PEOPLE
作家・伏見憲明さんへのインタビュー
ジェンダー/セクシュアリティに関する第一人者として世間にも認められている「知の巨人」伏見憲明さん。2003年、小説『魔女の息子』で文藝賞の栄誉に輝き、作家としても世に認められましたが、第2弾となる小説単行本『団地の女学生』(集英社)が刊行されたことを受けて、作家としての伏見さんにインタビューをお願いしました。(聞き手:後藤純一)
伏見憲明さんは1991年に『プライベート・ゲイ・ライフ』でカミングアウトし、ゲイライターとしてデビューして以来、メディアにも盛んに取り上げられ、90年代ゲイブームの旗手となり、その後も『スーパーラヴ!』『キャンピィ感覚』(マガジンハウス)、『〈性〉のミステリー』(講談社)、フォトエッセイ集『ゲイ・スタイル』(河出文庫)、『性の倫理学』(朝日新聞社)、『さびしさの授業』『男子のための恋愛検定』(理論社)、『同性愛入門[ゲイ編]』『ゲイという[経験]増補版』『性という[饗宴]』『欲望問題』(ポット出版)などの著作を続々と発表し、『AERA』誌の「21世紀の30代50人」に選出されるなど、ジェンダー/セクシュアリティに関する第一人者として世間にも認められている「知の巨人」です。
そんなスゴイ業績を残してきた伏見さんが、2003年、ゲイを主人公とした小説『魔女の息子』で文藝賞の栄誉に輝いたことは、とても歓ばしいニュースでした(『バディ』編集部で祝賀会が開かれたほどです)。ゲイの世界を代表する文化人である伏見さんが評論家としてだけでなく作家(小説家)としても世に認められたことは、僕らにとっても誇らしいことでした。
受賞後5年を経て発表された『団地の女学生』、そして2009年に発表された『桜草団地一街区 爪を噛む女』の2作品を収めた単行本『団地の女学生』(集英社)が今年、刊行されました。そこで今回、作家としての伏見さんにインタビューをお願いしてみました。
(聞き手:後藤純一)
文藝賞作品『魔女の息子』にこめられた思い
『魔女の息子』
伏見憲明/河出書房新社/1260円
単行本の発売、おめでとうございます。『魔女の息子』文藝賞受賞のときは、我がことのようにうれしかったのを思い出します。それまでは膨大な評論やエッセイを書いてらした伏見さんですが、小説も書くようになったのは、きっと小説でなければ表現できないような思いがあったからではないでしょうか。そのモチベーションといいますか、書こうとした動機を教えてください。
もともと小説を書きたいと思ってたわけでも、賞を獲ろうと思ってたわけでもぜんぜんなく。最初に小説を書いたのは、『Queer Japan』(勁草書房)を面白いと評価してくれていた某文芸誌の編集者の方が、僕に小説を書かないかと言ってくれたからなんです。それで、ちょっと時間ができたときに『魔女の息子』のほぼ原型を書きました。
依頼された原稿だったんですね。
ところが、依頼した方ができあがった小説を気に入らず、結局ボツになってしまった。原稿用紙で200枚くらい書いた労働が金にならないというのはフリーライターとしてはとても痛い…と思っていたところ、友達が「賞にでも出してみたら?」と言ってくれて。でも僕は文壇も知らないし、そもそも小説も読まない。で、いろいろ調べて、比較的イヤな審査員が少ない(笑)文藝賞に応募してみた。そしたらまぐれで獲ってしまった。
ふつうは何度も応募して、それでもなかなか賞は獲れない。それを、最初に書いた小説でいきなりさらっと獲ってしまうのがスゴい。さすがです。
最初のセクシュアリティ論(『プライベート・ゲイ・ライフ』)は、オリジナルな表現だという自負があったので、単に当事者性を盾に書いたものだと思われるのは心外だった。正直、世間的な評価と自己評価の温度差が不愉快だった時期が長く続いて……(笑)。だから、文藝賞というわかりやすい評価を得たことは単純に嬉しかったですね。ゲイだけでなく、社会運動全般に言えることですが、活動って、運動を自己実現に利用していることを相対化できていないと、どこかで勘違いが起こる。運動を自己実現にしてもいいのですが、「私が私であること」の根拠を求めることと、社会を変えていこうとする理念が区別されない形でブレンドされることは、あまり健全ではない。別に有名人とか金持ちじゃなくてもいいんですが、社会で仕事が認められている人間が運動に関わるほうが、説得力を持つと思う。サラリーマンでも、自営業者でも、職種はなんでもいいのですが。なので、ぼくも活動じゃないところで賞をいただいたことで、逆に「活動を完成させた」という気持ちになった。
小説家という肩書き、世間の評価を得たことで、活動もしやすくなったんですね。
活動がしやすくなったということもないんだけど(笑)。ふつう、作家って賞を獲ってからがスタートなんですが、僕にとっては活動家としてのゴールみたいな感じがあった。ひと息ついたというか、ワンクール終わったという。
そうは言っても、『魔女の息子』には表現者としての魂のようなものがこもっていたと思います。内容の深さ、構成の巧みさ、冴え渡った言葉運びもさることながら、何かただ事ではない気迫が宿っていたように感じました。
社会変革って、社会を構造として見て「これが足りない」とか「ここに不公平がある」とか、世界のとらえ方を単純化しなければいけないところがある。世の中をわかりやすく見えるようにするためには、そうせざるをえない。ある意味、肉を削いで骨にするような作業なんです。でも、そういう世界像の中では語りえないことがいっぱいある。取りこぼしというか。人が生きていく中では、その肉の中に、ムダだと思われる中にこそ、養分がある。そこをなくしちゃうと、人としてもどうかなと思うし、運動家としてもどうかなと思うところがある。そういう意味では、小説を書くことで、それまでの捨ててきたものを取り戻そうとしたのかもしれません。だからぼくの人生にとってもフィクションを書き始めたのはターニングポイントでした。
ゲイにとってHIVのことやうつのことって本当に深刻な問題で。オープンで前向きで健全な「ハッピーゲイライフ」で彩られているように見える街も、路地を一歩入ったすぐそこに深い闇のような陥穽が待ち受けている。僕らは、その弱さゆえに、あるいは正直さゆえに、その暗がりに入ったり出たりを繰り返しています。『魔女の息子』に描かれているのは僕ら自身の「影」であり、理屈では割り切れない、どうしようもない人間の業であり、痛みであり、祈りも似た感情。個人的にも深く感動しましたし、伏見さんがこれを書いてくださったことも、本当によかったと思いました。
そういうふうに受け取っていただいてうれしいし、宮田一雄さん(注:産経新聞記者。当時は編集局次長。ずっとHIVの問題を世に発信し続けて来た方でもあります)もそういった観点で気に入ってくださったと伺っています。HIVのことは、啓蒙的な言葉で記述するのだけでは足りないと思っていました。啓蒙ももちろん必要なのですが、「正しい」視点ではなく、白黒つけられないところにあるものこそが問題だと。だから文学で伝えるべき言葉があると思ってた。
たぶん、あまり伏見さんの評論を読んだことがない人も、小説だからと手に取って読んでみたり。きっと多くの人たちの心の深い所に届いたと思います。
『団地の女学生』のモチベーション
『団地の女学生』
伏見憲明/集英社/1200円
その後、約5年の時を経て『すばる』誌上に『団地の女学生』という小説を発表されましたね。戦争を生き抜き、夫と離婚して女手一つで娘を育て上げ、今は古ぼけた団地で独り暮らしをしている川島瑛子という老女と、隣人のミノちゃんという40歳のゲイ男性との交流を描いた、軽妙洒脱といいますか、ほのぼのとした味わいの小説でした。その作風の変化は、きっと伏見さんの中の書きたいもの、モチベーションの変化を反映していると思いますが、いかがでしょう?
そうですね。やっぱり40代はホントに苦しくて…その苦しさって、10代にセクシュアリティの問題で悩んでた頃とも違って。「解放」された末に待っていたのがこの苦しさか…という絶望(笑)。『魔女の息子』の後、『ゲイという[経験]』とか、それまでの蓄積をわかりやすくまとめるような仕事をして。『さびしさの授業』とかも好きな本ですが、過去のエンジンで書いた残り香のような作品でもある。2007年の『欲望問題』は思想的、活動的な意味での総決算で、最後の力を振り絞って書いた。それで赤玉が出たというか(笑)「もう何も出ない」という。とても小説を書くどころではなかった。
「燃え尽きた」ではないですが、一区切りついた後の虚脱状態。
1991年から2003年くらいまですごいテンションで走ってきて、それが異様だったのかもしれないけど、0年代の後半はほとんど書けなくなった。うつとかそういう言葉では言い表せないようなつらい日々。心療内科には行かなかったけど。うつと診断されるともっとひどくなりそうな気もして、老母にも心配させちゃいけないと思って、病気ということにはしないように頑張った。
大変な時期だったんですね…。
2008年頃は業界的にも状況がバタバタと変化して…例えば、応援してくれていた新聞記者や編集者が職場を去ったり、媒体がなくなったりという感じで、それまでのものが崩れてしまった。同時にゲイムーブメントの90年代的な盛り上がりも急速に冷えていった…尾辻さんっていう花火があったにしても。状況が激変していく中で、世界の色彩も変わってしまう感じで。それについていけないっていうか、ついていこうとにも体が追いつかない。年齢的にも「曲がり角」だし、厄年だし。生き方のギアを変えるという厳しい作業が40代半ばくらいまで続いた。
そんな中、『団地の女学生』を書こうと思ったのはどんな気持ちだったのでしょう?
文藝賞を獲った後、書けなくなったり、版元と上手くいかなかったりして、まあ、小説家としては「塩漬け」になっていたんですね(笑)。でも、たまたま古いおつきあいのあった女性の編集者の方が『すばる』の編集長に栄転なさって、書かないかと声をかけてくれて。そんなめぐりあわせで『団地の女学生』を書いた。せっかく編集長が言ってくれたし、もう小説を発表するチャンスはないかもしれないから、最後に母のことを書こうと思ったんです。ぼくはね、小説にかぎらず、いつもこれを最後にしようと思って書いています。それくらい思い詰めないと書けないんです。モチベーションがすべて。一筆入魂じゃないけど、はっきり表現したいモチベーションがないかぎり、ちょっと書いてみても小学生の作文になってしまう。
お母さんのことを書かれてるんだなというのはわかりました。団地に住まう年老いた女性と、たまたま隣に住んでいたミノちゃんの二人がいっしょに旅をする中での関係性や出来事。ほのぼのしつつ、人生の鋭いところを描いていて。とてもいい小説でした。
僕も未だに団地に住んでるけど、団地って面白い。かつての、高度成長期を支えて地方から来る人へ供給された時代って、活気があって、なにもかも右肩上がりに上がっていく感じがあった。「将来は土地つき一戸建て」というわかりやすい成長の物語の出発点。だけど、何十年か経ち、団地は今や、そういう夢に取り残された、負け組な人たちの場所になってしまった。外国人がいたり、老夫婦が残っていたり。格差の象徴のような。そしてコミュニティ的なものも崩壊して、隣りにいる人が誰だかわからない。ぜんぜん自分と違う人かもしれない。というのが文学的なモチーフの1つ。
なるほど。僕の元彼も団地に住んでいて、たまに行きますが、あの独特のさびしい雰囲気はちょっとすごいですよね。
うちの近所でも、たぶんご主人がいない70代くらいのご婦人が、友達どうしで手をつないで買い物に行ったりしてて、一瞬レズビアン?と思ったり。単純な核家族ではないような関係性、自分が生きてく中で心地よい関係を作り出す人たちも多くて。人生を何とか必死に生きてる人たち。
たまたま寄せ合った人たちだけど、その中でいろんな人間関係が生まれるのが、面白い。ミノちゃんはひまそうにしてるけど、朝早く老人のために働いてたり。そういうところも好きでした。
『爪を噛む女』が描く「新しい時代の風景」
最新作の『爪を噛む女』は、同じ団地を舞台にしてはいますが、『団地の女学生』とはかなり違うテイストではないかと思います。ゲイのキャラクターがついに登場しなくなり、よりエンターテインメント性の高い作品になったと感じました。『爪を噛む女』を書かれたモチベーションはどんなものだったのでしょう?
ゲイが出てこなかったのは、フィクションの作家として技術的に進歩したからじゃないかな? エンターテインメントとして書こうとする意識はそんなになくて、自分にとって面白いものを書いた。『魔女の息子』も設定がゲイじゃなくてもよかったんだけど、身近な素材じゃないと書きづらいということはあって。
世間的には顧みられないタイプの主人公の女性がゲイウケするキャラクターでもあるし、より現代的なエンターテインメントに進化したように感じて。舞台設定とか絵面はノスタルジックだけど、人間関係や社会の描き方とかは高齢者の問題にしても自我の問題にしても、未来的というか、ものすごいリアリティがあって、ある意味「エヴァ」的というか、映画になってもおかしくない作品だと思いました。
ありがとうございます。昔はすごく役割規範がはっきり重く存在していたので、人々はその線に沿って生きていたけど、今は規範も崩れ、寿命も延びて、分をわきまえるという言葉が時代遅れになって。そんな時代を個人がどう生きるかっていうのは未曾有の…今まで経験していないこと。主人公は夢があるけど、昔のように「ダメだったらあきらめる」っていうことができない。「なんで自分がそうなれなかったか」というところからなかなか下りられない。ネット社会が進展して平等感覚が徹底され、お金持ちや芸能人が特別だった時代が終わり、今は「自分だってあわよくば」になった。現在の格差社会って、「本当ならば自分もそうだったはず」というところから考える、ちょっとの差が許せない状況のことなんだと思うんです。そうすると、加算法ではなく、減点法の思考が蔓延してきて。
そうですね。とてもよくわかります。
だからこそ、よけいにキツい。理由がわからないから。「なぜ自分にはチャンスがめぐってこなかったのか」というのは紙一重なんです。それは、今までふつうの人が感じることがなかった感情。「エフメゾ」みたいなお店をやってると、いろんな悩みを持った人が来られるけど、悩みの中心は「承認」の問題。自分をいかに他者に認めさせるか、自分の根拠をどこにおくのかという悩み。その苦しさみたいなものを書きたかった。自分にとってもすごく切実。
これからその問題がどんどん肥大化していく。そんな時代だと思います。
目線が高い。みんなが番を張ってるような感じで。それはしんどいこと。
そういう状況もふまえたうえで、今後、どんな小説を書いていこうと思っていらっしゃいますか?
実は、今でもその作品を出すのに四苦八苦しているけど、2作目として書いた作品があって。まだ発表されていない。
未発表作品! 幻の2作目があるんですね。
世の中で自分をどこに置いたらいいのかと悩む女性の話。それがいちばん自分のお気に入り。なんだけど、うまくいかない。
ぜひいつか、発表されることを期待します。
今年中には何とかしたい。あと、恋愛ものを書こうかと(笑)
王道のロマンス?
恋愛ものに関しては男どうしで書きたいと思っていて。男女の恋愛に興味がないわけじゃないけど、ジェンダーが関わってくるでしょ? そうじゃなくて、むきだしの個人というものが恋愛をするっていうことの、ある種の痛ましさ、というのを書きたい。
対等な男どうしだからこその。
人間どうし、でもある。そこではジェンダーや役割分担を言い訳にできない。違うっていうところで許し合えるのが異性愛のよさでもあるけど(抑圧にもなってるけど)、男どうしの個として生きてる者どうし、関係を作っていくところに、どれだけ血が流れるのか。人はそうそう赦しあえるわけではない。赦しあえないところをちゃんと書きたい。そこが今のツボ。
楽しみにしています。どうもありがとうございます!
伏見さんがママをつとめるお店「エフメゾ」
大御所だけに「怖い」というイメージもあるかもしれませんが、そんなことはありません。心からのおもてなしで楽しい時間を過ごしていただけるお店です(詳しくはこちら)
毎週水曜日のみ営業
17時~カフェタイム
20時~バータイム
@バー「mf(メゾフォルテ)」(東京都新宿区新宿2-14-16タラクビル2F 03-3352-2511)
伏見さんの連載「のりえママの太腕繁盛記」が6月からスタートします!
- ゲイの学生さん、リーマンゲイ、ノンケの男女、セレブなど、様々な人たちが集い、ユニークな状況が繰り広げられている「エフメゾ」。そこで生まれた「エヴァ部」などの素敵なムーブメントや、バーでの面白い出来事などを、伏見さん(のりえママ)が綴ります。
- 月に1回~数回ペースでの連載となります。どうぞお楽しみに!
INDEX
- 『超多様性トークショー!なれそめ』に出演した西村宏堂さん&フアンさんへのインタビュー
- 多摩地域検査・相談室の方にお話を聞きました
- 『老ナルキソス』『変わるまで、生きる』を監督した東海林毅さんに、映画に込めた思いやセクシュアリティのことなどをお聞きしました
- HIV、梅毒、コロナ、サル痘…いま、僕らが検査を受けるべき理由:東京都新宿東口検査・相談室城所室長へのインタビュー
- NYでモデルとして活躍する柳喬之さんへのインタビュー
- 虹色のトラックに込めたゲイとしての思い――世界的な書道家、Maaya Wakasugiさんへのインタビュー
- ぷれいす東京・生島さんへのインタビュー:「COVID-19サバイバーズ・グループ東京」について
- 二丁目で香港ワッフルのお店を営むJeffさんへのインタビュー
- 東京都新宿東口検査・相談室の城所室長へのインタビュー
- 俳優の水越友紀さんへのインタビュー
- 数々のLGBTイベントに出演し、賞賛を集めてきた島谷ひとみさんが今、ゲイの皆さんに贈る愛のメッセージ
- 今こそ私たちの歴史を記録・保存する時−−「LGBTQコミュニティ・アーカイブ」プロジェクト
- LGBT高齢者が共同生活できるシニアハウスの設置を目指す久保わたるさん
- 岩崎宏美さん出演のクラブパーティを開催するkeiZiroさんへのインタビュー
- 英国の「飛び込み王子」トム・デイリーについて、裏磐梯のゲストハウスのオーナー・GENTAさんにお話をお聞きしました
- ニューヨーク在住のフォトグラファー、KAZ SENJUさん
- ジョニー・ウィアーが来日!(映画『氷上の王、ジョン・カリー』公開記念トークイベント)
- 畠山健介さんへのインタビュー
- トークセッション「ダイアモンドは永遠に――日本におけるドラァグクイーン・パーティーの起源」
- RAINBOW FESTA!2018事務局長・桜井秀人さんへのインタビュー
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