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【追悼】世界初のゲイ賛歌「I Was Born This Way」で知られるゲイのシンガーで、聖職者、エイズ活動家でもあったカール・ビーン

2021年09月10日

 今年5月、レディ・ガガの「Born This Way」発表から10年が経ったことを祝してウェストハリウッド(LAのゲイタウン)が5月23日を「Born This Way Day」という記念日に定め、記念のセレモニーが行われましたが、レディ・ガガはTwitterに、自分自身のことよりもまず、「私の曲とアルバム“Born This Way”は、「こんな風に生まれてきた(Born This Way)」ということを説き、歌い、綴ったゲイの黒人宗教活動家のカール・ビーンからインスパイアされました」と投稿し、カール・ビーンに敬意を表しました。
 カール・ビーンは、1977年に「僕はゲイに生まれて幸せだ」と歌う世界初のゲイ賛歌「I Was Born This Way」をヒットさせたシンガーで、モータウンを退いた後、聖職者となり、黒人のLGBTQのための教会「ユニティフェローシップ教会」を設立し、黒人コミュニティのための初のHIV団体を設立した活動家ともなりました。9月7日、カール・ビーンは77年の生涯を終え、天国に召されました。
 
「ビーン大司教は休みなくLGBTQの解放のために働き、そうすることで彼は世界中の多くの人たちが精神性や信仰心を取り戻すことに寄与したのです」と、ユニティフェローシップ教会は追悼声明で述べました。
「彼は長い間の病との格闘の末に、永遠の生命へと移行しました」
 
 カール・ビーンは1944年にボルチモアで生まれ、母親が中絶の最中に死去した後、隣人に育てられました。
 彼は熱心に教会に通い、黒人の公民権運動に身を投じ、両者はしばしば縒り合わされました。
「私は、何事かを成し遂げる、眠りを覚まさせるような民衆の一人として神に引き合わされた」と彼は述懐しています。
 10代の頃、ビーンは周囲の男の子に惹かれる自分を発見すると同時に、叔父(彼の面倒を見てくれていた人の兄弟)に性的に虐待されたと申し立てました。この両方の「啓示」は騒動を引き起こし、彼は家を追い出されました。
「自殺を企てた。気づいたら大きな病院のメンタルヘルスセンターにいたんだ」と、彼は2016年、『VICE』に語っています。
 病院は、電気ショックでの治療を主張しましたが、幸い、ドイツの心理学者が味方になってくれました。
「彼女は『あなたのような人は大勢いる。あなたの親が望むように異性愛者にすることはできない、でも、自分自身を受け容れ、夢へと向かわせる手助けはできる』と言ったんだ」
「それは私に啓発を与え、自分を受容する機会になった。もし別の先生だったら、私は違う「動物」になっていたかもしれない」
 
 病院を出た後、ビーンの慰めとなったのは音楽でした。彼はゴスペルシンガーになりました。
 16歳のとき、彼はボルチモアからNYに移り、ハーレムの教会の豊かなカルチャーに触れました。そして、ラングストン・ヒューズが発表したミュージカル『Black Nativity』の初期のプロダクションに出演しました。
 今度はLAに移り、彼は「カール・ビーンとユニバーサル・ラブ」というグループで活動をはじめました。しかし、このバンドは「時代を先取りしすぎた」せいで、うまくいきませんでした。「R&Bとゴスペルの垣根を消し去るようなムーブメントだったんだ」
 しかし、バンドは1974年のシングル「Gotta Be Some Change」でモータウンのプロデューサーの耳にとまり、バニー・ジョーンズの書いた「I Was Born This Way」を歌うよう、依頼を受けました。
 モータウンの創業者、ベリー・ゴーディは、ビーンがこの歌にとって「完璧だ」と考えました。彼の姉でモータウンのエグゼクティブだったグウェン・ゴーディはのちに「ゴスペルのフィーリングのメッセージソングだ。ビーンなら大いに楽しんで歌えるだろう」と述懐しています。
 「I'm happy, I'm carefree, and I'm gay, I was born this way」という型破りな歌詞は、ヴィレッジ・ピープルよりも前に、ディスコと同性愛を明示的に結びつけるものでした。ビーンはこの歌が完璧にフィットすると感じました。
「この歌詞は自分のことを言っている、とても自然だ、と私は常々言っている」と、彼は2019年にラジオで語っています。
 「I Was Born This Way」はすでに1年前にレコーディング・アーティストのValentinoによってリリースされていましたが、ビーンが歌ったバージョンが決定的なテイクとなりました。USダンスチャートで15位のヒットを記録したのです。
 
 モータウンはビーンに、女性について歌ったもっとコマーシャルなラブソングを、とオファーしましたが、彼はそれを断り、モータウンを退きました。その後、再び教会に戻り、1982年に叙階を受け、黒人のLGBTQの信者のために「ユニティフェローシップ教会」を設立しました。そのモットーは「神は愛であり、愛はみんなのためのものだ」でした。
 彼は同じような教会を全米に、カリブ地域にも作ってほしいと頼まれました。
「私は彼らに言った。『もし10人の、カミングアウトを恐れない黒人のゲイとレズビアンを連れてきたら、私は行って、話をしよう』。すると私は、何年もの間、たくさんの街を巡るはめになった。LAに戻ったのは1995年だ」
 
 ビーンはまた、1985年、HIV/エイズのことがまだよくわかっていなかった時代に、貧しい黒人やラテン系の人々のためにHIV予防啓発やエイズ治療などの支援を行なう団体「マイノリティ・エイズ・プロジェクト」を立ち上げ、多くの命を救いました。
 
 彼は何度も全米黒人地位向上協会から表彰されました。2年前にはその偉業を称えられ、LAの交差点の名前にもなりました。
 
 「I Was Born This Way」は今もなおゲイコミュニティにとってのアンセムであり続けていますが、2011年、この曲はレディ・ガガによって新しい命を吹き込まれました。
 ビーンは「光栄だ」と語りました。
「偉大なトリビュートだと感じた。命を救い続ける営みだ」
「この歌は私の人生を祝福し続けてくれた。そして、もう一度、次世代の人生を祝福する。レディ・ガガが歌ってくれた『Born This Way』によって」
 
 ヴィレッジ・ピープル以前に「I Was Born This Way」というゲイアンセムがあったこと、そして35年の時を経て、この歌のことを知っていたレディ・ガガが、ゲイコミュニティへのオマージュも込めて名曲「Born This Way」を生み出し、カール・ビーンのスピリットを今に受け継いだことは、それこそゲイコミュニティで語り継がれるべきストーリーだと言えるでしょう。過酷なゲイ差別を受けながら、絶望の淵から甦り、シンガー、聖職者、エイズ活動家となって人々の命を救ってきたカール・ビーンの生涯のことも。
 その偉大な業績にリスペクトを捧げるとともに、安らかに眠られますことをお祈り申し上げます。

参考記事: 
Carl Bean, singer of LGBT pride anthem I Was Born This Way, dies aged 77
https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-58493076
Gay archbishop whose liberating Pride anthem inspired Lady Gaga’s Born This Way dies aged 77(Pink News)
https://www.pinknews.co.uk/2021/09/08/archbishop-carl-bean-born-this-way-lady-gaga/


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