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白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第五回「選別」
白鳥健治さんの連作小説『同じ色の膚』。男どうしで愛し合うにはあまりにも厳しい時代の淡い初恋を描いた大河小説のような趣の作品です。主人公と黄少年が結ばれる日は、果たしてやってくるのか……時代を越えたせつなさを感じ取ってください。
第五回 選別(“男狩り”)
ソ連軍が満州に進攻を開始したのは8月9日。ハルピンに至るまで、数々の日本人の移り住んでいた村々を襲撃した。開拓団として国境近くの村に移り住んでいた農民たちが命からがらここまで逃げのびてきて、ハルピンの日本人にこう警告を発していた。
<ソ連兵は野蛮だ! ここにいたら奴らに何をされるかわからない。奴らは民家を一軒一軒襲っては物資を奪い、女を強姦する!>
私たちの住む日本人居住区にも、幾組かの難民が逃げ込んできた。居住区の大人たちは、隣組の集会所や満鉄の独身寮に難民たちを避難させた。
母は国境から逃げてきた人たちの話を聞き、一時期錯乱状態に陥った。
「ああ、ソ連が来る。もう時期、ソ連がこのハルピンまで攻めてくる。ああ、私らはいったい、どうすればいいの?」
「しっかりして下さい。奥さん」と、難民たちの話を聞き伝えた安藤さんが母を励ました。「子供たちがいるんですよ。少なくとも子供たちの前ではしっかりしなきゃ」
「本当なんですか? お父さん」と、私たちと一緒に話を聞いていた2歳年上のシンチャンも動揺していた。「ソ連軍の戦車が農民を轢き殺したって話。そんな、逃げ遅れた開拓団の人たちの生身の体を、あんな重量級の戦車が踏み潰していったなんて……」
安藤さんは顔をしかめて答えなかった。難民たちから聞かされた話に、彼自身も半信半疑だったのだろう。
「軍はどうしたんですか?」と、私は尋ねた。「国境守備隊がいるでしょう?」
「なんでも、兵隊も農民と一緒になって逃げたらしいよ」
「そんな……」
日本軍の兵士たちは農民を守るどころか、農民と一緒になって散り散りに逃げた。この話はあの在郷軍人の耳にも届いているのだろうか? こんな話を聞かされて、あの老人はどうしただろう?
「お父さん、僕たちもここを捨てて逃げた方がいいんじゃないですか? 奴ら、戦車で雪崩れ込んでくるんでしょう?」と、シンチャンが言った。
<いつまでもここにいたら危険だ。あんたらも早く逃げた方がいい。奴ら、今にここにも押し寄せてくる!>
この都市を通過していった難民たちの中には、そう警告を発していく者もいたから。
「逃げるったって、自動車も馬車もなしで、私たちの足だけでは本国行きの船が出ているどこかの港までなんかとても辿りつけないよ。おまえも覚えているだろう? 7年前、私たちがここに来た時のことを。新京からハルピンまでの東支鉄道だけで、列車で何時間もかかったじゃないか。展望車から外を見ただろう? 大陸は広い。どこまで行ってもずっと原野が広がっていたじゃないか。その原野に沈んでゆく巨大な夕陽。覚えているだろう?」
父親のノスタルジックな言葉の一つ一つに、シンチャンは素直に頷いた。
「覚えているよ、お父さん。あの時、僕はたしか 9歳だった。あの急行列車でどこまで走っても原野ばかりがずっと続いていた。まるで無限に続いているくらい。ああ、あの中を逃げ切るなんて無理だ!」
「どこへ逃げたって、きっといつかは捕まってしまうよ。ここにいてその時を待つ方が、原野の中で野垂れ死にするよりはマシじゃないか。なあ、そうだろう?」
安藤さんは涙を流し、自分よりも背の高い息子の肩を抱いた。二人は潔く運命を受け入れる覚悟を決めたようだ。私と母は、肩を寄せ合い揃って向かいの家に引き揚げていく父子の後ろ姿を見送った。父親に肩を抱かれたシンチャンは、この時ばかりはこちらを名残惜しそうに振り返る例の仕草も忘れていた。
一方、難民たちから聞いた話の恐怖にすっかり取りつかれてしまっている母は、家に戻ると、姉と妹を招き寄せ、あることを指示した。その時、母の手には裁縫箱から取り出してきた鋏が握りしめられていた。
その日の夜も犀さんが私たち一家のために、母に頼まれた食料を持って家を訪ねて来てくれた。
私は犀さんとまともに顔を合わせることができなかった。あの日、日本の敗戦が決定した日に、私が噛みついた犀さんの掌を案ずる思いはあったものの、素直に口に出して言うことができなかった。
「忍ちゃん……」と、私をほうって応対に出た姉の姿を見て、犀さんは驚いた声をあげた。姉は長かった三ツ編みの髪を切り落とし、栗みたいな坊主頭にしていた。おまけに顔には泥を塗りたくり、向かいの家のシンチャンから譲り受けた、だぶだぶの男物のシャツを着ていたから。
「こんばんは。犀さん」と、姉は恥ずかしげに言い、犀さんが持ってきた食料を受け取ると、台所に運んだ。私はこの時、居間の隅でずっと押し黙っていた。自分こそがお客さんのように小さくなって、重い物を運ぶ姉を尻目に、それを手伝いもせずに。
「こんばんは、犀さん」と、姉の背後に隠れていた妹も挨拶をした。
「玉枝ちゃんまで、そんな……」と、犀さんは愕然とした。8歳の妹の玉枝も同様だった。髪を短く切り、顔に泥を塗りたくり、服は私の古くなったシャツと半ズボンをはいていた。
母は、訪ねてきてくれた犀さんに早速不安をぶつけた。
「うちの人はどうしたんでしょう? こんな時に、何故帰らないの?」
母の取り乱しように犀さんの返す言葉は少なかった。
「うちの人は逃げたのよ。私ら家族を置いて。ああ、私たちは二軒先の在郷軍人のおじいさんと同じだわ。おじいさんは一人だけ家族に見捨てられた。私たちは、一家4人揃って、うちの人に見捨てられた!」
「奥さん、やめて下さい」と、犀さんは言った。「ご主人はそんな人じゃない」
「でも、もしも軍の命令で大連まで行っているのだとしたら……」
ソ連参戦直後の8月10日、ハルピンより南方にある都市、新京では、関東軍の上級将校とその家族が、いちはやく憲兵の護衛つきの特別列車で脱出したという。鉄道は満州国の要職にある者たちとその家族を国外に脱出させるために優先的に使用された。父はその任務を遂げるために、自分の家族を捨てなければならなかったのかもしれなかった。
「もしも大連まで行っているなら、ご主人はきっと無事なんですから。無事に日本に帰り着いているのかもしれないんですから。その方がよかったじゃないですか。危険を冒してここに戻ってくるよりは……」
母は泣きながら犀さんの言うことに同意した。
「そうです、そうですよね…… 私たちが犠牲になっても、あの人一人でも助かる方が……」
犀さんが帰る時刻になっても、姉は奥の自分の部屋に引きこもったまま出てこなかった。普段なら、犀さんがお気に入りで、進んで見送り役を買って出るのに。短く髪を刈り込んだ自分の姿を見られるのが耐えがたかったのだろう。
「満緒、今夜はおまえが送っておあげ」と、母が言うので、姉の代りに私が居住区の外まで犀さんを見送ることになった。
父が家を出てから、こまめに食料を持って家を訪ねてきてくれていた犀さんだが、流石に疲れているような気がした。一日仕事をしていて、その仕事の合間に私の家に寄ってくれているのだ。先日はその犀さんを私がキタイスカヤの通りまで引き回した。<おまえたちだけじゃ、こんな豊かな国は作れない。日本人は技術の遅れたおまえたちを指導する立場にあるんだ!>などと、犀さんたち、この国の現地民を侮辱する言葉まで吐いて……
「犀さん、明日も来ますか?」と、私が尋ねた。この夜、私は初めて犀さんと口をきいた。「ああ。お父さんがいない間は、僕が君たちのお父さんの代りだからね」と、犀さんは笑った。
実際の父よりずっと若いまだ20代の父親。だけど、その翌日、犀さんは来なかった。いや、この居住区の近くまでは来てくれたのかもしれないが、私たちの家には近寄れなかったのだろう。翌日、遂に連中が現れて、私たちのいるこの地区を占拠したのだから。
ソ連兵たちはこの居住区の一軒一軒の家のドアを乱暴な拳でノックし、中の住人を一人残らず外に出させた。具合の悪いお年よりも無理やり寝ていた蒲団から這い出させた。泣きじゃくる子供にまでずっと銃を向けていたし、逆らうことなどできなかった。
私の家にもソ連兵はずかずかと土足で踏み込んできた。私たち家族に銃を向け、ロシア語でなにかを命令した。直感的に彼が「外へ出ろ」と言っているのだとわかった。母は震えながら妹の手を引いて外へ出た。私と姉もその後に続いた。
外は、同じように家から出された日本人家族たちでいっぱいだった。外へ出てからも、監視役のソ連兵が私たちを睨みつけて立っており、私たちにはずっと“マンドリン”と呼ばれている自動小銃の筒先が向けられていた。
向かいの家から両手を頭の後ろに組んで安藤さんの一家が出てきた。安藤さん夫婦と息子のシンチャンだ。母は、隣に並んで立った安藤さんのご主人に上ずった声で囁いた。
「ああ、いったい何が始まるんでしょう?」
「そ、そんなこと、知りませんわ、私たちに聞かれたって……」と、安藤婦人が冷たく言い返した。彼女も相当動揺しているようだった。
「奥さん、ここは連中のいいなりになるしかない」と、安藤さんは忠告した。
「父さん、僕たち、捕虜になるのかな?」
「捕虜ならまだマシじゃないか。このまま殺されるよりはずっといい」
住居の前に立たされている者たちの中には、浴衣姿のままの老人もいた。脇を娘さんらしい婦人に支えられている。体の具合が悪いのだろう、老人は今にも倒れそうだ。だが、少しでもよろけようものなら、銃を持って監視しているソ連兵に怒鳴りつけられるのだ。
あんなよぼよぼの老人を立たせるなんて…… と、怒りが湧いてくる。なんだろう、このザマは。戦うんじゃなかったのか? 命を投げ出しても、ハルピンを、この街を、守るんじゃなかったのか? 国民学校でのあの訓練はなんだ? 私たち小国民は竹槍を構えて敵兵に突進してゆくのではなかったのか?
私は、二軒先の家の前にあの在郷軍人の老人がおとなしく立っているのを目撃した。ソ連参戦のニュースが告げられて、逃げていく日本人たちを勇ましい叫び声をあげて罵倒していたあの老人が、今はがたがたと震え戦きながら突っ立っている。普段はソ連軍のことを“ロスケ”などと呼んで馬鹿にしていたはずなのに、他の住民たちとなんら変わるところがないその姿に、私は首をそむけた。
ふと、ソ連兵の一人が私の姉の方をジロジロ見つめているのに気づいた。ここに来ているソ連兵の中では比較的若い、20歳を過ぎたくらいの青年兵だ。
<奴らは民家を一軒一軒襲っては物資を奪い、女を強姦する!>
私はわざと姉の前に立った。姉は17歳。男の格好をしているとはいえ、そのほっそりした体つきと端整な顔立ちは、精力旺盛な若い兵隊の関心を惹きつけるには十分なのだ。私は姉をなるべく奴らの目に触れさせないように自分の体で隠した。あの青年兵の、自分に向けられた苛立ちを十分に感じながらも、なおのことあんな奴を姉に近づけさせてはならないと意識した。
ソ連兵の一人がロシア語でなにか号令のようなものを叫んだ。上官らしきパイプを咥えた年配のロシア兵が、私たち日本人一人一人の前に来て、ジロジロ眺め回した。上官は、日本人たちを順番に物色しながら、安藤さんの前で立ち止まった。
「ダワイ!」
上官の横に控えていた配下のソ連兵が、ロシア語で安藤さんに言った。どうやら「行け」という指図なのらしい。
安藤さんは黙って前へ進み出た。
上官は、安藤夫人の前に来てもなにも言わなかった。そのまま前を通りすぎただけだ。
だけど、息子のシンチャンの前へ来ると、またロシア語でなにかを言った。シンチャンも同じように連れて行かれた。
どうやら、男性のみを連れて行くようだ。それも年寄りと子供以外の男性ばかりを選んでいる。二軒先の家の前を見ると、在郷軍人は同じ場所に立ったままでいる。皮肉にも、最後まで敵と戦う戦闘意欲を剥き出しにしていたあの老人は連れていかれずにすんだのだ。
私の母と妹も無事だった。
次に、上官は私の前に来た。パイプをくわえた上官が、やぶ睨みの眼でじっと私の爪先から頭までを眺めまわした。
上官はパイプを口から放すと、なにかを叫んだ。ああ、安藤さんたちに発したのと同じ言葉、同じロシア語。「ダワイ!」私は観念した。私も選別された、同じようにどこかに連れて行かれるのだ。
だけど、私が前へ進みでると、上官の横で構えていた配下のソ連兵が怒って私の体を後ろに押し戻した。発せられた命令は私に向けられたものではなかったのだ。ソ連兵は私ではなく、私の背後にいたもうひとりの家族、若いソ連兵の視界から私が自分の体を楯にして隠してきた姉の腕を掴んだのだから。
後でわかったことだが、この時ソ連兵が連れて行ったのは、15歳以上の男性ばかりだった。女性と、15歳未満の子供と60歳以上の老人は排除された。ソ連兵によるこの行為は”男狩り”と呼ばれた。目的は、シベリア開拓のための労働力を確保するためだ。
この時、私は数え14歳だったため、選別から外れた。私とは2歳しか違わないのにシンチャンは連れて行かれた。そして、3歳年上の姉も……
姉が髪を短く切り、顔には泥を塗り、男物の服を着たのは、貪欲なソ連兵たちから身を守るためだ。だけど、それが今は仇となった。姉はシベリアへ抑留される”男狩り”の対象に選ばれたのだから。
母は姉の名を呼ぼうとして口を噤んだ。女性名の名前を呼べば、もしもこの場に日本語のわかるソ連兵がいたら、姉が女性であることがばれてしまう。向うには中国人らしき仲間もいて、ソ連兵としきりになにか喋っている。きっとソ連軍は、通訳兼案内役として行動を共にする現地民の協力者を採用したのだろう。ハルピンに到着したソ連兵たちをここへ連れてきたのはあの中国人だろう。”男狩り”のため、大勢いる日本人の中から、シベリア開拓の労働力となりうる者を選別するために!
ソ連兵は構えた“マンドリン”の先で姉の背中を小突いた。姉のか細い身はそれだけで前につんのめりそうになった。姉は脅えながら仕方なく歩き出した。
ソ連兵に促されて、安藤さん父子と姉が列になって歩かされる。私たちはその後を追った。
「伸吉、伸吉!」と、安藤夫人がシンチャンの名前を何度も呼んだ。母も娘の名前を呼びたかったにちがいない。私だってそうだ。代わりに私は、姉さん! と心の中で大声で叫んだ。べそをかきながら後をついてきている妹も同じだったろう。
居住区の外に幌を被せた軍用トラックが停めてある。”男狩り”で獲得した獲物はどうやらそこへ乗せて運ばれるらしい。どこへ?捕虜収容所?
安藤さんがトラックに乗せられた。続いてシンチャンも。シンチャンはトラックの荷台に足をかける前に、こちらを振り返って小さく笑いかけた。ああ、こんな時にまで……! それはシンチャンの癖だ。別れる間際の相手を思いやるような。私のすぐ前にシンチャンのお母さんがいたから、シンチャンはお母さんに向って、彼女を安心させるために笑いかけたのだろうけど。
姉がトラックに乗りこもうと足を掛けた時、「忍!」と、遂に母が叫んだ。耐え切れなかったのだ。「忍! 忍!」と、ひざまずいて泣き叫んだ。
「母さん!」と、姉が振り向きざま叫び返した。ソ連兵の銃に威嚇されながらも、姉の甲高い声を聞いたソ連兵たちが騒然となった。一人のソ連兵が歩み寄って姉の胸にいきなり手をあてた。姉は泣きじゃくっていた。
「ダウチ!」と、ソ連兵が言った。姉の声で、彼女が女性だということをソ連兵たちは知ったのだ。姉は、列の中から引き出され、私たちのもとに戻された。
姉のことをじっと見続けていた若いソ連兵の視線をこの時にも感じた。事の始終を見届け、姉が女性だということを知ったソ連兵が、ますます姉に対する関心を高めつつあったとしても、今や被占領民と化した無力な私たちにはどうにもならないことだった。
それより悲劇はなおも続いているのだ。
安藤夫人は泣き叫び続けていた。
「あなた! 伸吉!」
走り去るトラックに向って叫び続けていた。
「よかった…… よかった……」
かたや母は姉と抱き合って喜んでいた。その「よかった……」という言葉が、他人の神経に障ったらしい。
「何故、私の家から2人も! 誰も連れて行かれなかった家だってあるというのに!」と、髪を振り乱し疲弊しきった安藤夫人が、涙の滲んだ目で母と姉を睨みつけ、恨めしそうに吐いた。
※
キタイスカヤの通りにソ連軍の戦車が地響きをたてて到着した頃、通りの地下にある防空壕に大勢の日本人が隠れていた。8月9日未明にソ連軍の飛行機が郊外に爆弾を落としていくまでハルピンには空襲らしい空襲はなかったが、この防空壕は当時日本人が本土並みの戦災を想定して作ったものだ。そいつが戦争目的で活用されたのは、もはや戦後処理の始まろうとするこの時限りだった。
防空壕に隠れていた日本人の中から15歳以上の男性が、銃を向けたソ連兵によって大勢地上へと追い立てられた。そのソ連兵の一部が私たちの住む居住区にも現れ、安藤さん父子をはじめとする何人かの日本人男性を連れていった。この時、私の母と姉は、”男狩り”の直接的な被害から免れたことで涙を流して喜んで抱き合ったのだが、それで悲劇のすべてが終わったわけでは決してなかった。残された人たちは、シベリヤ抑留よりももっと凄惨な運命が自分たちに待ち受けているなどとは、誰も想像したくなかったろうけど。
その日、一台のジープが私たちの家の前に停まった。そこから出てきたのは三人の男――一人は中国警察で、後の二人は軍服を着た、背には銃を担いだ白人のソ連兵だった。
「時計はあるか?」と、表口からぬっと顔を覗かせた中国警察の男は、私たち家族を見るなり言った。「あれば差し出すんだ。大君(タイクン)は時計を欲しがっている!」
日本の敗戦とともに関東軍は撤退し、占領軍であるソ連の息のかかった中国警察が都市の治安を取り締まるようになっていた。
母の返事を待たずに、二人のソ連兵は私たちの家に固い軍靴のまま、無断でずかずかと上がりこんできた。ソ連兵はまず応接室の中に入ってゆき、部屋の中を物色しているようだった。何を言っているのかわからない甲高い声で言葉を交わし合い、戸棚にあった置き時計を引っつかむと、“マアタイ”と呼ばれている大きな麻袋の中へ無造作に詰めた。私は、母親が慌てて私を家の奥へ引っ張っていくまでの間に、応接室の戸口からその一部始終を目撃した。早くから姉と妹は奥の部屋に逃げ込んでいた(そう言い聞かせられていた)。後から私と母も加わり、私たちはじっとそこで息を潜めて、ソ連兵が帰るのを待った。姉と妹は壁に体をもたせて、小さくなって震えていた。二人とも短く髪を刈り、擦り切れたズボンと汚れたシャツを着て男の恰好をしている。<奴らは女を強姦する!>その話を聞いた母は、いつここへ来るかもしれないソ連兵の目を誤魔化すために、自らの手で娘たちの髪を刈ったのだ。とくに、敗戦までは女学生でありながら女子挺身隊として勤労奉仕をさせられていた姉の、あの三つ編みに編んだ美しい髪が切られる姿は目に痛ましかった。私はそれを自分のことのように受けとめ、悔しさのあまり唇を噛みしめていた。
応接室の中の物品を略奪し、膨らんだ“マアタイ”を下げた二人のソ連兵は、奥の、私たちの隠れている部屋にも顔を覗かせた。「ハロー」と、おかしなアクセントのする英語で言い、私たち一人一人をじろじろ眺めまわした。その部屋は私たち兄妹の子供部屋で、取られるような物は何もなかったけれど、二人は、妹の体を抱きしめながら坐りこんでいる母に目をつけて、こちらに歩み寄ってきた。一人のソ連兵が母の腕を掴み、妹から引き離した。ソ連兵は頑丈そうながっしりした手で怯える母の細い腕を掴み上げ、その手首のあたりに熱心に点検するように目を向けていた。
「母さんに何をするんだ!」と、私は叫んだ。
母は腕時計をしていなかった。けれど、ソ連兵は彼女のしていた指輪に目ざとく目をつけた。記念の日に父が贈った結婚指輪だ。
「ダワイ(よこせ)!」と、ソ連兵は命じた。それを指から抜き取ると、乱暴に彼女の体を放した。ソ連兵は奪い取った指輪を自分の指先にはめた。サイズの合わない指輪は、ソ連兵の指の第一関節でつかえ、指の上にちょこんと乗っただけなのだけれども。よく見ると、そのソ連兵は腕に幾つもの時計をしていた。それも両方の腕に肘のあたりまでずらっと時計を光らせていた。そして、軍服の袖をめくりあげた腕には、アラビア文字みたいな刺青が覗いていた。後になって知ったことだが、ソ連兵が腕にしていたのは囚人番号の刺青で、ソ連では数字を表記するのにもキリル文字というアルファベッドの文字を使用するのだ。
その間、もう一人のソ連兵はまだ少年みたいな若い男でニヤニヤ笑って見ていた。
あいつ…… 私はそのソ連兵の顔を思い出した。あの”男狩り”の最中、じっと姉のことを凝視し続けていた青年兵。そうだ、あいつだ!
なら、姉の変装は無駄だ。姉が女だということは、あの時、すでにばれてしまっている! でも、この時、ソ連兵は略奪が目的で、姉のことには念頭になかったらしい。指輪を奪い取った相棒に促されて、ソ連兵はようやく立ち去りかけた。“マアタイ”と“マンドリン”を背負った背を向け、ドアに向った。だが、途中でなにかを見つけたらしい。立ち止まり、腰を屈め、部屋の隅に落ちていた物を拾い上げると、ゆっくりと威圧するようにこちらを振り返った。年配のソ連兵の手にはセルロイドの人形が握られていた。
“お千代ちゃん”だ。妹が自分の分身のように可愛がっていた“お千代ちゃん”だ。父がフランス租界で買ってきた、フランス製なのに何故かそう名づけられた人形。ソ連の参戦直後、この都市から逃げだそうと荷物をリュックに詰め込んだ際にも、妹は人形の“お千代ちゃん”も詰め込もうとして姉にこっぴどく叱られたのだ。
妹がびくびくしてソ連兵の大きな手の中に囚われの身となった“お千代ちゃん”を見つめている。
だけど、ソ連兵は人形そのものには関心がなかった。奴らの“マアタイ”の中身は既にもっと価値のある品物、時計や宝石やラジオでいっぱいなのだから。使い古しの人形なんか入る余地はない。ただ奴らが関心があるのは……
男の恰好をした子供ばかりが3人いる部屋で、女の子の遊ぶ人形…… “お千代ちゃん”を掴んだソ連兵の目は再び、私たちの方に向けられた。私と、男の服を着て、顔には泥を塗った姉と妹の顔を交互に見比べた。
<ソ連兵は鬼だ! 奴らは女を強姦する!>
その警句が私の頭の中を離れない。
「花娘……花娘がいるのか……?」と、ソ連兵は言った。おかしな中国語だったので、そいつが何を言ったのか定かではなかったが、瞬間的に私は悟った。
にわか覚えの中国語が通じないとわかると、ソ連兵は「ダウチ!」と叫んだ。聞き覚えのする言葉、あの”男狩り”の最中で、連れ去られかけた姉の胸を探ったソ連兵が、調査結果を上官に報告するために発した言葉だ。「ダウチ!」
若いソ連兵が人形を奪い取り、それを私たちの方へ突き出した。“これはおまえのか?”とでも言うように、人形を掴んだ腕を、姉の俯けた額に向けて真っ直ぐに伸ばしている。
姉は怯えながら、それを受け取るのを拒んだ。頑なに顔を横にそむけ、ソ連兵と眼を合わさないようにしている。
若いソ連兵は、少しでも彼女の体を隠そうと、手前にいる私と母を苛立たしそうに押しのけ、震えている姉に自分の顔を近づけた。彼女の硬い頬に白人の高い鼻の先がこすれ合うくらい間近でまじまじと見つめた。姉の顔は恐怖でひきつり、激しく拒絶するようだった。
私にはどうにもできない。ソ連兵の頭に、数日前のあの”男狩り”の記憶が蘇るのを。グレーの光彩の眼が興味で輝き、吊り上った口元に笑いが浮かぶようだ。奴は確信する。あの時の女だ、あの時から自分がずっと眼をつけていた同じ女だ……
「シィニョウビュ……」と、ソ連兵は言った。
一瞬、私は耳を疑った。だけど、奴はまた同じ言葉を繰り返した。
「シィニョウビュ……」
ああ、このソ連兵は姉の名前まで覚えていたのだ。忍という名前。連れ去られそうになった姉を呼び止めようと、母が泣き叫んだ姉の名前。そんなものまでこいつは聞き覚えていたのだ。
姉は顔をそむけ、首を横に振った。だけど、若いソ連兵は確信している。ここにいるのはあの時見たのと同じ女だ。”男狩り”でこの日本人居住区に来た時に、自分が関心を抱いたジャップの女だ……
ソ連兵は何かを叫び、彼女の腕を掴んだ。ほっそりした手首の、泥の塗られていない色白の膚が覗く。ソ連兵は嫌がる姉を無理やり立たせ、傍らに引きつけようとする。首を振り、激しく抵抗する姉の、か細い軋んだ声が耳を突く。
「いや、やめて、離して!」
その声を聞きつけ、若いソ連兵はますます火が点いたように欲望を奮い立たせる。甲高い声、か弱い仕草、細い腕、泥の塗られていない色白の膚……
女だ、間違いない、それも若い娘、「ダウチ!」
ソ連兵が姉の着ている男物のシャツを剥ぎ取る。その下から、女物の肌着が露になる。
その一方で立ち膝をつきながら、ソ連兵は、片手で素早く自分のズボンのベルトを緩めにかかっている。ズボンの股間の膨らみがはち切れんばかりに大きくテントを張っている。
咄嗟に私は立ち上がった。
ああ、自分はいったい何をしているんだ? 何故こんなふうに小さくなって怯えているんだ。闘うんじゃなかったのか? ロスケが来たら、最後まで闘うんじゃなかったのか? 戦車や、自動小銃の“マンドリン”に対して、竹槍で立ち向ってゆくんじゃなかったのか? 身を挺してこの国を守りぬくんじゃなかったのか? この満州という国、自分の生まれた国を!
<母さんは、おまえに父さんの代わりとなって、姉さんや妹を守って欲しいんだよ……>
<もしお兄ちゃんに乱暴するような奴がいたら、また僕が守ってあげるから……>
母の声、黄の声が、頭の中で交錯する。そうだ、守らなければ……! この国、この家、家族、自分の愛する者を……
私はそれらの声に突き動かされた。
「姉さんに何をするんだ!」
私は叫び、しゃにむにソ連兵の太い腕に食らいついた。必死に指を突き立て、姉から放そうとした。それでもソ連兵は手を放しはしない。しっかりと姉の細い腕を掴んでいる。狂乱する姉の声。私の両手の指は痛み、ぎしぎしと軋んで折れそうになった。
「おやめ、おやめ……」
後ろから泣き喚く母の声が耳に響いた。妹の啜り泣きも聞こえた。
私はソ連兵の腕に噛みついた。思いっきり下顎に力を込めた。狂いたった獣のようなソ連兵の叫び。姉の体が遠ざかるのを感じた。
「ジャップ!」
怒り狂ったソ連兵は、背中に手を回し、担いでいた小銃を手に取った。銃……! 私は慄然とした。足がガタガタ震え、恐怖で気が荒んだ。ああ、もしあの“マンドリン”の筒先が自分に向けられたりしたら、私はガキみたいに失禁していただろう。だけど、銃口は私には向けられなかった。ソ連兵は鋭い声で何かを叫ぶと、腕を振り上げ、銃床で私を殴りつけた。頭の中が破裂するようだった。続いて、体がボールのように軽く、一瞬宙を飛んでいるような気がした。その後、私は背後の壁に打ちつけられ、仰向けに倒れこんだ。頭が生暖かかった。なにか液状の物が流れてきて、頭部全体を覆っているような感じだ。姉の鳴き声が聞こえる。ソ連兵に乱暴され、泣き叫ぶ姉の声が。そして、姉の悲鳴を聞きながら、私は意識を失った。
INDEX
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- 白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第三回「破られた国境」
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- 白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第1回「天安門広場からスターリン公園へ」
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