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白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第十回「さよなら、満州」

白鳥健治さんの連作小説『同じ色の膚』。男どうしで愛し合うにはあまりにも厳しい時代の淡い初恋を描いた大河小説のような趣の作品です。主人公と黄少年が結ばれる日は、果たしてやってくるのか……時代を越えたせつなさを感じ取ってください。

白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第十回「さよなら、満州」

第十回 さよなら、満州

遼東湾に停泊していた引き揚げ船が埠頭を離れると、甲板に出ていた男がいきなり叫んだ。
「バカヤロー!」
仲間内でどっと笑いが響いた。
「もう二度と戻ってこないからな!」
叫んでいるのは自称満鉄役員の取り巻きたちだ。無蓋貨車の中では、いつも車両の中央に陣取り、中心にいる自称満鉄役員のご機嫌をとってきた連中だ。
「満州なんて消えてなくなれ!」
その声を聞いた時、同じように甲板に出ていた私は、むっとしてそいつらを睨みつけた。
気勢をあげていた連中の一人が私の視線に気づき、「なんだよ?」と、私を睨み返してきた。周りにいるオトナたちも揃って首を向けてきた。
「またあのガキだよ。勝手に走行中の貨車の鉤を外した奴だよ」
「ああ、あいつか、おやじさんの隣に住んでいたといかいう……」
私を見るオトナたちの目に嘲弄するような笑いが浮かんだ。
「いためつけてやんな」と、連中と一緒にいた自称満鉄役員が命じた。「どうもあのボウズは反抗的で好かん」
「へい」と、返事をした軽薄そうな若い男が私の前に立ちはだかり、いきなり私の顔面を殴りつけた。
私は無様に甲板に叩きつけられた。
「どうした、さっきの威勢のよさは?」
オトナたちがニタニタして私を見下ろしている。自称満鉄役員が一歩前へ進み出た。
「おまえの親父はロスケとグルだったよな。おまえの親父のおかげで俺は手に入れた家を出なくてはならなくなったんだ。このくらいのお返しはしてやって当然だよな」
じゃあ、やっぱり隠し財産を持っていたのか、横流しは本当だったのか……?
顔を上げ、自称満鉄役員を見返す。目が合った瞬間、積もり積もっていた憤懣が爆発した。
「おじさんは俺の家にロスケの兵隊をよこした」
「なに言っているんだ? ボウズ」
「おじさんこそロスケの手先だ。おじさんが俺の家にロスケの兵隊を案内した。おじさんは俺の母さんに色目を使っていた。母さんに嫌われたものだから、仕返しにロスケを寄越したんだろう? お陰で母さんは手篭めにされたんだ!」
「馬鹿を言うな!」と、自称満鉄役員は真っ赤になって叫んだ。私を指差し、「こいつ、頭がおかしいんだ、気が狂っているんだ!」と、周囲を見回し、同意を得ようとした。
「本当なのか? あんた……」と、引き揚げ隊のリーダーが真顔で尋ねた。「あんた、関さんの奥さんにそんな……」
「こいつの言っていることは出鱈目だ! こんなボウズの言うことを真に受けるのか?」
「俺はおじさんの仕打ちを忘れない。鍵の掛けていたドアを開けたら、おじさんの後ろにロスケの兵隊が立っていた…… おじさんが連れてきたんだ……」
「こい、おまえなど、海に叩き落してやる!」
自称満鉄役員が私の手を取り、手摺に連れて行こうとする。手摺の向こうは海だ。
「なにをしている、手を貸せ!」と、自称役員が取り巻きたちに命令すると、先ほど私を殴りつけた取り巻きの若い男が今度は背後から私を羽交い絞めにし、手摺の上に抱え上げた。
私は手摺から身を乗り出し、宙に投げだされんばかりになった。真下には海が広がる。船の舳先が波を掻き分ける。その波の白い泡立ったうねりが船体の後尾にまで続いている。潮風が頬をなぶり、息をできなくさせる。
取り巻きの男たちの笑い声がする。
「どうした? ボウズ。さっきの威勢のよさは……」
私は眼を瞑り、体の力を抜いた。
投げ出されてもいいと思った。
自分は海の中に消えてしまってもいい。今、投げ出されれば、自分の体は流されて、きっと中国大陸に辿り着くだろう。私は日本に行かなくてすむ、彼のいる中国大陸に戻ることができる……
「気持ち悪い奴だな、こいつ、泣き出すかと思ったら、じっとしている……」と、私の体を抱え上げている若い男が困惑して言った。「おやじさん、どうします? こいつ……」
自称満鉄役員は黙ったきりだ。誰もうんともすんとも言い出さない。
「そこでなにしているんですか? あぶないですよ!」と、誰かが慌てて駆けつけてきた。この引き揚げ船の船員だ。
自称満鉄役員は船員に気づかれないようにチッと舌打ちし、若い男に私を下に下ろすように命令した。私の体は甲板の手摺の内側に投げ出された。
「あなたはハルピン隊のまとめ役じゃないですか? あなたまで何をしているんですか?」と、船員は引き揚げ隊のリーダーに詰問した。面目を失ったリーダーは顔をしかめ、その横から自称満鉄役員が口を挟んだ。
「なあに、ふざけていただけですよ。この子があんまり悪いことばかりするものだから、ちょっとこらしめていたんですよ」
太った貫禄のある自称満鉄役員の顔に笑みが浮かぶ。その存在感に大概のオトナたちは圧倒されてしまうのだろう。現に大勢の取り巻きたちがいるように。
「そうだよ、こいつは引き揚げ列車の中でだって、走行中のなのに勝手にドアを開けたりしたんだから!」と、私を手摺の上に抱え上げた取り巻きの一人も言った。
どうやらこれでこの船員も自称満鉄役員の側についたようだ。
「君、あまり悪戯しちゃ駄目だよ」と、甲版に倒れこんでいる私を見て、冷たくあしらった。「船が日本に着くまで暫くかかる。2、3日で日本に着いたとしても、下船の許可が下りるまで何日かかるかわからないんだ。いいかい、船の旅が退屈だからといって、人に迷惑なんかかけるんじゃないぞ。おとなしくしているんだ!」
私を完全に子供扱いしている。この時私が何を言ったって信じてはくれないだろう。大人は子供の言うことなんか信じない。自分と年齢が近いかそれ以上の者の言うことを信じる……
船員が立ち去ろうとすると、代わりにその背後にいた人が屈み込み、まだ甲板に倒れ込んだままの私を覗き込んだ。
「君、大丈夫か?」
学生服を着た人だった。引き揚げ列車の中で私につきまとっていた人。走行中の列車の扉をこっそり開けて脱出を図った時に、私の体を掴んで逃亡を阻止した人だ。その人が引き揚げ船の上でも私に執拗に干渉してくる。
「なんで言ってやらなかったんだ、あの船員に。僕は悪戯なんかしていませんって。悪いのはあの人たちですって……」
「おやおや、学生さん。ご挨拶だねえ」と、背後から自称満鉄役員の声。
学生服の人は声のした方を振り返って媚びるような笑みを浮かべてみせた。そんなこの人の所作にも腹が立った。
「いったいどうしたんだ? 君はますます元気がなくなっていくじゃないか?」
学生服の人が私の顔を覗き込み、しきりになにか話しかけようとするが、そんなのは無視だ。ほっといてほしい。いらぬお節介だ……
私が立ち上がって、その場を離れようとすると、その人が慌てて後をついてきた。
「連中に腹を立てているのかい? まあ、連中が怒るのも無理ないよ。王道楽土だなんて言葉を信じて乗り込んだのに、あんな目に遭ったんだから。みんな騙されていたんだよ。許してやりなよ。“バカヤロー”の一つぐらい叫びたくなったってさ……」
たしかにこの人の言うことはもっともだ。私だって満州には怨みはある。満州にいた間に、私は姉と妹を失ったのだ。母も父もひどい目にあった。向いの家の安藤さんとシンチャン。妹の友達のナッチャン。私自身も……
それでも私には、あの日本人たちのように、“バカヤロー”だなんて言えない。いつか大陸に戻ってきたいとさえ思っている。この場所にはどうしても突き放すことのできない深い思い入れがある。だって、私はまだこの場所しか知らないのだ。自分の生まれた街、大事な思春期の一時期を過ごした街、そして、彼と知り合った街だから……
せっかく心配してくれているのに、ろくに返事もしないこちらの無愛想な態度に、向こうも次第に苛々が募ってきているようだ。
「なんだよ? 俺が君を助けるために船員を呼びに行ってやったんじゃないか? ほっといたら、君はあの連中に海に放りだされるところだったんだぞ!」
この人が船員を呼びに行ったのか。またしても余計なことを…… 列車の中でだってそうだ。自分は船から海に投げ出されたって、列車からあの広い大地の中に転げ落ちたってかまわなかったのに……
甲板から船室に下りる階段口の前まで来た時、立ち止まって振り返った。もう無視はやめだ。恩着せがましい態度にむっとして、思い切り相手の顔を睨みつけた。
「な、なんだよ?」と、学生服が困惑げに見返した。
怒りが沸騰して頂点に達している。なにか言ってやりたいけど、容易に言葉が浮かんでこない。頭の中が混乱している。この怒りは悲しみの裏返しだ。本当は悲しくて悲しくて仕方ないのに、誤魔化すために誰彼かまわず腹を立てている。学生服の人の言ったとおり、あんな自称満鉄役員のくだらない取り巻き連中が「バカヤロー」と叫んだくらいで、カチンときてガキの分際でオトナにガンを飛ばすなんて……
そうだ、もう会えない。私は彼に、もう二度と会えない。国境を越えたんだ。銃を持った兵士達に厳重に警備された、あの国境を…… 彼は向こう側にいる。分断された世界。あの国境を越えて再び会いに行くなんて無理だ……
「おい、君、どうしたんだ?」
学生服が心配そうに私の顔を覗きこんでいる。知らないうちに涙が溢れ、頬を伝っている。箍(たが)が緩んだように次々に涙がこぼれる。自分で自分をコントロールできない。次第に意識が遠ざかり、私は目の前の学生服の胸に倒れ込んだ。

ハルピンを出て葫蘆(コロ)島に辿り着くまでに列車を何本も乗りかえなければならなかった。列車が立ち往生して何時間も止まり続けたこともあったし、接続ができなくて、途中の駅まで歩いたこともあった。
それから国境だ。内戦の最前線は、線路や鉄橋が破壊されており、当然汽車は走っていない。だから、私たちは途中で汽車を降りて、国民党との内戦を続けている地帯を歩いて通過しなければならなかった。
迷彩服を着た八路軍(パーロ)の兵士に見送られ、私たちは北側の国境を越えた。そこから先は無人地帯だ。どこかに国府軍がいて、監視されているかもしれない。敵と見間違われて攻撃されるかもしれない。いやがうえでも緊張が漲る。
北側と南側の国境の狭間。北からの脱出を試みた大勢の民間人が南側で入国を拒否され、また北側にも戻ることができず、この土地で餓死した。私がこの時歩いてたのもそんな真空地帯の一部だったかもしれない。敵と間違われないように引き揚げ隊の旗を高く掲げ小さくまとまった一団につき従いながら、この場所で餓死した人の髑髏(どくろ)を踏みしだいていたのかもしれない。
やがて引き揚げ隊の一行は反対側の国境に辿り着いた。国民党地区に入る。紺色の軍服を着た国府軍兵士が立っているのが見える。
遂にそこを越える時が来たのだ。
国府軍の兵士は私たち一行をジロリと睨んだ。
「おまえたちが共産党地区でなにを教わったか知らんが……」と、やぶから棒に兵士の一人が警告した。「あんなもの、こっちじゃあ通用しない。奴らが教えたことなんて、きれいさっぱり忘れるんだ!」
私は横目で、悔しそうに唇を噛み締めている中村さんの表情をこっそりと盗み見た。“同志よ、息子のことをよろしく頼むよ”――父にそう言われて送り出されたのだ。この人は共産党シンパの父と“同志”の間柄のはずだ。
国境を離れる時に、私は幾度も後ろを振り返った。そして、身の切られるような絶望感に囚われた。
ここを越えてしまったらもうおしまいだ。黄のもとには戻れない。銃を携えた兵士によってこれだけ厳重に警備されているのだもの。有刺鉄線、高い壁、監視塔、双眼鏡のレンズ、サーチライトの光、歩哨の靴音の響き。ここを越える機会なんて二度とない。この場所を境に大陸は分断される。私の住む世界と、黄のいる世界は、完全に二つに分け隔てられる。まったく別の世界、交わることのないそれぞれの世界に……

気がついた時、私は見慣れない部屋のベッドに寝かされていた。ベッドが5つ並べられている。隣のベッドには見るからに体調の悪そうな人が寝込んでいる。どうやら船の医務室らしい。すぐ傍らで人の話し声がした。
「あいつ、なんだか日本へ帰りたくないみたいですよ」
あの学生服の声だ。こちらが目覚めているとも知らず、誰か他の人と話している。
あいつ……まだ自分につきまとっているのか。保護者でもないくせに…… 
耳に突くようなあいつの声にウンザリしたものを感じて、私はそのまま寝たフリを続けた。
「大丈夫なんでしょうか? せっかく大陸を渡ってここまで来れたっていうのに。この船に乗船した途端に亡くなった人だっているじゃないですか? 甲板で船員たちが、マアタイに詰められたその人の遺体を海に投げ捨てているのを見ました。水葬にされたんですよ。船が日本に着くまで、あの子は無事でいられるでしょうか?」
「でもさ、ゲンチャン」と、中村さんの声だ。私のお目付け役の中村さんは、あの学生服の人のことを”ゲンチャン”と愛称で呼んでいる。年齢が近いのか、引き揚げ列車の中で知り合ってから(そのきっかけは私が走行中の列車の扉を勝手に開けたことにあったのだけど)、二人はすっかり懇意になっていた。「船医さんは病気じゃないと言ってくれたよ。今日この船で亡くなった方は、乗船する前から既にチフスを悪化させていたっていうじゃないか。あの子はそういう病気じゃない。倒れたのは長旅で疲労が溜まったせいだっていう話だ」
「それにしても、みんな満州から引き揚げられるのを喜んでいるのに…… いったいなんなんでしょう? なにか大陸から離れたくない理由でもあるんでしょうか?」
中村さんのほかに安藤夫人の声もする。私を心配して来てくれているのか? 話していることがどうやら私のことらしいので、私は気恥ずかしくて起き出せない。
「そりゃあ、本国だってどんな有様だか、わからないからな。満州よりヒドイかもしれない。そうとうな空襲を受けているって聞いているし……」
「新型爆弾だって落とされたんでしょう?」
「それでも、そんなに大陸がいいんでしょうか?食べる物だってろくにないのに」
「そうですよ。あの子だって、そうとうヒドイ目に合っているはずなんですよ」と、これは安藤夫人の声だ。「お姉さんを殺され、あの子自身だって、ソ連兵に銃床で殴られてケガを負ったんです。強姦されたお姉さんを助けようとして、ソ連兵に飛び掛って殴られたんですよ」
「本当ですか? それ……」と、学生服の人の驚きを表した神妙な声。
「ええ、頭に包帯を巻いてね、一ヶ月も寝ていたんです。もうそりゃあ、見ていて痛々しかったですよ」
「なんて子だろう。こりゃあますますほっとけないな」と、感嘆したようなゲンチャンの声。
ああ、あの人はこれからも私につきまとうつもりだろうか? 私につきまとって、余計なお節介を焼くつもりだろうか?
ますますウンザリしたものを感じて、神経を固く尖らせている。すると、
「どうだ、ボウズの具合は?」
ゲンチャンでも中村さんでもない、もっと年配の男の声。ああ、この声……!
「あんた、なんの用だ?」
「ご挨拶じゃないか、学生さん。ボウズの様子が心配で見に来たっていうのに」
間違いない。自称満鉄役員の声だ。なんだってここに……?
「あなた、いったいあの子になにをしたんですか?」と、中村さんの声。「あの子は甲板で倒れたまま今も意識がないんですよ」
「俺たちはなにもしちゃあいないよ。ボウズが勝手に倒れたんだよ」
「海に落とそうとしたくせに!」
またしてもゲンチャンの声だ。なんで私のことでムキになってくれているのか? やたら挑発的になっている。
「冗談で抱え上げただけだよ! 俺たちはなにもしちゃあいない!」と、必死で自分を弁護する若い男の声。これは私を海へ落とそうとした、自称満鉄役員の取り巻きの声だ。「あのボウズ、俺たちを貶めようとして病気のフリなんかしやがって!」
すぐ間近に人の気配。誰かが私に近寄っている。
「やめてください。この子は休んでいるんです!」と、今度は安藤夫人の声だ。夫人が間近にいる人を制止しようとしている。
「どいてろ、ババア!」
揺れ動く人の気配。誰かが倒れるような物音。安藤夫人が突き飛ばされたのか?
私は眼を開いた。夫人が心配でたまらなかったから。途端に太った中年男と眼が合う。私を覗き込んでいた中年男が、みるみる笑いだしそうにふくよかな頬を歪める。
「ほら、こいつ、起きているじゃないか!」と、勝ち誇ったように叫んだ。「同情を引こうと思って、寝たフリをこいていただけなんだよ!」
こちらに向けられる周囲の眼。安藤夫人も中村さんも声を失くして私を見つめている。
「あんたが騒いだから起きたんじゃないか!」と、ゲンチャンはなおも私の味方をしてくれている。年上のいかつい中年男相手に決して物怖じしていない。
自称満鉄役員はチッと舌打ちをして、忌々しそうにゲンチャンの学生服を睨みつけた。
「いちいち絡んでくるな、この若造は!」溜まっていた怒りが爆発した。「いったいおまえはどこのどいつなんだ?」
たしかにゲンチャンには謎が多い。わかっているのは”ゲンゾー”という名前とハルピンにある大学の学生だったということぐらいだ。どこの出身なのか、いつ満州に来たのか、家族はどこにいるのかなど、詳しい素性はわかっていない。本人が話したがらないのだ。そんなだったから、当然、ここでの自称満鉄役員の質問なんて無視された。
自称満鉄役員はゲンチャンを相手にするのをやめ、当面の敵を私一人に絞った。取り巻きの若い男を引き連れ、病室を出て行く間際に、私にこう言い放った。
「よかったな、ボウズ。仮病を使ったおかげで病室のベッドに寝られるんだからよ! 俺達は船底の船室で雑魚寝だというのによ!」

消灯時間が来て船内は真っ暗になった。すでに皆が眠りについている。私は病室から皆のいる船室に戻された。船底の船室だ。あの自称満鉄役員の嫌味のせいばかりではなく、もっと状態の悪い病人や、怪我人や、体の不自由な老人だっているのに、とくに病人でもない私が長時間ベッドを使うわけにいはいかなったからだ。
学生服の人が私のすぐ傍らに寝ている。熟睡しているとみえて、規則的な寝息をたてている。
私はこっそり自分の服のポケットの中に手を突っ込み、そこに忍ばせていたある物を取り出した。ちっぽけな紙の包み。一度それを母の手に握らせようとしたことがあった。ソ連兵に強姦され倒れ臥した母の手に。以来、それは私の服のポケットの底に半年以上潜み続けてきた。そいつをまさかここで自分が使うことになるだなんて、思ってもみなかったことだ。
姉のことを思う。玉枝のことを思う。ナッチャンのことを思う。難民収容所にいた5人の孤児たちのことを思う。
今、皆のいる場所に向かおう。姉と妹をほうってはおけないもの。
明日の朝になっていれば私は冷たくなっている。そうなったら、あの自称満鉄役員も、文句を言わないだろう。身動きしない私を見て、私がまだ仮病を使っているだなんて思わないだろう。
私は甲板から海に捨てられる。今日の昼間だって、チフスで亡くなった人が流されたっていう話だ。その人のように、私もマアタイに詰められて放り出される。船が葫蘆(コロ)島の遼東湾を出て一日が経つ。これだけ岸から離れてしまえば、大陸に戻るのは難しいだろうか? ひょっとしたら、潮の流れで大陸まで流されるかもしれない……
手の中の薬包を握りしめる。そうだ、こいつで……
「お兄ちゃん、駄目だよ、いけないよ……」
誰かの咎める声がした。暗がりの中、おぼろげに少年の姿が浮かんで見える。
「黄!」と、私は驚いて眼を剥いた。
「何故、おまえが、ここに……」
だだっぴろい船底の中には大勢の引揚者が横になっている。それぞれの場所でそれぞれの寝息をたてている。同じ日本人だというだけで、知らない人たちが大勢。だけど、まさか、その中に彼が紛れ込んでいたなんて……
「おまえも日本に行くのか? 僕と一緒に日本に来てくれるのか?」
彼は静かにかぶりを振った。そうだ、こんな所に彼がいるわけない。自分が今、眼にしているものは夢か幻にすぎない……
「そんなもの、捨ててよ。どういうことか、わかっているの? そんなことをしたら、僕とはもう二度と会えなくなるんだよ」
「今だって、同じだよ」と、私は、眼の前の相手が幻かもしれないと察しながらも、ムキになって反論した。これが夢の中のことであっても、こうして私に会いに来てくれたことがうれしかった。
「どこにも行かないって言っていたじゃないか!ずっと僕と一緒にいるって!」
「だけどな、黄。もう満州はなくなったんだよ。このままここに残っていたって、もうおまえには会えないんだよ」
「そんなことないよ!」
「国境があるんだ、共産主義と資本主義とで中国大陸は分断されてしまっている。ああ、おまえは知らないんだろう? あの国境を越えることがどんなにたいへんかということを。内戦が再び始まれば、もうあそこを越えるのは無理だ」
「いつまでも戦争は続かない。いつかきっと終わるよ。日中戦争だって終わったじゃないか!」
「でも、一つの戦争が終わったって、また次の戦争が始まる。人間は本当に戦争が好きなんだよ」
「僕は嫌いだよ。戦争なんか!」と、黄は泣き出しそうな声をあげた。
「僕もだよ。でも、オトナたちは戦争をしたがる。争いごとが好きなんだ」
「じゃあ、戦争が嫌いな僕たちがオトナになれば、きっと戦争は終わるじゃないか。僕たちが戦争をしなければいい。僕たちがオトナになってもずっと……」
「でも、この戦争で中国は分断されてしまった。共産主義と資本主義に…… 僕たちも二つの陣営に分断されるんだ……」
「住んでいる国が違ったって、この先きっと会える機会はあるよ。日本と中国は海で繋がっているんだよ。それより……」と、黄は私の手の中にある物に眼を落とし、「ねえ、僕はここにいるんだよ。お兄ちゃんが行こうとしている向こうの世界にはいないんだよ。もしも、向こうに行ってしまったりしたら、それこそ本当に僕とは会えなくなるんだよ!」
だけど…… 姉や玉枝はどうなるのだろう? 彼女たちは向こうで寂しくはないのか? 肉親をほうって、私だけがここに残れというのか?
「僕はここにいるよ。お兄ちゃんが別の国に帰っても、会うことはできるよ。海ひとつ越えればいいじゃないか? だけど、向こうの世界とこちらの世界とではそういうわけにはいかないんだ。お願い、僕はここにいる。探して、見つけ出してよ!」

「気がついたかい?」
目の前に傍で寝ていたはずの学生服の人の大きな顔があった。
「うなされていたよ。ずいぶん……」
もうすっかり朝になっていた。中村さんと安藤夫人はいなかった。もちろん黄も…… 中村さんたちは甲版にでも出ているのだろうか? 船室の他の人たちも起き出している人たちが多かった。ゲンチャンだけが残ってくれていたらしい。
「大丈夫かい?」と、ゲンチャンは心配そうに言った。
体じゅう寝汗をかいていた。一枚しかない下着が汗でぐしょぐしょだった。ゲンチャンの言うとおり、本当にうなされていたらしい。
ふと、手の中にあったはずの物がなくなっているのに気づいた。あの薬、最後にはどうしたのか? 自分の口の中に投与したのか? なら、今、自分はここにこうしていられないはずだ。眠っている間に手の中から転がり落ちてしまったのか? 
周囲を探る私に、ゲンチャンがこう言ってよこした。
「君が手に握っていたものは俺がいただいたよ。船医さんにでも渡して、処分してもらうつもりだ」
私は、ゲンチャンの着ている古びた学生服に再び視線を戻した。
「安藤のおばさんに見せたらさ、驚いていたよ。これはあの時の薬包に違いない、この子はまだこんな物を持っていたのかねえって。俺は詳しいいきさつは知らないがね」
ゲンチャンの詰問するような視線がナイフのように切り込んでくる。私は決まり悪げに顔を背けた。
「なんであんな物、持っていたんだ? もう戦争は終わったのに……」
「……」
「君は本当に満州が好きなんだな。そうだよな、君にとっては満州が故郷だものな。故郷を嫌う奴なんていないものな……」
ゲンチャンが一人勝手に喋っている。なんでそんなことがわかるのか? 私とはつい最近、偶然乗り合わせた引き揚げ列車の中で知り合っただけなのに。私のことをなんでも知っているような素振りをみせる。
「ひょっとしたら、君は大陸に好きな子でもいるんじゃないかい?」
その一言で私はもう相手の言うことを無視できなくなった。こちらの反応を探っているゲンチャンとおそるおそる眼を合わせた。
「うなされている時、なんだか“黄”って、誰か人の名前を呼んでいた。“黄”っていうのは中国人の名前だろう? 君はちょうど好きな子ができる年齢だからね。君は現地の子を好きになって、それでここから離れたくないんじゃないのかい?」
私は恥ずかしさのあまり口がきけない。ゲンチャンはここでもこちらの心中をズバリ言いあててくる。
「ハルピンで引き揚げ列車に乗った時もそうだった。君は列車の中で落ち着きがなくて、”黄が来ている”って言って、ずっと外の様子を気にしてばかりいた。無蓋貨車じゃ外が見えないからね。あの時からだろう? 列車の扉を開けて、外に逃亡しようと思いたったのは……」
本当にこちらのことをなにもかもお見通しだ。ただ、好きになったのが女の子ではなく、同性の男の子だということまではわかっていないだろうけど。
「君の気持ち、わかるよ。俺も大陸に好きな子がいたからね……」と、ゲンチャンは少しだけ照れながら語り出した。自分ことをあまり話したがらなかったこの人が、ハルピンでの学生生活について珍しく切り出したのだ。私は興味を抱いて耳を傾けた。
「俺が間借りしていた家の娘さんでね、蘭蘭っていった。ほんとうにさ、李香蘭みたいにきれいな子だったんだ。蘭蘭の奴、最後まで俺の味方をしてくれた。あの”男狩り”の時なんか、俺を自分の部屋に匿おうとしてね……」
中国人は名前の一音節を繰り返して愛称にする。愛らしさが増すので、子供や女性に対してよく用いられる。
「大丈夫。また戻ってこれるよ。今度は占領民族としてではなく、たんなる旅行者として……」
ゲンチャンは優しく私を慰めようとしてくれる。
「そうでしょうか?」と、私は言った。「中国は国民党と共産党の内戦状態にある。あの国境を渡るなんてこと、本当にできるでしょうか?」
「できるよ」と、ゲンチャンは言った。「戦争なんてそういつまでも続くもんじゃない。いつかきっと終わりが来る。平和な時代になったら、きっと……」
鋭い洞察力が証明されたばかりの大学生の回答は、期待していたよりずっと簡素で根拠の乏しいものだったけれど、私はそれにいちおうの満足を抱いた。
そうだ、きっとゲンチャンの言うとおりだ……と、その時は自分でも信じるしかなかったのだから。
もしも、夢の中に黄が出てきて呼びとめてくれなかったら、私はどうなっていただろうか? 私はまたしても黄に助けられたのだ。
私がソ連兵に銃で殴られて重症を負った時、朦朧とした意識の中で彼の声を聞いた。私を呼ぶ「お兄ちゃん」という声で、私は今のこの世界に戻ってこれたのだ。
そして、今また、黄は私をこの世界に繋ぎとめておくために夢で会いに来てくれたのだ。声だけでなく、幻影を伴って。
“また僕が守ってあげるから……”
金や申のいる少年グループから暴行を受けそうになった時に、彼が身代りとなって私を助けてくれた。あの時の彼の言葉はそのまま事実となっている。彼は、この後もずっと、いつだって私の想念の中に現れては、私を守ってくれていた。彼がこの世界のどこかにいてくれている、自分のいる同じ世界の片隅で、自分と同じように暮らしている――その事実が私に並々ならぬ励ましを与えてきた。いつかきっと会える日がくる――そう願うことで…… 

中村さんと安藤夫人が船室に戻ってきた。二人とも私のことを心配してくれていたようだが、私が元気なのを見て、安堵したようだ。私が手に握りしめていた薬包のことにはふれなかったけど。そのことが気掛かりになっていたのだろう、薬包は奪い取ったけれども、それでもなお私が馬鹿な真似をしないようにと、ゲンチャン一人をここに残して見張らせていたのかもしれない。
中村さんと安藤夫人は、この船の船員たちから仕入れた情報を持って戻ってきた。私の訪ねてゆく姫路にある父の実家だが、空襲にはあっていないようだ。
安藤夫人の新潟の親戚の家も無事らしい。彼女のにこやかな表情からわかった。東京に実家のある中村さんは、既に終戦の年の3月に大空襲があったことを知っていたから、船員からの情報にさほど期待はしていなかったようだけど。
中村さんはゲンチャンの方を向いて尋ねた。
「ゲンチャンはどこに帰るんだい?」
帰る場所がわかれば、そこが空襲にあっていないかどうか、船員に確かめることができる。中村さんはゲンチャンの代りに情報通の親切な船員から聞いてきてあげるつもりなのだろう。
”故郷を嫌う奴なんていないものな……” 
そんなことを言う人なのだから、自分の故郷に対しては深い思い入れがあるに違いない。
いよいよこの人の出身地がわかる。私はゲンチャンの返事に注目した。
なのに、ゲンチャンははっきり答えようとしない。
「実家のご両親とか、小父さん、小母さんとか、お兄さんとかお姉さんとか…… 身寄りはないのかい?」
「まあ…… 俺にはどこにも行く宛てなんかないから……」
「生まれはどこなの? 親戚の一人くらい……」
ゲンチャンは黙りこんでしまった。
出身は日本じゃないのかもしれない。私と同じように中国大陸の出身なのかも…… だから、日本には故郷も身寄りもないのだろうか?
「日本に着いたら、どうするつもりなんだよ? この船は日本のどこに着くのかわからないけど。たぶん佐世保か博多だろう。九州の港でその後君はどうするの?」
「さあ、あまり考えてないけど…… 大阪か東京の人の大勢いる所に出て、なにか仕事を見つけるつもりだけど…… 実際、満州ではそうしてきたんだし……」
「じゃあ、ゲンチャン、行く宛てがないんだったらさ、僕の所に来るかい?」
中村さんの両親の実家だって無事だという保証はない。実家のある東京は再三のひどい空襲にあっている。それに家が無事だとしても、血縁でもない居候を引き取れるほど、その家には余裕があるのだろうか? 戦争直後の苦しい時期だ。だいたいそんなこと、実家の承諾もなしに中村さんが勝手に決めてよいことなのだろうか?
「僕たちの仲間はね、帰還したら東京に集まることになっているんだ。君は若い。仲間は君のような若い力を求めている……」
そういうことか。私は中村さんの言わんとしていることを察した。中村さんは東京に戻ったとしても、両親のいる実家には戻らないかもしれない。実家に落ち着くことなんか二の次で、東京に自らの属する党の拠点を築くことを使命とし、その仕事に行く宛てのないゲンチャンも参加させようとしているのだ。
しばし考え込んでから、ゲンチャンは、「ありがとう。中村さん」と、答えた。「でも、俺は見てのとおり、そんな活動的じゃない。政治には向かないんです。あなたたちのお役には立てそうにない」



4、5日かけて引揚船は日本に着いた。着いたところは九州の博多港だった。入国審査の間、停泊中の船の上で何日か待たなければならなかったが、下船の許可が下りると、私たちは久しぶりに陸地に足を下ろし、博多駅まで移動した。
「まずは姫路に行こう。君を君のおじいさんの家に送り届けなきゃ」
中村さんが私に告げ、一緒にいたゲンチャンも同意した。いつのまにかゲンチャンも私に同行して、私を姫路まで送り届けることになっていた。
「本当に寄り道なんかしていいのかい? まっすぐ家に帰らなくて……」
中村さんの問いにゲンチャンは例のごとく気楽そうに、
「いいんですよ。俺には帰る所なんてないんですから。大阪か東京へでも行くつもりですけど、せっかく手当てで汽車に乗せてもらっているんだし、いろいろ見学させてもらいますよ」
私たちは博多から大阪に向う列車に乗った。
門司からは関門トンネルをくぐり下関に着く。
私は窓外からの景色に夢中になった。初めて見る日本の景色。なんだかとてもこじんまりして見えた。狭い空間に小さな家々が犇(ひしめ)き合っている。道も田畑もミニチュアのようだ。まるで満映か日劇の映画のセットみたいに。今、自分が乗っている客車だってそう。車両の幅がとても狭い。日本は領土が狭いから、なにもかもミニサイズなのだろう。
そんな窓外の景色の中で、私の目を奪ったのは、時々見える青々とした海、瀬戸内海の海だ。ゆったりとした穏やかな海が、静止画の絵のように広がっている。海だけは広い。海と空は大陸と変わらない。
山口を越えた時、ゲンチャンの様子がおかしくなった。あんなに威勢がよく楽天家だったゲンチャンが、次第に口数が少なくなり、深刻そうに塞ぎ込んでいる。そして、窓外の景色をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「俺、このへんで降りる」
あまりにも唐突だったので、中村さんと安藤夫人が顔を見合わせた。ゲンチャンは私たちと一緒に姫路まで同行して、その後、大阪へ向かうはずだった。
「降りるったって、ここは……」
「ゲンチャンは山口県の出身なの?」と、安藤夫人が口を挟んだ。
ゲンチャンは黙ってかぶりを振った。
「なら、四国?」
ゲンチャンはまたもやかぶりを振った。
「鳥取? それとも島根?」
それにもまたかぶりを振る。
「じゃあ、ひょっとして……」と、中村さんは口ごもった。
ゲンチャンの眼は窓外の景色に釘付けになっている。山や畑のなんの変哲もない風景なのに。ゲンチャンにとってはなにか特別の意味でもあるのだろうか? 私たちは座席がとれず、通路に座り込んでいるのだが、座席にいる人の陰になってよくは見えない窓外の景色を食い入るように見つめている。
列車は次の停車駅に近づく。次の停車駅の地名を乗客たちが噂し合っている。
「じゃあ……」と、ゲンチャンはさっさと自分の荷物を持って立ち上がった。
「ちょっと待てよ、ゲンチャン!」と、中村さんが呼び止めた。「本当にここで降りるのか?」
「ああ」
「だって、ここは……」と、中村さんは何度も窓外に目を凝らしてから、「なら、僕も一緒に行くよ」と、立ち上がった。
次の停車駅はもともとは本国有数の大都市だった。だけど、そこへ近づきつつあるのに都市はいっこうに始まらない。本当なら、もう列車の窓からたくさんの人や車や家々の連なりが見えていていいだろう。代わりに見えるのは、戦争の傷跡なのだろう、無残な廃墟とおびただしい瓦礫の山。
「君、ここまで来たら、姫路まではもうそんなに遠くない。ここで途中下車してもいいかい?」
中村さんの耳打ちに私は即座に頷いた。
「中村さん、なにもあなたまで……」と、ゲンチャンは言った。「せっかくこの汽車に乗れたんだ、途中下車なんかしたら、もう次の列車には満員で乗れなくなる」
「いいんだ」と、中村さんはもうゲンチャンの言うことなど聞いていなかった。
日本の列車は狭い。無蓋貨車ではなかったのはなによりだけど、客先の座席の数は限られている。私たちは満州から持ち込んできた“満州日報”の新聞紙を通路に広げて座っていたのだが、それでも乗れただけまだいい。博多駅では結局乗り切れずに次の列車が来るまで待たなければならない人達も大勢いたのだから。
「次の駅で私たちは降ります。安藤さんのご実家のある新潟はまだまだ遠い」と、中村さんは言った。「このまま他の皆さんと乗り続けて下さい」
「そうですか」と、安藤夫人は自分だけ列車に残るのは決まり悪げだったが、「じゃあ、ミッチャン、元気でね」と、私を見上げて言った。
「本当に、新吉も一緒に帰られたらよかったのに」
2歳しか年の違わない私を見るたび、安藤夫人は自分の一人息子の話をする。きっとシンチャンのことを想い出しているのだろう。
「おばさん。シンチャンもきっと帰ってきますよ。戦争は終わったんだから!」
この後の話になるが、たしかに翌年の1947年からシベリヤに抑留された人達の帰還も始まった。ただ、すべての人たちが無事に帰ってこられたわけではなく、収容所(ラーゲリ)から出れずに遂にはシベリヤの凍土と化した人たちも大勢いたのだけど。
列車が停まる。停車駅を伝える乗務員の声。列車を降りると、”廣島”の駅名表示板が目に留まる。
周囲は一面の瓦礫。何度あたりを見回してみても空襲でこっぴどくやられた直後のような、なにもかも破壊されつくした後が広がっている。
戦争は終わったのだ。たしかに一年前に終わったはずだ。博多だって小倉だって空襲を受けた。2年前に福岡大空襲があって、博多と天神が標的にされ、私たちを乗せた引き揚げ船が入港した博多湾一帯だってこっぴどくやられたという話だ。だけど、博多も小倉も、私たちが引き揚げ列車から見て来たどこの都市も、ここほどひどくはなかった。ここほどなまなましくはなかった。ここはまだ戦場のままのようだ。今しがたB29の編隊が飛んでいった後のような…… 爆撃されたままの手つかずの状態。いや、でも、列車は通っている。駅舎もできている。これでも手は入っているのだ。じゃあ、一年前の、本当に爆弾が落とされた直後はいったいどんな状態だったのか……
駅前には幾つかバラックができていて、人のいる気配もある。
「あのう、すみません」と、中村さんが駅前にいたもんぺ姿の婦人に声をかけた。「私たちは満州から引き揚げてきたばかりなんです。本国の事情は詳しくなくて……」
「まあ、外地から! そりゃあ、たいへんでしたでしょうに!」
「それで、ここはいったいどうなっているんですか?」
「驚くのも無理ないでしょうね。ここは新型爆弾でやられて、この通りなんですよ」
「新型爆弾って…… 話には聞いていましたが…… まさか、それでこんなに……」
「はい。みんなピカにやられました。」
「ピカって……」
「ピカドン――広島に落ちた新型爆弾のことを私らはそう呼んでいます」
「でも、それは一年も前のことでしょう?」
「ええ。これでもね。徐々に復興は始められているんですよ。もとがひどい有様でしたからね。一年経ってもまだこの状態なんですよ」
「一年経ってもこの状態だなんて…… そのピカが落ちた直後は、もっとひどかったっていうんですか?」
「ええ。去年の夏、ピカが光ったら、次の瞬間、爆風でなにもかも吹っ飛んでしまいました、空は真っ暗になって、建物は倒されて、人は飴細工のようにどろどろに溶けてしまいました」
「飴細工のようにって……」と、中村さんが絶句した。「なら、そのピカはいったい何発落ちたんですか? 広島のような都会をまるごと廃墟に変えてしまったのだから、相当の数の……」
「一発です」と、婦人は中村さんを遮った。「ここに落ちたのはたったの一発です」
「一発って……」
「一発の爆弾で、街がまるごとなくなったんです」
「生き残った人たちはいるんですか? この道の先はどうなっているんですか?」
「同じですよ。ずっと同じ風景です」
ゲンチャンは一人勝手に道を歩き出した。なんの道標もない瓦礫だけの場所。それでも方角がわかるらしい。
「待ってくれ、ゲンチャン!」
婦人に礼をして、私たちはゲンチャンの後を追った。
「君は広島の出身なのか?」
中村さんは背後から尋ねた。ゲンチャンは答えない。黙って道をどんどん先へ進んでゆく。
どこまで行っても変わらない風景。瓦礫の山。その中をゲンチャンは吸い寄せられるように歩いていく。道を知っているのか? じゃあ、ゲンチャンの出身はやはり広島なのか。
「ここにいた人たちはどうなったんだろう?」と、私は言った。「みんな、どこかへ逃げたんだろうか?」
「バラックにいた人が言っていただろう? みんな爆風に吹き飛ばされるか、熱戦でどろどろに溶かされるかしたんだ」と、中村さんが答えた。
「そんな……」と、私は言葉に詰まった。
ハルピンの道端に転がっていた死体を思い出す。
だけど、きっと、そうなのだ。ここに転がっていた屍の数はハルピンの比じゃない。ハルピンには殺す方と殺される方の両側の人たちがいた。あとは直接にはどちらの側にも属さない中間のたちもいた。だけど、ここでは殺される側の人たちしかいなかった。ここにいた人たち全員が殺される側の人たちとされた。
ソ連軍が攻めてきた時、私たちにはまだ逃げたり隠れたりすることができた。実際にハルピンにソ連軍が到着した時、大勢の人たちがキタイスカヤの通りの地下にある防空壕に隠れていた。そんなふうに、まだ隠れたり、逃げたり、覚悟を決めたりすることができたのだ。姉のように、手渡された毒薬を飲んで自決する人もいただろう。そんな猶予が残されていた。だけど、ここにいた人たちは…… 一瞬ピカッと光った爆弾に、どうあがくことができたのだろうか? 自分が死ぬということすら自覚できなかったのではないか? 訳のわからないうちに、自分の体が爆風で吹き飛ばれ、熱線で焼かれ、どろどろに溶かされた。
幾つかの川を渡った。広島というところは川が多いところだった。
私たちはさらに歩いた。ただでさえ瓦礫ばかりなのに、進むにつれだんだんとその瓦礫の数が多くなってくる。もともとここには建物が多かったのか。建物が多かったから、瓦礫の数も多くなっているのか……
ゲンチャンは立ちつくした。首を伸ばし、四方を見渡した。
目的地に着いたのか? でも、目的地といってもそこは……
「なにもない……」と、ゲンチャンは呟いた。
「でも、あそこに焼け残った建物が幾つかある」と、中村さんが遠くを指差した。
「あれは銀行だ」と、ゲンチャンは言った。「たぶん……住友銀行に芸備銀行。その隣は千代田生命のビルだ。向こうは三和銀行。隣は広島銀行の集会所だろうか? みんな鉄筋コンクリートだから残ったんだ。木造建築の建物はみんな焼きつくされた……」
もうどれがどれだか見分けがつかないようなビルの残骸。その一つ一つをゲンチャンは言い当てていく。やはりこの場所に特別な所縁があるのだろう。
「じゃあ、あれは?」と、私は廃墟の中でひときわ大きな建物を指差した。
「あれは……たぶん、産業奨励館だ」
「産業奨励館?」
「ああ、たしかチェコスロバキアの建築士が建てた博物館だ。美術展なんかがよく開催されていて、俺も何度か絵を観に行ったことがある……」
破壊される前のその建物の姿を当然のことなから私は見たことがない。だけど、とても大きく、頑健に造られていたのだろう。一面の廃墟の中で、その建物は一番残っている部分が多かった。てっぺんは丸いドーム型の鉄骨が剥き出しになっている。
ゲンチャンは不意に押し黙り、それから涙声になって、「ああ、ここは目抜き通りだった!」と、叫んだ。「中島町の本通りは広島で一番賑やかな場所だったんだ、それが、こんなに……!」
列車の中でも、船の上でも、いつもほがらかだったゲンチャンの、こんな取り乱した姿を私は想像できなかった。まるで別人みたいに、あの頑丈で大きな体を震わせていた。
「俺の家はここにあった。俺の家はこの通りにある商店だった。自転車屋だったんだ。なのに、もうなにも残っていない!」
ゲンチャンは泣き崩れた。ひざまづいて、瓦礫しかない地面を何度も拳で叩いた。
「ああ、なんだって…… なんだってこんなことに……!」
ゲンチャンの獣の咆哮のような泣き声が響く。私と中村さんは、あまりにも大規模な殺戮の後に絶句し、泣き崩れるゲンチャンの傍でただ立ち尽くしているだけだった。