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札幌のケンタさんにインタビュー

札幌でパレードがスタートした1996年から実行委員をつとめるとともに、クラブパーティを盛り上げ、多くのパフォーマーを育て、若い方たちの心の拠り所となるようなお店を運営してきたケンタさんにお話を聞きました。

札幌のケンタさんにインタビュー

ケンタさん(37)は、札幌でパレードがスタートした1996年から実行委員をつとめ、実行委員長となった2003年には市長さんの招聘に成功し、実行委員を退いた後も若い方たちの相談に乗り、ずっとレインボーマーチを支えてきた方です。またイベント団体「Qwe're(クィア)」の代表として前夜祭をはじめとするゲイナイトを盛り上げ、ドラァグクイーンやGOGO BOYなど多くのパフォーマーを育ててきた方でもあります。そして、ケンタさんが手がけた「Break」「Hearty Cafe」「ID」といったゲイバーは、若いゲイたちが自分らしくいられるような(セクシュアリティを肯定的に受け容れられるような)居場所となってきました。ある意味、札幌のゲイシーンのとても大事なところを一手に引き受けていた方です。(『バディ』誌などには何度も登場していますが)そんなケンタさんにあらためて、18年のレインボーマーチを振り返って、インタビューしてみました。(聞き手:後藤純一)


——レインボーマーチ、本当におつかれさまでした。第1回のパレードは1996年で、そのときから実行委員をやってたと思いますが、その時ケンタさんは何歳でしたっけ?

19です。

——遊びたい盛りの19歳でパレードにかかわってたというのもスゴイし、当時、東京ですらけっこうパレードを歩くのをためらう人も多く、まして地方都市となるといろいろ厳しかったと思いますが、どうして実行委員をやろうと思ったんですか?

周りの友達がオープンで、パレードやるって言うから、そういうものだと思って。

——なるほど、そういう環境だったんですね。「Qwe're(クィア)」というイベントサークルを立ち上げたのもその辺り?

第2回の年からですね。それまで札幌ミーティング(※初期の頃にパレードを運営していたHSA札幌ミーティングという団体)がイベントを主催してたけど、回数も限られていたし、こうしたいっていうことを1つ1つ会議にかけなければいけなくて、もっと風通しよく自由にやりたいっていう気持ちもあって。

——札幌のほとんどのドラァグクイーンやGOGO BOYの方は、「Qwe're」のナイトで育ってきたんだと思います。以前『バディ』誌の記事に書いてありましたが、オーガナイザーのケンタさんは、そういうパフォーマーの方たちにテストを受けさせて「ゲイプライドとは?」みたいなことを教育していたというお話を聞いて、スゴイと思いました。

(笑)出演者がそういう気持ちを持ってないと、お客さんにも伝わらないと思うので。お店でも「ゲイでよかったこと」みたいな話をするようにしています。

——ナイトもやりつつ、そういう自分らしくいられるような(セクシュアリティを肯定的に受け容れられるような)お店もやりつつ、パレードもやって、札幌のゲイシーンはケンタさん抜きには語れないものがあると思います。

ありがとうございます(笑)

——パレードの運営って本当に身を削るようなしんどさがあって、僕も1回やっただけで倒れそうになりましたが、ケンタさんたちは10年もがんばって続けて。さすがにこれ以上は厳しい…ということで若い方にバトンタッチしたんですよね?

そうですね。10回目を機に。幸い、やる気のある若い子たちもいたので。それと、もう自分がやらないほうがいいんじゃないかと思う部分もあった。というのは、みんなが僕の言うことを聞きすぎるっていうか、本当はこうだと思ってても、僕がこうじゃない?って言うとみんな従ってしまって…そういうのは健全じゃないな、と思ったんですね。正直、大変だったっていうのもあるし。パレードやってるからお店にお客が入っていいわね、なんて言いわれたりもしたけど、パレードをやる準備の大変さでお店が開けられないこともままあるし、ぜんぜん潤ってたわけじゃないんです。自分は経営者なので、従業員もいるし、お店をちゃんとやる責任があるとも思っていた。なので、実は8回目の時から若い子に入ってもらって、やり方を学んでもらってたんです。

——そうだったんですね…。で、いざバトンタッチして、15回までは新しい実行委員の方たちもがんばったけど、「第11回以降、委員の入れ替わりが多くなり、運営に関わるノウハウが継承されにくくなっておりました。今回、過去の実行委員長経験者が中心となって2013年開催を決定しましたが、個々の事情により、以降の継続的開催は困難であるとの結論に達しました」という事情で、今回を最後にしようということになって、昔やってた竹村さんとかも戻って、最後にみんなでやったんですね。 

まず、11回目に引き継いだ。彼らはよくやったけど、12回目の人に何も引き継がなかったんです。なので、結局ぼくらがそれをやらなくてはいけなかった。いろんな手配をしたりして。で、ほぼ未経験だった12回目の実行委員たちが、13回目、14回目とがんばって続けてたんですが、もたなかった…。今回も12~14回目の子たちが実行委員に入ってて、「ケンタさんや竹村さんがやってる時に実行委員会に入ってたらよかった、そしたら違ってたと思います」って言われたときに、そっか、って…ものすごく反省しました。一緒にやるか、外で見守ってるかどうかって、密度が違うんですよね。苦労を共にするとか、方向性とか。そういうことを教えられなかった。

——そうでしたか…

ゲイナイトもそうで、パレードが10回目のときに、ぼくは徐々にフェードアウトしようと思って、下の世代に徐々に受け継いでるんだけど、ゲイナイトで何が大切なことかっている明確なビジョンを後輩に伝えられないし、なかなか難しくて…すごく後悔してます。

——後進の育成っていう点ではすごくうまくいってるイメージがあって。何が大切なのかっていうことを、いちばんしっかり教えてた人だと思ってました。

教えてたのを、下の子たちに教えるものだと思ってたんだけど…そこを見誤ってた。そこが最大のミステイクだった。これは話すと「え?」って言われるけど、僕はいつ死んでも悔いはないと思ってるんですよ。でも、唯一後悔してるのが、世代交代問題。まさか自分がレインボーマーチをファイナルにするとは思ってなかったです。

——自分が生み出して大事に育てたパレードを、自らけじめをつけるという皮肉?

僕は変な権力者みたいになるのがいやだったけど、もしかしたら周りはそのほうが動きやすかったかもしれない、まとまりが生まれたかもしれない。正直、今でもどっちがよかったのかわかりません…。もう、怒ってくれる人がいなくなっちゃったんです。さびしくなっちゃって。僕まちがってませんか?って誰に聞いたらいいかわからない。

——なるほど…ちょっとせつないですね。とはいえ、札幌は、大阪とか名古屋に比べたら、すごく早くパレードを始めて、ゲイタウンを巻き込んで、すごくいい形でやってきたと思う。コミュニティ的なものとリブ的なものとクラブ的なものがバランスよく達成されてるから、全国からたくさんの人たちが集まってきて、みんな「よかった」「ありがとう」「札幌大好き」って言って帰ってくれる。それを作ってきたのはケンタくんの力が大きいと思います。振り返ってみて、パレードを今までやってきて、いちばんよかった、感動したっていうことは何ですか?

ぼくの中では市長さんかな。ぼくが実行委員長のとき。

——2003年ですね。

7月に統一地方選があったんですが、ぼくは「お祭りと政治の融合」ということを目指していて、候補者への公開質問状を実行委員会としてやりたい、と。その中に、確信犯的に「当選したらレインボーマーチを歩きますか?」と書いたんです。上田さんは「ぜひ参加したいです」と書いてくれた。で、上田さんの当選が決まったので、公開質問状をもって交渉に臨もうと。ただ、当選が決まったのが6月で、直後はすごく忙しいので、実質交渉が8月に入ってからになって。民主党の職員さんとかもすごく協力してくれた。落選した候補者の人も協力してくれたり。

——いきなり正面から行ってもなかなか取り合ってくれない。根回しが必要なんですよね。でもそうやって頑張ったおかげで、本当に市長さんが来てくれて、歴史が動きましたよね。しかもすごくいいことを言ってくれた。表面的じゃない、自分で考えてるってことがわかった。

誰かが考えたんですか?って民主党の人に聞いたんだけど、こういう言葉は使って、こういう言葉は使わないでくださいっていうことくらいしか言ってなかったそうなんです。当日まで周りの人たちもスピーチの内容がわからなかったって仰ってました。

——素晴らしい。スピーチが終わったあと、参加者の人たちがスタンディングオベーションした、あの感動は今でも鮮明に覚えています。

その後、市長に面会した時も、知事が参加しないことを心配してくれた。「交渉はしてるけど、まだなんです」って言ったら、「ぼく会ったときに言っときますよ、参加すべきですよね」って言ってくれた。

——そうなんですね? 上田さん、本当に素晴らしい方ですね! では逆に、さっきの話かもしれませんが、今までやってきていちばん苦労したこと、大変だったことは何でしょうか?

いっぱいあるけど…協賛取りがつらかった。行政の支援がない、予算もないけど、お金は集めなくちゃいけない。協賛取りの電話をかけるのがつらくて、一時期は精神安定剤飲んでました。東京は協賛するけど、札幌は人少ないからねって断られたこともある(笑)

——本当にご苦労されてたんですね…今まで本当におつかれさまでした。では最後に、レインボーマーチに参加してくれた人、協賛してくれた人、またはこれを読んでる人などに伝えたいことがあれば、教えてください。

レインボーマーチに協力してくれた人とか、尽力してくれた人とか、そういう人たちに対して、「ありがとう」って言葉じゃ軽すぎるっていう思いしかない。言葉にならない感謝しかない。できることなら、東京とかに行って、ひとりひとりにご挨拶したい。でも数えきれないくらいの人数がいるんですよね。そういうのもあったから、せめてちゃんときれいに終わらせなきゃって思った。直接お礼を言えないから、ちゃんと終わるっていうこと。

——きちんと有終の美を飾れましたね。

それで、何年後かわからないけど、年老いたときに、「あ、パレードだね」って歩けたらいいな、杖をつきながらでも。それが夢かも。

——きっとそういう日が来ると思います。

青春が終わっちゃいましたね。これからは、老後を見据えなきゃいけないって思ってます。

——まだ早いかも?(笑) でも、そういういろんな目標とか、未来のことを考えてるんですね。

6年ぶりに復活してよかったのは、あらためてここがホームグラウンドだと思ったこと。自分がしっかりしなきゃって思えたし。すごくよかった。自分っぽい生き方をひさびさにできた。

——本来の自分を取り戻したんですね。

充実した1年だった。若いときとは違う見方で、あらためてそこを見れたのはよかったです。

——よかったですね。本当にどうもありがとうございました!


 

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 ふだんのケンタさんは、そのスゴさは表に出さず、物腰がやわらかくて(ちょっとオネエで 笑)、とても親しみやすい方です(本当に偉大な人って、そういうものですよね)。でも今回は、その奥にあるものすごい強さを感じずにはいられませんでした。
 ここには書かなかったのですが、お話の中には「まだまだ地方でのホモフォビアは根深いんだなぁ…」と実感させられるような、悲しい出来事もありました。ケンタさんはパレードを仕切ってる人と見なされていることもあり、その矢面に立ってきたのです。また、パレードに限らず、さまざまな修羅場を乗り越え、大事なお店やイベント、愛する人たちを守ってきました。
「いつ死んでも悔いはない」という言葉に表れているように、ケンタさんには「誰に何と言われようと、ゲイコミュニティにとってプラスになることをやる」という揺るぎない信念があり、また、その信念を曲げずにやり通せるだけの天与の資質に恵まれていたからこそ、めげずにいろんなことをやってこれたのでしょう。
 これまで日本のゲイシーンで誕生しては消えてきたいろんな物事を思うにつけ、18年間の彼の軌跡はまさに奇跡のようです。
 ケンタさんは間違いなく札幌の、いえ、日本のゲイシーンにおける最重要人物だと思います。
 これから札幌に行く機会のある方はぜひ、「Hearty Cafe」に立ち寄ってみてください。
 
「Hearty Cafe」
札幌市中央区南5条西7丁目第一ファミリービル2階
011-530-6022
http://ameblo.jp/hearty-cafe/
https://twitter.com/Hearty_Cafe

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