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ゲイ用語の基礎知識

ストーンウォール事件

 1969年6月27日夜(28日の未明)、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにあったゲイバー「ストーンウォール・イン」で起こったクィアピープルの「蜂起」。「ストーンウォールの反乱」「ストーンウォール暴動」などとも言われます。ここからゲイ解放運動が一気に広がりを見せ、LGBTの歴史において象徴的な出来事とされています。翌年にストーンウォール1周年を記念した大々的なデモ行進が行われ、現在のプライドパレードへと至ります。

 1969年6月22日、ゲイに絶大な人気を博していた女優ジュディ・ガーランド(代表作は「オズの魔法使い」)が亡くなりました。彼女の葬儀が行われた6月27日(金)の夜、「ストーンウォール・イン」には何百人ものゲイたちが集まり、彼女の死を悼んでいました。そこに警察の手入れがあり、「よりによってこんな日に!」という気持ちも高ぶり、暴動が起きた、という話が長年、まことしやかに語られ、パレードで「Over the rainbow」(「オズの魔法使い」の主題歌)が歌われてきました。しかし、史実を検証した結果、ジュディ・ガーランドが直接の理由ではないということが明らかになりました。

 少し歴史を遡り、時代背景からお伝えします。
 1950年代、アメリカではマッカーシズムの嵐が吹き荒れ、同性愛者にとって非常に厳しい時代でした。1960年代には公民権運動や学生運動が盛んになり、マタシン協会などの団体も活動を始めますが、アメリカのほとんどの州でまだソドミー法(「自然に反する」と見なされる性行動を違法とするもので、同性愛者を逮捕する根拠とされた)が残っており、また、同性愛者に酒類を提供することが違法だったため、ゲイバーは日常的に警察の手入れに遭っていました。警察が真っ先に逮捕したのは、女装したゲイや、女性らしい服装をしていないレズビアン、そしてIDを持っていない人でした。逮捕され、新聞に名前が載ってしまったことで職を失う(社会的死を意味します)者も少なくありませんでした。また、街頭の男娼たちも摘発の対象で、しばしば暴力を振るわれていました。
 マタシン協会は1967年、ニューヨーク州の法律を精査し、バーで同性愛者に酒類を提供すること自体は違法ではなく、提供した店も免許取り消しにはならないということを認めさせました。しかし法的な根拠を失ったにもかかわらず、警察のガサ入れは続きました。いやがらせだったのです。ゲイバーは相変わらずヤクザが経営しており、警察に賄賂を渡したりしていました。
 

 ここからは、ストーンウォール・インの公式サイトに書かれていることをそのままお伝えします。
「1969年6月28日(土)の1:20頃、「ストーンウォール・イン」に8名の警官がやって来ました。その夜は店内に200名くらいの客がいました。しかし、手入れは計画通りにいきませんでした。客たちが警官への協力を拒んだのです。警官は全員を交番に連行しようと決めましたが、パトカーがまだ到着しておらず、客は15分くらい並んで待つことを要求されました。逮捕を免れて解放された客も立ち去ろうとはせず、外で様子を見守っており、群衆は次第に膨れ上がってきました。数分後には、約150名の人だかりになっていました。最初のパトカーが来た時には、少なくとも逮捕された人の10倍くらいの人数になっていました。もみ合いが始まったのは、1人のレズビアンが手錠をされてパトカーに乗せられようとした時でした。彼女は手錠がきつすぎると訴えたのですが、警棒で頭を殴られたため、警官と戦い始めたのです。やがて警官は彼女を抱え上げてパトカーへと放り込んだのですが、それが、張り詰めた群衆の心に一気に火をつけました。
 周囲にいた人たちは憤り、パトカーをひっくり返そうとしました。コインが、やがてビール瓶やレンガが投げつけられました。警官は600名ほどの群衆に圧倒され、身の危険を感じて店内にバリケードを作って立てこもりました。そこに向かってゴミ箱、瓶、石、レンガが投げつけられ、窓ガラスが割られました。パーキングメーターが根こそぎ折られ、ドアが破られました。駆けつけた特殊機動隊によって店内の警官が救出され、さらに大量の警官が送り込まれ、捕まえられた人たちを護送車に入れていました。「ストーンウォール・イン」はほとんど破壊されていました。電話もトイレも鏡もジュークボックスもタバコの自販機も。暴動のせいなのか、警官なのせいなのか、よくわかりませんでした。
 明け方4:00までには、暴動は鎮静化されました。13人が逮捕されました。負傷して病院送りになった人もいましたし、4人の警官も同様でした。
 暴動のことは瞬く間にグリニッジ・ヴィレッジに伝わり、次の夜には再びクリストファー・ストリートで暴動が起こりました。数千人もがストーンウォール・インの前に集まり、隣のブロックまで人があふれました。そこらじゅうのゴミ箱に火がつけられました。100人以上の警官が再び送りこまれ、路上で明け方4:00頃までバトルが繰り広げられました。
 水曜日には、約1000名の抗議者がまた集結しました。再び路上で警官と衝突し、双方に負傷者が出て、5人が逮捕されました」

 このとき先頭切って物を投げ始めたのがドラァグクイーンかレズビアンか…とにかく女性に見える人だったという話が広まり、「ヘアピンの落ちる音が世界に響き渡った」というニュースの見出しが世界を駆けめぐったと言われています(実際は新聞などは黙殺し、『ニューヨークタイムズ』紙に載ったのは4ヶ月後だったそうです)。「ヘアピンを落とす」というのは「さりげなくゲイであることをほのめかす」というスラングです。実際最初に投げられたのはヘアピンではなく、コインやビール瓶だったようです。のちに、最初に物を投げ始めたのはシルビア・リベラというプエルトリコ人のトランス女性と、マーシャ・P・ジョンソンという黒人のドラァグクィーンだったことがわかっています。

 「ストーンウォール事件」の数週間後、ニューヨークのゲイシーンは根底から生まれ変わりました。「ゲイ解放戦線」「ゲイ運動家連合」「ヒューマン・ライツ・キャンペーン」といった組織が次々に立ち上がり、警察によるゲイバーへのいやがらの実態が明らかにされていきました。「ゲイ解放戦線」は州議会や連邦議会にはたらきかけ、全州におけるゲイやレズビアンの保護を要求しました。同じような運動がヨーロッパやカナダ、オーストラリアなどにも広がっていきました。

参考:ストーンウォール・イン公式サイト、『ウッドストックがやってくる

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