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白鳥健治『シックスストーリーズ(風が運んだ物語)』

白鳥健治『シックスストーリーズ(風が運んだ物語)』

ひさしぶりに白鳥健治さんが小説を寄稿してくださいました。いろいろな人の淡くてせつない恋心を描いた6編の小説が「回り続ける」、印象的な作品です。ぜひお読みください。

白鳥健治『シックスストーリーズ(風が運んだ物語)』

ひさしぶりに白鳥健治さんが小説を寄稿してくださいました。いろいろな人の淡くてせつない恋心を描いた6編の小説が「回り続ける」、新鮮な印象を与えてくれる作品です。ぜひお読みください。

 

 

シックスストーリーズ
(風が運んだ物語)

白鳥 健治

「私たちは時の回転木馬の虜
 戻ることはできず、
 過去を振り返ることしかできず、
 同じところを回り続ける」
(ジョニ・ミッチェル「サークルゲーム」)


第1話 木漏れ日  

 僕、ひきこもりですよ。もう長いこと。
 この春就職した会社を半年で辞めた。その後、なにをする気力もなく、冬眠中の熊のように家でじっとしていた。父も母も僕に愛想をつかしていた。僕なんて、なんで生まれてきたのわからない。世の中は嫌なこと、辛いことばっかだし。
 子供の頃からそうだった。学校では暗い奴だって馬鹿にされた。頭も悪いし、運動神経だってニブい。なにやったって駄目だし。得意なことなんて一つもない。それに、おまけに、ゲイだし……
 そうなんだ、僕は声が甲高いし、仕草だって女っぽい。それでみんなから苛められた。ホモだ、ゲイだ、オカマだって…… 
 会社でだって僕は相変わらずダメな奴だった。挨拶ができない、人とろくにコミュニケーションがとれない、お得意様の名前も覚えられないとかで、上司から毎日のようにガミガミ怒鳴られた。おまえなんか雇うんじゃなかったとまで。
 会社の中だけじゃないよ。外だって、嫌なことばかりだ。電車に乗れば、後ろに立っていたオッサンに睨まれた。僕がぼんやりドアの前に立っていたから、きっと降りるのに邪魔だったんだろう。チッなんて舌打ちし、ホームに降りてからもしぶとく僕のことを睨みつけていた。
 もうやだよ。こんな世界。こんなの毎日繰り返すなんて。
 だから、僕は逃げ込むように自分の部屋に隠れたんだ。ガキの頃みたいに。外には苛めっ子たちがうろついていて、僕のこと、探している。
 きっと僕はなにかの罰を受けてこの世に生まれてきたんだ。前世で罪を犯して、その戒めにと苦しみの多いこの世の中に、自分という欠点だらけの不完全な体を持って生まれてきたんだ。どういう罪なのかは知らないけど……
 もう何日も外へ出ていない。誰とも口をきいていない。カーテンを閉めきって、昼間は寝ていて、日が落ちたらゴキブリみたいにのそのそ布団から這い出して、衛星放送の映画を立て続けに観て…… 
 だけど、だけどさ。その日は偶然、昼間目が覚めたんだ。薄暗い部屋の中へ、カーテンの隅間から洩れてくる一条の陽射し。なんか柔らかくて、眩しくて、あったかで。久し振りだなって、感じた。こうして太陽の陽射しを浴びるのは。
 一気にカーテンを引き開けた。外はよく晴れていて、明るかった。
 どういうわけか、外に出た。公園に行って、ベンチに腰掛けた。花壇の花。鳥のさえずり。子供の遊ぶ声。猫の無邪気な仕草。木々の緑の匂い。新鮮な空気。枝葉の隙間から洩れてくる木漏れ日。
 あの日の光と、時たま降ってくる雨と、種や花粉を飛ばす風。陽射しと雨と、風の運んでくれるものを受けて、草や木が生まれ育つ。その草を食べて、牛やウサギや羊が育つ。ツバメは餌を捕食する時、嘴を広げて飛ぶだけでよいという。そうしたら、勝手に空中を漂っている虫が口の中に入りこんでゆく。どうやらこの世界は自然に命が育くまれるようにできているらしい。
 肩に踊りかかる優しい陽射し。そうなんだ。罰とするには、世界はあまりにも美しくできている。ここは牢獄なんかじゃない。だとしても、自然という面会人からの差し入れは、どの囚人にも平等なんだ……
 そんな時、彼を見かけた。なにげなく通りがかった商店街のレストラン、そこに彼はいた。僕は店の前で足を止め、ガラス窓から中を覗き込んだ。そうして暫くそこに佇んで、給仕の制服姿で片付け物なんかをしている彼をじっと見つめていた。
 人を好きになる。その気持ちはゲイもストレートも変わらない。生きてゆくうえでの活力となるその喜びは、こうして自分にも与えられている。
 マザーグースの詩にこんなのがある。
 牢屋に二人の囚人がいた。
 一人は鉄格子の窓から泥を眺め、
 一人は月を眺めた。
 ああ、今、僕の目の先に見えるものは、せわしげに体を動かしながら、それでも疲れなど感じさせないさわやかな笑みで客に応対している彼の姿だ!
 またここへ来ようと思った。帰り道、僕は再び空を仰いだ。よく晴れた真っ青な空だ。

第2話 待ち合わせ

 ここはいつもの場所。駅前の交番。ああ、僕にも遠くから人知れずこっそり眺めるだけの人がいるんですよ。
 その人に会うために、こうして毎日、外へ出ている。僕も今はプータローで、とくに用なんかないのに、外へ出ている。だって、出ないわけにはいかないもの。外に出ていかなければ、決してあの人には会えないもの。 
 いつしかここが僕の大切な場所になった。ここで幾度かあの人を見かけたこともあるし、会えないこともあった。たったそれだけのことを楽しみにして、毎日出かけた。昨日は会えなかった。一昨日も駄目だった。そろそろ今日あたり、あの人はいるんじゃないか、その姿が見られるんじゃないかって……
 この日も同じ場所でじっと立っている。もう何十分、何時間も立ちつくしている。仕事帰りの勤め人たちの姿が俄かに多くなる。赤い電灯の灯る交番の中から青いシャツを着た制服姿の警官が一人出てくる。がっしりした体つき。腰には警棒。両腕を後ろに組み、幅広い胸を張り、警戒するように混雑した駅前の通りを見渡す。でも、その警官は、物々しい職業のわりには人の良さそうな顔をしている。彼は怪訝そうにすぐ横にいる僕のことをジロジロ見た。
 そりゃあ、もうずっと同じ場所で立っているんだもの。不審者と見られても仕方ないよ。その日がハナキンで、他にも待ち合わせらしき人たちがいるけど、もう3時間も同じ場所にいるんだもの。優しい顔をしたお巡りさんだって、怪しく思うに違いない。
 恐れをなしてその場を離れようとすると、背後から不意に、
「待ち合わせ?」
 穏やかな声だ。でも、向うは職質のつもりかも。なにせこっちはもう3時間もこのあたりをうろうろしている不審者なんだから。
 とりあえず、「はい」と、返事をしておく。
「なんだ、今日は会えなかったの?」
 余計なお世話だ。関係ないじゃん。別にいいだろ? こうして立っているだけだもの。誰が誰を好きになろうと、そんなの自由なんだから! 
 でも、おとなしく、「はい」とだけ、返事をしておく。
「さっきからもうずいぶん待っていたんでしょう?」
 やばっ。やっぱり向うは気づいていたんだ。ストーカーみたいに僕がもう何時間もここにいて、物色するようにチラチラ覗き見ていたこと……
 震える思いで、「はい」と、返事をする。
「残念だったね。まあ、元気だしてね」
「は、はい。ど、どうも……」
 ああ、おまえが出てこなければ、もっと長くここにいられたのに……!
 心の中で毒づきながら、急ぎ足で立ち去る。警官はまだ僕のことを見送っている。ニコニコ笑みを浮かべて…… どこへ行くあてもないのだけど、とりあえずあいつの視界の届かない範囲に移動しなければならない。駅のコンコースへの道を辿り、咄嗟に駅舎の中に身を隠した。
 ああ、今日はたっぷり会えた!
 それから僕は、間近で見たあの優しそうな警官の顔を思い出しながら、どきどき高鳴っている胸の奥で呟いた。

第3話 雨宿り

 私だってね、片想いの人がいたんですよ。苦しいほど胸がどきどき高鳴るような人がね。でも、その人と出会うまでがたいへんでして……
 なんなんでしょうね、この世の中。世知辛いことが多すぎます。私はね、ある会社に勤めてもう勤続20年にもなるんですけど、職場ではお荷物なんですよ。ここ10数年のうちにワークフローっていうんですか、業務の仕方がずいぶんと変わりましてね。パソコンってものがどんどん社内に普及しだして、それをうまく使いこなせない社員はどんどん出世が遅れるようになったんですよ。私のようなベテランでもね、今はもう簡単に窓際ですよ。仕方ないですよね。私の学生時代はパソコンなんてなかったんですから。小学校の頃はまだ算盤の授業があったくらいで、パソコン教育なんて、何一つ受けていない世代なんですから。今日も会社でこってり怒られましたよ。「なんだ、このドキュメントは! 見づらいし、誤字だらけじゃないか!」って、上司にたんまりね。
 だからね、私、このまま会社のお荷物扱いでいるものかって、この年でパソコン教室に通いだしたんです。会社終わってから、毎晩、自腹でね。そうしたら、そこのパソコン教室の先生がね、若くて、今じゃイケメンっていうんですか? とにかく男前でして。私、一目で好きになりましたよ。「ここでこうドラッグして」なんて、マウスを掴んでいる私の乾いたカサカサの手の上から先生のツルっとした手がそっと添えられた時なんか、もう卒倒寸前。それから毎晩そこへ行くのが楽しみになりましてね。パソコンの腕もみるみる上達しましたよ。上司の私を見る目も違ってきました。
 ところが、先日、そのパソコン教室へ行ったら、いつもと違う先生がいて、あの先生はもう辞められたって、そう仰るんですよ。私、愕然としました。あまりのショックに目の前が真っ暗で、パソコンのモニターも真っ黒で(って、こちらはたんに電源ボタンを押し忘れていただけなんですけど)、とにかくもうその日の授業は頭に入りませんでした。
 あちこち探しましたよ。あの先生の姿を求めて。だって、また他の教室で先生やっているのかもしれないし、それがわかれば、私がその教室へ移ればいいんですからね。入学金が無駄にはなるのはわかっちゃいますけど。
 会社が終わってから毎晩ね、この街のあちこちを歩く。先生はそう簡単には見つかっちゃくれなかったけど、それでもね、それがなんだか凄い楽しみになりましてね。今夜はひょっとしたら先生に会えるんじゃないかって、希望に励まされるようでしてね。
 でも、その晩、私が街に一歩足を踏み出した途端、ぽつぽつ雨が降りだしまして。肩にかかる雨、とっても冷たいんですよ。それでもね、暫くはそのまま街の中を歩き進めていたんです。こんなの平気だって…… だけど、いよいよ本格的にザアザア降りだしまして、我慢できなくなったんです。ついてないですよ、まったく! あの人には会えず、会うための努力も止められてしまったんですから。なんだって私の邪魔するんだって、そう天の神様をどやしつけたくなるくらいでしたよ。
 私、泣きそうになりながら、近くの店の廂の下に駆け込みました。そこはコーヒーショップの前でして、他にも雨宿りしている人が何人かいました。その中に背の高い20代後半くらいの男性がいまして…… え? と、私は目を疑いましたよ。だって、よく見たらそれがあの人だったんですから。私の会いたがっていた、あのパソコン教室の先生!
 先生は私に気づき、「いやあ、久しぶりじゃないですか!」って、私のこと、覚えてくれていたんですね。「今も教室に通ってらっしゃるんですか? エクセルのグラフは作れるようになりました?」って、言葉が矢継ぎ早に出て、そしてそこがちょうどコーヒーショップの前であることに思いあたりましてね。「この雨、当分やみそうにありませんよ。どうですか、中で雨宿りしていきませんか? 積もる話もあるし……」
 ああ、私って、罰当たりですね。神様を恨むなんて。この雨、天の恵みだったんですよ。きっと私が彼との再会を諦めず努力を怠らないものだから、神様がご褒美にと降らしてくれたんですよ! 

第4話 傘

 雨? そりゃあたまに降る雨もいいもんだ。でも、俺にとっちゃあこの雨は生憎でね。
 俺は折りたたみ傘を手に掴んで、人ごみに揉まれていたんだ。いつもながらもの凄いラッシュだ。電車が各駅に停車する度、乗客が押し合いへし合いしながら降りてゆき、同じように乗車してくる。その度に俺は人ごみに押し出され、川底を転がる小石のように車両の中をあちこち移動する。
 神田、東京、有楽町。車窓に広がるビルの連なり。電車は首都圏の中心を走ってゆく。都会で働く者は皆、こうしているのだから仕方ない。新橋で新交通に乗り換える。
 え? ホームに降りたところで気づく。傘がない。掴んでいたはずの折りたたみ傘が、いつのまにか手の中からなくなっている。
 車内に戻ろうとするが、ダメだ。既に大勢人が乗り込んでいて、足を踏み入れる隙間なんかない。人がいっぱいいすぎて、車両の床なんか見えない。下に落ちている傘なんか当然。発車合図のメロディー。駅員のアナウンス。ドアが閉まる。ダメだ、ダメだ、ダメだ。もう諦めるしかない。電車が走り出す。10年間も使い続けた、俺の愛用の傘を乗っけて。俺はホームに残って、呆然と行き過ぎる電車を見送っている。
 言っとくけど、雨の日に傘を失くしたのが悔しいんじゃないよ。代わりの傘なんざ、駅の売店でだって買える。あの傘だから悔しいんだ。10年も使い続けたんだ、自然と愛着があった。他の傘はすぐ失くすのに、どういうわけかあいつだけは手許に残り続けた。だから、なんの変哲もない傘なのに、不思議なくらい愛着を感じていた。
 なんでぼうっとしていたんだろう? なんでしっかり掴んでいなかったんだろう? よりによってあんな満員電車の中に忘れるなんて。誰か優しい人に拾われて、大切に扱ってもらえればいい。だけど、さして高価でもない使い古しの傘なんて、誰が拾うだろう?  そのまま電車の中に放置され、大勢の乗客に踏みしごかれて、ボロボロになるのが関の山じゃないのか? そう考えると、辛かった。

 ヒロと別れた理由を俺は未だわかっちゃいない。理由があるとすればそれは、俺が長いことあいつを放っておいたからだろう。
 とにかく忙しかった。30代の働き盛りで、俺は仕事に夢中になっていた。夜は終電まで残業、土日だって働いた。あいつのことなんて念頭からすっぽりと消えていた。
 それまではあいつと俺は不思議なくらい長く続いていたのだけど。あいつが学生だった頃に知り合って、卒業して、就職して、それから3年ぐらい経つまで。他の奴らだったら、せいぜい1年も持てばいいほうだったのに。そう、他の奴らはつきあって1年以内に、デートをすっぽかしたとか、他に好きな人ができたとか、これからは勉学に打ち込みたいとか、髪型変えたとか、太ったとか、こんなヒドイ男だとは思わなかったとか、勝手な口実をつけて別れたがった。
 ヒロが消極的で、あまり外に出たがらないタチだからだろうか? 他の奴らは二丁目やハッテン場に繰り出したり、あるいは出会いサイトの掲示板に登場したりして、どんどん新しい相手を見つけていった。だけど、ヒロは違う。徹底したインドア派で、自分の殻にこもるタイプだ。二丁目なんかには行かない。行ったとしても店の中にまでは入れない。ネットはロムるだけで、掲示板にカキコなんてできないタチだ。もっとも俺があいつと会ったのは二丁目でだったけど、それだってあいつが二丁目のどの店にも入ってゆく勇気もなく公園のベンチでぼんやりしていたのを、3軒も梯子していい加減帰ろうとよい塩梅で公園を通りがかった俺が、「おや? あいつ、3時間前にもここにいた奴じゃん」って見っけて、「おたく、こんなとこで何してんの?」って話しかけて、それで知り合いになったんだ。
 あいつには俺しかいない、俺以外に相手を見つけられない。だから、俺の方から別れるって切り出さない限り、あいつとの関係は何年でも続くんじゃないか…… そんなふうに俺は錯覚していた。
 仕事に没頭するあまり、あいつと連絡を取り合わないでいる期間が、半年から1年になった。それでも、俺はまだあいつとは続いているものと思っていた。1年半後にあいつのとこに電話を入れたら、通じなかった。携帯は不通、メールは配信不能、有線電話は「この番号は現在使われていません」なんて、女の声が返ってきやがった。どっか引っ越したのか? そういえば最後に会った時、あいつは会社を辞めたいって言っていた。会社勤めなんてもう嫌だよ、性に合わないよ、なんて泣き言みたいに繰り返していた。馬鹿か?  あまったれんなよ。そう思ったけど、でも、まあ、若いうちはそれも仕方ないかって、放っておいた。だって、あの頃ヒロはまだ就職して3年目ぐらいで、慣れない社会人生活と、平和だった学生時代とのギャップに苛まれる時期だもの。
 でも、まさか、本当に会社を辞めたんじゃないだろうか? なにかの生活の変化が起きて、それで転居を余儀なくされたんじゃ……
 確かめる術なく、そのうち俺も引っ越して、今じゃ互いに連絡を取り合う手段をなくしてしまっている。あいつ、どうしているだろう? まだこの都会の中で暮らしているんだろうか? 仕事は続けているんだろうか?  あいつ、そうとう苦労していたんだろうな。人づきあいヘタだから…… 満員電車で、この都会の人ごみの中で、押されたり、踏まれたり、他人とぶつかったりして…… 
 俺はしばしば後悔にかられる。なんでしっかりあいつを見ていてやらなかったんだろう、あいつを掴んでいなかったんだろうって。いつのまにか俺の手の中を擦り抜けていった。人ごみの中に忘れてきて、どこかに置いてきてしまった。誰か優しい人に拾われればいい。だけど、俺と別れた時、あいつは既に20代の後半、今じゃ30を過ぎているだろう。そう多くは出会いが望めなくなっている年齢じゃないのか? 30代の需要なんて、どれだけあるのかわからないから……

 会社帰りに久し振りに二丁目を歩いた。ヒロを探すためだ。あいつが今は他の誰か優しい人と一緒にいて、幸せそうにしているのを確認するため。けど、どの店を覗いてみたってあいつの姿なんて見かけなかったし、噂一つ聞かなかった。
 そうだよ、あいつは徹底したインドア派で、自分の殻にこもるタイプだ。二丁目なんかには行かない。もしも二丁目で見かけるとしたたら、そこは……
 まさか…… と思いながら、通りがかる度に新宿公園の中を覗き込んだ。そこのベンチで一人ぽっちでいるあいつの姿なんて見たくなかったけど。
 ベンチに人影が見える。一人、二人、三人…… 三人目の影。スリムで細面の顔の輪郭。ふわっとした、首筋を覆う長めの髪。
「ヒロ!」と、俺は公園の外から叫んでいた。
 うぇっ。バッカじゃねえの? 俺って。一人ぼっちのあいつなんて見たくないって思っていたのに、あいつの姿の姿を目にした途端、「ヒロ、ヒロ」って口の中であいつの名前をうわ言のように繰り返し、犬みたいにハアハア息切らして駆け寄ったりして。
「おまえ、こんなとこで何してんだ?」って、それは10年前、初めてアイツとここで会った時の俺の台詞だ。
 人影はキョトンとして俺を見返した。街灯の光が、まだ若い20代の青年の顔を照らし出す。警戒するような迷惑げな視線が、冷たく俺を突き放す。
 違った…… 
「失敬」と言って俺はその場を離れた。
 再び二丁目の舗道に立ち、お仲間たちの闊歩する華やかなネオンに溢れた通りを見渡す。もうあいつがどこでどうして暮らしているのか知る術を俺は持たない……

 新橋で新交通に乗り換える。高架軌道を移動するゆりかもめの車窓の高みから、まるで未来都市みたいな臨海副都心の全景を眺め下ろす。一つ一つ眼で追うのが馬鹿らしくなるほどの都会の広がり。ここからじゃ遠すぎてよくわからないけど(おまけに雨も降っていたから)、そこにはたしかに無数の人がいて、敷石を引っくり返した後の蟻みたいにうじゃうじゃしているはずだけど……
 知らぬ間に手の中を擦り抜けていったお気に入りの傘。誰にも拾われず、人ごみに踏まれ、ボロボロになってゆくだけの傘。もう行方の追えないその傘を、俺は未だ未練がましく心の中で追い求めている。

第5話 リハーサル

 ああ、僕だったら元気ですよ。この都会の中で。今だってこうして大好きな男とレストランで二人きりで食事しているんですから!
「なあ、洒落た店だろ?」
 友人はモダンジャズの流れる落ち着いた雰囲気の店内を見渡した。なんとかっていうフランス料理が運ばれてくる。純白のテーブルクロスの上には、ナイフとフォーク。
「じゃあ、乾杯」
 友人がワイングラスを持ち上げる。カチリとグラスを合わせる。
 どうですか? 都会の人ごみで踏まれるばかりじゃないでしょう? したたかに生きているんですよ。彼はただの友人ですけど。でも、友人だったら長くつき合えるでしょう?向うが結婚していてもつきあえってもらえるし、こちらが他の誰と交際していようと別れる必要なんかないんですから……
 そう、実際、僕は彼につきあいたい人がいるって告げた。その人を今度食事に誘いたいんだけど、どこへ連れて行っていいのかわからない。なにせ、こっちは恋人いない暦ン年で、誰かを自分からデートに誘うなんて初めてだからって。
 そうしたら、彼が、「俺がいい店紹介してやるよ」って、ここへ連れてきてくれた。他にも「デートのことなんか、俺にまかせておけ」って、いろいろ教えてくれた。たとえば、食事中の話題とか、服装とか、テーブルマナーとか、食後の散歩コースまで。
「いいか、この公園へ誘うんだ」
 レストランからの帰り道、通りがかった公園へ連れ込み、友人は僕の手を握った。
「こうやって、こうやって……」
 ベンチに並んで腰かけ、僕の肩に手を回す。暗い夜の公園。あたりに人影はない。肩を撫でていた彼の手が、僕の首筋を這い、頬にまで達する。指先に力がこもり、顔をそちらに向けさせる。
 そうして、キスだ。
 目の前に口をすぼめた友人の顔があった。思いきって顔を近づける。
「はははっ、いいじゃないか!」
 唇が触れた瞬間、友人は笑った。
「しかし、いいよなあ。おまえには彼女がいて。だけど、今夜はただのリハーサルだからな。問題は当日うまくいくかだよな」
 まるで自分のことのようにあれこれ心配してくれている。
「じゃあな、幸運を祈るよ」
 駅で彼と別れた。その背中を見送り、僕は思った。
 本番は今日だ。
 僕は友人に告げた。つきあいたい人がいるって、その人を食事に誘いたいって…… もちろん、その人は男だ。それも彼自身。あはっ。そんなことまでは彼に話していない。向こうが勝手に勘違いしたんだ。
 それから、僕はもう一度胸の中で繰り返した。
 今日が本番だったんだ……

第6話 この世の果て

 友達って? そんなもの、それだっていつかは別れなければならないものでしょう? 
 すごい不幸だと思った。生きていけないくらい悲しかった。大地震と津波と竜巻とノストラダムスの大予言がいっぺんに来て、もうこの世の終わりかと思ったくらい。
 友達だっていつかは去るもの。ずっとずっと片想いだった人が、先月、会社を辞めていった。彼、結婚して、故郷に帰るんだって。故郷には彼のことを待っている、高校時代の同窓生がいるんだって。私だって彼のこと、入社して知り合って、5年も想い続けてきたのに。そりゃあ、高校時代からつきあってきたというその方には負けるけど……
 私、あんまり悲しくて、彼の退職する日、昼休みに会社を抜け出して、サボタージュの最中の営業みたいに近くの公園でぼんやりしていた。そうしたら、誰かの呼ぶ声がして、振り向いたらそこに彼が立っていた。
「どうしたんだよ? こんなとこで?」昼食を取りにいった帰りに私がぽつんと一人でベンチにいたのを見かけて、心配して立ち寄ってくれたらしい。「なにかあったのか? また仕事でヘマやらかして部長に怒られたのか?」ですって。自分が原因だなんて思わずに。「そうか、わかった。ふられたんだな?」って、急にニヤニヤしだして、「おまえ、言ってたじゃんか。好きな奴がいるって。知り合って5年も想い続けてきたって。そいつが誰なのか、おまえ、遂に白状しなかったけど。なんだ、とうとうその人から別れ話でも持ちかけられたのか?」
 私が頷くと、今度は自分のことのように怒り出して、
「そいつ、許せん奴だな。おまえのよさがわからないなんて。大馬鹿者だよ、まったく! なあ、元気出せよ。そんな奴、忘れてさ」って、ぽんって私の肩を叩いたの。その大馬鹿者って、自分のことなのに。
 ああ、本当にいい人だ。初めて会った時からその優しさって変わらない。私はもう暫く彼のこと、密かに想い続けてゆくのだろう。「そんな奴、忘れてさ」なんて言っていたその言葉に反して……
 その彼がいなくなった今は、辛くて、どうしょうもなく辛くって、自分の部屋にこもって、内側からしっかり鍵をかけて…… 
 でもね、こんな時にも、彼のことを想い出す度に、心の底をじんと暖めてくれる、春の陽だまりのような温もりを感じる。夏ならば海岸の砂浜、秋ならば目に染み入る夕焼けの陽射しのような温もりね。
 そう、不幸になるにはとても優しくこの世界はできている。幸福の予感で満ち溢れている。太陽。木漏れ日。そっと顔をなぶる風。その風が運んでくれるもの。木の葉や花びらや小さな雪の結晶や、そして愛する人の声、様々な物語。ぽかんと口を広げていれば、どんどん私の中に入ってゆくみたい。
 ずっと誰かに恋していた。少年の時も、青年の時も、壮年の時も、そして、今も。きっと、きっと、変わらないだろう。私がもっともっと年をとって、老人になっても。その恋が実る、実らないは問題じゃない。これは人が自然に備わった能力なんだと思う。自分が幸福だと感じ取れるようにって…… たとえ同性しか愛せなくても、その能力は私にも授けられている。間違いなく……
 人生は回転(メリー)木馬(ゴーランド)。空しさのあまり人を好きになる。そのことで悩み、傷つく。その繰り返し。くるくるくるくる同じところを回っている。でもね、たとえ同じことの繰り返しでも、時が経てば癒され、きっとまた別の誰かを好きになるでしょう? そしてまた同じように喜びを感じられる。外に出てゆきさえすればね。それだけは確か……
 ね、だから、私はひきこもりにはならないつもり……   
(了、もしくは第1話へ)

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