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弁護士の永野靖さんへのインタビュー

2015年、同性婚法制化を求めて日弁連に人権救済申し立てを行った「LGBT支援法律家ネットワーク」や、国や自治体に差別禁止と支援を義務付ける法律の私案を発表した「LGBT法連合会」などの活動に携わってきたオープンリー・ゲイの弁護士、永野靖さんへのインタビューをお送りします。

弁護士の永野靖さんへのインタビュー

2015年4月、LGBT支援法律家ネットワークが同性婚法制化を求め、日弁連に人権救済申し立てを行いますと発表(詳しくはこちら)を行い、7月に実施されました(詳しくはこちら)。5月には、LGBT法連合会が、国や自治体に差別禁止と支援を義務付ける法律の私案を発表(詳しくはこちら)、8月には毎日新聞がこれを全面的に支持する社説を掲載しました(詳しくはこちら)。10月には「中野LGBTネットワーク にじいろ」という団体が立ち上げられ(詳しくはこちら)、区長らが登壇するシンポジウムが開催され、盛況を博しました。これらすべてにかかわっていた弁護士の方が、永野・山下法律事務所の永野靖さんです。おそらく日本で初めてゲイであることを公表した弁護士の方ですが、あまり表に出るタイプの方ではないため、きっとご存じない方も多いと思います。g-lad xxでは、2015年に活躍した方たちのなかの一人として、弁護士の永野靖さんにお話をお聞きしました。とても真面目な方ですが、にこやかで優しく、人間的なチャーミングさも併せ持った、素敵な方です。そういう人となりの部分も伝わるといいなあと思い、永野さんのゲイとしてのライフヒストリーもお聞きしてみました。(聞き手:後藤純一)


——永野さんは最初は銀行にお勤めだったんですよね? 弁護士になろうと思ったきっかけは何ですか?

日本でもこれから同性愛者の法律問題に取り組む弁護士が必ず必要とされる時代が来るだろうと、それに取り組みたいと思ったからですね。というのは美しい理由で、銀行の仕事がいやだったんですね。私は1959年生まれの56歳なんですが、1983年に商工中金という金融機関に入って、ちょうどバブルの時期で、不動産融資とかを億単位でとってくる人が褒められた。私は優秀な営業マンではなかったので、ノルマ達成にも苦労したし、このまま銀行で一生働いていくのかと思うと、うーん…という感じではあった。支店長になるような人は、ほぼ100%結婚している、そういうなかで自分が生きていくのはしんどいだろうなという思いがありました。

——僕も最初、銀行関係の仕事をしていたので、よくわかります。銀行を辞めて、同性愛者の法律問題に取り組む弁護士になろうと思ったんですね。もともと法律の勉強をされていたんですか?

大学では経済学部でした。法律のことは全然。最初、宇宙人の言葉か?と思いましたよ(笑)。でも当時は、司法試験も旧制度で、誰でも受験できた時代。私以外にも社会人リタイヤして受験する人はたくさんいました。

——畑違いだったところから勉強して司法試験に受かるってすごいことですね。

まる6年かかりました。

——そうでしたか…ともあれ、合格できて本当によかったです。同性愛者のための弁護士、という志を抱いていた永野さんですが、銀行マン時代にも何かそういう活動をされていたんでしょうか。差し支えなければゲイヒストリーもお聞きできればと思います。

小学校の頃は、女の子とばかり遊んでいたり、自分のことを「オレ」と言えなかったり、同級生から「女っぽいな」と言われたこともありました。でも勉強ができる優等生だったので、特にいじめとかは受けずに済んで。中学に入り、男子が女性のヌード写真を回し見して喜んでいたのが理解できず、自分は奥手なんだと思っていました。一方で、男性に性的に惹かれてはいたのですが、世の中に全く情報がなく、同性愛という観念すらなかったので、自分がゲイだということがずっとわかりませんでした。高校2年か3年のとき、渋谷の大盛堂という本屋で、当時は男の裸の写真ってスポーツ雑誌くらいしかなかったので、アメリカのボディビルの雑誌を読んでいた。そうしたら、1枚のチラシがはさんであったんです。何だろう?と思って見てみると、東郷健さんの「ホモパーティ」のお誘いのチラシでした。

——ええっ? なぜそこに?

ゲイが興味を持って見るってわかってて、たぶん誰かがはさんだんだと思います。ああそうか、と。「ホモ」と呼ばれる人たちは、こういうボディビルの雑誌を喜んで見るんだな、と。待てよ…ということは、自分もそうなのか!と、そこで初めて「ホモ」と自分が結びついた。ものすごいショックでした。「ホモ」っていうのは変態性欲者だと思っていたので。同級生が「プールでホモに声をかけられた」とか騒いでいたけど、まさか自分がそうだったなんて…。不治の病にかかったくらいの絶望感を味わいました。

——世間のホモフォビアがそのまま自分に向いてしまったんですね…。長年、いろんな方のゲイヒストリーを聞いていますが、ボディビル雑誌にチラシがはさまっていた話は初めてです。結局、そのパーティには行かれたんですか?
 
怖くて行けませんでした。その後、受験勉強に専念し、第一志望の大学に入りました。大学時代も、うすうすそういう世界があることは知っていながら、乱交パーティみたいなのではなくもっと真面目に仲間に知り合える機会はないものだろうかと思っていて、二丁目などにも行かず。心理学や精神分析の本をひもといても「性的倒錯」「異常性欲」ということしか書かれてなくて、よけいに混乱して…。やがて大学を卒業して、金融機関に就職して札幌支店に行ったんですが、地方だとなおさら何もなく、100%ノンケ生活。2~3年くらい経って、このままじゃいけないと思い立って、学生時代の先輩の男性に手紙で「実は私は男性が好きで…」と書いて相談したんです。そうしたらなんと、その先輩が心のこもった返事とともに、『薔薇族』と『アドン』を送ってきてくれたんです。

——いい話ですね~。初めて見たゲイ雑誌がノンケさんから送られてきたものっていう話も、永野さんらしいですね。

送ってくれたはいいけど、文通欄とか怖くて使えなかったし、どうしようと思っていた。で、私の目に留まったのは、南定四郎さんが立ち上げた「IGA日本」という団体の集まりがあるよ、という記事。そこなら真面目な人がいるかな、と思った。でも、それでもなかなか決断できなくて、1年くらい悩んでて。このままじゃダメだと思って、えいやって初めて連絡をとったのが、26歳の夏(1985年)でした。お盆休みに、ドキドキしながら事務所を訪ねました。身分がわかるものは一切持たず。行ってみたところ、普通の人たちがいた(笑)。そこが私の出発点です。

——ゲイに対してものすごい先入観を持ってたんですね(笑)。でもそういう時代だったんでしょう。

南さんには札幌で集まりを企画してみませんか?と勧められて、やることにしたんです。札幌に学生時代の知り合いがスタッフをやってるミニコミ喫茶があって、そこで定期的にゲイのミーティングを開いてました。すすきののゲイバーに行ったこともあったけど、全くなじめず…。私にとっては、そのミーティングが唯一の、ほかのゲイの人と知り合える機会でした。しかし、周囲にバレることを怖れて、来られる方は名前も連絡先も秘密にしていたため、友達ができることも、パートナーができることもなく…。

——それはさびしいですね…。

ちょうどその時期に、アカー(動くゲイとレズビアンの会)も設立されて。私は1987年に東京に戻ることになり、それでアカーにも顔を出すようになりました。翌88年は、南さんのIGAが活動停止状態になっていて、私は居場所を失って、なんだか気持ちが弱気になってて、そんなときに、親戚のおばさんが女性とのお見合い話を持ってきたんです。私も、もし相手の方がいい方だったら、好きになれるかもしれない、なんて思って、つい、受けてしまったんです…。幸い、向こうから断ってきたからよかったものの。非常に苦しくて。

——もし、お見合いで話がまとまってたら?

結婚してたと思いますよ。お見合いは本当につらかったです。演じている自分がいて、本物の自分がそれを天井から見下ろしている、そんな感覚でした。お見合いしたのが88年の冬でしたが、それからは、お見合い話がきても断るようにしました。

——『偽装の夫婦』じゃないですけど、当時はそういうことが普通にあったんでしょうね…。

弱気になると、やっぱり女性と結婚するしかないのかな…と思ったり。今でも本意じゃなく異性と結婚する人、いますよね。そういう人たちの話を聞いていると、当時の自分と重なって、つらさがよくわかります。

——弱気になるっていうのは、ゲイとしてやっていくんだ!と自分をしっかり保つ気持ちが揺らいで、周囲に流されるというか、周りの人が受け入れてくれる生き方を選ぼうと思ってしまうということ?

その通りです。ゲイとして生きるのはエネルギーが要る。実際、ある程度、IGAに顔を出してても、素敵なパートナーができたわけでもないし、楽しいものでもないな、という感じになると、ぐらっといったりする。

——なるほど…。その後は、ゲイとして生きていこうという強さを失わずにやってこれたんですね?

お見合いをした1988年はIGAが動いてなくて行き場がなかったんですが、単発企画で南さんが「ハーヴェイ・ミルクの時代」の上映会をやって、それはそれで観ると感動しましたね。それから年末に、南さんがIGAで日本のゲイの差別の実態を調査する「アイスバーグ・プロジェクト」を立ち上げた。そこに参加してて、アカーの方にお会いして、電話相談をやるから来ませんか?と誘われて、行くことにして。そのあと、89年の2月にアカーで合宿があって、私はそのとき29歳でしたけど、同世代以下の20人くらいの人たちが参加してて、お互いのライフヒストリーを語り合ったりして、すごく気持ちが癒された。

——そこでやっと吐き出せたというか、自分を肯定できた?

そうなんです。あの子かわいいね、みたいな話を当たり前のようにできる空間が、初めてで。とても癒されました。そういうこともあってアカーの方に頻繁に顔を出すようになって、ゲイとして生きていくってこういう感じだったんだ、と実感できて。一人暮らしを始めたこともあって、仕事以外の生活のかなりの割合がゲイのことになっていきました。

——ゲイライフを楽しめるようになって、自分はゲイだというアイデンティティを得られたんですね。

それとともに、銀行の仕事がいやになる気持ちもどんどん高まっていき…。日本でも将来、同性愛の権利のことって必ず問題になるよね、という話も出ていて。1990年の1月頃には中川重徳さんという弁護士の方に、司法試験を受けてみようかと思ってるんです、と相談していました。そんな矢先、90年2月に府中青年の家事件が起きたんです。

——その場に居合わせていたんですね? どんな感じでした?

府中青年の家で合宿をやることになって、そこはリーダー会という、各団体が簡単に顔合わせで自己紹介をする場があったんです。そのリーダー会でアカーをどう紹介するかが問題になって。私たちは同性愛者の団体で同性愛者の権利の普及を目的に活動していますと言うのか、お茶を濁すのか。3回くらい話し合って、いやだって言う人もいたんですが、結論としては、本当のことを言おう、ということになりました。アカーの規約のなかに目的っていうのが3つあったので、それを言おうと。いざ当日を迎えると、初めからドキドキしていて。リーダー会に出たのは風間くんと永田くんだったかな? その場はたかだか5分くらいで、なんということもなく終わったんです。でも、そのあと、部屋に戻ってまったりしてたら、高校生のメンバーが2人いたんですが、「ホモって言われちゃった~」って言いながら部屋に入ってきて。「どういうこと?」って聞いたら、ほかの団体がすれ違いざまに「こういつらホモの団体なんだよな」と言ったと。それだけでなく、たぶんリーダー会に出席してる大人から聞いたんでしょう、中学生か小学生のサッカークラブの子たちが戸をどんどん叩いて逃げていくっていうことを2回くらいしたり、お風呂に入ってたら「あ、おかまがいる!」って騒いだり。

——ひどいですね…。

これはちゃんと所に申し入れをしようってことになって。翌朝、所の方に申し入れをして、最終的に、再度リーダー会をやってくださいとお願いをして。サッカークラブはすでに帰ってて、女性の合唱のサークルとキリスト教の団体の方が来られて。合唱団の方は、「うちの団員が、面白おかしく話すのを私も聞きました。申し訳ありませんでした」と言ってくれた。「そうですか、ありがとうございます」と。でも、キリスト教の団体は、全然認めてくれず、挙げ句の果てに聖書のレヴィ記か何かの同性愛を禁じた一節を読み始めて…。

——そういうのって日本でもあるんですね!

リーダー会に出席していたメンバーが頭にきちゃって。所の人がおさめて。これじゃ納得できない、と。それでああいう展開になった。

——歴史の一場面。貴重なお話をありがとうございます。府中青年の家裁判のこともあって、弁護士になろうという気持ちを強くしたんですね?

いよいよ決意が固まった、という感じですね。

——これから、同性愛者の味方になる法律の専門家がきっと必要になる、自分がそこで役に立てれば、という気持ち。プロフィールによると、晴れて弁護士になったのは、2000年ですね?

1992年の8月に商工中金をやめて、司法試験の勉強を本格的に始めて、98年に受かった。その間に府中青年の家裁判は進んでいて。91年に提訴して、94年の3月に地裁で勝訴、97年9月に高裁判決で勝訴が確定。受かる前に結審したんです。その間にすごく…特に一審で勝訴したときに、世の中ががらっと変わりました。提訴のときは、メディアもまともに取り合ってくれなかった。内外タイムズは一面トップで取り上げてましたが、「私たちをばかにするんじゃないわよ!」みたいな見出しで…色物扱いでしたね。勝訴判決が出てやっと、人権問題なんだということが世間に浸透しました。空気が変わっていって。

——テレビで勝訴のニュースを見たのを憶えています。アカーの方が顔出しでテレビに出ていて、ビックリしました。すごいインパクトがありました。見事、司法試験に合格したのが1998年で、実際に弁護士として活動を始めたのが2000年?

司法試験に受かると司法修習っていう研修があって、そのあと、2000年の10月に弁護士登録しました。

——永野さんと初めてお会いしたのは2011年の「石原都知事の同性愛者差別発言に抗議する」デモでした。そのときにお尋ねしたら、私はFacebook上でもゲイだと公表してますよ、とおっしゃってて。僕が『バディ』で編集をやっていた頃(1996年~2005年)、誌面上で法律相談をやってくれたゲイの弁護士さんが何人かいらしたんですが(本当にお世話になりました)、Webサイト上でもオープンにしてるような弁護士さんは永野さんが初めてで、たぶん日本初じゃないかと思いました。ただ、永野さん自身は「私が初です!」と広くアピールすることもせず、ごく自然に、という感じでしたよね。

司法修習の間、青年法律家協会っていう人権問題に関心を持った法律家が集まる団体に入ったんですが、人権問題に関心があるなら、と思って、周囲の大丈夫そうな人たちにカミングアウトしてたんです。そのうち、いいやと思って、週に1回ニュースみたいなのを作って配ってたんですが、そこに同性愛の記事を書いて、私自身もゲイであると書いたのが全修習生に配られました。それで公表をしたかたちです。修習が終わって、法律事務所への就職活動をしていたときも、同性愛の法律問題に取り組みたいと話して面接を受けました。最終的に、東京南部法律事務所っていうところが採用してくれました。

——いくつか受けたなかで、断られたりしたこともありました?

それはまあ、ゲイだからというのとは違うんでしょうけどね。直接は関係ないと思います。1ヵ所だけ、うちの弁護士のなかにどうしてもいやだという人がいるので、ごめんなさいと話してくれたところがありました。

——正直ですね~。でも「同性愛者と働くのはどうしてもいやだ」と言っちゃう弁護士さんって、どうなんでしょうね…。しばらく東京南部法律事務所に勤めて経験を積んで、最近独立したということですね。

10年くらいそこにいて。2012年7月に「永野・山下法律事務所」を立ち上げました。

——今は念願叶って、LGBTの法律問題に取り組む弁護士として生き生き、活躍されています。LGBT法連合会として差別禁止法への提言を行ったり、同性婚法制化を求めて日弁連に人権救済申し立てなども行って。 

前の事務所でも、私もオープンにしているし、どういうことをするかも自由でしたので、セクシュアルマイノリティの相談を受けていました。頃合いかなと思って独立して。そんなに私も、自分でどんどん企画を立ててやるほうではなくて、たまたま世の中が動き出してきて。特に今年、劇的に動きましたよね。1月に山下さんが、同性婚の人権救済申し立てをやろうって言って、ぜひやろうという話になって。そしたら2月に渋谷の話が出てきて、国会で議連が3月にできて。LGBT法連合会もでき。6月には連邦最高裁の話(全米で同性婚が承認)が出て…。怒涛のような。決して私自身が何か立ち上げたというわけではなく、たまたま時代が動いてきた。私自身はもちろん、ワンノブゼムとして地道にやってきたとは思うけど、おそらく私みたいな人はいっぱいいるし、そういう人たちが、この何十年、地道にやってきたのが、ここでぶわーって花開いてきたんだと思うんです。

——本当にそうですよね。

要するに、時が来た。

——その「時が来た」時に振るえる腕を、と、はるか昔から考えて準備してきたのが永野さん。

いやいや、そんなかっこいいもんじゃない。結果論です。

——2015年にこうなるとは誰も予想してなかったと思いますが、結果的に今年、永野さんがものすごく重要なお仕事をされてきたと思います。なので、この機会に永野さんのことをみなさんに知ってほしいと思った次第です。最後に、今後の目標とか夢みたいなことがあれば、教えてください。

私もそんなにしっかりした目標とか夢とかはなくて、日々やるべきことに追われている。ただ、LGBT差別禁止法を実現し、同性パートナー法なのか同性婚なのかわかりませんが、それはやりたいですね。あとは、私自身、異性とお見合いをしたという話をしましたが、今でも、異性と結婚しようか悩んでいるという話は聞きます。でも、もう、意に沿わない相手と結婚しなくてはいけない時代は終わりにしようよ、と思いますね。もちろん、個々の人生の選択であって、良い悪いではないのですが、私自身は苦しかったし、話を聞いてると、やはりつらいとおっしゃる方が多いので。

——本当に好きな人といっしょに暮らせるという、当たり前のことができる世の中に。

もちろん、カップルだけが人生じゃないので、シングルでもいい。シングルのセクシュアルマイノリティの…たとえば、私にとって、老後って切実なんです。五十肩になって、肩が思うように動かなくなっちゃって。不自由というか、老いを自覚しています。周りの人はみんな若いので、気持ちは若いつもりでいるけど、客観的には56歳。最近、切実にひしひしと感じています。実は今、母が老人ホームに入っているので、度々行くのですが、こういう施設でセクシュアルマイノリティがストレスなく生きていくって無理じゃないかな…と、すごいストレスがあると思う。さすがに職員が「ホモ」だとバカにすることはないだろうけど、すぐに「結婚は?」「お子さんは?」という話になる。セクシュアルマイノリティの居場所がないと感じます。在宅でも、ヘルバーさんからそういう話が出ますよね。セクシュアルマイノリティが、老後であっても、ちゃんと性的指向や性自認が尊重される社会を。それは私自身の問題でもあるので、同時並行で作っていきたい。自分自身が、ある意味、実験台みたいな。それはやっぱり、私の世代がやっていかなきゃならないと思っています。

——本当に立派な目標ですね。きっと永野さんなら、そういう社会とか制度作りに大きな力を発揮されることと思います。これからもご活躍を応援しています。どうもありがとうございました。