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TVドラマ史上最もLGBTQが花盛りだった2024年1月クールを振り返って

『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』をはじめ、2024年1月クール(1月〜3月)はLGBTQを描くTVドラマが本当にたくさん放送されました。それらを振り返りながら、さらに一歩進んでゲイドラマの未来を思い描いてみます

TVドラマ史上最もLGBTQが花盛りだった2024年1月クールを振り返って

(『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』最終話より)


2024年1月クール(1月〜3月)は、おそらく史上最もLGBTQ(クィア)をフィーチャーしたTVドラマがたくさん放送され、しかもとても良質な作品がたくさん放送され、日本のLGBTQ関連のドラマの名作ランキングがあったら上位にランクインするような作品が何本もあるような、歴史的なクールだった気がします。それらを振り返って評価しながら、さらに一歩進んで、TVドラマの未来についての希望的観測を述べてみたいと思います。(後藤純一)
 
画期的に素晴らしかった「おっパン」
 
 これまでにない斬新な切り口で、最も面白く、感動的で、素晴らしかったのは『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』だったと思います。旧態依然としたジェンダー観に凝り固まった50代の差別的なおっさんが、たまたま出会った心優しいゲイの大学生のおかげで少しずつジェンダーやセクシュアリティに関する価値観をアップデートしていき、失敗もたくさんしますが、そのたびにちゃんと学んでいって、ついには立派なアライに成長するというお話です。
 第1話では、50代の中間管理職・沖田誠が、職場で「お茶は女性が淹れてくれた方がおいしいだろう」と言って嫌がられたり、引きこもっている息子・翔(かける)の部屋に遊びに来てくれていたゲイの大地に「ゲイがうつったらどうしてくれる」と怒鳴り込み、翔を怒らせたり…という、たいへんゲンナリさせられるスタートでした。しかし、理解あるお母さんのもとですくすく育った大地は、「ゲイがうつったら」と言われても笑って「そんなことありませんよ」と返す余裕があり、(明言はされていないもののたぶんクィアである)翔のことも心配なので、誠と友達になり、ゲイとかジェンダーとかサブカルとか世の中のいろんな事柄について一から教えてあげることにするのです。
 第4話で、大地がつきあっている大学の先輩・円(まどか)が登場。円は大学を出たら田舎に帰り、家業を継いで獣医となり、また、結婚して家庭を持つようにと親に言われていて、大地は円が帰省するときに、ご両親にと言ってプレゼントを渡すのですが(誠が選ぶのを手伝ったり)、結局円はカミングアウトできず、苦しみます。
 第6話の最後、誠がみんながいる場で二人がつきあっていることをアウティングしてしまい、その場が凍りつきました。本当にマズい…「やっちまった」という空気感でした。そうやって誠は何度も失敗を繰り返すのですが、そのたびに何が悪かったかを反省し、少しずつ学んでいきます。
 誠がだいぶマシになった頃、職場にもっとロコツなハラスメントオヤジがやってきて、若手社員が苦情を言いまくり、誠は板挟みに…という展開もありました(最終話では、そのオヤジが心を入れ替え、和解が成立。それも心温まるエピソードでした)
 第9話では、それまで姿を見せなかった(離婚して離れていた)大地の父親が現れ、「同性愛者は結婚が認められていないから好きな人とつきあったとしても法的に何の保障もされない」「世間でこんなに差別や偏見があってお前が苦労するのは目に見えている」という“正論”を滔々と述べます。それは息子のためを思って言っている言葉なのかもしれませんが、父親から放たれたあまりにも残酷な「呪いの言葉」であり、第1話では誠の言葉に笑って応じるほどの余裕があった大地が、さすがに動揺し、打ちひしがれ…観ているこちらが泣いてしまうくらい、本当に悲しい場面でした。(『女子SPA!』が理詰めで懇々と諭すこの父親を「理解がありすぎる」と称していて、なるほどなと思いました。例えば英国では3割の人が職場でカミングアウトしていない、不利になると感じているからだ、とか当事者でも知らないような情報を引き合いに出していて、LGBTQについてものすごく「理解」してるんですよね。でも、共感や支援的な姿勢に欠けています。知識とかなくていいから、何があっても息子を守るという親の愛を見せてほしかったです)
 最終話で誠は、大地の父親に「うちの子のことに口出ししないでほしい」と言われ、一度は距離を置くのですが、「俺と大地くんは友達なんだから」と奮起し、もう一度父親に対峙することを決意。沖田家が一丸となって作戦を練り、会席の場を設け、父親の前で一人ずつフォーマルな服を脱いで、翔が女子の服、姉の萌が自作のBL漫画をプリントしたTシャツ、お母さんが推しのアイドルのTシャツを次々に見せ、「これが私です」と言うのです…そのシーンには涙を禁じえませんでした。まるでプライドパレードのようでした。沖田家の応援を受けて、大地は「先輩とのつきあいをあきらめたら、俺が俺じゃなくなる」と言って、たとえ世間の差別や偏見によって苦労することがわかっているとしても、自らの幸せを貫くと父親に宣言しました(父親は残念ながら最後まで考えを変えずに立ち去りました…)。ラストシーンは大地と先輩の同性結婚式。誠は顔をくしゃくしゃにして号泣。祝福のムードのなか、大団円を迎えました(登場したお寺は、仏前結婚式を手がける川越の最明寺でした)

 誠は最初はひどかったけど、ずいぶん変わりました。それは根底に愛と友情の気持ちがある熱血漢だからであり、息子の翔が引きこもっていたことや、翔が性的マイノリティかもしれないということ(結局、翔は最後まで自身のセクシュアリティが何なのかは語りませんでした。そこもよかったと思います。どんなSOGIであっても尊重されるべきだし、「自分は何者なのか」をめぐる旅がどんなに長くなったとしても周囲の人は見守ってほしいです)、大地くんというよくできた人が友達として誠を辛抱強く教育してくれたこと、そういうリアリティと、いい意味でのフィクションの相乗効果で、奇跡が起きたんですよね。この通りにやれば誰もが変われるということではなく、夢物語かもしれませんが、でもそれは、本当に幅広い層の人たちの共感を呼ぶ夢物語、世の中を変えるような夢物語だったんじゃないかと思います。

 振り返ってみると、変わったのは誠だけではありませんでした。翔は学校に行けるようになったし、自分の将来を思い描けるようにもなり、ずいぶん成長しました。大地の先輩の円は初め、親にカミングアウトできず、苦しんでいましたが、最後には大地にプロポーズし、カミングアウトの決意もしました。
 当事者の中には、どうせ世間は認めてくれるはずがない…あまり目立たないようにしよう、人前で手をつないだりキスしたりなんて大それたことはやめとこう、といった「あきらめ」が一定あると思います(そのあきらめの壁を突き破って堂々と男どうしの大純愛ロマンを繰り広げてくれたのが『おっさんずラブ』だったんですけどね…)。誠の奮闘は、そうしたあきらめたりためらったりする当事者たちを逆に勇気づけ、PRIDEにつながる力を与えてくれた、つまり、最初は差別者だったのが、だんだんアップデートしていってアライになろうとする姿に当事者も励まされ、変わっていったわけで、そこもまた素晴らしいところでした。このことを描いたのは、実はとても重要だったのではないかと感じます。

   
ほかにもあったいいドラマ

 うっかり最初のほうを見逃して途中からになってしまったのでレビューは書かなかったのですが、NHKで放送された『作りたい女と食べたい女』シーズン2も、とてもよかったです。2022年末に放送された『作りたい女と食べたい女』の続編です。
 レズビアンであることを自覚して戸惑ったり迷いがあったりしながらも女性どうしの恋を育んでいこうと決意したシーズン1を受けて、二人の幸せなおつきあいが始まったのですが、二人で一緒に住むための部屋を探しに不動産屋に行き、同性カップルだと断られやすい、ルームシェアってことにしたほうがいいと言われ、二人の関係を「友達です」と言ってしまったことでも落ち込み…といったリアリティが描かれていました。その後、友人のアドバイスでLGBTQフレンドリー不動産屋に相談に行くという展開に(不動産屋のスタッフの役を一ノ瀬文香さんが演じてました)。そうして二人は無事に、「ここで二人で暮らすイメージを描ける」お部屋を見つけ、今までいろんな思い出が詰まった部屋をあとにし、新しい生活へ――というラストでした。
 なお、原作のゆざきさかおみさんは、先日の婚姻平等訴訟の判決を「一緒に見守りましょう」と発信し、共感を呼んでいました。

 もう一つ、日テレの『厨房のありす』が意外とゲイのことを深く描いていて、いいドラマでした。こちらは、事件性のあるメインストーリーとゲイに関する深い話が微妙に関係していて、最後盤まで観ないとゲイのことがどう描かれていたのかわからなかったという話があり、やはりレビューは書いていませんでした。
 基本は自閉スペクトラム症の料理人・ありすを主人公とした、生きづらさを抱えた様々な登場人物たちによる心温まるヒューマンドラマなのですが、ありすの父親(養子として引き取って育てた)・心護(しんご)がゲイの大学教授で、その研究室にもゲイカップルがいて、というなかなかのゲイ率の高さでした。最初はそれだけだと思っていたのですが、後半、ありすといい仲になる倖生(こうせい)が、実は心護がかつてつきあっていた晃生(あきお)の息子だったということがわかります。晃生は本当は心護と結婚して子育てすることを夢見ていたのに(『タンタンタンゴはパパふたり』に描かれたNYの動物園で実際にあった子育てをするペンギンのゲイカップルの話が引き合いに出されていました)、時代がそれを許さず(90年代です)、晃生は女性と結婚し、家庭を持ちました(が、のちに、会社のとある人物の謀略に巻き込まれて自死を余儀なくされました)。倖生は、父親がゲイなのにそれを隠して結婚した、自分は嘘から生まれた子で、本当の愛とは無縁だと思い込み、苦しんできたことがわかりました。ゲイがゲイとして生きるのが困難だった時代、(本当のことは知らない人がほとんどだと思いますが)実際にそうやって生まれた子どもがたくさんいるわけで、なかには倖生のように真実を知って苦しんだ人もきっといたことでしょう。そのことが日テレのドラマで描かれたということがスゴいと思いました。なお、倖生は、最終的には、父親がどんなに自分を愛していたかということを知って(自死にまつわる真実も明かされ)納得し、父親を許し、救われます。ハッピーエンドでホッとしました。(ただ、これまでいたはずの、倖生のように苦しんだ子どもたちのことを思うと胸が痛みました…彼らのケアはどのようにされてきたのかということも気になりました)
 全編を通じて、心護が幼かったありすを引き取って愛情を注いで立派に育て上げた、その父親としての素晴らしさが描かれていたことも強調しておきたいと思います(よく考えると、映画では『his』などがありましたけれども、同性愛者の子育てをちゃんと描いたドラマって初めてなんじゃないでしょうか。そういう意味でも意義ある作品でした)
 
 ほかにも(ちょっと手が回らなくて観ていなかったのですが)レズビアンが主人公の『チェイサーゲームW パワハラ上司は私の元カノ』というドラマや、ノンセクシュアル(恋愛感情は抱くが性的欲求を持たない人。ロマンティックアセクシュアル)の人物が登場する『瓜を破る』というドラマもありました。

 
『おっさんずラブ』のこと

 多くのファンがたいへんな期待を抱いていただけに、ちょっと残念な感じになってしまった(ある意味、「おっパン」と明暗を分けた)のが、『おっさんずラブ-リターンズ-』でした。
 シンガポールから牧が帰ってきて、コロナ禍をはさむ5年間の遠距離恋愛を経て、春田と牧はようやく“新婚”ふうふのような同棲生活を歩み出し、春田はラブラブでイチャイチャな日々を夢見ていたのですが、課長に昇進した牧は帰国早々、大忙しで、家事の分担など些細なことでケンカが増えていく…という出だしは、よかったと思います。二人が手をつないだり、ド直球に愛を叫ぶシーンには感涙させられました。ずっとこれを待ってた、これが観たかったんだ!と思いましたし、二人が家事の分担のことでケンカして、悩み事を同僚や上司に打ち明けたり相談したりするのも、すごくよかったです(同性/異性問わず、家事の分担とかやり方とか、問題になりますよね)
 しかし、第6話で、春田が「俺たちの場合、婚姻届を出すとか、そういうものがあるわけじゃないんで」と言ったのに対して武川部長が「そうだな。ただ世間一般の夫婦のように法的な根拠があったとしても、その愛が永遠に保証されるわけじゃない。お前たちのように仲間の祝福を受けるだけでも、俺は十分だと思う」と言って、婚姻が認められない現状を追認するものだと批判を浴びることになるのでした。最終話でも、牧が「どうなったら家族って言えるんですかね?」と言ったのに対して、春田が法律による証明や、結婚式、長い間一緒に暮らすことなどを挙げたあと、「いろんな形があってさ、いろんな正解があるんだろうね」とまとめてしまい、結婚できない不条理に異議を唱えることなく終わってしまいました。
 春田と牧のラブラブっぷりは素敵ですし、それを周りで応援してくれる友人たちも素敵なのですが(二人の親御さんも登場しましたね)、同性カップルが家族になろうとするときに直面する現実の諸問題を回避し、見て見ぬふりをしてしまっているだけでなく、結婚できなくてもいいじゃないかとまで言わせているのは、非常に残念でした。
 
 松岡宗嗣さんも『GQ』でこの問題を掘り下げていて、「『リターンズ』では「家族になる」ことをメインテーマで取り上げながら、むしろ現実の差別や不平等を肯定するメッセージを発信してしまった点に問題がある」と指摘したうえで、BL作品の隆盛に触れながら「非当事者によって非当事者のために同性愛が描かれ、そうした作品が増える一方、現実社会の当事者を取り巻く制度の不平等に対しては目が向けられず、当事者であることを公表し活躍している俳優もほとんどいない」と述べています。
 
 私は個人的には、武川部長がモテなさをこじらせ、ちょっと行動が変になってしまっている(視聴者の笑いを誘うような)キャラとして描かれていたことも気になりました。黒澤さんもなんだかストーカーみたいなキャラに見えました。ゲイであること自体はバカにしてないかもしれませんが、周囲のノンケさんが“ふつう”である一方、ゲイである主要なキャラクターが奇矯な行動の人として描かれる(イジられる)のは観ていて気持ちのいいものではありません(今までもさんざんそういうことがありました)。2018年版では、男どうしの恋愛を大真面目に描くぞ、絶対にゲイを茶化したりバカにしたりしないぞという鉄の意志を感じ、それが感動にもつながったと思うのですが、今回はなんだか…制作サイドのスタンスが変わってしまった印象を受けます。
  
 なお、『おっさんずラブ』をこよなく愛する苔さんという方が「「おっさんずラブ」卒業論文 ──「リターンズ」における同性カップルの描き方」というblog記事のなかで『リターンズ』の何がよくなかったのかを詳細に指摘したり、男どうしの恋愛を描いたドラマ群の中で『リターンズ』がどのように位置づけられるのかということを見事に分析したりしていて、唸らせるものがあります。苔さんは、映画やドラマなどの作品における同性カップルの描き方には「同化」志向(同性カップルと異性カップルを同じように描くスタイル)と「差異化」志向(同性カップルが抱える事情が異性カップルのそれとは異なるものであると描くスタイル)があり、おっさんずラブはどちらかというと「同化」志向のドラマだが、『リターンズ』では「同化」の描き方において踏み越えてはいけない一線を超えてしまった場面がいくつか見られ、そのことが問題だったとし、丁寧に検証しています。ぜひ読んでみてください。



「これは自分たちの物語だ」と心から思える作品をいつか観たい

 1993年、『同窓会』というゲイを正面から描いたドラマが日テレで放送され、二丁目の「ZIP」がロケ地に使われたり、TOKIOの山口さんと国分さんが出演したりもして、コミュニティ内でも世間でも話題になりました(ドラマの放送時には二丁目から人がいなくなったという伝説も)。ゲイのリアルを描いた部分もありましたが、かなりブッとんだエキセントリックな内容でもありました(面白かったんですけどね)。実は同クールにフジテレビの月9で放送された『あすなろ白書』でも西島秀俊さんがゲイの役で出演していました(そちらは柴門ふみさんの漫画が原作で、ゲイを異端者扱いせず、共感を呼ぶような描かれ方だったと記憶しています)。さらに同時期、フジテレビの深夜番組「Johnny」で、吉田利信さんがパパ役をつとめるゲイのホームドラマが放送されました(二丁目の『刀』のマスターや、光岡優さんというトランス女性なども出演していました。画期的な企画でした)。1993年がゲイドラマ元年と言えるでしょう。
 その後、ユーミンが主題歌を書いた『告白』(1997年)やつかこうへいの『いつも心に太陽を』をドラマ化した『ロマンス』(1999年)、上戸彩さんがトランス男性を演じた『金八先生』第6シリーズ(2001〜2002年)などがありましたが、多くはニューハーフや女装したママ(しかも中途半端な女装で朝方にひげがのびかけてたりするようなステレオタイプなイメージの)が登場するドラマだったり、BL的なドラマだった印象です。
 ドラマ界が大きく動いたのは2018年で、『おっさんずラブ』『弟の夫』『隣の家族は青く見える』『女子的生活』などが放送されました。翌年には『きのう何食べた?』の放送がスタートし、安心して観られる作品が増え、BLドラマもたくさん作られるようになりました。いわゆる世間の「LGBTブーム」を経て製作サイドの意識も変わり、当事者が監修に入ることも多くなり、飛躍的に質が向上しました。そうして画期的なLGBTQのドラマがいくつも放送されるようになったのが2024年の現在地です。いい時代になりました。めでたし、めでたし…と言ってよいでしょうか。
 
 ことゲイに関して言うと、(『弟の夫』でマイクを演じた把瑠都さんは例外的によかったものの)TVドラマに出ている人物が本当にゲイに見えるようなリアリティを感じさせることはほとんどなかった気がします。まず見た目が違いますし、出会いとか恋愛とかSEXの部分があまり描かれないですし(2019年の『腐女子、うっかりゲイに告る。』ではホテルでのSEXのシーンがありました。でも、男子高校生と既婚男性の「密会」で、後ろめたさを感じさせる設定でした)、二丁目とかイベントとか、ふだん友達と遊んでるときのノリみたいな部分も描かれてないです。

 海外に目を転じてみると、英国で1999年にゲイのラッセル・T・デイヴィスが脚本を書いた『クィア・アズ・フォーク』というセックスを含めてゲイの世界のリアルを正面から描いた画期的なドラマが大ヒットし、ゲイコミュニティからも熱い支持を得ました。それ以降、『glee/グリー』とか『Looking ルッキング』『ハリウッド』『It's A Sin』など、ゲイの監督がゲイの俳優を起用して製作した素晴らしいドラマがたくさん作られています。レズビアンでは『L word』がありますし、トランスジェンダーでは『POSE』という金字塔的な作品があります。欧米では、多様性を描くとしても、それがステレオタイプであっては意味がなく、様々な当事者の言葉を聞いて、当事者以外が考える人物像ではない本当の姿を描くことの重要性が叫ばれています(リプレゼンテーションと言います)。アカデミー賞は多様性に配慮した作品賞応募資格の新基準を発表し、様々なマイノリティが製作の現場に関わることを求めています。それはトランスジェンダーなど就業面で差別されやすい人たちに雇用を保障するという意味もあります。
 
 日本では、LGBTQを描く際に当事者の監修を入れたりして偏見やステレオタイプを払拭し、公正な描き方に配慮するというところはかなり頑張って取り組んできたのですが、その先になかなかいきません。アライとしてLGBTQ支援の気持ちでドラマをつくり、とてもいいメッセージを発してくれたりはするものの、ノンケの監督さんがノンケの俳優たちを使って描くゲイドラマなので、どうしてもゲイに見えない(世間的な”イケメン”の)俳優によるBL的な作品ばかりになってしまうのでしょう。当事者じゃない以上、ゲイのSEXにはあまり興味がないのでしょうし(本音では抵抗感もあるでしょうし)、二丁目やイベントでどんなふうに過ごしているか、友達とどんなノリで遊んでいるかといったことも、当事者じゃないとなかなかわからないでしょう。そこを突破するためには、やはり当事者の脚本、監督、俳優がもっとドラマ作りに参加しないと、という話になりますが、日本ではまだまだそういう方が少ないんだと思います(ゲイの俳優がカムアウトしようとしたら「そんなこと言ったら俳優の仕事はできなくなる、二丁目で働くしかなくなるよ」と事務所に止められます。まずそういう業界のありようが変わってほしいです)
 
 昨年末、日刊スポーツ映画大賞で主演男優賞に輝いた『エゴイスト』の鈴木亮平さんが受賞スピーチで「日本も日本にあった形で、当事者が自分たちの物語だと思える作品が増えたら」と語っていましたが(素晴らしい)、僕らも「これは自分たちの物語だと思える作品」が観たいし、映画やドラマの関係者の方々がみなさんそういう意識を共有する時代になってほしいと思います。『エゴイスト』はゲイのコーディネーターの方が入ったり、ドリアンさんをはじめゲイの方がたくさん出演したりして、かなり頑張っていましたが、TVドラマの世界でも、もっともっと製作現場にゲイの当事者が関わることが当たり前になってほしいと思います。
 いつか、テレビに映ってる登場人物が自分そのものだと感動するくらいのゲイゲイしいドラマが観られるようになる日が来るといいですね。

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