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COLUMN

杉田議員問題(4)『新潮45』10月号のこと

9月18日に発売された『新潮45』10月号で、「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という特別企画が組まれ、8月号での杉田議員のくだんの(「生産性がない」など)記事について反省するのではなく、開き直り、さらに悪質な言葉を垂れ流すに至り、再び炎上しています。

 

 『新潮45』8月号での杉田議員の「生産性がない」発言に対する世間の猛烈な批判を受けて、『新潮45』編集部は、反省するどころか、9月18日発売の10月号で「そんなにおかしいか杉田水脈論文」という特集を発表し、開き直って擁護に回りました。(暴力的な言葉を目にしたくないという方もいらっしゃるため、ここで再掲することはしませんが)特に小川榮太郎氏の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」という記事は、動物図鑑シリーズをヒットさせているぬまがさワタリ氏が「生物学の(大抵はどうしようもなく間違っている)知識のような何かを使って他者を差別する人間、巨大カワウソに食われて全滅してほしい」と怒りをあらわにするほど間違いだらけで、高橋源一郎氏が「公衆便所の落書き」と断じ、田亀源五郎氏が「感情の閾値を超えてしまった」と憤りをあらわにするほど、ひどいものでした(記事の内容を知りたい方はこちらをご覧ください)
 この件はすぐにネット上で炎上して広く知られるところとなりましたが、脳科学者の茂木健一郎氏が「新潮社の文芸書、新潮文庫に育まれてきた者として、新潮社の良心を信じたいです」とツイートしたり、小説家の平野啓一郎氏も「言葉に尽くせない敬愛の念を抱いている出版社だが、一雑誌とは言え、どうしてあんな低劣な差別に荷担するのか。わからない」と投稿したり、乙武洋匡氏も「神楽坂の社屋前でハンガーストライキでもしてやろうかと考えた」と語ったり、一部で有名なせやろがいおじさんも熱烈にLGBTを応援する動画をYoutubeに投稿したり、多くの人々が『新潮45』への批判の声や、LGBTへのエールのメッセージを寄せました。
 書店のなかには、『新潮45』の取り扱いをやめたところもありました。新潮社とお仕事をしている作家や翻訳者の方のなかには、仕事を降りると宣言した方もいらっしゃいました。

 19日、新潮社出版部文芸のTwitter公式アカウントが『新潮45』への批判のツイートをRTしたり、新潮社の創始者である佐藤義亮氏の言葉「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」という言葉をツイートして社内から抗議する姿勢を示し、岩波書店がこれに共鳴したり、応援の声が多数寄せられました(RTはあとで消されました) 
 21日、新潮社が異例の声明を発表。
「弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分に認識し、尊重してまいりました。
 しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらに鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。
 差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとともに育まれてきたといっても過言ではありません。
 弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です」
 これに対し、能町みね子氏が「謝罪はしないという強い意思の表明を感じました」とコメントしたのをはじめ、実際に傷つけてしまった当事者への謝罪の言葉もなければ、当該誌を回収するなどして責任を取ろうとする姿勢も感じられず、差別的な言説を垂れ流したにもかかわらず「今後とも(引き続き)」十分に配慮すると述べるのはおかしい、「まるで「内容ではなく表現が差別的」と言っているようだ」、「どうしてこのような、稚拙と言ってよい文章が公になるのか。会社の機構の方にも大きな危機を感じる」などと、批判が噴出しています。

 日々Twitter等での反応を見ていて感じたのは、杉田議員の寄稿が問題になった時よりも精神的ダメージを受けている方が多いということです。そんなに「やわ」じゃないように見える方が「新潮のひどい言葉がTLに流れてくるのを見るのがつらい。正直しんどい」と漏らしたり…。実は筆者自身もそうで、なんでこんなに落ち込んでるんだろう…と思うほどでした。
 もちろん、杉田問題も、今回の『新潮45』の一部のひどい記事も、受け止め方は、同じゲイであっても、人それぞれです。激しく怒っている人もいれば、深く傷つき悲しむ人もいれば、気にせずスルーしている人もいれば、もっと複雑な人もいます。それはそうなのですが、今回の件では、日本を代表する出版社のひとつである新潮社が、ある意味、確信犯的に、組織的に、LGBTへの暴力的とも言える言葉(ホモフォビア、ヘイトと言ってよいひどい言葉です)をぶつけてきたという事実にショックを受けたり、じわじわと心を蝕まれたり、立ち向かおうとして疲れてしまう方が少なくないのではないか…という気がします。
 トランスジェンダーの子どもで、テレビのニュース番組を見て「そんなにおかしいか」という特集を組んだ雑誌があり、なかにはLGBTを痴漢になぞらえた文章もあった、LGBTを公然と貶める勢力がメディアの中にあると知って、声を上げて泣き出した方もいたそうです(詳しくはこちら)。それから、Twitter上でYumikoさんという方が切々と語ってくださっていますが(こちらをご覧ください)、とうとう、自殺をするゲイの方も現れました…彼が首を吊った部屋に遺された遺書には「僕には生産性がありません」と書いてあったそうです…。絶句。言葉を失います。過去に自死で亡くなったたくさんの友人たちのことが思い出されます。
 自分という存在の価値を否定したり、生きてる意味がないと思わせたり、犯罪者と同列に扱ったり、そういうひどい言葉を浴びせられると、人間は、生きる気力を奪われ、虚無とか絶望という言葉がふさわしいような、黒い雲に襲われたような状態に陥ります。「世界の悪意」とも言うべきものに触れた人間は、「損なわれてしまう」のです。
 
 これを言葉の暴力と言わずして、何と言うのでしょうか。
 日本には暴力団を取り締まる法律というものがあり、暴力団に関わることも社会的に許されません。でも、言論の世界でいま起きていることは、言葉の暴力が野放しになっている、ということではないでしょうか。
 小田嶋隆氏が指摘しているように、おそらく、強大な権力の後ろ盾があって、取り締まられないだろうという確信があるからこそ、なのでしょう…そのこともまた、暗澹たる気持ちにさせます。
 このままLGBTへのヘイトスピーチがまかり通る世の中になれば、僕たちの将来は、どうなってしまうのだろう…。(実はすでに、アンチゲイの人たちが二丁目の路上でデモをして暴言を叫んだりということがすでに起こっていたりもするのですが)二丁目という街に集まって楽しむことができなくなったり、パレードができなくなったり、好きな人と一緒に暮らすことができなくなる時代に逆戻りするのではないか…そんなことを考えてしまいます。杞憂に終わればいいのですが…
 
 しかし、あきらめてしまってはいけないのだ、と思います。
 今回のさまざまな論考が含まれた特集を総括し、一つひとつ丁寧にどういう部分が差別的なのかを解きほぐしていくような作業も大切でしょう(清水晶子 東大教授がやってくださっています)
 鈴木賢 明治大学教授のように、ネットTVに出演して小川榮太郎氏と対決するようなことも、本当にスゴいと思います。明晰な頭脳、雄弁さ、鉄の心臓を持っていないとできないことですよね。尊敬します。
 レインボーアクションのように断固とした抗議声明を出すことも大事でしょう。
 新潮社への抗議行動も意味があると思います。9月25日(火)19時から「新潮45」編集部前で抗議デモが行われるそうです。詳しくは#0925新潮45編集部包囲のハッシュタグでご確認ください。

 なお、「言論の自由」という言い方によって今回のような暴力的な記事の出版をも容認しろと迫る向きもありますが、そうした物言いに流されず、間違っていますよ、ときっぱり言えるようになりたいですよね。
 小説家の近藤史恵氏は、こうおっしゃっています。「差別問題に両論併記を持ち出すことは「このマイノリティに生存権があるか、ないか、話し合って決めましょう」というのと同じことで、そのこと自体が差別だし、迫害なのです」

(2018.9.23 後藤純一)

 

(2018.9.27 トランスジェンダーの子どものエピソードを追記)

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