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千葉市で配布されるフリーペーパーの4コマ漫画がひどいと炎上しています

2021年04月03日

 千葉県の一部地域で無料配布されているフリーペーパー『稲毛新聞』令和3年4月2日号に掲載された同性婚をテーマにした4コマ漫画が問題視され、非難を浴びています。


 どこからどう手をつければよいのか…と悩んでしまうくらいひどい内容ですが、その根底には「ゲイやレズビアンばかりになったら足立区が滅びる」の白石区議と同じような発想、同じような誤った認識があるということは言えそうです。
(なお、『稲毛新聞』2016年2月号(こちらでご覧いただけます)では、日本で初めて千葉市が同性パートナーシップの職員に異性婚と同様の福利厚生(結婚休暇にあたる「パートナー休暇」や介護休暇など)を認めたという画期的な施策に対し、「賛否両論の反響がすさまじく、ツイッターは炎上している」「公務員の休暇にまで制度を導入するのはいかがかとの批判もある」という、やや批判的な記事も掲載しています。たまたま今回、作者が同性愛への偏見に満ちた漫画を描き、『稲毛新聞』はその問題点に気づかず掲載してしまった、ということではなく(そうだとしても同誌のリテラシーが問われるでしょうが)、もともと同誌が同性カップルの権利保障に対して懐疑的な立場であることがうかがえます)
 
 SNSでは、「こんな大間違いで差別的な漫画を載せて配布するなんて大問題ではないでしょうか。同姓婚が法制化されても少子化には全く関係ない。堂々とそんな無知をさらして人を傷つける新聞がある事に愕然としました」「時代錯誤の糞価値観でビビる」「これ見た当事者はどう思うかと考えるだけで悲しくなる。子どもを持つことと結婚することはいい加減に切り離して考えてほしいです。人類のために生きている人っていないし、個人の幸せを願っていいはず。それが人権だから。少子化と同性婚は無関係」「まだ自己肯定できていない若い世代の当事者やその家族に、論理的に破綻してるこんなゴミを放り込んでほしくないな。考え方が違う、それ以前の問題なんだよ」「これが若い当事者や家族の住まいに勝手に投函されるのは「こういう意見も存在する権利がある」の次元を超えてるだろ」「稲毛新聞に抗議文を送った」「稲毛新聞に対する若い子たちの反応が理知的で感動した。世界を変えていくのは貴方がたよ」などの声が上がっています。
 なかには「怪文書だろこれ」という声もありました。
 
 昨年9月、秋田県で「過激な『同性婚合法化』運動に気を付けよう!」「もし、子供が生まれない同性同士の恋愛も結婚と認めるなら、愛し合って入れば一夫多妻でもよいことになります」「婚姻制度が根底から揺らいでいるのです」などと煽る怪文書的なビラがポスティングされました(詳細はこちら)。佐竹知事が「狭い了見」「すべきでない」と苦言を呈し、差別解消に向けた条例の制定にも意欲を示しました。
 今回のフリーペーパーも、上記の職員制度や同性パートナーシップ証明制度を認めている千葉市としては、市民に誤った認識を植え付け、ホモフォビアを煽るようなものであり、市内のLGBTQの子どもたちに与える悪影響は看過できないとして、注意勧告や撤回を求めるなどの対応をしてもよいのではないでしょうか。
 
 なお、こうしたヘイト的な差別事案に際して何らかの規制をすべきだとの声が上がったとき、「でも表現の自由は保障されなければいけないよね」という意見も必ず出てきます。表現の自由と差別表現の規制をめぐる問題については、こちらで札幌地裁判決の意義について素晴らしすぎる解説をしてくれた志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術法)が、「性差別、ヘイトスピーチ論議に必須!「表現の自由」の超基礎知識」という記事でやはり素晴らしく見事にまとめてくれています。一部抜粋してお伝えします。
「表現」は人の感受性や自尊心を傷つける可能性を常に持っている。その「表現」を、先回りして傷つく人が出ないようにという発想で国家が規制すれば、あらゆる「表現」が立ち行かなくなる。
 だから、傷ついた人々は、泣き寝入りせずに「その表現は私にとって不快だ、つらい」「私はその表現を子どもに見せたくない」という「表現」(対抗言論)を社会に出すことで、不快と思う表現を淘汰する「自由」を与えられている。
 批判をされた側も、自己の表現に価値があると思うなら、そのことを主張し、撤退せずに頑張る「自由」がある。
 異論というものが起きない完全な調和の世界というものは、おそらくどこにもないし、将来も実現しない
それでも、「あなたには「それは嫌だ」と言う自由がある」という答えで終了するわけにいかない「表現の自由」の難所が、現実社会にはいくつかある。
 たとえば、ジェンダーに関わる表現が問題になる場合だ。ステレオタイプを打破する《多様性》が担保されているかどうかが問題になるのである。どういうことだろうか。
 ジェンダー(男女の性別役割)、セクシュアリティ(性に関する人それぞれのあり方)は、もともと各人の自由に委ねるべきことで、それに関する表現もまた各人の自由に委ねることが原則ではある。
 しかし、ジェンダー、セクシュアリティについて社会に根付いてしまっている偏見・ステレオタイプは、さまざまな形で人権の実現を妨げている。女性が議員に立候補しようとしたら、「女のくせに」「子供はどうするのか」「要介護の親がいるのに」「ご主人は」といった言論に阻まれて、当然に保障されているはずの人権を行使できずに断念した、といったことは、これまでの日本で無数に繰り返されてきた風景である。
 そのような社会状況があるときには、国家や自治体が法律や条例や何らかの政策を打って状況を改善し、平等社会の実現に向けてテコ入れすることが必要となる。
 このようなとき、この状況改善を嫌い、旧来の社会状況を温存したいと思う人々の感情がメディアやネット上に表れることも多い。
 こうした状況で、国や自治体の政治的努力を台無しにするような、弱者に対する差別・揶揄・侮辱などの言論が見られるとき、それが「政治的正しさ」political correctnessに反する表現として問題視される
ここでの《ステレオタイプ》とは、その人の個人としての意欲や能力に関係なく、その個人が属している何らかのアイデンティティ(性別、人種、民族など)に基づいて、当人の適性が固定的に予測されてしまっていることをいう。女性は論理的思考に適さないとか、男性は暴力的である、といった事柄である。
「表現の自由」実践の場であるメディアは、《多様性の確保》によって、このステレオタイプを克服することが期待されている。繰り返しになるが、一定のステレオタイプを強化するような表現ばかりでなく、そこに揺さぶりをかけるような表現が出てくる環境が求められるのである。
 それゆえ、なかには、規制が必要となるケースもある。
 先に見た「思想の自由市場」の眼目は、流通する表現の《量》よりも《多様性と自浄力の確保》だろう。特定の選択肢が絶対化されず、常にさまざまな選択肢があること、そして悪質なものは受け手が批判をしたり距離をとったりできることに、表現の「自由」の意義がある。
 しかし、偏見を煽るステレオタイプやヘイトスピーチが席巻する空間で、こうした「多様性」や「自浄」が働かない場面がある。
 その場合には、むしろ「自由な言論空間」を確保するためにこそ規制を導入すべき場面がある。近年のヘイトスピーチ規制はこの場面への対処だった。今、女性やLGBTが差別や偏見を含んだ表現に「NO」という声を挙げているのも、このような流れの中でのことである。
 しかし、ある表現を言論空間から追放することは反批判のチャンスを奪うということになるので、よほどの場合に限られる。このことと「反対意見を述べること」の間には大きな違いがある

 今回のケースはまさに「弱者に対する差別・揶揄・侮辱などの言論」であり、「国家や自治体が法律や条例や何らかの政策を打って状況を改善し、平等社会の実現に向けてテコ入れすることが必要」なケースに該当します。県や市が何らかの対応を行なってしかるべきでしょう。千葉市長時代に上記の施策を実現したLGBTQ支援的な熊谷俊人氏が先日、千葉県知事に就任されましたので、熊谷知事宛に要望を出してもよいかもしれません。

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