼に突き刺さる。何度も瞬きを繰り返した。目が慣れると、家の玄関の前に人影が見えた。母だ。母が知らない男と話している。相手は日本人、中年の脂ぎった男だ。
男はジロジロ母のことを見ていた。息がかかるくらい、太った体躯の弛んだ腹をぎりぎりの限界まで近づけさせ、瞼の厚いどんよりした目を片時もそらざずに……
なにを話しているのか? 母があんな男に関心を持つわけはないし、言い寄っているのは男の方からだろう。あいつ、父が留守なのをいいことに!
「ダンナ、いないんだろう? なあ、あんただけでやっていけるのかね?」
「いいえ、いいんです。本当に…… けっこうですから!」
母は言い寄る男をあしらい、自分の家に引っ込んだ。男は母が家に入っていく最後までその後ろ姿を執拗に見送っていたが、やがて隣家の方に姿を消した。
あいつ、隣に住んでいるのか? 隣にはあんな男いなかった。いつから越してきたのだろう?
私はベッドに戻った。母を見る中年男のあのいやらしい目が忘れられなかった。
私の知らないところでいろいろ事件が起きているらしかった。それが私をムカムカさせた。
午後になって、向いの安藤夫人が部屋に入って来た。
「ミッチャン、どう、具合は?」と、愛想笑いを振りまいて小母さんが言った。「お母さん、いろいろ忙しくてね……」
他所の小母さんに下の世話をされるなど、私は嫌だった。きっと私の介護のためにせっかく来てもらっているというのに。ああ、母はどうして来ないんだ? それに、姉は? 妹は? 苛々が高じて私は声を発した。
「ね、姉さんは……?」
私の声はどうやら相手に通じたらしい。小母さんの顔色が変わった。
「ミッチャン、今、なんて……?」
「姉さんは……?」と、私は繰り返した。
小母さんが困惑したように顔をしかめ、なにも言わず慌てて部屋から出て行った。私の発した声はその意味まで正確に伝わっているのだろうか? 安藤夫人は母を連れて部屋に戻ってきた。
「満緒、あんた、喋れるの?」と、母が尋ねた。
「なにか言ってごらん」
「姉さんは……?」
母は感動したように目を見開いた。だけど、その目はすぐに悲しみを湛えたように涙で潤い、安堵と悲しみの混淆した複雑な表情になった。
「姉さんはね、死んだんだよ」
「……」
「お国のために死んだんだよ。薬を飲んでね」
「薬って……?」
「これだよ」
母は懐から取り出した物を、寝ている私に見えるように差し出した。「忍にはこれを渡していたんだよ」と、掌にある物は薬包紙の包みだ。「ずいぶん前にね、大人たちに配られたんだよ。敵の手に落ちて生きて辱めを受けるくらいなら、潔く自分で自分の命を絶ちなさいって……」
「……」
「忍はね、自分の純潔を守り通したんだよ。偉いよ、あの子は!」
母はそう言って涙ぐんだ。
母の背後にいる安藤夫人はもう大泣きだ。
「ああ、関さん、私はあの“男狩り”の時、あなたになんてひどいことを! まさか、あの後で忍ちゃんがあんな目にあうなんて、思ってもいなかったから!」
感情的な二人の女たちの泣き声をよそに、私は冷静にあることを企てていた。自分の懐に入れていたということは、母もいざという時の覚悟をしているということになるのだろう。
「母さん……」と、私は言った。「それ…… もっとよく見せて……」
「え?」
母濡れた眼を赤く腫らして、母が顔を向けた。
「だって…… そんな物、ずっと持っていたなんて、母さんも姉さんも凄いなあと思って……」
私の発している声は、一つ一つ正確に母に伝わっているようだった。
「そうかい?」と、母は泣きじゃくりながら、一度は引っ込めた薬包紙の包みを、私のすぐ顔の前に差し出した。中味は青酸カリだろうか? 私はいきなり蒲団から手を伸ばし、母の掌から包みを奪い取った。
「何するんだい? おまえ」
ソ連兵に銃で殴られ暫く意識不明で寝込んでいた怪我人が、やっと喋れるようになるまで回復したもののいきなりそんな暴挙に出るなんてと、母は油断していたのだろう。
「これ、僕が預かっとく!」
私は薬を掴んだ手を自分の寝ている蒲団の中に引っ込めた。
「返しなさい! あんたが持っていると危ないよ!」
母が蒲団をめくりあげ、薬の在り処を確かめようとする。
「む、無理に取ろうとすると、こうだぞ!」
私は、指先に摘んだ薬包紙の包みを自分の口に放り込もうとするジェスチュアをしてみせた。じっと口元に手をあてながら、目玉だけはギョロギョロひん剥いて、母の反応を探った。これには効果があったようだ。安藤夫人が悲鳴をあげた。母も驚いて私から体を遠ざけた。
「こ、こんなもの、持っているからいけないんだ! 僕が預かっとく!」
「ミッチャン、駄目だよ、それを返しなさい!」と、安藤夫人が身を乗り出してきた。「それはね、あたしたちがね、身を守るためにね……」
「いいんです、もう」と、母が安藤夫人を止めた。
「え? だって、関さん……」と、安藤夫人はなおも不服そうだったが、母はもうなにも言わなかった。
私は、自分で掛け蒲団をもとに戻し、再び薬包紙の包みを掴んだ手を完全に母の視界から隠した。
こちらは逃げることなどできない監視体制に置かれた怪我人だ。眠ってしまった後で薬を取り上げることもできたろう。だが、そうはならなかったのは、母に私の想いが通じたからなのだろう。

姉の死のほかにもう一つ、やっと自由に喋れるようになった声で母を問い詰めて聞き出した事実がある。それは数日前から妹が病気で臥せっているということ。妹はチフスにかかって別室の客間で臥せっている。感染症の病気であるため、私に移すといけないから、私のいる部屋、本来妹との共同部屋でもあるこの部屋へ立ち入らないようにしているとのこと。さらに私は自分でも回復してきた観察眼を働かせて、他にも最近起きた日常の変化の幾つかを知るようになった。母が私と妹の看病でたいへんなのを見かねて、向かいの安藤夫人が助けに来てくれていること。母は、安藤夫人の援助を快く受け入れたが、もう一人母を援助したいと言い寄る人物が現れて、こちらの申し出はきっぱり断わったということ。その人物が先日窓から見た、今度隣に越して来たという恰幅のいい偉そうな中年男であること……
他の地区や都市の「男狩り」や暴行から逃れた日本人が、私たちのいる居住区に移り住んできていた。もともとは満鉄附属地にある、ここよりももっと豪壮な高級住宅に住む者たちで、彼らの住居は地元中国人に踏み込まれるか、ソ連軍に接収されるかしたようだ。そんな住む家を失くした者たちが詰めかけてきていた。
残された日本人たちの間では強烈なコミュニティが形成されていた。指揮をとったのは主に、「男狩り」の後に他の居住区から移り住んできた者たちだった、中には会社の重役や高級官僚のような身分の者もいる。私たち一家はそのコミュニティから弾きだされたようなかたちになった。原因は妹の病気だ。ソ連兵に殴られた私が意識を回復して、自分の部屋の寝床からようやく起き上がれるようになった頃、今度は客間に設けた寝床で、妹がチフスで寝たきりになっていた。
ある時、この地区では新顔のコミュニティのリーダーが私たちの家を訪ねてきた。私たちの隣に住むようになったあの恰幅のよい中年男と一緒に。ソ連軍に財産を接収されるまではたぶんそうだったのだろう、見るからに裕福そうで金持面した中年男が、頭に包帯を巻き、寝巻き姿のまま居間に入ってきた私を見て、ギョッとした顔を向けた。
「そ、その子は大丈夫なんですか?」
「ええ。この子は感染症じゃありません。頭に怪我をしているだけです」
「たいへんですな。奥さんも。病人が二人もいたんじゃあ……」と、コミュニティのリーダーが言った。
私は客たちを無視して、勝手に居間の隅に座り込んだ。自分の部屋で寝ていたら、居間で聞き慣れない男の声がした。一人はいつか窓の外から聞こえた野卑な野太い声だ。あいつがいる! 家の中まで入ってきている! あの時窓から見た、困惑げな母に強引に擦り寄る巨漢の男を思い出して、自分の部屋でじっと寝ていることなんかできなかった。母のことが心配でたまらなくなった。だから、こうして大人たちの話している居間に無断で入りこんだのだ。
「じゃあ、感染症のお子さんはどこで寝ているのですか?」と、ようやく中年男が私から目をそらし、尋ねた。
「隣の客間ですが……」
「すぐ隣の部屋ですか?」
居間の隅で、母の背後に隠れて大人たちの話を聞いていた私は、中年男のふくよかな顔にさっと嫌悪感が走るのを見逃さなかった。
「奥さん、お子さんは病院に預けた方がよいですよ」と、コミュニティのリーダーは勧告した。「もしもお子さんの病気がこの地区に広まったら、どうするんですか?」
「でも、病院はどこも満員で……」と、母は言った。
そう、病院はどこもいっぱいだ。赤痢とチフスで、ハルピンは病人だらけだ。8月の終わり、まだ夏の終わらないうちにソ連軍は侵攻してきて、大勢の人たちが犠牲になった。日差しの照りつける道には死体が転がった。腐敗した死体。生きている者たちの体にだってシラミがたかっている。私たちのように住む家のある者たちはいい。ソ連軍に家を取られても、この地区に代りの家を見つけて移り住んでこれた者たちはいい。北方から着の身着のまま逃げてきた開拓農民たちは、貧しく、頼れる伝もなく、大半が不衛生な収容所に入れられた(その中にあの妹の友達のナッチャンがいた)。伝染病が広まらないわけがなかった。
母は、一度は妹を病院に連れて行ったものの、ベッドが足りずに病室の外の廊下にまで溢れんばかりに病人が寝かされている野戦病院さながらの状況に恐れをなし、妹を病院から連れ帰り、自宅で療養させることに決めたのだ。薬と手厚い看病があればチフスは克服できるものとして。
「関君はまだ帰ってこないのかね?」と、恰幅のよい中年男が口を挟んだ。後で母に聞いたところ、隣に住むこの中年男は父の勤め先の上役だという。満鉄付属地の高級住宅街から越してきたのなら、その可能性は否定できない。だからというわけもないのだろうが、なにかと母の世話を焼きたがるので、母の方は迷惑していた。
「病院のベッドが空いていないのなら、私が口をきいてあげよう」
「いいえ、せっかくですが……」
中年男はジロリと母を睨んだ。私たちに対してもまるで職場の部下扱いするかのように、男の態度は横柄だった。
「それはどういう意味かな? あんたは私の計らいを断わるというのかな?」
「娘は自分で看病します」
「看病って、ここでですか?」と、リーダーが大袈裟に声を張りあげた。「ここが危険なこと、あなたもご承知でしょう?」
「この家にも前にソ連兵が来たっていうじゃないか? あんたの上の娘はそれで殺されたんでしょう?」と、中年男がすかさず攻めたてた。
「病院にいる方が安全だ。奴らは病院までは襲ってこない」
「娘はまだ9歳なんです。それも病人です。ソ連兵が来ても、病気の子供に手をかけたりはしないでしょう? もしもソ連兵がこの家に来ることがあったとしても、その時は私が犠牲になれば済むことです。娘には指一本触れさせません」
中年男の厚い瞼の目が眩しそうに母の方に向けられた。
「ほお……」と、弛んだ口元から感嘆するような声が洩れた。「あんたが進んでソ連兵に自分の身を差し出すとでもいうのですかな?」
中年男は母の方ばかり見ている。いつか家の前で母に言い寄っていた時と同じように。私にはソ連兵よりも、すぐ目の前の、父の上役だとかいう中年男にこそ、より強度な警戒心をかきたてられるようだった。
「母さん、大丈夫。ソ連兵が来たって、玉枝も母さんも僕が守るから」と、私は母を励ますつもりで肩越しから声をかけた。
頭にぐるぐる包帯を巻きつけた怪我人の私のことを、当初中年男もコミュニティのリーダーも口がきけるくらい回復しているなんて思っていなかっただろう。そんな私が急に声を発したので、二人とも揃って怪訝そうに顔を振り向けた。
「ボウズ、おまえにいったいなにができるっていうんだ?」と、中年男の厚ぼったい瞼の目は、すぐに私を嘲弄するような目つきに変わった。母のもとを離れることのなかったいやらしい目つきが、今度は私に焦点を定めている。「現におまえのその頭の包帯はなんだ? え? おまえはソ連兵に殴られて気を失ったんだろう? その間に姉さんは殺されたんじゃないのか? おまえが気絶している間に!ここはおまえみたいなガキの出る幕じゃないんだよ!」
弛んだ口元が笑い出しそうに歪んでいる。私は悔しくて歯を噛みしめた。たとえ父の上役であっても、肉親でも教師でもないアカの他人から、いきなり「ボウズ」だなんて呼ばれたことが悔しくてならない。
「とにかくね、私はあんたに隣に住んでいる者のことを考えてほしいんですよ。私や私の家族には病気を移してもらいたくないんです!」
中年男の横でコミュニティのリーダーが気難しげに黙っている。リーダーを説き伏せてここへ連れてきたのは中年男なのだろう。自分たち家族の保身を第一に考え、病人が隣にいると知って大騒ぎして。チフスや赤痢で苦しんでいる人なんて、この居住区から一歩外へ出ればいくらでもいるのに。妹の玉枝だって、家がなくて収容所に入るしかなかった友達から移されたものじゃないか。なのに……
「私たちにここから出て行けと……」と、母はおずおずと言った。
「そんなことは言っていません。ただお子さんをしかるべき場所に預ければいいだけのことです」
「そっちが他に移ればいい。ここはもともと僕たちが住んでいた家だ。後から来たのはおじさんたちの方だ!」と、私は口を挟んだ。
中年男が再度真っ赤な顔をして私を睨みつけた。母が振り返って私を嗜める仕草をしてみせた。
「この家は会社の社宅でしょう? ここはあんたがたの物ではない。会社の所有する物なんですよ!」
母は返す言葉を失くし、白髪のめだった小さな頭をゆっくりと垂れた。耐えるようにじっとそのままの姿勢でいる。軽はずみな私の発言が予期しない方向へと展開した。もっとも満鉄なんて会社はこの時にはもう残っていなかったし(軍や市の機関同様、満鉄支社のビルの前にもソ連兵の立哨が立っているっていう話だ)、会社の上役だったというだけの男に私たち一家の立ち退きを命じる権利も筋合いもなかったのだけど、子供の私にはそこまで考えが巡らなかった。
「よく考えてみることですな。会社はお情であんたがたをまだここに住まわせているだけなのですからな」
勝ち誇ったように中年男は言った。そして、隣にいるコミュニティのリーダーを目で促した。
「そろそろお暇しよう。こんな所に長居して、病気を移されたくはないからな」
中年男とリーダーが出て行くまでずっと、母は頭を垂れた姿勢のままでいた。二人が去った後には、母が淹れたお茶が二つ、まったく手をつけないまま残っていた。
「母さん……」と、私は、まだ呆然と座り込んでいる母に寄添って言った。「母さん、玉枝をどこかにやるの?」
母は黙っていた。
玉枝をどこかにやるの? アイツの言うとおり、どこかに預けるの?
もう一度、問いただしたかったが、その質問を喉の奥で飲み込んだ。母の辛い立場がわかっていたから……
そうだ、玉枝は? あの親父、大声で騒ぎやがって…… 今の話し声、隣で寝ている玉枝に聞こえたりしていないだろうか?
気になって妹のいる隣の客間に行った。ソファに寝かされていた妹が顔を上げ、自由に立って歩けるようにまで回復している私を見て微笑んだ。
「ああ、お兄ちゃん、ずいんぶん元気になったんだね。よかった……」
馬鹿! こっちが元気になったって、自分が病気じゃあしょうがないじゃないか!
「あまりこっちに寄らない方がよいよ。病気が移るといけないから……」
「なに言ってるんだよ? 玉ちゃんだって、僕が寝込んでいた時は、ずっと傍に来て看病してくれたじゃないか?」
そうだ、ソ連兵に殴られ意識不明だった私を、枕元で何度も呼び続けてくれたのは妹だった。あの呼び声がなければ今頃私はどうなっていたか……
やがて母も、私と妹のいる客間に入ってきた。ソファの妹の額に手をあてて熱を測りながら、脈絡もなく、低い声で呟いた。
「玉枝はここにいるのよ。ここでずっと私たちと暮らすのよ……」
私たちの世話で疲れきっているはずの母の表情には固い決意が溢れている。いったいどこにそんな力が残されているのか不思議なほど……
家族は常に一緒だ、どんなに辛い時も一緒にいるのだ――そんな意識を私も身の回りの人達、母や妹や、妹と同じ病気で苦しんでいるナッチャンとその母親から分け与えられていた。

北方の開拓農民たちは着の身着のままで逃げてきた。彼らの状況は私たちよりずっと厳しかった。どうにかハルピンまで来れたものの、住む家もなく、難民収容所に入れられた。妹はその収容所にいる女の子と友達になった。寝る時も一緒だった人形の“お千代ちゃん”もほっぽりだして、その子と遊んでばかりいた。
「戦闘機がね、追っかけてくるんよ。空から機銃掃射をして、頭上を飛び去っていくんよ。私ら慌てて物陰に隠れたわ。今もその夢を見るんよ。怖かったよ、本当に!」
友達のナッチャンは何度も繰り返し妹にその話を聞かせたという。同じ開拓団の中に、赤子を連れて逃げることができず、置き去りにした人がいたこと。暴徒に襲われて命からがら逃げてきたこと。逃避行を諦め、途中で自決した人がいたこと。一緒に自決するために自分の子供を絞め殺した親がいたこと…… 友達から聞かされたそんな話の一つ一つを、妹は家に帰って今度は母に聞かせた。「ナッチャンが言ってたんだよ、本当に、北方から逃げてきた人たちは、恐ろしい目にあったんだよ……」
住む家があるのだもの、私たちはまだいい。ソ連兵に襲われる心配があるとはいえ、有刺鉄線で囲まれた収容所にいるよりはマシだ。着の身着のままの姿で遊んでいる女の子を見て、後ろめたく感じた母は、妹の友達のお母さんに、「一緒に私たちの家に住んだらどうですか?」と、進言した。だけど、友達のお母さんはそれを丁重に断わった。「一緒にここまで逃げてきた開拓団の人たちがいるのに、私の家族だけお世話になるわけにはいきません」また女の子自身も「私一人だけなら嫌だ、お母さんと一緒にいる!」と言ってきかなかった。
その女の子はチフスにかかった。襤褸をまとって、さんざんシラミにたかられた体は、収容所の寝床で動けなくなった。その彼女を見舞って連日収容所に足を運んだのが妹だった。
そのすぐ後で妹は急に元気を失くした。親しかった友達が病気なのだから、無理もない。けど、元気を失くしたのは、それだけが原因じゃなかった。
妹は体調の不良を訴えだした。収容所に見舞いに行った女の子と同じように。下痢、発熱。チフスの症状だった。
母はつきっきりで妹の看病をした。私も怪我から回復して、自分のことぐらい自分でできるようになると、母を助けて妹の看病を手伝った。それでも疲れきっている母を見かねて、それから感染を恐れる近所の者たちの恨みがましい視線もあって(隣にあの中年男の家族が越してからというもの、なんだか噂をたてられているように感じる。「そっちで遊んじゃ駄目よ」と、たんに他所の家だからということではなく、私の家の前で遊んでいた子供を叱りつける母親がいたりしたのだ)、私はついこう漏らしたことがある。
「収容所の子供なんかと友達になるからだよ!」
ああ、なにを言っているんだろう? 言ってしまった後でしまったと思った。自分こそまだ頭の包帯も取れていない怪我人のくせに。包帯を取り替える時にはいちいち母の手を煩わせなければならないくせに…… 
妹はソ連軍に傷を受けて意識不明だった私のベッドの側にずっとついていてくれたのではなかったか? 「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と、呼びかけてくれたのではなかったか? 意識不明で闇の中を彷徨っている間、背後で妹の声を聞いたから、私はこちらの世界に引き返してこれたのだ。妹の声を黄の声だと思い込み、彼に会いたくてたまらなかったから、こうして戻って来れたのだ。
それに妹の病気には私にも責任があるのではないか? 姉が死んで、妹はずっと寂しい思いをしていた。私は意識不明の重態だったし、母は私の看病で妹のことを見ている暇などなかった。その寂しさを紛らわすだめに友達が欲しかったのではないのか? 
だいたい妹が誰を友人に持とうと、彼女の自由ではないか? 相手が難民で襤褸をまとってシラミにたかられていても、好きだったら友達になるんじゃないのか? その友達のために尽くそうとするのはあたりまえなのではないか? 自分と黄の場合はどうなんだ?そんなこと、自分が一番よく知っていることじゃないか! それに病気になったのはなにもナッチャンのせいじゃない。戦争がなければ、ナッチャンも妹もチフスなんかにかからなかった。なのに、たいへんな思いをしてここまで逃げてきたナッチャンのことまで悪く言うなんて……
母は私の失言を咎めはしなかったけど、恥ずかしくて家族と顔も合わせられないくらいだったから、私は翌朝早くに家を出た。少しでも金になることをしようと、この時から外で盗みを始めたのだ。
私が盗みを覚えたのは、近所に住む少年たちがきっかけだった。少年たちは妹と同じと年くらいで、彼女の顔なじみだった。彼らは朝早く出かけていって、その日の夕方になると、リヤカーにいっぱいガラスやら鉄板やら金属やらを積んで、この居住区に戻ってきた。それらの戦利品は買い取ってくれる中国人の業者がいるのだという。
「俺も連れて行ってくれないか? 見張りでもなんでもやるからさ」と、私は少年たちのグループに頼んだ。
「駄目だよ。今は獲物が少ないんだ。俺たちの分け前が減るから」
「兄ちゃん、頭に怪我しているじゃないか? 足だってフラフラしている。そんなんで見つかったら、逃げられるのかよ? 中国警察やソ連のKGBに捕まったって、俺たち助けないからな!」
「玉枝の奴、チフスなんだろう? 兄ちゃんといると、病気がうつらあ!」
なんだと、クソガキ! 
少年たちが最後に放った一言が私をかっとさせた。私が怒りをぶちまけると、彼らは私を囃したてながら、リヤカーをガラガラいわせて走って逃げていった。
コーリャンの粥しか食べられない妹に少しでも栄養のある物を食べさせてあげたい。薬や石炭だって手に入れたい……
そんな思いから私は、自分一人でも家主のいない住居や閉鎖されたビルに忍び込むことに決めた。なんでもいい、少しでも金に代るものがあればいいと……



なんとか一人で歩けるようになって外へ出た私は、変わり果てた市街地の風景に愕然とした。通りには死体が転がっていた。何人もの老人と女と子供の死体だ。
私はどうしても外に出ねばならなかった。頭の包帯は残ったままだったが、いつまでも家で養生なんかしていられない。食料と石炭を得なければならない。暫く前から妹は病気で寝込んでいる。母はその看病をしている。私が働かねばならなかった。私が病気の妹と看病で疲れきっている母のために少しでも栄養のある食料を手に入れなければならない。それにハルピンはこれから長い冬を迎える。暖房なしでは凍死してしまう。暖をとるための石炭を買う金も必要だった。
道端には幾つもの死体が転がっている。股を広げた裸の女性の死体。強姦されたのだ。ああ、私の姉のような女性たちがもう何人も!
通りの向こうを毛皮の帽子に厚い外套を着けたロシア人が一人歩いてきたので、私は慌てて建物の陰に身を潜めた。
<中国警察やソ連のKGBに捕まったって、俺たち助けないからな!>
近所の少年グループから言われたことを思い出した。KGBなんていったいどういう奴なのかわからない。この時、通りの向こうを歩いているのは、いつか家に押し入ってきたようなただのソ連兵のようだった。こんな夜の明けきらぬうちに日本人居住区の方から歩いてくるのだもの、きっと強姦めあてなのだろう。ソ連兵は夜になると女を欲しがる。そして、日本人のいる住居に押し入っては、母親の前で娘を、子供の前で母親を手篭めにするのだ。
あいつは今夜誰かを襲ったのだろうか? と、私は、満足そうに白い息を吐きながら通り過ぎてゆくソ連兵に心の中で毒づく。通りに転がっている死体、あるいは私の姉のように、また一人犠牲者を増やしたのだろうか?
ソ連兵が行き過ぎたのを確かめてから、私は建物の陰から這い出し、商店街の方に向かって歩き始めた。何度も来たことのある商店街。見慣れた幾つもの店が並ぶ。その中にロシア人店主の経営するパン屋の「フリェーブ」がある。白系ロシアの店主はとても気さくで親切なおじさんだった。私がパンを買いに行くと、「おまけだよ」といって、太った体をゆさゆさ揺すって、黒パンを一切れ余分に包んでくれた。
この店の黒パンはとても美味しかった。あのパンの一切れでもあれば、妹はきっと喜ぶだろう。
「フリェーブ」の窓ガラスを覗き込むと店内はがらんとしている。商品はもちろん、陳列台や棚やそのほかの備品もなくなっている。
あのパン屋のおじさんはどうしただろう? 同じロシア人なのに、姉を強姦したあの恐ろしいソ連兵とは全然違う。もともと革命から逃れてきた人たちなのだから、今更本国に戻るわけにもいかないだろう。無事他所の土地にでも逃げていればよいが…… そんなことを思いながら、「フリェーブ」の前を後にした。
私は目についた建物の中に忍び込んだ。今や廃業しているなにかの事務所だ。倉庫があってそこに商品があればいい。そいつが高く売れればいい。でも、金に代るものならなんでもいい。五寸釘や螺旋や針金や南京錠などの金属類でも、ガラスでも、衣類でも。そうした物は売れる。鉄屑なら、鉄工所が引き取ってくれる。
自分たちの食べる分ぐらい自分たちでなんとかしなければならない。犀さんにばかり頼ってはいられない。犀さんは姉が亡くなったことでそうとうショックを受けていた。姉は犀さんを慕っていたから。その心理的作用もあるのだろうか、犀さんが私たちの家を訪ねる機会はどんどん減っていった。それに私たちの家にはもうお金もない。このあいだ家に押し入ってきたソ連兵にごっそり持って行かれてしまったのだから。犀さんにただで食料を分けてくれるほどの義理も経済的ゆとりなんかないのは確かだ。
がらんとした事務所の隅に積み上げられた鉄屑と廃材を見つけた。廃材は暖房代りになる。ペチカで燃やせば暖が取れる。
リュックに入れるだけの略奪品を詰め込み、建物を出る。放置してあるんだからさ、もらったっていいだろう? 俺の家はもっと貴重な物をソ連兵にごっそり持っていかれたんだ。少しぐらい取り返したって…… 急ぎ足で歩く私の後ろを誰かがついてくる足音が聞こえる。こんな朝早くに、誰が……? 誰にも見られないように夜が明けてからすぐに出てきたっていうのに。さっきのロシア兵か? やり過ごしたはずのあいつが引き返してきたのか? 私は焦った。ああ、でも、鉄屑を詰め込んだリュックが重く肩に食い込んで走れない。ロスケに殴られた頭の傷だって時々まだズキリと痛むのに。
「お兄ちゃん」
後ろから声をかけられる。ぎくっとして私は立ち止まる。
捕まったら、殺される。中国警察に突き出されて袋叩きだ……
「お兄ちゃん、待ってよ!」
私を呼び止めたのは、黄だった。手に下げた草の蔓で編んだ籠には醤油と白鶴の瓶が入っている。いつか私の住む日本人居住区で見かけた時のように。彼が時々知り合いの中国人が営む商店で配達のアルバイトをしているのは知っていたけど。
彼は私の背中の荷物に素早く目を走らせた。
「お兄ちゃん。やばいよ、それ。そんなことして、もしも見つかったら……」
黄は、私が何の関係もないはずの事務所から出てくるのを見ていたのだろう。異様に膨らんだリュックの口からは慌てて詰め込んだ鉄パイプがはみ出している。あの事務所にはもう一本鉄パイプが残っていた。もっと長くて立派なやつだ。本当はそいつを持ち出したかったのだが、なにせ身の丈ほどもあるやつで、リュックに納まりきらないのでやめた。ああ、あいつは今度また来た時に盗んでやろう。今度はもっとデカイ麻袋の“マアタイ”を用意して……
背負っている荷物に目を向けながら擦り寄ってくる黄に対して、私は冷たく突き放した。
「おまえには関係ないだろう?」
妹が病気なんだ。妹のために金が要るんだ。私は心の中で抗弁している。
それでも、まだ彼は傍を離れようとしない。今度は包帯の巻かれた私の頭を心配そうにジロジロ眺めている。
「お兄ちゃん、その傷のこと、犀さんから聞いたよ……」
「え?」
「犀さん、僕のこと、覚えてくれていたんだ。それで、このまえ偶然会った時、お兄ちゃんがどうしているか、いろいろ教えてくれてね」
8月15日の敗戦の日だった。私の後をつけて来た犀さんは、キタイスカヤの通りで黄と出くわした。犀さんは、私の友達の同民族の少年を覚えていてくれたのだ。
「お兄ちゃん、よかったら、家に来なよ」と、唐突に彼が言った。
「どういうことだ、それ?」
「この先、日本人だけで暮らすのはたいへんだよ。お兄ちゃん一人だけなら、僕と母さんが面倒をみるよ」
「……」
「母さんは、僕が怪我をした時、お兄ちゃんが僕の家で手当てしてくれたことを知っているよ。お兄ちゃんが僕をおぶって家に連れてきてくれたのを近所の人が見ていたから。母さんは僕を手当てしてくれたことで、お兄ちゃんに感謝している。あの子のことが心配なら、うちに連れてくるといい――そう言ってくれたんだ」
「おまえが傷を負ったのは、おまえが俺をかばったからだろう? 感謝される筋合いなんかないよ」私は素っ気なく言い返した。「かえって恨まれるのが正当なんじゃないのか? おまえを危険な目に合わせたんだから」
「でも、母さんはお兄ちゃんにお礼がしたいって言っていた。今はその時なんだ。お兄ちゃん一人なら、僕たちはお兄ちゃんを家族に迎えられるよ」
なにを馬鹿なことを…… 話を聞いていて、私は片腹が痛くなった。声をあげて笑いだしたいくらいだ。
「北方の開拓農民は幼い子供を連れては逃げられない。だから、泣く泣く中国人の家に自分の子供を預けたと聞いたが……」と、私は腹膜が痙攣するのをこらえながら言った。そうだ、妹に満蒙開拓団の友達ができて、妹はその話を避難してきた同い年の少女から聞いた。その少女から聞いた話――開拓団の人達の身におきた出来事を、妹は私と母にも聞かせたのだ。
「俺には家族がいる。姉は死んでしまったけど、母さんと妹がいる。俺だけ助かってどうなるというんだ。家族は見捨てろというのか?」
「……」
「それに、俺を引き取ったりしたら、おまえたち母子がどうなるというんだ? 日本人をかくまったということで、袋叩きになるんじゃないのか?戦争孤児をひきとって世話してくれる優しい中国人ばかりじゃないんだ。日本人を匿ったことがバレて、村八分にあった中国人もいるっていうじゃないか? おまえたちは俺をかくまうつもりか?あの狭い家でか? おまえたちの住む中国人居住区じゃ、バレバレじゃないか?」
だけど、黄は真顔になって、
「お兄ちゃんは遠い親戚の子だということにするよ。大丈夫、お兄ちゃんなら北京語も達者だし、中国の便衣を着せれば中国人と代りないよ」
「ついでに髪型も弁髪にしてやろうか?」と、俺は頬を歪めて言った。「金や申だって、すぐ近くに住んでいるんだろう? あいつらには俺はバレバレだよ。どうやって誤魔化すんだよ?」
黄はむっとして口を閉ざした。彼はあくまでも真剣なのに、私は茶化してばかりいる。
「見ろよ。このハルピンの市街地を。通りには死体が溢れている。みんな日本人の死体だ。こんな無秩序がいいのかよ? 日本が戦争に負けた途端、このありさまだ」
そうだ、夜になると自動小銃の音がする。いったい、どこでなにが起きているのかわからない。翌朝、表へ出てみると、そこに新しい死体が転がっていて、そこで私は昨夜の自動小銃の音の正体を知るのだ。昨夜の犠牲者はこの人だったのだなって。
「僕だって、まさか、こんなことになるなんて思ってもみなかったよ…… ソ連兵がこんなことするなんて…… でも、ここに来たソ連兵はみんな囚人兵だっていう話じゃないか。ドイツ戦線でヨーロッパに行っていた連中が、突然こっちに来させられたものだから、そうとう鬱憤が溜まっていたっていう話じゃないか」
そうだ、彼の言うことはあたっている。私は、先月、私の家に押し入ってきたソ連兵が、軍服の袖をめくりあげた腕に幾つもの略奪品である腕時計をしていて、その腕に囚人の刺青があったことを思い出した。それは、アラビア語みたいなキリル文字で描かれた囚人番号の刺青だった。
「それに……」と、彼は言い淀んだ。
「それに?」
「それに、これは戦争なんだ。この程度のことは日常茶飯事だ。現に日本人だって、同じようなことをしたじゃないか? 中国の村を焼き討ちしたり、女性を強姦したり…… 同じだよ。戦争中はどこの軍隊だって、ああなるんだ。珍しいことじゃないんだ」
「だけど、奴らは中立条約を一方的に破棄した……」
「同じだよ。ソ連軍だけが特別に恐ろしい軍隊というわけじゃないんだ。どの国も同じだよ。戦争に勝つことが目的なんだから。勝つためだったらなんだってする。戦争はゲームやスポーツとは違う。負けは絶対に許されない。だって、命がかかっているんだもの。新型爆弾だって、どんなに酷い殺傷兵器だって、勝つためなら使うよ。滅ぼされるよりはマシだもの!」
「なら、おまえはそれでいいのか?」
「え?」と、黄が私を見返した。
「満州国はもうないんだ! 満州国がなくなった今、俺とおまえは別の国の国民だ。違う者同士が一緒になれるか!」と、私は悲憤を込めて言った。「いいか、俺は日本という国の子供で、おまえは中国という国の子供だ、別々の国家の国民なんだ。違う者同士だ、兄弟になんか、なれないんだ!」
「関係ないよ、国家なんて、そんなもの……」と、黄は、か細い、祈るような声で言った。「同じ人間じゃないか…… 僕たちは、国家なんて関係なしに通じ合える、国境を越えて繋がり合える……」
「国がなくて、誰が守ってくれるというんだ?」
「誰にも守られなくてもすむようになるのが、本当の平和だよ!」
私は立ち止まり、黄の顔面を睨みつけた。彼は目をそらさず、私を睨み返している。
そうだよ、満州国が続いていれば、姉は死なずに済んだんだ。妹も病気にならずに済んだんだ。父と離れ離れになることもなかった。俺たち家族は平穏無事にいつまでもここで暮らしてゆけたんだ…… 
そして、黄、おまえとも……
愛おしい黄の顔が私の怒りを狩りたてる。何故なのか? 愛している者に対して、何故こんなに怒りが沸くのか? 自分の思うようにならない苛立たしさか?
吉次はいつか“懲罰”と称して、満人の子供を一列に並ばせ、一人一人の頬に拳骨を食らわせた。黄のあの美しい頬にも、吉次の拳の赤い跡がついた。ああ、今の私も同じ衝動にかられている。目の前の色白の頬に赤い痣をつけたい衝動に……
私は掌をすぼめて拳をつくる。その拳を黄の頬に狙いをつける。
けど……
 “同じだよ……どの国も同じだよ”
先刻聞いた黄の声が蘇ってくる。私の頭の中でこう囁く。
“あんただって同じだよ、他の日本人と同じだよ”
違う、俺は違う、おまえが憎くてこうするんじゃない。吉次なんかとは違う。俺はおまえを愛している。おまえが俺の気持ちをわかってくれないからだ……
“同じだよ。結局は僕を支配したいだけじゃないの? 占領民族はみんな同じだよ”
私は、振り上げた拳を途中で止めた。張り詰めていた腕が弛緩し、ゆるりと下に下がった。だけど、私の気は治まらない。色白の頬を打つ代りに、草の蔓で編んだ籠を抱えている胸をどんと突き飛ばした。黄は尻もちをついて私を見上げた。
荷物の醤油の瓶が籠の中から転がった。売り物の瓶が埃を被ってゴロンと彼の体から離れた。
私の心は荒んでいた。盗みを働くようになっているのだもの、人を殴るくらいのことは平気だ。こんなに辛い目にあっているのだから、そのくらいの仕打ちは許されると思っていた。
だけど、何故、それが黄に対してなのか? 自分が彼を傷つけるなんて信じられない。本当は好きなくせに。この両腕でぎゅっと抱きしめてやりたいくらい……
黄が私を見上げている。その刺すような視線から私は顔をそむけた。
さよなら。
心の中で告げると、倒れ込んだままの彼を放って歩きだした。