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白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第十一回「廃墟の中から立ち上がる人々」

白鳥健治さんの連作小説『同じ色の膚』。男どうしで愛し合うにはあまりにも厳しい時代の淡い初恋を描いた大河小説のような趣の作品です。主人公と黄少年が結ばれる日は、果たしてやってくるのか……時代を越えたせつなさを感じ取ってください。

白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第十一回「廃墟の中から立ち上がる人々」

第十一回 廃墟の中から立ち上がる人々

「自転車屋さんの息子さんかいのう?」
ふと背後から声をかけられて振り返った。瓦礫の向こうから、たたずんでこちらを見ている人がいた。
「あなたは?」と、中村さんが尋ねた。
「ここで商売をやっていた者じゃけえ」
貧しい身なりをした初老の小柄な男性だった。ひざまづいていたゲンチャンが泣き腫らした目でその人を見上げた。
「床屋の小父さんですか?」
そのままふらふら立ち上がって相手ににじり寄った。
「俺の……俺の家族は?」
床屋の小父さんは残念そうに首を横に振った。
「あのピカで、ほとんどの者が死んでしまったからねえ…… 生き残った者も皆、別の土地に行ったよ…… ここはもう人の住める所じゃないけえ……」
「なら、小父さんは何故ここに?」
「他に行くところがないけえ。わしの身内のもんは広島にいて、あのピカにやられてしまったけえ……」
そして、背後を振り返り、
「ほら、わしはあそこに住んでるけえ」
太田川の川辺に幾つかバラックが建てられていた。廃墟の中に人がいた。住んでいる人たちがいて、集落ができあがっていた。
ゲンチャンが驚くのも無理なかった。駅前でもんぺ姿の婦人に会ったきり、ここまで歩いくる間に一つも人影らしいものに出くわさなかった。駅前には幾つか建造物もできており、人が生活している気配もあったものの、そこを離れると、無人の瓦礫の風景が広がるばかりだった。それが太田川の川辺にはこうして生きている人たちがいたのだ。ゲンチャンは有無も言わずに川辺に降りていった。私と中村さんもその後に続いた。
バラックには真っ黒に焼け焦げた柱が使われていた。瓦礫の中から廃材を拾ってきて建てたのだ。
「ここで…… こんな所で暮らしているんですか?」
私たちの後から床屋の小父さんもついてきていた。
「しょうがないけえ。わしら、他に行くとこがないけえ」と、
小父さんの首筋に赤い傷がある。ケロイドだ。
私たちの話し声を聞きつけたからか、そこらのバラックの中から人が出てきた。誰も彼も貧しい身なりをしていた。煤で汚れたシャツ一枚の老人や、裾の破れた着物を着た老婆、だぶだぶのズボンの子供。すぐ近くのバラックからは、ちょうど私の姉くらいの年齢だろうか、20歳前の若い女性が顔を覗かせた。
「お客さん?」と、女性は言った。「どこから来なさった?」
「満州からじゃよ」と、床屋の小父さんが答えた。
「まあ、よくご無事で……」
「商店街の自転車屋さんの息子さんじゃあ」と、隣のバラックにいた老人と老婆が声をあげた。
「ほう、あの自転車屋さんの……」
隣の人たちはぼそぼそと低い声でゲンチャンのことを噂していた。
「ここに……ここには俺の家族はいないんですか?」と、ゲンチャンは周囲を見回し、すがるように床屋の小父さんに尋ねた。
「さっき言ったとおりじゃけえ。去年ここに住んでいたほとんどの人がやられたけえ。生きているのはほんの一握りの人たちで、もう大半の者たちが死んだか、行方不明じゃけえ」
女性はバラックの外にあった七輪に火をおこし、薬缶でお湯を沸かし始めた。その女性の顔には火傷の跡があった。赤紫色の後が、容赦なく彼女の顔を覆っていた。若い娘さんだけに痛々しくてならない。
彼女は健気にも笑みを浮かべ、七輪を内輪で仰ぎながら、精力的に働いている。
「彼女も被爆したんですか?」と、中村さんが床屋の小父さんに小声で尋ねた。
「ああ、わしらは運がいい。家族のうち二人も無事だったんだから……」
娘さんは名前を八重さんといった。お湯が沸くと、八重さんはお茶を淹れて、私たちに差し出した。かいがいしく働いている娘さんの手もとを、ゲンチャンはじっと見つめていた。お茶の次には漬物が出されたが、ゲンチャンが眼で追っているのは、漬物ではなく娘さんのか細い手であることを、私は気づいていた。
「ヤミ市で手に入れた漬物じゃけえ」と、小父さんが言った。
「ヤミ市がたっているんですか?」と、中村さんが尋ねた。
「駅前にな。ここにも人が集まり、ようやく必要な物が手に入るようになったよ」
たしかに駅前にはもんべ姿の婦人がいたし、人の往来があった。
バラックの前に腰を下ろして、私たちはお茶をすすり、漬物を噛みながら、床屋の小父さんの話を聞いた。
「ここもな、いつまでもこのままにしてはおけないからの。駅の方から着々と復興が始まっているよ。今年の1月に復興局ができてな、復興都市計画が立てられたんじゃ。警察署、逓信病院、西本願寺の寺院、天満橋の鉄橋と、建設工事が始まってな。わしら、瓦礫運びの仕事をもらっての、なんとか生計を立てているよ。こんな暮らしでもな、なんとかなるもんよ」
「あなたは、その…… あの爆弾が落ちた時にもここに……?」
「ああ、全身に火傷をくらったよ。しばらくは甲斐の親類のとこに避難していたんだけどよ。いつまでも他所の家に厄介になっているわけにもいくまいに。わしらがいると、えらい迷惑になるから……」
「迷惑って……」
「ピカの病気がうつるちゅうて、いろいろ言われるんよ。隣近所から……」
「病気って、なんですか?」
「ピカにあった者は病気になるけえ。わしらはなあ、コロンさんって呼ばれとるんだよ。爆弾の時には死ななくても、いずれコロンと逝ってしまうから。広島から逃げてきた者は、避難先で次々と死んでしまうし、直接ピカに遭っていなくても、ピカの後に広島入りした者たちにだって同じように死んだ者がおる。わしら、奇妙な病気をもっているって、気味悪がられているよ。だから、わしは娘を連れて、親戚んとこ、出てきてしまったんだ。ここでバラック建てて住んでいる方がずっと気が楽だよ」
「じゃあ、あの爆弾が落ちた時、生き残った人たちもいるんですね?」
だけど、小父さんは、勢い込んだゲンチャンの水を注すように、
「ああ、今のところはな…… いつまで生きていられるのかわからんけど……」
「え?」
「あの後も大勢死んだよ。へんな病気にかかって死んだよ。髪の毛が急に抜け始めて、変なアザが出てきたり、血反吐を吐いたりして…… 今は生きている者もいるけえ。でも、この先はどうなるかわからないってことだ」
「被災した後に広島入りした人も死んでいるなんて……」と、中村さんが神妙な声で口を挟んだ。「この場所にはおかしな病気が蔓延しているってことですか?」
「そういうことになるかな」
「それを承知でここで暮らしているんですか?」
「他に行くとこがないけえ」
「ここにいると……」と、中村さんは長く間合いをとった後で、「私たちも危ないってことですか?」
誰もなにも言い返さない。そんななかで、
「中村さん、俺、ここに残る」と、突然ゲンチャンが言った。
「ここって……」
「ここにバラックを建てて、俺も住む」
「ここに住むのは危険だよ、やめた方がいい」
「何故?」
「たった今、聞いたばかりじゃないか? ここにいると病気になるって……」
「それは一年前の話でしょう? 大丈夫。俺は病気にはならない」
「何故、そんなことが言いきれる?」
「じゃあ、それを承知で住んでいるこの人たちはどうなるんですか? 小父さんたちだけじゃないよ。周りには幾つもバラックがあって、こんなに何人も人が住んでいる」
「たしかに人口は増えているよ。6000人もの人が入ってきているっていう話だ」と、小父さんが口を挟んだ。
「もう大丈夫なんだよ。危険だったら、こんなに人は入ってこないよ。駅前にはヤミ市もできているっていうし、建設現場へ行けば仕事ももらえる。小父さんも言っていたでしょう? 瓦礫を撤去し、道路を整備し、家を建てる仕事があるって……みんながこの場所を建て直すために働いているんだ。俺も一緒にやりたい!」
「だけどな、ゲンチャン……」
「俺の家族もひょっとしたら生き延びているかもしれない。もしも生き延びていたら、きっとここに戻ってくるじゃないですか? 小父さんと同じように、避難先で気味悪がられて、ここに戻ってくるかもしれない。ここには人が集まり始めているんだから。ここは俺の故郷です。故郷を見捨てるなんて嫌だ!」
「でも……」と、中村さんは反論した。「ここで暮らしていくのはたいへんだよ。私の家に来て、落ち着いてからまた考えてみた方が……」
「中村さん、もしもまだ俺を組織に誘うことを考えているなら、それはまったく無駄ですよ! 俺は他人の命令に従って動く性分じゃないんだから」と、ゲンチャンは冷たく言い放った。
「それに……もう時間がない」と、ゲンチャンは続けた。「聞いたじゃないですか? 生き残った人たちも変な病気にかかって死んでいったって。もしも俺の家族が生き残っていたら、それは明日にでも死んでしまうかもしれないってことじゃないか? だから、俺はここで待っている。ぐずぐずしていられる時間なんてないんだ……」
「……」
「ごめんよ」と、ゲンチャンは私を顧みて言った。「俺も中村さんと一緒に君を倉敷まで送り届けるつもりだったのに、ここまでしか来れなくて…… 姫路の君のお祖父さんの家だって、無事かどうか確かめてもいないのに」
「いえ、いいんです」と、私は言った。「それより、僕、手伝います。ここにゲンチャンの寝床を作るの。近くから廃材を拾ってきて」
「そうだな。今夜はそうしようか」と、中村さんも同意した。
私たちは廃材を積み上げて、小屋らしき物を作った。道具はバラックの人たちが貸してくれた。夜になってなんとか寝床らしき部分を作ると、私とゲンチャンと中村さんは並んで腰を下ろして休んだ。
月光に照らされた太田川の流れを見つめる。
後でゲンチャンに教わったことだが、ヒロシマ市内には6つの川がある。そのうちの一つがこの太田川だ。
「爆弾が光った時、みんなこの川に逃げたんだろうか?」と、私は言った。「だって、熱線でみんな溶けてしまうほどだったんでしょう? 飴細工みたいにどろどろに…… きっと、熱くて仕方なかったんだろうな」
「この川は朝は満ち潮になるんだ」と、ゲンチャンは私を顧みないで、独り言のように呟いた。「きっとこの川に飛び込んで、そのまま流されていったんだろう? 満ち潮になったら、五体満足な大人だって流されるんだから」
私たちは喉が渇くと、太田川の水を手ですくって飲んだ。太田川の水は冷たく、きれいだった。
両手で川の水を救い上げたものの、そこで手が止まった中村さんに、
「心配ですか? 中村さん」と、私は声をかけた。
「いいや……」と、中村さんは首を振った。「さっき、この水を沸かしたお湯でお茶もいただいているんだし……」中村さんは笑い声になって、「それにもう一年も経っているんだ。あの小父さんも八重さんも、ここのバラックにいる人たち皆も、この水でこれまで生きてこれたんだろう?」
中村さんも両手で掬った川の水を飲んだ。飲んだ後、大袈裟に「ああ、うまい」だなんて言って、裸の腕で口を拭ってみせたりもした。
「この川はね、昔はね、本当にきれいだったんだ……」
と、私の横でゲンチャンが呟いた。
「この河で泳いだっけ。近所の幼なじみと一緒に。ハルピンの松花江(スンガリー)なんかと比べたら、比較にもならないくらい小っぽけな川だけどさ。でも、俺は大好きなんだ。この川が…… さっき小父さんから聞いたんだけどさ、ここの人たちはピカって呼んでいるけど、原子爆弾が落ちた時はこの川は死体で埋まっていたんだって。火に焼かれて逃げてきた人達の死体が、びっしり向こう岸まで渡れそうなくらいに浮かんでいたんだって。この川辺には大勢の身元のわからない骨が残っていて、今でもその骨を拾うんだって。ああ、ここは……俺の中にあるこの川は、そんな悲惨な川じゃないんだ…… きっと、またもとのようにして見せるよ。死体なんかじゃなくて、魚や虫が集まってくる、川面に蛍が舞っていても不思議でないような、そんな平和な川に……」
それから、ゲンチャンはうれしそうな顔になって、
「これも小父さんから聞いたんだけどさ。この川辺は公園になるんだってさ。復興局の復興都市計画では、この一帯を公園にするんだって。平和を祈念するための公園だよ。樹を植えて、草花を育てて、鳩もいっぱいいるんだ。ああ、そんな公園を作る工事が始まるんだったら、俺はそれを手伝いたい!」
夢中で語っているゲンチャンの声を遮って、闇の中、苦しそうな呻き声が響いた。床屋の父子のいるバラックの方が騒がしかった。二人ともバラックから外へ出ていて、なにやらごそごそ音をたてていた。どうも八重さんが屈み込んで嘔吐しているらしい。小父さんが背後から震える彼女の背中をさすっているようだ。
「どうした?」と、ゲンチャンが叫んだ。
「いつものことじゃけえ」と、落ち着いて答える小父さんの声。「いつもの発作なんじゃ。じきにおさまる」
ゲンチャンが二人の傍に行き、心配そうに付き添っている。あたりは真っ暗で頼れるのは月明かりぐらいだ。ここからではいったい八重さんがどんな様子なのかわからない。私も傍に寄ろうとすると、中村さんが背後から引き止めた。
「こんなところ、行こう」中村さんはしっかりと私の腕を掴んでいる。「今から駅に行けば、夜行列車に乗れる」
「どうして? こんな急に…… 苦しがっているのにほうっておくの?」
「僕たちがここにいたって何もできないよ」
「でも……」
「聞いただろう? 爆弾投下の直後にここに足を踏み入れた人達も、おかしな病気にかかって死んだって…… まだ若い君がここにいるのは危険だ。もしも君になにかあったら……」
私は納得がいかない。だって、この川辺にはたくさん人がいるじゃないか。隣のバラックには老人もいるし、私よりもずっと幼い、だぶだぶのズボンをはいた子供だっているじゃないか。
「いいかい? もしも本当にこの地におかしな病気が蔓延しているのだとしたら、君みたいな子供がここにいるのは危険だ。新陳代謝の活発な子供は影響を受けやすい。満州でもそうだったろう? チフスや赤痢に最初にかかるのは子供だったじゃないか!」
「でも……」と、私は口ごもった。「ゲンチャンはどうするの?」
「ゲンチャンは大丈夫だ。オトナだから……」
私だってもうオトナだ。昨年、変声期を経験したし、髭だって濃くなったし、チンチンには陰毛だって生え揃っている。
「いやだよ、離せよ!」
腕を引き、中村さんの手を振りほどこうとした。
「一緒に来るんだ!」
「行ってくれよ、ミッチャン」と、ゲンチャンが振り返って叫んだ。「中村さんの言うとおりにするんだ! 君はここから離れた方がいい。中村さん、ミッチャンをお願いします」
私は、ゲンチャンの声のする闇の方角を睨みつけた。自分でも訳がわからない、得体の知れない嫉妬心に捕えられた。なんだよ? 今までさんざんしつこくつきまとっていたくせに、こんなにあっさりとした別れ方があるものか。姫路まで付き添ってくれるんじゃなかったのか? 八重さんの方が大事か? やっぱり女の人の方がよいのかよ!?
「必ず、姫路まで無事に送り届けてください」
「わかったよ、ゲンチャン」
深夜、道だってよく見えていないのに、私は中村さんに連れられて、川沿いの集落を後にした。広島駅で列車を待ち、夜行が来ると、車両に乗った。途中駅からでは満席で座るところなどなかった。私と中村さんは無理やり入り口の隙間に体を割り込ませ、そのまま突っ立っていた。
「もう少しだから、姫路はもう少しだから」と、中村さんは私を気にして言ってくれた。
私は黙っていた。中村さんが何を言ってきてもことごとく無視した。姫路に着くまで、私は中村さんと一言も口をきかなかった。



縁側に面した庭に柿の木のある古い家。それが母の実家だ。私は姫路にある母の実家に無事連れてきてもらえたのだ。祖父の家は空襲に遭わずに残っていた。
祖父も祖母も私を迎えてくれた。
母の兄だという伯父さんも。伯父は肉体労働者のような屈強な体つきの人だった。とても怖そうに感じた。祖父も軍人のような髭を生やしていたし、気難しそうな感じだったが。
それに伯父さんのお嫁さんのタキさんという人はえらい取り乱しようだった。私を見るなり、面前に立ち塞がって、私の両肩をぎゅっと掴んだ。
「違う、清彦じゃない」と、伯父さんが言い聞かせた。「似ているだけだ。俺の妹の子だ」
タキさんはそれを聞いて、悲しげな表情になり、家の奥に引っ込んでいった。
家の客間の壁に大きな額縁の写真が幾つも飾られている。その中の一枚に軍服姿の若い青年の写真がある。
タキさん以外の人たちは、祖父も伯父も私を快く迎え入れてくれたけれど。
「よく帰って来れたねえ。本当に、よく……」と、祖母は目に涙を浮かべた。
「そうかい。忍ちゃんは帰ってこれなかったのかい。玉枝ちゃんも…… 残念だったねえ」
私と、私をここまで連れてきてくれた中村さんは客間に案内され、そこでこれまでのいきさつをこの家の人たちに説明しなければならなかった。私たちの話を聞いて、祖父母も、伯父さんもひどく動揺した。
「くそう、ソ連の奴、ヒドイことをしやがる!」と、伯父の富男さんは握り拳を震わせ、胡坐をかいている自分の膝頭を叩いた。
「あのロスケめ!」と、祖父も吐き捨てるように言った。
「本当なんですか? 中村さん、満州ではそんなことが……」
「ええ、まあ……」と、中村さんは言葉を濁した。「戦争ですから……」
「戦争っていったって、ソ連とは中立条約を結んでいた国ではないか!」
「あいつら、こっちの弱っている隙を見計らって……」
「ほんとうになんてことでしょう。敗戦後の混乱に紛れて略奪や強姦をほしいままにするなんて……」と、祖母も同意した。
「三船の事件もそうだよ。日本は8月15日にポツダム宣言を受諾したというのに、その後も延々と攻撃を続けやがって…… 女や子供ばかりが乗った引揚船を海に沈めやがった」
満州にいて終戦後の日本の情報はまるで伝わってこなかった。この時、伯父さんが声を震わせて語ったのは三船殉難事件と呼ばれる事件のことで、ポツダム宣言受諾後の8月下旬、樺太からの引き揚げ船3隻がソ連の潜水艦による攻撃を受けた。北海道の留萌沖で、2隻が沈没し、1隻が大破した。大勢の引揚者が犠牲になったということだ。
「確かなんですか? その話は……」と、中村さんが声を震わせた。「本当にソ連がそんなことを……」
「本当だとも。公式の発表では引揚船は国籍不明の潜水艦により攻撃を受けたとされているが、その国籍不明の潜水艦ってのはソ連の潜水艦に間違いないんだ。ポツダム宣言の受託後は、アメリカもイギリスも戦闘を停止させた。だけど、ロスケの奴らだけはその後も戦闘を続けた。あいつら、8月15日以降も南樺太に侵攻し、あげくには北方領土まで奪いやがった!」
中村さんは絶句した。伯父さんたちの話に明らかな動揺を受けていた。
客間の壁に飾られている写真の中には軍服を着た人たちの写真が何枚かある。その中の一枚が極端に若い人の写真だ。この時の私とわずかしか年齢が離れていないような、着ている軍服が不釣合いなほどの若々しい少年の写真。
私が写真に見とれている隙に、私の横で中村さんがなにかを言った。
「え?」と、伯父と祖父が顔を見合わせた。「なにを…… なにを言っているんですか?」
「ソ連だけではないでしょう? この戦争では皆がヒドイことをした。ソ連だけが特別じゃないんですよ」
「あんたこそ何を言っているんだ? ソ連とは中立条約を結んでいたんだ。それを奴らは一方的に破って……」
「そうだ、アメリカ軍はもっと紳士的だ!」
祖父と伯父、それに口数こそ少ないが、祖母だって同意見だろう。中村さんは一人敵地の中にいる。それでも決して物怖じせずに、
「私はここに来る途中で広島に寄りました。あの爆弾は誰が落としたんですか? たしかにソ連軍はひどかった。でも、アメリカ軍はそれ以上のことをしたんです」
博多駅で、私は、ジープに乗ったアメリカ兵が、動物園の猿のように群がってくる日本の子供たちに菓子を投げ与えているのを目撃した。子供たちは「ギブミー、ギブミー」と手を差し伸ばして唱和し、アメリカ兵がばら巻いていったガムやチョコレートを拾い集めるのに必死だった。その光景に私は驚いた。進駐軍のアメリカ兵はソ連兵とは全然違う、ソ連兵よりもずっと紳士的だ。囚人兵だったとはいえ、なにもかも奪い取るだけだったソ連兵よりは…… 
だけど、アメリカ兵に対する印象も、広島の地を踏んで一変する。戦争のもつ残虐性は、もはやそれを行使する側の人間性によって左右されない次元にまで来ているのかもしれない。
「紳士的なアメリカ軍が、強姦や略奪なんかではおさまらないようなことをした。これが戦争です。日本の軍隊だって同じですよ。現に日本軍が中国や朝鮮や南洋でいったい何をしたというんですか? 自分のことは棚に上げて…… 軍隊なんてどこも同じですよ!」
「今度の戦争では……」と、祖父が冷ややかに切り出した。「わしの末の弟と、次女の夫である義理の息子と、甥と、長男の息子が死んだ。それぞれが勇敢に戦った。とくにわしの孫は18歳の若さで、特攻に志願した。菊水作戦で敵艦にゼロ戦ごと突進したんだ。みんな、国を守るために必死だったんだ!」
祖父は、湯飲みのお茶が揺れるのもかまわずに、テーブルの上を拳でどんと叩いた。
「そうだ、俺の息子は死んだ!」と、伯父も大きないかつい体を震わせ、泣き声に近い声で叫んだ。「清彦はまだ18歳だったんだ!」
18歳…… 
私は壁にかかっている額縁の写真を見上げた。一枚だけ、軍服を着た、極端に若い人の写真が飾られている。あの人が清彦さんなのか? 18歳の若さで敵艦に突進したという、私のいとこにあたる人……
「それでも……それでもですよ」と、中村さんは慎重に言葉を繋いだ。「突き進んでいっては駄目なんです。あの時は立ち止まらなければならなかったんです……」
祖父の眉間に皺が寄る。
「戦争そのものが間違いだったんです。だから、それに協力したことも間違いなんです……」
「あんた、俺の息子が間違っていたっていうのか?」と、伯父が言った。「息子は国や家族を守るために命を投げ出したんだ! あんたはそれを否定するのか?」
伯父さんの気持ちは痛いほどわかる。けど、中村さんの言いたいこともわかる。双方の純粋な気持ちがぶつかりあっている。折り合う術はないのか? 自分はどちらの側についていいのかわからない。
「あんた……なんだかおかしいと思ったら……」伯父さんの顔が見る見る歪む。相手を嘲弄するような自信が見え隠れする。「向こうでいったいなにを仕込まれてきたんだ?」
「……」
「この子の親父もそうなのか? あんたみたいに、とんでもない思想を……」
「私はこれで……」と、中村さんが突然切り出した。
本当は一晩、ここに泊まっていくことになっていたのではなかったか? この客間に案内したばかりの時には、今日はもう遅いし、ハルピンから私を連れてきてくれたお礼もしたいからと、祖母の申し出に祖父も伯父も賛同したはずではなかったか?
なのに、この時、立ち上がった中村さんを誰も引きとめようとしなかった。中村さんは一人礼をして、早々にこの家から退出しようとした。
「中村さん!」と、私は叫んだ。
「ほうっておけ、満緒!」と、伯父さんが呼び止めた。「あの男はアカだ。関わるんじゃない!」
だけど、ここまで連れてきてくれたんだ。お礼ぐらい……
私は伯父を無視して中村さんの後を追った。
私は中村さんとはゲンチャンみたいにうちとけることはなかった。どこかで距離をおいていた。それは中村さんが父と“同志”と呼び合う関係にあったことが起因している。ソ連が持ち込んだ思想なんかにかぶれているから。この点では、私も母の実家の者たち、祖父と伯父の側に組していた。私もソ連に対して好感を抱いていなかった。現に広島を出て姫路に着くまでは、列車の中で全然口もきかなかったのだから。
でも、この時は、余計なことを言った祖父と伯父が憎らしかった。言い過ぎではないのか? アカでもなんでも中村さんの生真面目で責任感の強い性格には敬服すべきだ。この人のお陰で私はここまで来れたのだから……
玄関にはもう中村さんはいなかった。タキさんがいて、私を見て驚いた顔を向けた。
「あんた、どこさ行くの? あの人は出て行ったよ。あんたはここに残るんでしょう?」
タキさんの言葉も無視して、玄関を出ると、家の門から通りへ出て行こうとしている中村さんの後ろ姿が見えた。
「中村さん!」と、私は叫んだ。
中村さんが足を止め、こちらを振り返った。
「ありがとうございました」と、私は頭を下げた。
中村さんは私を見て笑みを浮かべ、軽く手を振ってくれた。
これから東京へ向わなければならないのだろう。満州から日本へ流れ込んできた“同志”たちと自分たちの組織を築くために。
中村さんと別れて、こうして私の満州から本国までの旅は終わった。この旅の中で私は本当に多くのことを学んだ。ゲンチャンと中村さん、既に面識のあった安藤夫人を含めて、想い出に残る人たちに出会い、接することができた、生涯の忘れられない旅だった。



それから3年後、母と父が大陸から引き揚げてきた。2人は3歳になる子供を連れて、私のいる姫路の母の実家を訪ねた。父の腕に抱かれた子供は、今思えば体も手足も小さくて、一番可愛らしい年齢の時期だったかもしれない。
「さあ、おまえの弟だよ」
3年間、両親の愛情を独り占めしてきた弟だ。私の新しい家族。だけど、その顔を覗き見た時、私はぞっとした。
弟は父にも母にも私にも全然似ていなかった。私たちとは全然違う別の種族のように見えた。
「名前をアキラってつけたんだ。ちょっと日本人離れした顔をしているだろう? ハイカラな方がよいと思ってね」
日本人離れって…… どう見ても異人の子じゃないか……!
「ほら、おまえのお兄ちゃんだよ」と、父は胸に抱いた子供に、私が聞いたこともないようなあまったるい声で言い聞かせている。母もうれしそうに子供をあやしている。
異人の子だ、白人の子だ、天狗の子だ……
父の腕の中の子供が無垢な瞳で私を見る。私は反射的に眼をそらす。
「どうした?」と、父は私の反応を探りながら、
「弟ができて、うれしくないのか? おまえ、弟が欲しいって、しょっちゅう言っていたじゃないか? 玉枝とじゃ、キャッチボールをしたり、釣りに行ったりできないからって。それであの満人の少年と仲良くしていたじゃないか? 黄とかいったけ、あの少年…… まあ、弟とするには年齢が離れすぎているかもしれないが……」
何故、父と母は平然としていられるのか?訳がわからなかった。あれはひょっとしたら…… 
アキラは色が白くて、瞳の色は灰色で、きれいに生え揃っている髪も茶色だった。あいつはロシア人の子供ではないのか? ソ連に侵攻される前から、ハルピンにはあんな瞳の色で、あんな髪の色をしたロシア人が大勢いたから。
「うん、まあ……」と、私は言葉を濁し、子供の話題を避けた。そんなロスケのガキなんかどうでもいい。新しい兄弟なんて、私は最初から望んでいなかったことだ。それよりももっと気になっていた大事なことがある。
「父さん、僕が送った手紙はそちらに無事着いたんですか?」
「ああ、これだろう?」
父は持ってきていた鞄の中から3通の封書を渡してくれた。
「これだけ?」
「ああ」
「2通、足りない」と私は言った。「全部で5通あるはずだ」
2年前に送った分が抜けていた。そして、その2通のうちの1通は、黄に宛てた手紙と一緒に投函したものだ。
私は黄にも手紙を書いていた。自分が今いる姫路の住所を書いて、自分の居場所を伝えた。君とはいつまでも繋がっていたい、この住所に手紙を送ってほしいと書き送った。でも、いつまで待っても彼からの返事は来なかった。
返事が来ない理由を私はあれこれ詮索した。ひょっとしたら、黄の母親――いつか彼の家で私を平手で打ちのめした女が、届いた手紙を息子に見せずに隠してしまったのではないかなどと…… だけど、それ以前に、私の送った手紙は黄の家まで届いていなかったのだ。
「じゃあ、その手紙は届かなかったんだな。その頃はちょうど内戦が厳しかったからな」
落胆している私を顧みもせずに淡々と父は言い放った。
「お父さんとお母さんが送った手紙はどうだ? 無事届いているか?」
調べてみたら、父と母が私宛に送ったという手紙のうち3通が届いていなかった。内戦が激化していた頃に送られたという3通が行方不明だ。
じゃあ、もし、黄が返事を書いていてくれたとしても、その手紙は私のもとに届かなかったのか?
中国の内戦は共産党が勝利した。国民党は台湾に追いやられた。そして、日本は蒋介石を総統とする台湾の陣営に属し、中国大陸本土の国家とは決別していた。
すぐ隣にある国。だが、とても遠い国。国境の向こう側にいる彼ともうどうやって連絡をとることができるのだろうか? 
共産党が憎らしくなった。中国に共産主義を持ち込んだソ連が憎らしくなった。今、目の前にいる、ロシア人の血をもった、両親の寵愛を独り占めにしている弟も……
弟が混血だということは、姫路の家にいる母の親族たちも動揺させた。祖父も祖母も伯父の富男さん夫婦も、白い肌の子供の登場に仰天し、だけどまだ3歳児の子供の前で取り乱すこともできず、子供が無邪気に遊んでいるのをただ黙視しているだけだったが。
ただし、この家の中では、伯父さんのお嫁さんのタキさんだけが違っていた。タキさんは幼いアキラに露骨に興味を示し、「可愛い子だねえ」と、アキラの茶色い髪を撫でては母を喜ばせた。「こんなに可愛い子だったら私も欲しいわ。どんな子だって、子供は皆、可愛いもの……」
子供好きの小母さんにもう子供はいない。うれしそうに弟をあやしているタキさんだが、その裏側に潜む悲しみに気づかないわけにはいかなかったが。
夜も更けると、3歳児のアキラはさすがに眠たそうだった。食事が済むと、居間の畳敷きの上ですやすやと眠りこけてしまった。
それを見かねて、タキさんが母に耳打ちした。
「2階に布団敷いといたから、アキラちゃんを休ませるといい。2階の清彦の部屋の隣が空いていたから…… あんたも疲れているでしょう? 一緒に休みなさったらどう?」
「すみません。お義姉さん」
清彦というのは伯父さん夫婦の一人息子の名前だ。戦死してもう帰らぬ人となっている。居間の壁に飾られた軍服姿の写真。満州から帰ったばかりの父も母も、まだ18歳だった甥っ子の訃報を知らされた時、揃って悲嘆に打ち沈み、壁の遺影を見上げたのだ。
3歳の子供を寝かしつけに母が別室に立ったのを見届けると、祖父がすぐさま父に詰め寄った。
「あんた、いったい、なんであんな子を……!」
「いけませんか?」
父は冷静に受け答えた。アキラをこの家に連れてくるに際して、親族たちの咎めにあうかもしれないことを十分予期していたのだろう。
「なんだってあんな子供が生まれたんだ?」と、伯父の口調も穏やかではなかった。「あの子が本当に俺の妹が産んだ子だというのなら、父親はいったい誰だ?」
「ソ連兵です」
「ロスケなのか?」
「はい。ハルピンに侵攻してきたソ連兵です」
「そいつは今、どうしているんだ?」
「さあ……」と、父は首を横に振った。
「あの子をそいつに引き取らせることはできなかったのか?」
「私は知らないんです。妻を襲ったソ連兵のことはなにも。いったいどんな奴で、今、どこにいるのかも……」
ああ、父は本当に知らないのだろうか? 
私の頭の中にある光景が蘇る。上半身裸で、背中から血を流しうつ伏せに倒れていた雪の上の死体。GPUに射殺され、上衣を掴んだ腕を広げていた裸の死体。私は母を手篭めにしたソ連兵に会っているが、父はその顔を知らないのだ。いつか日本人居住区の道端に転がっていた死体がアキラの父親であり、私がその死体を虫ケラのように扱ったことも……
「私の留守の間のことですから……」
「留守って……」
「私はソ連軍にある時期、身柄を拘束されていました。その間の出来事です。家には妻と子供たちしか残っていなかった。どうしょうもなかったんです」
「でも、それがわかっているのなら、なんで産ませたり……」
「妻が妊娠した時、自分の子供だと思ったんです」
「あんた、クリスチャンじゃなかったよな? 堕胎反対とか、そういうわけじゃないよな?」と、伯父が言った。
「いいえ、違います。私はクリスチャンではありません」
「だよな。マルクス主義では、宗教はアヘンだものな」と、伯父の顔に相手を小馬鹿にするような表情が浮かんだ。「なら、なんで……」
「子供が欲しかっただけです」
「ああ、俺にはあんたがわからない。だって、ソ連兵の子供なんだろ? そんな奴の血を継いだ子供なんて…… あんた、悔しくないのか? 自分の女房を手篭めにした奴のガキなんて……」
「子供とその父親は別です」
「わかった、共産主義は私有財産を認めない、女房も共有するって聞いた。まさか、あんた、俺の妹を他の奴らとの共有物にしようとでも……」
「兄さん!」と、私の母が抗議の声をあげた。2階の部屋へ弟を寝かしつけに行ったはずの母が、いつのまにか私たちのいる居間に戻って来ていた。「ひどいわ! そんな…… 私は物じゃないわ!」
母は身を翻し、居間の戸口から駆け出した。階段を駆け上がる音が響いた。弟を寝かしつけた2階の部屋へ戻っていったのだろう。
母のことが心配で、私も座を外そうとした。その時……
「私はこの人の気持ち、わかります」と、台所で片付けをしていたタキさんが急に居間に顔を出して言った。「この人は子供を一度に二人も亡くしたんでしょう。膚の色が違ったって、子供は子供よ。大切な神様からの授かり物なのよ」
「タキさん、あんた、何を言っているの?」と、祖母が嫁をたしなめた。「嫁が夫に口出しするなんて……」
「そうだ、女は黙っとれ、タキ!」
「いいえ、黙りません」と、タキさんは爛々と目を光らせた。先ほどお茶を淹れに台所から出てきた時にも、父たちの話の一部を聞き、なにか嫌そうな顔をしながら引っ込んでいったのは知っていたから。さっきから言いたいことがあってウズウズしていたのだろう。
「共産主義が女を共有物とするなら、資本主義はなんですの? 男の私有物じゃないですか。資本主義だって女を物としか見ていない。女はいつも男のいいなり。自分の意見を主張するとこうして煙たがられる……」
「ああ、なにを言っているんだ?」
「だいたい、この国では女は金で買える。金で売買されている。あなただって、梅ヶ枝町の遊郭でしばしばお遊びになっていらっしゃったじゃないですか? あの海軍の御用達のお店で。私が知らないとでも思っているのですか?」
「やめろ、黙らんか!」伯父は真っ赤になって怒鳴った。
「女だって一人の人間です。なにも考えないわけじゃないんです。私は、あんたら男の言いなりになって、キヨを戦争に行かせたことをずっと後悔しています。あの時はあの子を連れ出して、山の中にでも隠すべきだったのよ。息子を失うよりは、非国民にされた方がマシだもの!」
「清彦は自分で志願したんだ!」
「いいえ、あの子は本当は行きたくなかったのよ。私にはわかる。だけど、周囲があの子を無理やり戦争に行かせ、あげくには特攻に志願させた。そうよ、あの子はずっと本心を押し隠してきた。本音で生きられないなんて、さぞかし辛かったでしょうに!」
「馬鹿!」
立ち上がった伯父の平手がタキさんの頬を叩いた。
「清彦は英霊だ。お国のために立派に働いたんだ。今更そんなことを言ってなんになるんだ?」
タキさんは目に涙を浮かべ、じっと自分の夫を睨みつけた。けど、タキさんは芯の強い気質の人のようだった。泣き声はあげずに、黙って台所に引っ込んでいった。
「最近の女どもはどうかしている!」と、伯父さんは不機嫌そうに呟き、胡坐を掻きなおした。
タキさんのことも気になったが、それよりも母のことが心配で、私は2階の部屋へ様子を見に行った。
タキさんは私の両親の味方をしてくれたようだが、私はタキさんとは違う。ロシア人の子を産んだ両親をどうかしていると思っている。かといって祖父や伯父の味方をする気にもなれない。祖父も伯父も極端に反共主義的なところがある。この時期の米軍占領下にあった日本の社会全体がそういう雰囲気で、祖父と伯父がなにも特別だったというわけでもなかったのだろうけど……
私がこの姫路の家に来て1年経った頃、私は父が口ずさんでいた歌をふと歌ったことがある。歌詞の意味など意識せずに自然にその歌がこぼれ出た。
“聞け、万国の労働者、轟きわたるメーデーの……”
私の声を聞きつけた、昔は偉い将校だったという軍人あがりの祖父が、ぴんと張った髭をぴくぴく震わせて私を怒鳴りつけた。
「やめろ、満緒、そんな歌、歌うのは! おまえ、外地でそんな歌を覚えてきたのか!」
私は父のようなコミュニストじゃなかったから、この歌にも、同じように覚えてきた“ああ、インターナショナル”なんて歌にも特別な思い入れはなかったのだけど。父母のもとを離れ、一人内地の母の実家で居候のようにして暮らしていて、この時ばかりは父のことが恋しかったのかもしれない。引き揚げる前はソ連や八路軍に留用された父にやたら反発することが多かったのだけれど、それでも父のことを思い出し、日頃父が口ずさんでいた歌を真似してみたりもしたのだ。
この家にお世話になっている身だ。私は蒼くなって口を閉ざし、もう二度とそんな歌は歌わないことを約束させられたのだったが。私だって、ハルピンでの出来事や、祖父や伯父や進駐してきた米軍の影響を受けて、共産主義に対して懐疑的ではあったのだけど、この時、正直、たかが歌の一つぐらいでと思ったのはたしかだ。
弟のアキラは先ほど母が寝かしつけた時と同じ姿勢のまま、布団でぐっすり眠り込んでいた。3歳の幼児が、はるばるハルピンから大陸を渡り、ここまで長々と列車に揺られてきたのだ、そうとう疲れていたに違いなかった。
母はアキラの脇に添い寝して、その愛らしい安らかな寝顔を飽きることなくじっと眺めていた。無垢なアキラの寝顔一つが、母のそれまで抱えていたわだかまりをすっかり忘れさせてしまったかのようだった。
母のことが心配で後を追いかけてきたものの、私のすべきことなどなかった。それはアキラがしてしまった。あいつさえいれば母はもう満足で、私など無に等しいかのようだった。
暫くして父が私たちのいる部屋に入ってきた。あれからも祖父や伯父と激しくやりあったに違いない。険しい表情で部屋に入ってきたが、父もアキラの寝床に眼を落とすと、途端に優しい表情になってその寝顔をじっと覗きこんでいる。
父だってそうだ、母と同じだ…… 
みるみる嫉妬みたいなものが私の中で沸き起こってくる。
「お父さんは知っていたんでしょう? 伯父さんが言ったとおり、その子が本当は自分の子じゃないって。なのに何故、その子を産ませたの?」
言ってやらないと気が済まない。父が振り返り、険しい表情に戻って私を睨みつける。
「おまえも産まない方がよかったっていうのか? 伯父さんの言うことに賛成なのか?」
「……」
「お母さんが妊娠したって聞いたのは、玉枝が死んだ後だった。その子は玉枝の代りだと思った。忍も玉枝も失って、私たちは家族が欲しかった。おまえにだって兄弟が必要だろう?」
「普通の兄弟ならね。だって、そいつは母さんを無理やり犯した奴の子供じゃないか? 姉さんを殺したのもロシア人だ。父さんは平気なの? 母さんを犯した奴の子供なんて……」
「この子には責任がない。この子が産まれる前のことだ」
「僕はいやだよ。あんな奴の子供なんて、そいつの目の色、髪の色、膚の色…… 親父にそっくりじゃないか!」
「シッ! アキラが眼を覚ます」と、父が自分の唇に人差し指をあて、つい声高になった私をたしなめた。「この子はもう私たちの言っていることがわかる年齢だ。日本語がわかるんだ。聞かれたらどうするんだ?」
アキラに眼を向けると、彼は母につき添われながら安らかに眠り続けていた。もしも、この時の私の声が彼に聞かれてしまっていたら、それはこの後彼の中で恐ろしいトラウマに成長していたかもしれない。でも、構わない。そんなこと、知ったことじゃあない。私はまだ彼を自分の弟だと認めたわけじゃないのだから……
「この子の世話をみてくれないのか? 私たちはもう若くない。見たろう? おじいさんも、伯父さんも、この家の人たちはみんなアキラを身内とは認めていない。この先、きっと、この子が頼れるのはおまえ一人になってくるだろう」
「お父さんは平気なの? ロシア人が憎くないの? あいつら、中立条約を一方的に破棄して…… 終戦後も侵攻して…… 僕たちをあんなにヒドイ目に合わせて…… 向かいの安藤さん一家がどうなったか知っているの? ケンチャンなんてたったの16歳なのに、シベリヤか北満に連れていかれて…… 舞鶴に引き揚げ船が来て抑留された人たちが戻ってきてはいるけど、そんなのたったの一部じゃないか。働けば日本に返してやるだなんて、ソ連の口車に乗せられてさ、奴らの言う“ダモイ(帰国)”の日を信じて身を削って働いてきたというのに、最後には銃殺された人達が何人もいるって、帰還した人たちが証言していた。シンチャンが帰れたどうかわからない。ひょっとしたらもうシベリヤの凍土になっているのかも……」
父が黙り込んだのに乗じて、私はさらに言葉を放った。祖父も伯父も反共主義者だったから。この家で暮らしていれば、いくらでも共産主義を攻撃するための材料が耳に入ってくる。
「それにハルピンにいた白系ロシアの人たちだってどうなったか…… スターリンは自由を保証するだなんて言っておきながら、あの人たちだって粛清されたんでしょう? 反革命の罪を許すだなんてうそぶいて、帰国した人たちを処刑したんだ! あのパン屋の“フリェーブ”の小父さんだって、殺されたかもしれないんだ!」
「ああ、やめろ! ソ連の人たちのことばかり悪く言うのは…… じゃあ、日本人はなにをしたんだ? 中国や朝鮮、フィリピンやタイやビルマの人たちになにをした? 自分たちがやったことを棚に上げて、されたことばかり並べたてるのはやめるんだ!」
自分たちがやったことって……? 国を守った、家族を守ったんだ……
私たちのいるこの2階の部屋の壁一つ隔てたすぐ隣が、18歳で殉死した清彦さんの部屋だ。私はまるで自分の部屋のようにその部屋に出入りしていた。
タキさんは清彦さんの部屋をそのままにしている。息子の生前も自分が行っていたのだろう、掃除を欠かさずに続け、遺品の一つ一つを大事に扱っている。
「キヨもあんたのように突然家へ帰ってきてくれたりはしないかねえ」なんて、私に冗談混じりに言ったのを覚えている。「あんたがあの中村とかいう人と一緒にここへ来た時は本当に驚いたよ。こっちじゃあ、終戦後の外地がいったいどうなってるのかよくわからんから、あんたもあんたの家族も死んだんじゃないかって噂しとった。そこへ行方不明だったあんたが生きて帰ってきたんだからねえ。あんたを見て、キヨもそのうちふらりと生きて帰ってくるんじゃなかろうかって、思えてきたりもしてねえ……」
一時的にすぎないのだろうがそんな希望を与えた私を、タキさんは自分の息子の代わりのようにして可愛がってくれている。
「キヨの部屋に行ってみるかい? 本がいっぱいあるから。あんたも自由にあの部屋を使ったらいい」
そう言われて以来、清彦さんの部屋で決まった時間を過ごすのが私の日課になった。清彦さんは、満州から引き揚げて3年後の、ちょうどこの時の私と同じ年齢で死んだ。本棚には私も好きだった『のらくろ上等兵』や『冒険ダン吉』が並べられてあり、机の上には私も思わず欲しくなるような戦艦三笠の模型が飾られている。
私と共通するものが多い年上のいとこ。タキさんは初めて私と会った時、私の肩を掴み、私の顔を食い入るように見つめた。<違う、清彦じゃない>と、伯父さんに横から指摘されるまでの間、じっと…… 客間の壁に飾られた写真を見た限りでは、年齢も異なる年上のいとこと私の顔が似ているだなんて思えない。でも、似ているところもあるのだろう。タキさんは私を見て、自分の息子が帰ってきたと思いたかったのだろう。
私はこの部屋で過ごすたびに、会ったことのないいとこに思いを寄せた。
<本当は戦争になんかに行きたくなかったのよ>
そんなこと、考えてもみなかった。伯父さんの言うとおり、私の中のいとこは、英雄で、勇敢で、一点の曇りもない人だった。だけど、この夜、タキさんの言葉を聞いて初めて気づいた。そうだ、たったの18歳なのだ。恐ろしかったに違いない。もっと生きていたかったに違いない。時代は、そんなあたりまえの本心を表に出すことも許さなかったのだ。
なのに……
彼は、太平洋でアメリカの戦艦に突っ込んでいった。太平洋でゼロ戦の機体ごと突進し、ばらばらになって飛び散った。国を守るため、故郷を守るため、家族、恋人、友人、自分と繋がっているあらゆる人を守るために……
そうだよ。いとこにとってみれば、戦争は物心がついたときには既に始まっていたんだ。引き返せない状態、まっすぐ前に向かって突き進むしかない状態だった。世界最速の“あじあ”みたいに、ぐんぐん加速度をつけて突進するしかなかったんだ……
<突き進んでいっては駄目なんです。あの時は立ち止まらなければならなかったんです>
中村さんの言った言葉が耳にまとわりつく。内耳にこもり、重く脳神経にのしかかってくる。そのこともわかっている。わかっていながら、無理やりにでも頭からはねのけようとする。
<戦争そのものが間違いだったんです。だから、それに協力したことも間違いなんです……>
だって、その時にはもう家族を守ることしか考えられなかったんじゃないか。家族を守るためには、どんなことをしてでも勝つしかなかったんじゃないか。自分ひとりで何ができる? そうだよ、きっとそうなんだ。今、東京の靖国に奉られているいとこは、その務めを最後まで責任持って遂行しただけなんだ…… きっと、あの戦争では皆がそうだったんだ……!
「父さん……」と、私は言った。父が黙って顔を向ける。私は清彦さんの味方だ。父でも、中村さんでもない。死んでいった清彦さんの味方だ……
「父さんはアカだからそんなこというんだ。ソ連は中国共産党の手本だから。抑留されて、共産党に洗脳されたんじゃないの?」
「馬鹿!」
父の厚い平手が飛んだ。私は頬を抑えた。私は涙をこらえた。伯父さんに殴られたタキさんだって涙は見せなかったのだから、私もこらえた。
「おまえがそんなことを言うなんて思わなかった。おまえこそなんだ、アメリカのレッドパージの手先になって…… おまえこそ進駐軍の帝国主義に洗脳されたんじゃないのか?」
殴られた頬を手で押さえつけ、身動きできずにいる私の背後から、
「あなた…… アキラが起きます」と、母が助け舟を出してくれた。さっきは父が自分で大声を出すなと私をたしなめたくせに。父は恥じるように黙り込んだ。
<膚の色? そんなの関係ないよ>
<何故五族なの? ここにはロシア人もユダヤ人もいるのに>
以前黄に言われたことが頭に蘇ってくる。キタイスカヤの通りで、日本の敗戦が知らされた日、光復を祝う大勢の満人たちが街頭へ繰り出した日に……
たった3歳の子供には責任がない。そんなことわかっている。わかっているけど……
彼の目の色、髪の色、膚の色。
その父親を思い出させる、ある日の朝、道端に倒れていた父親のことを……
私の頬に涙がこぼれた。父に打たれてヒリヒリする頬の上を、やけに生暖かい涙がこぼれた。こらえようとするが、無理だった。タキさんのように強くはなれなかった。
「……」
「どうした? おまえ」と、父が尋ねる。「泣いているのか? この子が弟になるのが、そんなに嫌か?」
「父さん…… 僕……」
「どうした?」
「僕…… その子の父親を足蹴にした……」
「え?」
「足蹴にしたんだ。あの人、もう死んでいるのに……」
「何を言っているんだ?」
「その子の父親が倒れていたのを見たんだ。銃で撃たれて、体から血を流して、倒れていた……」
「それで……?」
「僕はその人にヒドイことをした。何度も、倒れているその人の脇腹や尻を蹴った。だって、憎くて憎くて仕方なかったんだもの。でも、あの人はすでに報いを受けていた。命を取られたんだもの、十分に罪を償っていた。なのに、そんな既に死んでしまっている人に、僕は何度も……」
私は声をあげて泣き出した。アキラが起き出すかもしれない。わかっていても、とめどなく溢れてくる涙は抑えようがなかった。
父は眉間に皺を寄せ、厳しい顔をして、私の言うことを聞いていた。
「おまえが足蹴にしたのは、この子の父親じゃない。この子の父親は私なんだ……」
涙が収まると、鼻をすすりあげ、母のところへ行った。
母は私を見上げ、笑いかけてくれた。それから目配せして、傍らで寝ているアキラをそっと示した。
私の弟、私の新しい家族。アキラが寝ている布団にそっと手を掛けた。脆い壊れ物を扱うかのように、こんもりと盛り上がった掛け布団の上から静かに手で撫でさすった。私の掌の下で、アキラはそのまま安らかに眠り続けてくれていた。
<膚の色? そんなの関係ないよ>
久し振りに黄の声を聞いたような気がした。