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白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第七回「闇に沈む毒薬」

白鳥健治さんの連作小説『同じ色の膚』。男どうしで愛し合うにはあまりにも厳しい時代の淡い初恋を描いた大河小説のような趣の作品です。主人公と黄少年が結ばれる日は、果たしてやってくるのか……時代を越えたせつなさを感じ取ってください。

白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第七回「闇に沈む毒薬」

第七回 闇に沈む毒薬

夜、乱暴にドアを叩く音がした。
午後6時過ぎは外出禁止だ。進駐してきたソ連軍がそう決めたのだ。夜間出歩いている奴は撃ち殺される。
それに外は冬、日が暮れるのは早い。午後6時なんてもう深夜だ。真っ暗い凍てつくような寒さの中を歩きたがる奴なんていない。
こんな夜分に家を訪ねてくるなんて、決まっている……
通りには死体が転がっている。股を広げ、下半身を剥き出しにした女の死体。強姦され、そのまま殺された女の死体。
私は気を引き締めた。表玄関には内側からしっかり南京錠がかけてある。絶対にドアは開けない。もしも蹴破ってきたら、こう言って追い返してやろう。
病気の妹がいる、妹はチフスなんだ、こんなところにいると感染するぞ、と……
いくらロスケでも、この家に感染症の病人がいると知ったら、見逃してくれるだろう。身体的な危険を冒してまで性欲を優先したりはしないはずだ。
「関さん、関さん……」と、ドアの外で声がした。日本語だ。訪ねてきたのは日本人だ。「私だ、ご主人の上司だった者だ。ここを開けてくれんかね?」
荒っぽく野太い男の声。ああ、この声は忘れない。先日家を訪ねてきた、隣に越してきた中年男の声だ。満鉄の役員で、父の上司だったとかいう男。
いったいなんの用だろう? また嫌がらせを言いに来たのか? それとも先日の無礼を詫びに来たか?
錠を外し、細めにドアを開けると、彫りの深い異人の顔がぬっとこちらに突き出された。灰色の目、尖った鼻、ピンク色白の頬。私はぞっとした。すぐドアの向こうに立っていたのは隣の満鉄役員じゃない、白人だ、ソ連兵だ。慌ててドアを閉めようとすると、ソ連兵は私よりもずっと強い力で外側からドアを押さえつけ、引き開けた。
ソ連兵の後ろに日本人が一人立っていた。背の高いソ連兵の後ろに、見劣りすることのない横幅のある巨体の持ち主。あいつこそ、私のことを「ボウズ」と呼んだ、隣の満鉄役員だ。騙された、と私は思った。日本語で「関さん」と呼びかけたのは満鉄役員だ。ロスケとグルになった中年男だ。
「おまえ、母ちゃんがいるだろう?」と、満鉄役員は言った。「この人に会わせてやんな!」
役員の言ったことが通じているのか、ソ連兵は頷き、自分でも「ダーマ」と叫んだ。「ダーマ」――「女」のことだ。死んだ姉に対しては「ダウチ」だったが。どうやら「ダウチ」よりは高齢の女性に対して使う言葉らしかった。「ダウチ」が「お嬢さん」なら、「ダーマ」はきっと「奥さん」ぐらいの意味なのだろう。
満鉄役員はふくよかな顔にやっと笑いを浮かべた。くるりと背中を向け、立ち去りがてら、こう言い捨てた。
「おまえ、守ってやるんじゃなかったのかよ? ソ連兵が来たらさ、おまえが守ってやるんじゃなかったのかよ!?」
怒りがこみあげてきた。あいつは私の家族をスケープゴートに利用したのだ。幅広い肩を揺すって歩いていくあいつを追いかけていって大きな背中を蹴りつけてやりたい。ちょこんとでも一蹴りすれば、あの太った丸い体は雪の中にころんと転がるだろう。だけど、私とあいつの間には長身のソ連兵が電柱のように突っ立っていて、今はそいつをどうにかしなければならない。私は目の前の障害壁に首を横に振った。「ダーマ、イナイ」と、手振りも交えて言ってやった。でも、相手には通じていない。ソ連兵は玄関に立ち塞がっていた私の体をどんと押しのけると、ズカズカと家に上がり込んだ。雪のついた軍靴のままで。
私の前を通り過ぎた横顔をどこかで見覚えがあると感じた。そうだ、つい先日、盗みを行うため、まだ夜の明けきらぬうちに外を歩いていた時に遭遇したソ連兵だ。私は忍び込むための事務所や店舗を物色して歩いていたのだが、その時にこいつは一人突然日本人居住区の方向から現れ、私は慌てて建物の陰に身を潜めやり過ごしたのだ。ああ、あの時もやはりこんなふうにどこかの日本人の住居に押し入った後だったのか。誰か日本人の女を手篭めにした帰りだったのか……
「ダーマ、イナイ、ダーマ、イナイ」と、私は前を行くソ連兵の背後から叫んだ。背後から引きとめようとすると、怒ったソ連兵に蹴飛ばされた。
ソ連兵は手当たり次第に部屋のドアを開け、部屋の中を物色している。もう家には金目の物なんて残っていない。みんな先日来たソ連兵が持っていってしまった。残っていた金目の物だって犀さんに頼んで売ってしまった。玄関の隅に私が今朝必死になって盗んできた屑鉄が積まれているくらいだ(それだって私が明日、鉄工所に売りに行ったって、いくらの足しにもならないだろう)。
床に転がっている人形の“お千代ちゃん”なら残っているが、そいつは妹がために残しておいてやってくれ。病気から回復した時に、妹が寂しがるといけないから!
ソ連兵は客間にいた妹と母を見つけた。病気で寝ている妹の傍に付き添っている母にさっそうと目をつけ、母の体に手をかけようとした。
ソ連兵の毛深い手に腕を掴まれ、母が叫んで身を引こうとする。ソ連兵の姿に妹が怯えた。
何やっているんだ? 妹は病気なんだぞ。病人を怖がらせる奴があるか!?
私は素早くソ連兵と母の間に入って、ソ連兵に向ってジェスチャを交えて言った。
「ワタシノイモウト、チフス。ココニイルト、アブナイ。チフス、ウツル……」
私は寝ている妹を指差し、苦しんでいるマネをしてみせる。そして、「チフス、チフス」と、何度も連発した。
「チフス」という単語がかろうじて通じたようだ。ソ連兵はびっくりして寝ている妹を見つめた。だけど、病気に対する恐怖よりも、性欲の方が勝った。「ダワイ(来い)!」母を妹から引き離し、無理やり立たせると、別の部屋へ連れ出そうとした。私は慌てて二人の後を追った。高熱にうなされながら、驚いて怯えている妹のことも心配だったけど。
ソ連兵は隣の部屋に母を押し込んだ。母と父の寝室だ。寝具なんてろくな物は残っていない。みんな売りさばいてしまったから。暖房だって入っていないし、電灯も取り外してしまった。が、ソ連兵はそんなことおかまいなしだ。
私が引き止めようとすると、ソ連兵は怒って私をドアの外へ摘み出した。私を犬コロみたいに蹴飛ばし、それでもすがり寄る私の鼻先で寝室のドアを勢いよく閉めた。
なんとかしなければならない、母を救い出さなければならない。でも、13のガキで、民間人で、武器も戦闘経験もない銃後ばかりだった自分にはどうにもできない。私は悔しくてひざまづいている床を拳で叩いた。
「イモウト、チフス。ココニイルト、アブナイ。チフス、ウツル、ウツル……」
ドアの外から何度も中に聞こえるように言った。だけど、私の声は完全に無視された。部屋からは服を脱ぐ衣ずれの音がする。肉体の擦れ合う音と、母の泣き声が聞こえる。そして、ソ連兵の喘ぎ声が……
ドアを細めに開けて、こっそり中を覗く。暗がりにしきりに目をこらす。
後ろ向きに下半身を剥き出しにしたソ連兵の、白い尻の双丘が見える。乱暴に脱ぎ捨てられた外套や帽子やズボンが転がっている。ソ連兵は、仰向けに寝かされた母の、開いた両足の隙間に自分の体を割り込ませている。そして、その下半身を前後に揺すっている。
「イモウト、チフス。イモウト、セキリ。イモウト、コレラ……」私は最近耳にした病名を思いつくままに並べたてる。「ココニイルト、アブナイ。チフス、ウツル、セキリ、ウツル、コレラ、ウツル……」
ドアの隙間から呼びかける。涙混じりの声で何度も何度も呼びかける。だけど、ソ連兵は聞いていない。返されるのは母の泣き声と男の喘ぎ……
なにもできない。私の額はまだ鈍い痛みを訴えている。“マンドリン”で殴られた時の恐怖が蘇る。恐怖で体がすくんでしまって、もうソ連兵に飛びかかってやることなんてできない。
私の服のポケットの中には、母から取り上げた青酸カリの包みがある。ふとそいつをポケットから取り出し、手の中に握りしめる。
母の声がしている。泣き叫んでいる声が聞こえる。
私がこれを取り上げたから、母は姉のように自決することもできない。恥辱を噛み締め、耐えるしかできない。あのソ連兵の汚らしい勃起した男根が、自分の体の恥部に捻じ込んでくるのを耐えているしかないのだ……
ふと、悪魔の声が私の心を過ぎった。超特急“あじあ”みたいな世界最高速の速さで、心の底の鉄路を軋ませて通過した。
こいつを母に渡してしまえば……
そう、母は自決する。そして、チフスの妹ももう長いこと持たないだろう。石炭も食料もろくにないこの家で、これからの長い冬を越せるかどうか…… 既に姉は共同墓地に眠り、父は行方不明だ。私は一人になれる。家族から解放され、一人きりになれる。
<僕の家に来ないかい? お兄ちゃん一人だけだったら、なんとか僕たちが守ってあげられる>
黄の言葉が頭に浮かぶ。黄と兄弟になれる。戦災孤児みたいに中国人の家に引き取られて、彼と兄弟になって暮らせる……
そうだ、こいつを渡してしまえば……
私はぶるぶる震える掌にある物を見つめた。振動で薬包が掌からこぼれてしまいそうになって、慌てて掌を握りしめた。
な、なにをやっているんだ? と、一方で別の自分の声が自制する。どんなに苦しい時でも家族は一緒じゃないのか? 妹を病院にやらずに自分で看護することに決めた母。“お母さんと一緒じゃなきゃ嫌だ”と、私たちの家に来るのを拒んだ開拓難民の少女。“一緒に逃げてきた開拓団の人達がいるのに、私の家族だけがお世話になるわけには……”と、これもまた私たちの家に来るのを断わった少女の母親。なのに、私だけが家族を見捨てようというのか? 周りの人たちとの絆を断ち切ろうというのか? そんなにしてまで黄と一緒にいたいのかよ? 家族よりもあいつの方が大事だというのか?
その時、ドアが開いてソ連兵が出てきた。奴は素っ裸だった。ズル剥けの満足そうなペニスを垂らしたまま、上機嫌で手洗いに向った。
その隙に私は部屋の中に入った。裸になった母が両足を開いたまま仰向けに寝転がっていた。母の開かれた股間には、べっとりと、得体の知れない液がこびりついていた。窓からの月明かりを受けて、そこが暗がりの中で濡れ光っているようだった。
私は母の足元に立ち、まだ震える手で毒薬の入った包みを握りしめていた。
こいつを渡してしまえば……
まだ悪魔の声が頭の中でしていた。
母はまるで意識がないようだった。扇のように髪を乱したまま、ぐったりとしていた。
私は、その母の脇に投げ出された腕の先の力なく伸びている手を見下ろしていた。手の指は来る物を拒まず受け入れるかのように開かれている。そして、その間もずっと悪魔の声を聞いていた。
こいつを渡してしまえば…… あの掌にこいつを握らせれば……
暗がりの中、母の傍らで腰を屈め、その顔を覗きこんだ。母は身じろぎもせず、じっとこちらに顔を向けている。母の目には私が見えているだろうか? 傍にいる私を認めているのだろうか? 
まるで母は私がすることをわかっているような錯覚に捕われた。
姉はこの時に自決したのだろうか? ソ連兵に襲われた後のこんな時に、脱がされて床に散らばる衣服のポケットから取り出したこの薬を口に含んだのだろうか? 母から手渡されたこの薬で姉は自決したのだ。母が薬を渡したから、死んだのだ。なら、母も死ぬべきではないのか? 同じ目に合ったのだから、姉が死んで、母が死なないのは不公平だ。
ひょっとしたら、母は自分でそれを望んでいるのではないのか? 待っているのではないか? 私からそれを手渡されるのを……
母はわかっているのか? 私の掌にあるもの…… 闇の中で見失ってしまいそうな、この小っぽけな毒薬を!
私は震える手を開いてみた。そうして、闇の中で眼を凝らし、手の中にある物の所在を幾度も確かめた。



その時だ。
「オッー」という騒々しい叫び声がし、廊下から乱暴な足音が響いてきた。私は動転し、その際に手の中にあった物をうっかり落としてしまった。母の寝ている傍らだ。床に四つ這いになり、必死に探したが、暗すぎてどこに落ちているのかわからない。
そうこうしている間にソ連兵が戻ってきた。なんだかひどく慌てていた。勝手に部屋に忍び込んでいた私に目もくれず、落ちていた自分の軍服を掴み、さっさと着始めた。
私はあっけにとられた。いったいなにがあったのか? 
ソ連兵は表玄関から外へ出なかった。きっと手洗いに立った際に覚えたのであろう、勝手口に回って外へ出た。
その直後、表で車の音がした。車がこの家の前で停車する音。私は、落とした毒薬のことも忘れて表玄関に走り、ドアに飛びついた。先刻ソ連兵が入って来た時に南京錠は開けたままだったから。
錠をかけ直すと、間髪入れず、その表玄関のドアが外側から打ち鳴らされた。
そんな…… 今、あいつが来て、出て行ったばかりじゃないか? 早くも次のソ連兵が来たのか? それともさっきの奴が仲間を呼んだのか? この家には「ダーマ」がいるって。襲っても自決したりしないから、何度でもやれるって……
そういえば、先刻、通りを走る車の音を聞いた。車の音を聞いて、手洗いに行っていたソ連兵は急に慌てだした。仲間の車だったからあんなに慌てたのか? 仲間にここに女がいることを教えてやるために、慌てて外へ出て行ったのか?
母をどこかに隠さなければならない。
だけど、母は寝室でぐったりしていて、立ち上がれそうにない。こんなところを狙われたら一撃だ。
またしても表玄関のドアが打ち鳴らされる。窓からこっそり外を覗くと、やはりソ連兵だ。ソ連軍のジープが家の前の道路の脇に停まっているのが見える。
何度も何度もドアが叩かれる。
「誰か……誰かいないのか?」
声がする。またしても日本語。もう騙されない。日本語を使って呼びかけているのはソ連兵に遣われた日本人だ。隣の満鉄役員とは声が違うようだから、きっと別の奴がソ連兵に雇われたんだ。ドアの外には女めあてのソ連兵が立っている。ソ連軍のジープで来ているのがなによりの証拠じゃないか。
ドンドンとドアが打ち鳴らされる。
「おおい、誰か……誰か……」 と、日本語で叫んでいる。
ほら、やっぱり聞き覚えのある声だ。誰の声かは忘れたけど…… きっと、この近所に住んでいる奴だ……
卑怯者、裏切り者、売国奴…… 私はその声を無視して聞き流す。
相手はソ連兵だ、ドアなんて蹴破って押し入ってくるだろう。“マンドリン”をぶっ放せばイチコロだ。窓ガラスを割って侵入してくることもある。裏口のドアは大丈夫だろうか? あそこはここより頑丈ではないから……
妹は無事だろうか? 先刻ソ連兵を見て、ひどく恐れ戦いていたけど。高熱で苦しんでいないか? 下痢を吐いていないか? あいつの傍にもついててやらなければ…… 
ふと、玄関の横に他の鉄屑の山に埋もれて立てかけてある鉄パイプが目についた。そいつは身の丈ほどもある立派なやつで、今朝、屑鉄拾いで廃墟になっていた事務所から盗み出してきたやつだ。明日、鉄工所に売るつもりで……
このドアが引き開けられたら、襲いかかってやろう。不意打ちをくらわせば、ロスケの野郎だって……
母をこれ以上あんな目に合わせるわけにはいかない。守るんだ、母と妹を……
先刻までは懐に隠し持っていた毒薬で、自分で母を殺そうとしていたくせに。私はそんなことも忘れ、意を奮い立たせた。眼についた鉄パイプに手を伸ばし、屑鉄の山から引き抜いた。その反動で山が崩れた。転がった缶がカラカラ音をたてた。
途端、ドアを打ち鳴らす音がぴたりと止んだ。
「誰かいるな!」と、ドアの外の声は言った。「誰だ、そこにいるのは?」
私は覚悟を決めた。もう居留守は使えない。両手で鉄パイプを握りしめた。手の中にある筒状の物の感触が、国民学校での竹槍訓練を思い出させる。大声をあげながら竹槍を構えて藁に突進した時の記憶を蘇らせる。
そうだ、闘うんじゃなかったのか? 満州国は滅んだけど、家族と、この家を守るんじゃなかったのか? 在郷軍人の老人はソ連が来た途端おとなしくなって、まるで犬に吠えたてられた羊のようだった。だけど、自分はあの老人とは違う。一人でも闘うんだ。私は姉を殺されたんだ。母だって強姦された。私自身も銃で殴られて傷を負った。あの時の復讐はどうしたのだ? 今がその時ではないのか? こいつで一突きすれば、ソ連兵だって殺せるだろう。数日前に道端に転がっていた死体を覚えているだろう? 日本人なら民間人だってあんな無残な姿で殺されてゆくんだ。やらなきゃ、こっちがやられる。やるしかないんだ!
ぶるぶる震える手で鉄パイプを握りしめる。こいつで一突きだ。竹槍訓練の要領でやればいいんだ。相手の正面に立ち、左胸を狙って、えいやっと、両腕を前に突き出しさえすればいいんだ。こいつで殺せる、ソ連兵を殺せる、自分にだって殺せる!
息を飲み、恐怖で引きつる喉をどうにかしながら、私はドアに向って叫んだ。
「おい、おまえ!」
私が突然声をあげたので、外にいる奴は仰天して、ドア越しに「え?」と声を放った。ああ、なんて間抜けな声だ。
「おまえは今、ソ連兵と一緒だろう?」
「……」
「そこにソ連兵がいるのはわかっているんだ!」
「たしかに向うにソ連の人がいるが……」
そうら見ろ。やっぱりだ。
「でも、ソ連の人は今は車の中だ。もう車で行ってしまうところだ。だから、ここにはもう私しかいない……」
ああ、でも、騙されないぞ。
「恥ずかしくないのか? おまえ、日本人の癖に、ソ連の手先になって…… 同じ日本人の仲間を売って……」
「手先? たしかに私はソ連兵にここまで連れてきてもらったが…… でも、断じて仲間を売ったりはしていない!」
「ここに女はいない。”ダーマ”はいない。さっさと帰んな!」 
「女だって? ああ、いったい何を言っているんだ?」ドアの向こうにいる声の主は、嘆くような悲しげな声を振り絞った。「いったいどうしたんだ? 満緒!」
満緒――私の名前だ。満州国建国の年に生まれたからと、父と母が名づけてくれたものだ。満州国で生まれ、満州国と一緒に生きるようにと…… ドアの外にいる奴はその私の名前を呼んだ。私のことを知っている? やはり近所の奴だから? 先刻来た隣家の中年男は父の勤め先の上役だとかいう。人事部や総務部にいたのなら、自分の会社の社員の家族構成なんかお見通しのはずだ。
いいや、そうじゃない…… その声、その口調…… 
「満緒だろう? そこにいるのは……」
この声を忘れるなんて…… 私は極度の恐怖と警戒心とで、どうにかなってしまっていたのか?
掴んでいた鉄パイプがするりと手の中から抜け落ちた。我を忘れ、内側からかけた南京錠に飛びついた。カチリと錠の外れる金属音が響いた。
だけど、その途端……
ドアの外で聞き取れない声がした。北京語でも日本語でもない外国語の話し声。ロシア語? やはり、いるんだ。ロスケがいるんだ。外にいる日本人はまたしてもロスケとグルだったんだ!
「オーケー、オーケー。ノープロブレム。心配ない……」と、外で日本語の声がもう一人の誰かに向かって叫んでいる。「家族はいます。居留守を使っているだけですから……」
私は恐ろしくなってドアから飛びのいた。膝がガクガク震える。失禁しそうで、立っていられなくなる。
ドアが引き開けられ、外から顔を覗かせたのは…… 髭面のロシア人。彫りの深いロシア人の顔だ。
騙された。やはり外にいたのは一人じゃない。ロスケと一緒だったんだ!
咄嗟に足元に落ちていた鉄パイプを拾い上げる。両手にしっかりと冷たい金属の硬い感触を確かめる。
こいつで殺せる、ソ連兵を殺せる、自分にだって殺せる! 相手の正面に立ち、左胸を狙って、えいやっと……
私は両腕に力を込め、目の前のソ連兵に襲いかかかった。
「やめろ、満緒!」
もう一人の男がソ連兵の横から飛び出してきて、私の突き出した鉄パイプを掴もうとした。鉄パイプの先端はその男の肩を掠めた。
鉄パイプの一撃を代わりに受けて、飛び出してきた日本人が膝まづいて倒れた。それは3カ月ぶりに見る父の姿だった。
そんな……
私は呆然とした。手から鉄パイプが抜け落ち、先端が血で赤く染まった鉄パイプは再度カランと音をたてて私の足元に転がった。
ソ連兵が乱暴になにかを言った。頭上から私に向かって怒鳴り散らした。
「ああ、おまえ……」と、膝まづいたまま私を見上げ、大の大人が嗚咽した。それから私を庇護するように、両腕を広げて私の体を抱きしめた。
「フォアギブヒム、ヒーズアマイソン!」と、父はソ連兵を見上げ、泣きながら説明した。「許して下さい、なんでもないんです、私の息子なんです!」
父の肩先から血が滲んでいる。抱きかかえられている私は、それを目の当たりにして、いっそう震えが止まらなかった。
ソ連兵はざんざん喚き散らした後、軍靴の高い靴音を響かせて外へ出て行った。続いて家の前から走り去るジープの音。
それまでじっと父は私の体を抱きしめ、私を庇護してくれていた。
何故、父がソ連軍のジープに乗せられて帰ってきたのか? 何故、あのソ連兵は自分に襲いかかったジャップのガキを罰せずに、父の言うことを受け入れ、見逃してくれたのか? 不思議ではあったが、今はそんなことを考えている時ではなかった。
「父さん……」と、私は叫んで、その時にはもう武器を手放した自由になった両腕で、ぎゅうっと父の体に貪りついた。涙がこぼれた。もっと幼かった頃は泣いてばかりだったが、10代になってから自然と涙は出なくなった。姉が死んだと知らされた時だって、こんなに涙は出なかった。
「父さん、肩から血が出ている。僕のせいで……」
「大丈夫、こんなの、掠り傷だ」
つと父は私の体を離し、
「母さんは……? 忍は……? 玉枝は……?」と、尋ねた。
母…… 姉…… 妹…… 
ああ、私はその質問に一つも答えられない。
姉は死んだ。妹は病気だ。そして、母は…… 私は家族の一人も守ってやれていないのだ。そして、現に今、家族の最後の一人、父さえもこの手で怪我をさせてしまった……
父は肩の先から滴っている血を顧みもせずに、家の中を確かめようとした。真っ先に母と父の寝室に向かったのは、そこに人のいる気配を感じたからなのだろう。
あの部屋には母がいる、あられもない姿で寝転がっている……
私は父にそんな母の姿を見せたくなかった。見せてはいけないと感じた。だけど、どうすることもできない。奥の寝室に向って進んでゆく父の後ろ姿について従うしか……
寝室に足を踏み入れると、父は凝然とした。暗がりの中で、裸で仰向けに寝転がっている母を見て、絶句して立ちすくんだ。
母の広げられた股には男の精液がべったりと張りついているはずだ。あの髭面のソ連兵が全裸でトイレに向った時に見た、股間に垂れ下がた長いダランとしたペニスが存分に放出していった精液。蝋燭のない月明かりだけの暗い部屋の中で、はたして父にそこまで見えているかどうかは不明だったけど。
仕方なかったんだ、母には責任がないんだ。あいつは無理やり入って来た、力づくで押し入ってきたんだ!
私は父に説明しようとした。母が何故こんな恰好でいるのか、その訳を説明しようとした。
だけど、それよりも早く、私ははっとして口を噤んだ。更なる恐ろしい想念に取り憑かれて震えあがった。その想念の中にあっては、母を擁護するための必死の説明などもはや無用だ。だって、父が部屋に入ってきたのに、母はぴくりとも身動きしないのだ。声だってたてない。先刻からずっと死んだように横たわっている。
そう、ずっと死んだように……
まさか……
父は母の傍らに腰を落とし、ぐったりした母の裸体を抱き起こした。その父の背後で私もしゃがみ込み、こっそりと床の上に掌を這わせてある物を探った。寝ている母の傍らで、震える私の掌からこぼれ落ちた物。闇の中に沈んで見分けがつかなくなって、そのまま拾えなかった物。まさか、そんなことがあるものかと、必死で母のことを案じながら……
その時。
父の腕の中で母が呻き声を発した。うっすらと眼を開けると、母は眼の眼にいる父を拒絶した。夜の明けていない暗がりの中だ。父をあのソ連兵と間違えたのだろう。恐ろしい唸り声をあげて腕を振り上げ、自分を抱いている男を遠ざけようとした。母の振り上げた手が父の頬を叩いた。痩せた頬。低い鼻。狂乱している母にはその違いがわからない。父は逃げはしなかった。幾度か顔を叩かれても、それに耐え、じっと母の体を掴んでいた。父の熱い息がかかる。懐かしい臭いが鼻腔をくすぐる。やがて、母は、そこにいるのが夫だとわかると、夢でも見ているように呆然とした。何度も何度も目を凝らし、確かめようとした。そして、それが夢でも幽霊でもないのを知ると、泣き叫びながら、厚い外套を着込んでいる父の胸の中に顔を埋めた。
「すまない。苦労をかけた……」と、父は囁いた。
「新京でソ連兵に捕まった…… 私は今までソ連兵に拘束されていたんだ……」
父は震えている母の背中を両手で優しく包んだ。
私は、先ほど自分が父にしようとした説明がまったくの不要であったこと悟った。それから、互いの無事を喜び合っている両親の傍らで必死に床の上を探り続けて、そこに一度は寝ている母の手に握らせようとした薬包を発見すると、すかさず拾い上げ、こっそりと自分の着ている服のポケットに捩じ込んだのだ。