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【追悼】差別と闘いながらハウスという素晴らしい贈り物をくれた「神」フランキー・ナックルズ

2014年04月05日

 ハウスの生みの親であり、「The Godfather of House Music」と呼ばれてきたDJ・プロデューサーのフランキー・ナックルズが、糖尿病の合併症のため3月31日に亡くなりました。享年59歳でした。

 ポピュラー・ミュージックの革命児であり、20世紀のゲイ史にその名を燦然と輝かせてきたフランキー・ナックルズの死を、『TIME』『エコノミスト』『ワシントン・ポスト』『ロサンゼルス・タイムズ』『シカゴ・トリビューン』といった大手紙がこぞって大々的に報じました。
 シカゴ市長のラーム・エマニュエル氏は、「今日、シカゴは最も偉大な文化的パイオニアのひとりを失った」と語りました。
 アカデミー賞は公式声明として「彼の独創的なリミックスやエネルギッシュなパフォーマンスは何十年間にもわたってクラブミュージックを牽引し、ハウスミュージックをメインストリームの音楽へと導いた」と述べ、その功績を讃えました。
 また、デヴィッド・モラレスが「親愛なる友人の死を今は受け止められない」と悲痛な心境をコメントしたのをはじめ、多くのミュージシャンが彼の死を悼んでいます。

 1955年、ニューヨークのブロンクスに生まれたフランキー・ナックルズは、1970年代からDJとしてのキャリアをスタート。もう一人のハウスの祖であるラリー・レヴァンとともにニューヨークの「コンチネンタルバス」というバスハウス(ゲイサウナ)でプレイしていましたが(きっと、ベット・ミドラーのライブも見ていたはず)、1977年に拠点をシカゴへ移し、伝説のクラブ「ウェアハウス」で音楽ディレクターに就任します(ちなみに、ラリー・レヴァンはその後、伝説的なニューヨークのディスコ「パラダイス・ガレージ」のレジデントDJをつとめ、ガラージの隆盛を見ます)
 シカゴの「ウェアハウス」は当初、黒人のゲイが大半を占めていましたが、フランキーが白人ゲイ中心のクラブでのギグを引き受けたことや、店側のオープンな姿勢もあって、次第に人種やセクシュアリティの隔たりを越えた場所になっていきました。しかし、黒人のゲイを象徴するディスコ・ミュージックが音楽シーンを席巻した当時の状況を忌み嫌う人びとが現れ、反ディスコ運動が起こりました。ロックを愛好する白人ラジオDJの呼びかけによって、1979年7月、「disco sucks」を合い言葉に大量のディスコ・レコードをシカゴの球場に集めて爆破するという事件が起こされ(その様子はTVで放映されました)、反ディスコ運動がにわかに加速しました。その根底にあるのは明らかに黒人やゲイに対する嫌悪(差別感情)であり、シカゴの街に暗い影を落としていきます。それでも、黒人でゲイであるフランキーは、みんなの居場所である「ウェアハウス」を守り続けていきます。彼は、ディスコやフィリー・ソウルなどの客になじみのある曲だけでなく、デペッシュ・モードやソフト・シェル、ブライアン・イーノ、デヴィッド・バーンといったエレクトリックなテイストも積極的に取り入れ、そして、たとえば曲のピークにさしかかる直前の2小節を繰り返すなどのエディットを施したり、あらかじめリズムを打ち込んだテープを一緒にミックスするなど、誰もが知っている曲に手を加えて聴かせ、ソウルフルでありつつも実験的なスタイルでクラウドの心をつかんでいきます。それがいつしかハウス・ミュージックと呼ばれるようになったのです(「ウェアハウスでかかっているような音楽」の「ウェアハウス」が略されて「ハウス・ミュージック」に)
 1982年、フランキーは、興行的には大成功を収めていたものの、あまりに人が集まりすぎて安全な場所ではなくなった「ウェアハウス」を去り、自身の店「パワー・プラント」をオープンさせます。
 1986年、ジェイミー・プリンシプルと製作した『Your Love』を、翌年には『Baby Wants To Ride』をリリース。
「パワー・プラント」閉店後の1987年、ニューヨークの「パラダイス・ガラージ」が閉店。エイズ感染が広がり、ゲイへの差別が広がるだけでなく、仲間の死や、不治の病への圧倒的不安が大きな混乱を引き起こしていた時期でした。
 1988年、フランキーはニューヨークに戻り、デヴィッド・モラレス、サトシ・トミイエらのプロデューサー集団「デフ・ミックス・プロダクション」に加入し、メジャーなアーティストにリミックスを提供するようになります。ヴァージンレコードからリリースされた2つのアルバム『Beyond The Mix』『Welcome To The Real World』では、ダイアナ・ロスやマイケル・ボルトン、メアリー・J・ブライジ、マイケル・ジャクソン、ジャネット・ジャクソンらが名を連ね、中でもトニー・ブラクストンの『Unbreak My Heart』は100万枚以上のヒット。この功績から1997年に新設されたグラミー賞のリミキサー・オブ・ザ・イヤーの記念すべき初受賞者となりました。
 2000年以降も精力的に活動を続け、アルバム『A NEW REALITY』『DubJ's D'Light (aremixed reality)』や12インチ『The Whistle Song Revisited』、『Gimme Gimme(Disco Shimmy)』をリリース。日本にも(Shangri-La@ageHaにも)たびたび来てプレイし、ファンを熱狂させました。また、HIVチャリティや恵まれない子供達の教育を支えるチャリティ活動へ取り組んだ功績から2004年にシカゴ市で8月25日が「フランキー・ナックルズの日」と制定され、また「ウェアハウス」跡地前の道路には「HONORARY "THE GOD FATHER OF HOUSE MUSIC" FRANKIE KNUCKLES WAY」と書かれた標識が立てられました。
 ディスコ、R&Bからクラブミュージックを生み出した革命者というだけでなく、20世紀が生んだポップ・ミュージックのある部分を変えてしまった、その影響力は計り知れません…まさに「神」的な存在でした。そして、(差別と闘いながら)ハウスという音楽によってゲイに自信とプライド、勇気を与えてくれた、偉大な先輩でした。いったいどれくらいたくさんの人たちがハウスによって救われたことか…想像もつかないくらいです。

「神」はとうとう、この世から姿を消しました。いつか、フランキー・ナックルズのプレイを聴いたことがある人なんて誰もいない…そんな時代が来るでしょう。しかし、彼が遺したハウスという音楽は、きっと不滅です。彼の影響を受けたDJたちによって、リミックス=再生産されたトラックは永遠にフロア上で生き続け、今日も世界のどこかで人々を(ゲイたちを)楽しませ、勇気づけ、癒し、救うことでしょう。



フランキー・ナックルズ逝去を惜しむ声続く シカゴ市長「偉大な文化的パイオニアを失った」(msn産経ニュース)
http://topics.jp.msn.com/entertainment/music/article.aspx?articleid=3928997

フランキー・ナックルズ死去 ハウス・ミュージックのゴッドファーザー(MTV JAPAN)
http://www.mtvjapan.com/news/music/23849

「ハウスは、ディスコの復讐なんだよ」──フランキー・ナックルズの功績、そしてハウス・ミュージックは文化をいかに変えたか(ele-king.net)
http://www.ele-king.net/columns/003719/

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