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COLUMN

『バディ』誌、25年の輝かしい歴史に幕 〜休刊に寄せて〜

ゲイ雑誌『バディ』が2019年3月号(1/21発売)をもって休刊することになったというお知らせに、衝撃を覚えた方も少なくないことでしょう。これは1本のニュースで済ませられるレベルの話ではないと思い、急遽、オマージュとしてのコラムを書かせていただきました。

『バディ』誌、25年の輝かしい歴史に幕 〜休刊に寄せて〜

 2018年12月23日、『バディ』誌の休刊が報じられました。
 あんなにスゴいゴージャスなビジュアルや、巷で話題になるようなキャッチーなコピーを提供し続け、全く勢いが衰えず、つい先日25周年を迎えてゴージャスな表紙の号(トップ画像)が話題になったばかりだった『バディ』が休刊するというニュースには、本当に驚きました。
「今後はデジタルメディアに特化したコンテンツやデザイン事業、定期的な制作物やムック本の販売に専念していく所存でございます」とのことですので、編集部自体が無くなるわけではないと思いますが、月刊誌としての『バディ』は、25年の輝かしい歴史に幕を下ろすことになりました。
 縁あって(本当にありがたいことです)1996年頃から2005年末まで、約10年にわたってライターや編集者としてお世話になった(今ライターとしてやっていけてるのは『バディ』のおかげ)ということもあり、休刊の知らせには、とても一言では言い表せないような思いが沸き起こりました(『ArcH』が最後を迎えた日のことを思い出しました)
 徹夜して朦朧とした意識の中でページを作ったり(でも夜中の編集部でいろいろくっちゃべって楽しかったり)、全国いろんなところに出張に行ったり、パレードでフロートを出したり、たくさんの思い出が走馬灯のように巡るのですが、個人的な思いについては(うっかり余計なことを言ってしまうのもアレですので)、みなさん、本当にありがとうございました、というお礼の一言にとどめさせていただくことにして、日本の今のゲイシーンの礎を築くことに多大な貢献を果たした『バディ』の功績を讃える、『バディ』の25年間の意義を振り返るコラムを書かせていただきます。
 
 インターネットというものが無かった1990年代前半、ゲイ雑誌の通信欄が主要な出会いのツールでしたから、みんなゲイ雑誌を読んでましたし、その影響力は絶大でした(広告だけで100ページ以上あり、雑誌とは思えない、電話帳のような分厚さでした)。そんななか、1994年に『バディ』(テラ出版)の0号が無料配布され、11月に第1号が創刊されたことは、二丁目に通う一人の当事者として、「なんか時代が変わるかも?」みたいなワクワク感を覚えさせるような出来事だったことを記憶しています。それまでの『薔薇族』では、「ホモは日陰者である」とか、「偽装結婚(あるいはレズビアンとの友情結婚)をして世間にバレないように生きたほうがいい」といったことも書いてあったわけですが、そうではなくて、ゲイであることを後ろめたく思わず、受け容れ、肯定し(プライドを持ち)、オープンで前向きな「ハッピーゲイライフ」を生きたっていいんだよ、というメッセージを打ち出しつつ、おしゃれなビジュアルだったり、イケメンだったり、カッコいい生き方だったりを提案する、そういう雑誌が、とうとう登場したのです。「僕が待ってたのはこういう雑誌だった!」と思った方は多かったはずです(特に若い方々は)
 『バディ』誌の登場によって、1990年代半ばから2000年代にかけて、若い世代を中心に、「日陰者のホモ」から「堂々とゲイとして生きるカッコよさ」へというパラダイムシフトといいますか、意識や感覚、生き方の大きな変化が生まれたと思います。
 90年代はゲイ雑誌に顔出しで登場することすらNGという方がほとんどでした(今のようなSNS上で顔出ししてる時代から見ると、想像もできないことかもしれません)が、『バディ』誌の「マチカドボーイフレンド」やイケメン特集、ナイスバディグランプリ(モデルさんの年間No.1を読者投票で決める企画)のようなページづくりによって、『バディ』に載ることがカッコいいこと、スゴいこと、という空気感が生まれ、だんだんと「じゃあ僕も出ます」という方が増えていきました。2000年代前半には(それまでJonathanさんのイラストだったのですが)初めてモデルさんの写真が雑誌の表紙を飾るようになり、エポックメイキングな出来事となりました(最初のモデルは、GOGO BOYとしても活躍していたTatsuroさんという方です。レジェンドですね)。バディの表紙を飾るようなイケメンが、GOGO BOYとしても活躍し、全国のクラブイベントに呼ばれ、スターになり、みんなの憧れの存在に…という流れは、オープンに、堂々と表に出るカッコよさを印象づけ、人々の意識を変えることにつながったと思います。
 1999年には札幌のパレードに日本初のDJフロートが登場し、2000年には東京でパレードとレインボー祭り(あの、サプライズで二丁目の夜空に花火が上がり、みんなが号泣し…)がありましたが、カラーページで(当時、ゲイ雑誌ではフルカラーのページは高いので、基本的にエロいページでしかフルカラーは使わないという暗黙の了解がありました)パレードを紹介し、全国の読者に鮮烈な印象を与えたと思います。そういう面での『バディ』の功績は計り知れません。東京と札幌のパレードだけでなく、大阪の「switch」や名古屋の「NGR(のちのNLGR)」といったHIV予防啓発のイベント、映画祭などにも協賛し(裏表紙が協賛広告に充てられました)、ゲイコミュニティにとって大切なイベントを支援してきたことも、強調しておきたいと思います(2000年〜2002年の東京、札幌のパレードは、企業協賛がほとんどない時代でしたので、バディが大口スポンサーとなり、フロートも出展して(G-menも同様でしたが)、パレードの屋台骨を支えていました)
 同時に『バディ』は、ただのエロ雑誌ではなく、DJ TABOさんや伏見憲明さんらの助けも借りて著名人のインタビューを掲載したり(DOUBLEさん、安野モヨコさん、湯川れい子さん、ピーコさんなど)、ゲイライフについての様々な特集を組んだり、ゲイ雑誌初のトランスジェンダーの特集を組んだり(『金八先生』の上戸彩さん役のモデルとなったFtMの虎井まさ衛さんや、上川あやさんが登場)、フルカラーの情報ページがあったり、伏見さん、北丸さん、タックさんらの連載があったり、意欲的な誌面づくりをしてきました。
 たくさんも漫画家さん(田亀先生も)やイラストレーターの方々、小説家の方々などに活躍の場を提供してきたことも、雑誌としの重要な役割の一つだったと思います。

 合コンバディや、周年パーティなどのクラブイベントを開催したり(一時期は「Qube」というクラブも運営していました)、サセコさんら人気ドラァグクイーンが登場する「ビデオバディ」なども製作したり、テレビ番組とのタイアップ、レスリー・キーさんとのコラボ、新宿2丁目プロレスとのタイアップなども積極的に行ったり、数え上げればキリがないほど、様々な企画にもチャレンジし、シーンを賑わせてきました。

 おそらく2000年代前半までは、『バディ』がゲイの世界の中心でしたし、編集部にはものすごい才能(タレント)が集まり、ものすごく大きなことが『バディ』の周辺で動いていたと思います。かつて『バディ』編集部で活躍していた方々が、いまでは世間で活躍していたりするのも、ゆえなきことではないと思います。
 
 ネットの普及によって通信欄が役目を終えて以降、ゲイ雑誌はコンテンツ勝負となり、DVDを付録につけたり、生き残りを賭けた、厳しい時代へと入っていくわけですが、今の編集部の方々は、現状維持という守りの姿勢ではなく、以前のゲイ雑誌の「掟」であったエロ雑誌の判型から脱して、ファッション誌のようなサイズに変えるという攻めに転じ、様々なチャレンジを重ね、ハイクオリティなコンテンツを制作し続け、衝撃的なコピーを次々に繰り出し…本当によくやってきたと思います。拍手!です。
 
 初代編集長の長谷川博史さんから始まって、数えきれないくらい大勢の人たちが交代で、編集に携わってきたわけですが(なかには、例えば「Badi」というあのロゴをデザインしたカサPのように、亡くなってしまった方もいらっしゃいます)、何百人もの人たちの思いや生き様、汗と涙が、その時々の『バディ』に刻印され、そして、彼らが辞めていった後もバトンは受け継がれ、その時代時代でゲイシーンを映し出す鏡となり、また、シーンを牽引する原動力となり、25年間、たくさんの読者の心を動かし、出会いを助け、幸せな気持ちにさせ、ゲイとして生きることに貢献してきました。本当に尊い、かけがえのない役割を果たしてきたと思います。今の編集部の方々のみならず、過去に編集に携わってきたたくさんの人たち、誌面に出てくださった方たちや協力者の方たち、読者の方たちと、握手したりハグしたりしたい気持ちです。みなさん、本当におつかれさまでした。ありがとうございました。


後藤純一(Junchan)



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