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白鳥健治連作小説『同じ色の膚』

白鳥健治連作小説『同じ色の膚』最終回(2)「再見!」

白鳥健治さんの連作小説『同じ色の膚』。男どうしで愛し合うにはあまりにも厳しい時代の淡い初恋を描いた大河小説のような趣の作品です。感動の最終回をお届けします。

白鳥健治連作小説『同じ色の膚』最終回(2)「再見!」

最終回(2)再見!

原爆ドームは、あの日この太田川の川辺で初めて見た時と同じまま、今も平和記念公園に建ち続けている。
<ココニ、イルヨ>
あの瓦礫の中で、ゲンチャンはその声を聞いたに違いない。まだ廃墟の中でバラック小屋を建てて生活している人のいることを知って、だから、あの時、ここに残ろうとしたに違いない。
自分の家族が生き残っている可能性。それは厳しいものになるだろう。それでも、ひょっとしたらと、この場所にとどまり続けた。そうでないと生きてゆけないからだ。
<ココニ、イルヨ>
私もその声を聞く。それは外地で会った少年の声だ。
<僕はココニイル、こっちの世界にいる。探しだして、見つけだしてよ>
彼だけじゃない。あの満州で会った人たちはあれからどうなっただろう……
1975年にゲンチャンと再会して以来、私は毎年、原爆記念日に広島に訪れるようになった。この平和公園の川辺でゲンチャンと会う度に、満州から一緒に引き揚げた人達が今どうしているかという話になる。
安藤夫人はどうしただろう? それに、無事日本に帰ってこられた夫人よりも深刻な気がかりとなっているのが、夫の安藤さんと息子のシンチャンだ。安藤夫人とは連絡を取り合っていないからわからない。終戦後、シベリヤ抑留者たちの引き揚げが始まってはいたけど。
1954年に菊池章子の「岸壁の母」という歌が流行った。ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立ち、復員名簿に名前のない息子を6年間も待ち続けたという母親を歌った歌だ。私はその歌を聴いて安藤夫人のことを思った。歌の主人公のように、舞鶴で、夫と息子を乗せた引揚船が訪れるのを待っている夫人の姿を思い描いたりもした。
1950年、中村さんは牢獄につながれた。先にも触れたとおり、コミュニストにとって厳しい時代だった。皇居前で人民広場事件が起こり、共産党の中央委員24名が公職を追放された。民間企業、官公庁においても数万人に及ぶ活動家が職場から追放された。デモも集会も禁止された。党員だった中村さんは、朝鮮戦争反対のビラを街頭に貼っていたところ、公安に捕まった。
私はその経緯をゲンチャンから知らされた。
「中村さんは気の優しい、どちらかといえば小心な人だったろう。責任感が強くて生真面目だったけどさ。山村工作隊や中核自衛隊なんて、あの人には無理だよ。やっぱり本人の言うとおり、反戦のビラを貼っていただけで捕まったんだろう。ヒドイ世の中だよ。まるで戦時中だ!」
服役した中村さんはゲンチャンと広島で再会した。原爆投下から10年後、第一回原水禁世界大会の会場である広島市公会堂で、中村さんと地元で地道に平和活動を続けていたゲンチャンは偶然再会し、たいそう驚いたという。
その時のことを思い出しながら、ゲンチャンはこう語った。
「俺はコミュニストではないけどね。でも、反戦・反核ということでは、中村さんたちとは共通するものがある。引揚船の中でさ、俺は中村さんに入党を勧められたんだけど、断わったんだ。俺は政治のことはよくわからないし、君ほどではないにしても、ソ連に対しては警戒心があったからね。それが10年後に一緒に活動するなんて思ってもみなかったな」
1962年に原水禁と原水協が分裂したあたりから、ゲンチャンは中村さんとは会っていない。自然と会う機会がなかったのだという。だけど、もしもまた中村さんと会う機会があり、彼が原水爆禁止運動に変わらない情熱を傾けているなら、是非また一緒に活動したいこともゲンチャンは語った。
「共産党も社会党も全共闘の学生たちも宗教団体も、皆、ヒロシマへ来ればいい。志が同じなら、ヒロシマは受け入れる。みんな、それぞれ自分の理想を掲げている。そのための手段や考え方は違っても、共有し合えるものがあるなら、連帯すべきだよ。反戦・反核。この大義を果たすべきなら、思想や宗教の違いは問題じゃないよ」

そして、黄は…… 黄はどうしているだろう?
「君の友達だけど、まだハルピンに住んでいるよ。君に言われたとおり、住所を調べておいたから、ここに記すよ。君から手紙を出すといい」
幸運にも犀さんからの返事が来て、1980年代の終わりには、犀さんを通して黄の居場所もわかるようになった。
原爆ドームはその年も同じ姿で私の前に建っていた。40年が過ぎても昔のままで……
私から出した手紙の返事に、黄から手紙が届いた。
彼の近況が語られていた。
そこには決して書かれていなかったけど、その手紙は私に文面以外のことも語りかけていた。
<ココニイルヨ、探し出して、見つけ出してよ>
でも、私にはためらいがあった。だって、中国は遠い。新幹線でふらりと広島に来るようなわけにはいかない。それに、私も黄も子供の頃の話だ。今頃会いに行ったって、迷惑じゃないのか? 私は今でも彼のことを思っているが、彼はどうだろう? 私に対して特別な感情などないのではないのか? 私は本当は彼に会いたいと望みながら、でも手紙を得たことで満足し、そのまま何年かを過ごした。
そして、さらに月日は巡り、1989年の終わりに中国からある手紙が来た。それは犀さんの家族からで、犀さんが亡くなったことを知らせた手紙だった。
犀さんにも会いたいと思っていた。気がつけば、私が犀さんの手に噛みついたことのお詫びもしていなかったのだ。
そうだ、月日はどんどん流れていく。そして私たちもいつまでもこのまま同じようにあり続けられるわけではないのだ。会いたい人がいたら、今会いに行かなければ…… でないと、その機会を永遠に失いかねない。
手紙の送り主は犀さんの娘さんで、住所は北京になっていた。
「父はあなたにとても会いたがっていました。あなたのお父さんにも。これは父が遺した手紙です。あなたに宛てたものです。たぶん父はこの手紙を何年も前に書いていながら、なにかの理由で手元に置いていたのでしょう。父が亡くなった今、この手紙はやはりあたなのもとに届けるべきだと思います」
私の父が亡くなってもう何年も経つのだが、生前の父について知らされたことが一つある。それは私が父の死について伝えた手紙の返信に、犀さんが遺してくれた書信を通して知ったことだ。
ただ、どういうわけか、その手紙は投函されずに長いこと犀さんの手元に置かれていたらしい。それをこの度、犀さんの娘さんが送ってくれたのだが、それには父と犀さんの出会いについて書かれていた。
「君のお父さんが亡くなったと知らされて、たいそう残念に思う。君のお父さんのことで、僕がまだ伝えていないことがある。それは僕と君のお父さんの出会いについてだ。
僕は炭鉱の事故で実の父を亡くし、金に困っていた。幼かった僕は、繁華街で裕福そうな日本人の男のポケットから財布を盗んだ。
僕は、盗みの現場をそばにいた他の日本人に見つかり、捕まった。僕は日本人に取り囲まれた。僕が満人の子供だとわかると、連中は目の色を変えて怒った。なんてガキだ、満人の盗人野郎、警察につきだしてしまえと、日本人たちは僕を警察に引き渡そうとした。
それを助けてくれたのが君のお父さんだった。待ってください、まだ子供じゃないですか、許してやってください、と僕を庇ってくれた。そればかりか、お金に困っているのならと、僕に金銭を与えた。僕がほんの少年だったから、おまけに父なし子だったから、哀れんでくれたのかもしれない。僕の父が撫順炭鉱で死んだことを知ると、僕のために仕事まで世話してくれた。金輪際、もう盗みをしなくてもすむようにと…… こんな恥ずかしいこと、君の家族には決して話せないことだった。だから、君の家に出入りしていたくせに、君にも君のお母さんにも黙っていたけど…… でも、君の家族の誰かには知っていてもらいたいと思っていた。
私と私の家族は君のお父さんによって救われた。だから、私も君たち、君のお父さんのご家族を助けなければならないと思った。だから、君のお父さんがソ連に拘束された時は、君たちのために自分にできることをした。光復の日、君がキタイスカヤの通りで満人たちに取り囲まれたことを覚えているかい? あれは、盗みを働いた僕が日本人たちに咎められて取り囲まれた状況とそっくりだった。その時に君のお父さんに助けられた。それがあったから、僕はなにがなんでも君のことを助けなければならないと思った。君の口を力づくで塞ぎにいったのだけど、おかげで僕は君に掌を噛まれたけどね。
君のお父さんは優しい人だ。君は共産党に留用されたお父さんのことを冷たく見ていたようだけど…… いつも強い者の側についていると言ったんだってね。長い者には巻かれろっていう諺が日本にもあるそうだけど、それはもとは中国の言葉だ。中国の伝説から来た言葉だ。昔、猟師が象の長い鼻に巻かれて運ばれていると、象牙のたくさん取れる象の墓場へ連れていかれた。それで猟師は大もうけしたという伝説から来た。力のある者に従っているとよいことがあるというのが言葉の意味だ。お父さんは君のためにソ連や八路軍のもとで働いていたんだ。それによって得られる富を、君や、君の家族や、他の弱い者に分けてあげることができる。人のために尽くすことができる。君の目には矛盾かもしれないけど、あの人はあの人なりに誠意を示そうとしたんだ…… なにもかも投げ出してしまえるほど人は強くない。たとえ、その勇気があったとしても、自分に守るべき家族がいた場合はどうなるだろう。自分一人が犠牲になって済む問題でもない。自分の理想を貫くことも大事だけど、周りの人達の身の安全を守ることも大事だ。君のお父さんはそれを実践していたんだと思う」

満州からの引き揚げの日、ハルピン駅のホームで、見送りに来ていた犀さんが私にこう告げたのを覚えている。
<君はお父さんのことを誤解している>
犀さんは父についてなにかを伝えたかったのだが、時間が十分でなかった。だから、<いつか機会があれば君に話すよ>と言って、話を途中で打ち切ったのだ。
あの時、犀さんが伝えたかったのは、この手紙のことではなかったのか。この手紙を読んで改めて父のことを考え直した。
家族のことを一番大事に考えてくれた父。そしてなぜか、いとこだった清彦さんのことを思い起こした。国を守るため、家族を守るため、恋人を守るために自分の命を捨てた清彦さんのことを。父がいるから私が生きてこれたように、戦争で犠牲となった方たちがいるからこそ、今の平和があるのだと……
父の命日の日、父と母の眠る墓石の前に手を合わせた。
「でも、お父さん…… あなたの生き方を否定するつもりはないけど、僕は僕の道を進んでいくよ。人にはそれぞれの生き方がある。そうでしょう?」
この時、私は決めたのだ。黄に会いに行くことを。
1990年の夏。例年と同じように8月6日の原爆記念日に私はゲンチャンと再会した。
原爆ドームは変わらない姿のままだ。ゲンチャンも私も変わり果てたもう老人の年齢なのに……
ゲンチャンは言った。
「決めたんだって? 中国に行くこと」
「うん」と、私は答えた。「10日後に日本を発ちます……」
「急なんだな」
「もう仕事もしていないので……」
「会ってこいよ」
「え?」
「会いに行くんだろう? 気がかりだった人に」驚いたことに、ゲンチャンはそんなこと、まだ覚えていたのだ。「君は引き揚げ船でうなされながらその人の名前を呼んでいたっけ」
私は答えられない。
「初恋、なんだろう? 特別だよな。どうしたって、忘れるわけないよな」
「うん……」
「今だって、好きなんだろう?」
「うん……」
「俺も一緒に行きたいけどな。蘭々はどこにいるのかもうわからないものな」
「……」
「俺もさ、蘭々に会いに行きたいのをさ、上野動物園でずっと我慢してきたんだ。君が年に一回ヒロシマに来るみたいにさ、俺も休みの日はぶらりと東京に行ったりしていたんだ。1972年にさ、ランランって名前のパンダが中国から来た時は、俺はあの子が来たみたいで懐かしかったんだ。人間の蘭々とは大違いだったけど、可愛いってことでは共通のものがあるからな。東京に行った時、動物園でパンダを見て、俺の中国人の娘(クーニャン)の蘭々はどうしているかって、恋しかったよ」
ゲンチャンは自分の話に自分でひっそりと笑った。
「じゃあな、来年の夏、また来るだろう?」
「うん」
「じゃあ、その時に話を聞かせてくれよな」
私は苦笑いを浮かべた。初恋の相手…… 黄のこと…… 1歳年下の、私と同じ男性である黄のことをはたしてゲンチャンに話せるだろうか? うちあけてみたいという気持ちはあるものの……
「じゃあな、ミッチャン」ゲンチャンは笑って、「再見(ツァイチェン)!」と叫んだ。満州にいた時代に覚えたはずのその言葉を、唐突に使った。
「再見!」と、私も手を振り返した。

中国への出発の日、空港には弟のアキラが見送りに来てくれた。
「ハルピンは僕が生まれたところでもあるんですね」
「そうだよ。アキラの生まれ故郷だ」
「僕の家族はハルピンの墓地に眠っているんですね?」
「そうだよ。君の姉さん二人だ」
そう答えたものの、アキラの言う家族の中にはハルピンで射殺されたあのソ連兵のことも含まれているのかという疑問が一瞬頭を掠めた。見せしめとして放置されていたソ連兵の死体が、あの後、地元に埋葬されたのか、本国に送られたのかはわからないが、そんなこと彼には黙っていた。私は話題を変えるつもりで、「おまえも一緒に行けたらよかったのに」と、言った。
「ええ、でも、僕は中国語なんか全然できないし、ハルピンにいたなんてまるで覚えていないんです……」
「中国にいた当時はまだ3歳だったからな。無理ないよ」
「それに、仕事もあるので…… 僕も兄さんのように、定年退職したら行きますよ。その時は女房と一緒に…… 向こうへ着いたら、お姉さんたちによろしく言って下さい」
「わかっている。姉さん二人に、僕たちの弟が日本で元気に暮らしていると伝えておくよ」
そうして私は北京空港行きの飛行機に乗った。犀さんの家族は北京にいた。最初に北京に寄り、犀さんの家族に会う。犀さんの家族にお礼を言う。それから北京からハルピンに向う。ハルピンに着いたら、姉と妹の眠る共同墓地に行く。その場所は外国旅行者が自由に立ち入れる場所ではないかもしれない。でも、行けるところまで行く。地元民に密告される心配がないなら、鉄条網を越えてでも入ってゆくつもりだ。
そして、ハルピンでの二日めに黄に会う。
スケジュールはできあがっていた。



北京で犀さんの遺族に会った。私に手紙を送ってくれた犀さんの娘さんだ。娘さんといってももう40歳に近い大人の女性で、結婚して子供だっている。犀さんは晩年はこの北京で、娘さん夫婦とその子供たち(犀さんにとっては孫ということになる)と一緒に暮らしていた。
「北京語がお上手なんですね。何十年も使っていないと聞いたので、通訳がいるのではないかと心配していたんですが……」
「私も、こんなに覚えているものかと自分でも驚いていますよ」
犀さんの娘さんとは北京市内の飲茶で落ち合った。彼女は、私の北京語を褒めながら、皿に幾つかの点心を取り分けて、私に差し出してくれた。
本場中国の点心。懐かしい味が口の中に広がった。
娘さんは犀さんの写真を収めたアルバムを持って来てくれていた。私の知らない時代の犀さん。見せていただいた写真の中ではどれも穏やかな笑みを浮かべていた。晩年の犀さんは、人の良い温和な好々爺といった感じだった。
「犀さんはどうして亡くなられたんですか?」「それが……」
娘さんは周囲を憚ってのことなのだろう、身を前に乗り出して私に顔を近づけ、小声で囁いた。
「殺されたんです」
「え?」
「父は天安門で殺されたんです。死因については、手紙には書けませんでした。検閲があるからです。この国の政府は天安門事件のことは他国に知られたくないのです」
「天安門って……」と、私も小声になって返した。「去年、民主化を求めて広場に結集した市民を人民解放軍が弾圧したとかいう…… あの事件の犠牲者に犀さんがいたというんですか?」
「ええ、父はその時73歳でした。もうお歳なんですから危ないことはやめてくださいって頼んだのですが…… 老人は若い人たちのためにあるって、きかなくて…… 昔から、弱い立場にいる人をほうってはおかない人でしたので…… 6月4日を境に、父は家に帰ってはきませんでした。14年前の四五天安門事件の時もそうでした。あの時もわざわざハルピンから駆けつけて、天安門広場での周恩来の追悼集会に出かけていったのです。それで警官に棍棒で殴られて、怪我をして帰ってきました。あの時と違って、今回は人民解放軍による無差別発砲ですから…… どうやら怪我だけでは済まなかったようです」
”長い物には巻かれろ”――その言葉の意味について手紙で知らせてくれた犀さんだが、単純にそれだけではなかった。それだけで終わらせてきたのではなかった。巻かれながらも巻き返す。抵抗の基盤を作る――それを実践してきたのかもしれない。
「さっき、検閲があるから、死因については書けなかったとおっしゃいましたが……」と、私は娘さんに尋ねた。「あなたが送って下さった手紙で、犀さんが最後に私に宛てた手紙もそうだったのでしょうか? あの手紙はなぜか投函されずに犀さんの手元に残り続けていた。あの手紙も検閲を恐れたから、犀さんは何年も投函せずに自分の手元においていたのでしょうか?」
「たぶん、そうだと思います。あなたに送る前にあの手紙を私も読みました。中には政府批判ともとれる箇所がありましたから。父が書いた文面のとおりの物があなたのもとに届いていればの話ですけど、あなたもお気づきになられたかと思います。あの手紙を書いた1976年の頃は、父は丁度四五天安門事件での市民運動に参加していた時期でもありましたので、多少神経質になっていたのかもしれません」

1990年、夏。北京の天安門広場はなにもなかったようにひっそりと静まっている。
犀さんの娘さんと別れて、私は一人この天安門広場まで来たのだ。生前の犀さんが自分自身の足で立っていた最後の場所に。
陽射しの降りかかるコンクリートの広場を、歴史博物館から人民英雄記念碑の方向に向けて、ゆっくりと横切ってゆく。
“生ぜしことを世界に告げよ”
胡耀邦の記念碑に小さく書き記された言葉を発見して、私は心の中で呟いた。
そうだよ、そうだよね、犀さん……
北京空港でハルピン空港行きの飛行機に乗った。いよいよ彼に会う時が迫ってきていた。

「あの時、私が中国人の少年のグループに絡まれた時、君が私をかばってくれなかったら、私はどうなっていたか……」
私は45年前の想い出の一つ一つをしみじみと語った後で言った。
ハルピン滞在の二日目。スターリン公園。なるべく人気の少ない所をと、二人で選んで座った江畔のベンチ。今、黄さんは私の傍らにいる。45年の歳月を経て、私の傍らにいてくれている。
「あの時は本当にどうもありがとう」と、私は両手を膝につけ、頭を下げた。
「ああ、なのに私は君にヒドイことをした。最後に会った時だ。君を突き飛ばした。私は君と同じ一つの国に住みたかった。それだけだったんだ…… 五族協和だなんて、そんな言葉の裏で、あんなことがあったなんて……昨日、私は共同墓地に行ってきた。その後、時間に余裕があったので、市の郊外にある “731部隊”の施設跡地にも行って来たんだ。ハルピンに住んでいながら、私はあんなことが行われていたなんて知らなかった。終戦後、ハルピンから引き揚げる間際にちらっとそんな話を聞いたが、そんなの嘘だろうと思って、信じちゃあいなかった。だけど、日本でもある推理作家が告発本を出版して、あの事件はよく知られるようになったんだ。戦時中、日本軍は捕虜を“マルタ”と称して細菌兵器の実験台にした。ひょっとしたら君の……」
急に言葉が詰まった。なにかがこみ上げてきて、その先を続けることができない。
「よして下さい。もう過去のことです」
「すまない、許してくれ、本当にすまない」
「何を言うんですか! 関さんが謝ることじゃない!」と、黄さんはこの時ばかりは人目を憚るのも忘れて大声を出した。「私は関さんにはよくしてもらった。いつかあなたがそっと私の手に握らせてくれたお菓子……  あの味は忘れません……  それに日本の子供にイジメられていた私をかばってくれた日のこと……  私の家で初めて私を抱いてくれた日のこと……  私の方こそお礼を言いたい……」
ぽつりぽつりと語る黄さんの声はひきつって震えていた。
「ああ、私の方こそあなたのことを忘れたことは片時もなかった。関さん!  今こそ本当のことをあなたに言います。検閲を怖れて、手紙に書けなかったことを……!」
私は黙って黄さんの顔を見つめた。細めた目の縁がうっすらと光り、その誠実そうな顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「私はずっとあなたを兄のように慕っていました…… 私には兄弟はいなかったので……それで私はあなたのことを……」
黄さんの声がか細くなって途切れた。喉が痙攣するように震えていて、容易に言葉を繋げられそうにない様子だ。
「黄さん……」と、私は代わりに声をかけた。「黄さん、私もだ、私もあなたに隠していたことがある」
「え?」
「いつか告げようとして、告げられなかったこと……」
黄がじっと私を見つめている。今度は彼がおとなしく私の次の言葉を待っててくれている。
「“生ぜしことを世界に告げよ”」
突然、その言葉が私の口を突いて出た。
「え?」と、黄がキョトンとして私を見た。「な、なにを言っているんですか?」
「天安門広場の記念碑に書いてあった。封じ込めてはいけないんだ……」
「関さん、あなたの言っていること、さっぱりわからない。いったい何が言いたいんですか?」
「みんな隠してきた。でも45年経って変わり始めた。被爆者の人たちが進んで自分の被爆体験を語り始めた。何故か? それが真実だからだ。残しておかなければならない大切なことだからだ。あの原爆ドームと同じように……」
「原爆ドーム? それって、ヒロシマの?」
「ああ、45年経った今も、変わらない姿をしている。あれだって、一時取り壊そうという動きがあったんだ。街の美観を損ねるからと…… 原爆の事実だってそうだ。終戦後に原爆を題材にした出版物が禁じられた。プレス規制だ。進駐軍が原爆の情報が東側に流れるのを防ぐために、作家や報道関係者たちの自由な表現活動を封じ込めようとした。だけど、そんな動きにも耐えて、原爆の悲惨さは全世界に向けて発信されてきた。“ヒロシマからアイロシマへ”――原爆ドームは、あの日受けた傷口を包み隠さずさらして、今もそこに建ち続けている。そうして、日々、消せない歴史の重みを訴えているんだ。そうだ、消してはいけないんだ。残さなければいけないんだ。あの痛ましい姿を見て、皆が気づかされたんだ。自分の傷口を隠してはいけない。隠さずに誇るべきだって、その傷に耐えて自分は生きているのだって……」
私は、自分の被爆体験を長いこと明るみに出せずにいた、八重さんたち被爆者のことを思った。自分の膚の色を気にして長屋の狭い部屋にこもりきりだった混血児のアキラのことを思った。女は自分の意見を言うと煙たがれると言っていたタキさんのことを思った。本心では戦争に行きたくなかったのに、周囲の要請からそれに従うしかなかったかもしれない清彦さんのことを思った(もしもそれが本当だとして)、ビラの一つ貼ったぐらいで、牢屋に放り込まれた中村さんのことを思った。天安門事件の時に民主化を求める集会に参加していた犀さんのことを思った。そして、私自身のことを思った……
「君が話してくれた中国の少年……日記に自分が同性愛者だと綴り、その日記を他人に読まれて自殺に追い込まれた高校生の少年も、これが知られたらたいへんだとわかっていながら、それでも書き残さずにはいられなかったんだ。だって、それは真実だから……」
「……」
「私は原爆ドームを見て、決心したんだ。ここに来ようと、もう一度君に会おうと。会って、君に包み隠さず伝えようと。だって、自分の歴史の中で、黄さん、君と会えたことは決して抹消することのできない事実なんだ。誰だってそうだろう? どうしたって、自分の初恋の相手は生涯の記録からは消せないはず……」
「初恋って、まさか……」
「誰を好きになろうと、好きになってしまったのは事実なんだ、それをなかったことになんかできない! ああ、今、うちあけます。黄さん、私はあなたが好きです、今でも心から愛しているんです!」
「関さん……」
私は胸が詰まってそれ以上何も言えなかった。ただ黙って両手を広げ、前に傾いだ黄さんの体を抱きしめた。黄さんは私の胸に顔を押しあて、肩を震わせて私にすがりついている。さっきまでは同性愛を禁じるこの国で、この街の住民たちの目をあれほど怖れていたのに……  今ではしっかりと私の体を掴み、離れようとしない。熱い涙が私の目から頬にどんどんこぼれ落ちた。そうして私たちは、大勢の人たちが通りすぎるスターリン広場のベンチで、時の経つのを忘れて固く抱き合っていた。

列車でハルピンから大連へ向かう私を黄さんは駅で見送ってくれた。今夜は大連に宿泊し、明日日本へ帰ることになる。私と黄さんは列車のドア越しに握手を交わした。
「関さん、お元気で……」
「黄さんも……」
「向こうへ戻ったら、手紙を下さい」
「ええ……必ず……」
それからふと黄さんは厳しい表情になって、寂しそうに告げた。
「この国の共産党の一党支配は一体いつまで続くのでしょう。もうずいぶん昔の話ですが、たしかにソ連共産党は世界で初めて同性愛を公認しました。でも、それも長くはもたなかった。その後にスターリンが出てきて……このハルピンでは英雄とみなされているスターリンがそれを台無しにしてしまった。今、ソ連ではペレストロイカなどと叫ばれているが、それは本物なのでしょうか。私たちのことまでも考えてくれるのでしょうか……」
「黄さん……」と、私は咄嗟の思いにかられて言った。「日本へ来るといい……  君の家族も連れて……」
中国では原則として海外への移住は禁じられている。それを知りながら、私は口に出さずにはいられなかった。
すると、黄さんは一寸の間沈黙した。私から視線をそらし、緩く首を振るようにして面を伏せ、曖昧な微笑を唇に浮かべた。
「また私たちをあの頃のような暮らしに戻らせたいのですか?」
その鋭く尖った声の冷たさに私は凝然とした。まるで予想していなかった返答に、正直言って私はうろたえた。
「たしかにあなたの国は戦後に眼を見張るような経済的復興を遂げた。私たちの国も羨むばかりですよ。でも、あなたの国にいる外国人たちは幸せなんでしょうか?  その国の国民となんの分け隔てもなく自由に暮らしていると言えるのでしょうか?  たしかに隣国の繁栄に目を奪われて、ベトナム難民を装ったボートピープルがあなたの国へ流れ込んでいるという話を耳にします。ですが、一方ではこの国では日本に生まれながら、まだ帰国できずにいる残留婦人たちだって多くいるのです。そんな人たちを受け入れてもらえない国に行って、私たちは本当に幸せに暮らしてゆけるのでしょうか?」
私は返す言葉がなく、黙りこむよりほかなかった。
「そして、あなたたち自身も……  あなたたち自身は本当に解放されていると言えるのですか?  他の人たちとなんの分け隔てなく互いを認め合って暮らしているのですか?」
その答えはNOだ。咄嗟の思いつきとはいえ、全くつまらないことを言ったものだと、私はつくづく後悔した。
「ああ、何故、国家なんてものがあるのでしょう!?  そこに住む人間だけがいればいいものを……  国境はいつだって私たちを引き裂きます!」
黄さんは身を震わせ、紅潮した顔を歪ませて言った。
「いつか変わるよ。この国も、日本も。10年後……いや、10年じゃ短いかもしれない。きっと20年後なら……」
「20年後というと、2010年ですか?」
「そうだ、2010年には、中国は日本を追い抜いて、世界一の経済大国になっているかもしれない。みんな豊かになって……」
「豊かにはなれるかもしれない。でも、もっと大切なのは人権です」
「人権だって、そうだ。もっと皆が自由に、それぞれの主義・主張を認め合って…… もちろん、それはアジア人の中だけのことじゃない。白人も黒人も、皆が世界中にいるそれぞれの人たちの立場を分かち合って。それは国家が保証するものじゃない。そこに暮らす人間たちが保証するんだ……」
「本当に……」と、黄さんが笑った。「本当にそうなればいい」
やがて、列車の発車を告げ知らせるベルがホームいっぱいに響いた。私は45年前にハルピンを去った日のことを思い出していた。
あの時は無蓋貨車だった。窓のない無蓋貨車で、耳だけを頼りに、見送りに来ていたかもしれない黄の声を聞き取ろうとした。決して見ることのできない黄の姿を心に思い描いていた。
だけど、あの時、私の心の中にしか存在していなかった黄さんは、今、堂々と見送りに来てくれて、声に出して別れを言ってくれている。私は客車に席を取って、客車のドア越しに、45年前は交わせずに終った別れの挨拶を、今、ここで改めて声に出して交わし合っている。
「再見(ツァイチェン)、関さん!」
黄さんが手を振り叫んだ。
「再見、黄さん!」
私も叫び返した。
ドアが閉まり、列車は動き始めた。駅の風景がするすると滑るように後方に退いてゆく。私はドアの窓に顔を寄せ、ホームに立ちつくしている黄さんの姿を見つめながら、あの時、引き揚げの開始された1946年の夏と同じように、窓のない無蓋貨車の中で肉眼の代りに心の中に焼きつけるようだった11歳の黄少年の姿を、いつまでも目で追っていた。

(了)

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