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白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第九回「引き揚げ」

白鳥健治さんの連作小説『同じ色の膚』。男どうしで愛し合うにはあまりにも厳しい時代の淡い初恋を描いた大河小説のような趣の作品です。主人公と黄少年が結ばれる日は、果たしてやってくるのか……時代を越えたせつなさを感じ取ってください。

白鳥健治連作小説『同じ色の膚』第九回「引き揚げ」


 
第九回 引き揚げ

8月、在留邦人の引き揚げが始まった。
父は知り合いに頼んで、私を遼西回廊にある葫蘆(コロ)島まで連れて行き、そこから引き揚げ船に乗せてくれるように手配した。
快く引き受けてくれたのは、中村さんという20代の人だった。父と同じく中国共産党に留用されている人で、丸い眼鏡をかけた痩せぎすな人だった。
第一次引き揚げ列車がハルピン駅から発車したのが8月19日、最終列車はちょうど一ヶ月後の9月19日だった。この一ヶ月の間に約14万人がハルピンから脱出した。居住区の地区ごとに引き揚げ列車が割り当てられ、私は8月末出発の引き揚げ列車に乗ることになった。
その3日前に、父は中村さんを家に連れて来て、私と引き合わせてくれた。
「これが息子の満緒だ」と、掌を私の頭の上に乗せ、「同志よ、こいつをくれぐれもよろしく頼むよ」なんて、まるで仲間内だけで伝わる合言葉のように囁いた。それに真顔で頷いているのだから、中村さんという人もきっと同じ穴の狢、父と同類の共産主義かぶれなのだろう。
引き揚げ隊が組織され、日本人居住区のコミュニティのリーダーが組織のまとめ役を買って出た。リーダーのくせに失踪した自称満鉄役員とは懇意にしていた人で、役員と対立していた父のことをあまりよく思っていないようだった。そんなだったから、父は私のことをまかせられる信頼できる人物が必要だと感じたのかもしれない。引き揚げ隊にはこの他、向いの家に住む安藤夫人も一緒だったけど。
「どうだ? 一人で帰れるか?」
「うん」と、私は答えた。「大丈夫。帰れるよ」
「そうだよな。おまえももう数えで15だ。軍隊に志願できる年齢だ。一人前のオトナだよな」
一人前のオトナ――自分でもそう思ったから、引き揚げの時期は同じ居住区の人たちと一緒の列車を選んだのだ。というのは、引き揚げ列車は子供や老人に優先的に割りあてられたから。
私の住んでいる居住区からも、父親を兵隊で取られたり、”男狩り”で連れて行かれたり、母親をソ連兵に強姦され殺されたり、病気で失くしたりで、孤児となった子供や家族を失くした老人が一足先に引き揚げ列車に乗った。二軒先の家に一人で住んでいた在郷軍人の老人も、日本人会の人たちに引率されてこの居住区から出て行くのを私は目撃した。
その時、「元気でね」「私たちも後から行くからね」と、近所の人たちが表に出て見送った。
「じいさん、本国で息子さん夫婦に会えたらな、許してやんなよ!」と、家族に取り残され一人暮らしを余儀なくされた老人に声をかける者もいた。「あんたの息子さんも、もし無事に帰国できていたとしても、そうとう苦労をしたにちがいないんだからよ!」
あんなに勇ましかった在郷軍人も、本国の敗戦後はすっかり元気を失くし、近所の者たちの忠告におとなしく頷くばかりだった。
私もあの老人と同じ列車でもっと早い時期での出発が可能だったかもしれない。一時は、満州に残って侵攻してきたソ連軍と戦うつもりで、あの老人のことを家族のように近い存在だと感じていたこともあったはずだ。ただ難民収容所にいる孤児たちのことを考えると、自分なんかずっと後でいいと思った。孤児たちを先に返すのが先決だ。自分はしいて帰りたいわけではない。むしろここに残ったってかまわないのだから……
ハルピンを去るにあたり、私はこの街の幾つかの思い出の場所を訪ねた。黄と一緒に泳いだ松花江(スンガリー)の岸辺やキタイスカヤの石畳。松浦百貨店やモデルンホテルのあったビル。聖ソフィア協会。そして、今は難民収容所となっている、昨年まで私が通っていた国民学校へも。
難民収容所はめっきり人が少なくなっていた。話では、以前ここで会った、牡丹江(ムータンチャン)から避難してきた先生が、日本人会からの委任を受けて、孤児たちを引き連れて出発したそうだ。ハルピン駅で働いている父が、大勢の子供たちが引率の女性とともに第一次引き揚げ列車に乗るのを見たと教えてくれた。栄養失調で弱りきった子供たちを連れて大陸を渡るなんて、たいへんな苦労だったろう。でも、きっとそれは、私をナッチャンのいる安置所まで案内してくれたあの親切な女性でなければできないことだと思う。無事、子供たちを日本まで送り届けてくれることを願っている。
ナッチャンの両親がどの教室にいたのかなんてわからないから確かめようがないのだけど、半分も人が残っていない収容所の様子に、あの人たちも無事引き揚げたのだと勝手に思い込んでいる。ただし、あの教室にいた5人の戦争孤児たちは別だけど……
マアタイを服の代わりにしていた子。
冷たい床に直に横たわっていた子。
チフスでズボンの尻あたりを糞で汚していた子。
あの5人の子供たちがその後どうなったか、実は私は知っている。妹が亡くなった一週間後に、私はもう一度この収容所を訪ねているから。
妹が亡くなってからも、私は”盗み”を働いていたのだが、”盗み”で得た金はもともとは妹のために使うのが目的だった。妹が死んで、使い途を失くした金が残った。私はその金を、妹の代わりに、同じ病気で苦しんでいる子供たちのために使おうと思った。拾い集めた鉄屑が売れた時、それらは幾らにもならなかったけど、飲食街の売店で饅頭(マントウ)をかろうじて5つ買って、私は難民収容所に向かったのだ。
たしかに孤児たちが5人いたはずのその教室を覗いてみたら、そこには別の家族が入りこんでいた。夫婦と3人の子供たち。その3人の子供たちもひもじそうだったが、両親がいるだけずっといい。動くのも大儀そうで、今にも餓死しそうだったあの5人よりはマシだ。一週間前にはたしかにここにいたはずの子供たちのことを夫婦に聞くと、「さあ、うちらがここに来た時にはもうこの教室には誰もいませんでしたから……」という返事だった。
私はしがなくその教室を後にした。
あの時会った親切で面倒見のよい中年女性の先生に会えたら、きっとあの子たちがどうなったか教えてくれたろう。だけど、先生がどの教室にいるのかなんてことも聞いていなかった。適当に校舎を渡り歩いたけど、先生にも、あの5人の子供たちにも会えなかった。途方に暮れたあげく、買ってきた饅頭を持って校舎を去ろうとした。
が、1階の校舎裏の教室に回った時に、ふと気づいた。
西向きの窓のある渡り廊下の突きあたり。奥の教室。ここ何日分もの死体が山のように積まれている場所だ。彼らはたしかに一週間前は生きていた。ここ数日間の間に亡くなったのなら、彼らはまだそこにいるだろう。あの安置所の中に…… 満人はたまにしか死体を引き取りに来ないというから……
こっそりとその場所にあてられている教室のドアを開く。あんなにたくさん山のように積まれていた死体の数はずいぶんと減っていたから、つい最近満人が引き取りに来たばかりなのだろう。新しい死体のみが幾つか床の上に並べられている。
一つ一つの死体の顔を確認する。
一つ目の死体は、あの子たちではない。
二つ目の死体も違う。大人の死体だ……
ナッチャンの死体はもうなくなっているようだった。こんな場所にいつまでも放置されるよりはと、しかるべき場所に運ばれていったことに安堵する。
だけど、三つ目の死体は……
数が少ないから、すぐにわかった。一列に並べられている5人の子供の死体。
マアタイを服の代わりにしていた子。
冷たい床に直に横たわっていた子。
チフスでズボンの尻あたりを糞で汚していた子。
みんな……みんな揃っている。仲良く兄弟のように並んで横たわっている。親がいなくて、自分と同じ境遇の者しか頼るすべがなかった孤児たち。血の繋がらない者同士なのに、身内のようにして繋がりあっていた子供たち。5人とも、あれから一週間ももたなかったのだ……
私は愕然とした。
5人の中には私や黄と近い年齢の子もいる。私や黄となんの違いもないような子が……
私がモタモタしていたからだ、ここに来るのが遅かったから…… 何故もっと早く来てあげられなかったのだろう? 
私は後悔した。
たしかに、たかが饅頭の一つをあげたくらいでどうなるというのだろう? 寿命が延びるわけじゃない。だけど、同じ死ぬにしても、最後に少しでも美味しい物を食べさせてあげられたら、と…… 彼らは生きていた。たしかに一週間前は生きていた。それがたったの一週間の間に……
私は安置所を飛び出した。持ってきた饅頭を抱えこんで、そのまま5人の孤児たちがいた教室に戻った。
ホカホカの蒸した白いパン生地の中に具の詰まった饅頭は私の大好物でもある。日本が戦争に負けて以来、もうずっと口にしていない。5人の子供が教室にいなかった時に、もうこれを渡せないのなら、一つくらい食べてしまおうと、内心こっそりとほくそ笑んだのも確かだ。
だけど、この時食べてしまわないでよかったと思っている。5人の孤児たちのいた教室には別の家族が入り込んでいる。夫婦と3人の幼い子供。この3人の子供たちもそうとうひもじい思いをしているはずだ。だって、着の身着のまま北方から逃げてきたのだから。途中でどんな物を食べたろう。道端に生えている野草の類。タンポポやスカンポ。そして、この収容所では、食料は、満人の店主の目を盗んで飲食街の残飯をあさるか、炊き出しに来る地域の同胞のボランティアに頼るぐらいしかないのだ。私はまだいい。家に帰れば食事が摂れる。それが貧しいコーリャンの粥であっても。
「探している子供たちには会えたんですか?」と、3人の子の母親が尋ねた。
私は首を横に振り、持っていた饅頭を入れた紙袋を差し出した。
「皆さんでこれを……」
「まあ、いいんですか? こんなたいそうなものを……」と、母親は驚いた。
飲食街で買った時にはホカホカで、その温もりが紙袋を通してはっきり伝わってきていたのが、この時にはもうすっかり冷めていた。それでも受け取った母親はたいそう喜んでくれた。
私は、教室の壁に背をもたせて、動くことも大儀そうにぼんやりしている3人の子供たちに笑いかけてから、自分に言い聞かせた。たった1週間の間に5人の子供たちが死んだ。明日自分がどうなるかなんて誰にもわからない。今できることをしておかなければ、と…
それから半年あまりが経った。
難民収容所はめっきり人が少なくなっていた。大半の人たちが最初の列車で引き揚げたのだ。
饅頭をあげたあの時の5人家族は無事帰れたろうか? ナッチャンの両親も…… ここの孤児たちを帰還させる役を買って出た親切な先生も……
人の少なくなった難民収容所を後にして、私はそのまま地元民たちの満人居住区に足を向けた。
だって、もうこれが最後なのだ。どうしても黄に会わずにはいられなかった。
今、会わないでどうなるだろう? そう、今できることをしていかなければ。今会わなければ、もう一生彼には会えないのだから……

久し振りに歩く満人居住区。黄に連れられて初めて歩いた道だ。それから、金に棒で殴られて傷ついた彼を背負って歩いた道でもある。
彼の姿を探して歩く。想い出の一つ一つが蘇る。彼とともに過ごしたこの街、この風景……
昨年の8月以来、日本人がここに立ち寄ることは危険視された。私がここを訪れたのも、黄を背負って歩いた1年前が最後で、それ以降は一度もここへは来ていなかった。
敗戦から1年が経つ。昨年と比べると、八路軍(パーロ)の統治のもとで治安はある程度回復していた。それでも、この場所を日本人がたった一人で歩くことの危険性は承知していた。この時代の日本人に対する現地民たちの怨恨は容易に消せるものではなかったから。
「日本人のガキが歩いてやがる」
「こんな所で何をしているんだ?」
と、すれ違う人々の間や通りに面した家々の窓から満人たちの囁き声が聞こえてきそうだ。
彼は今頃、どうしているのだろう? 国民学校の初等科を卒業した満人の同窓生たちの中には八路軍に入隊した者たちもいると聞いた。国民党と闘うのだと。
黄はそんな道には進まないだろう。あのひ弱で痩せた小さな体には、軍服も銃器も似合わない。似合うのは中国の便衣と、草の蔓で編んだ酒瓶の入った籠ぐらいだ。
黄の家の前まで来たものの、訪ねていく勇気などない。暫く家の前で佇んでいる。表に面している家の窓にじっと眼を凝らす。人のいる気配がする。中にいる黄が私に気づいて、外に出てくれればいい。それを願う。
その家の扉が内側から開けられた時、私の胸はドキドキと高鳴った。けれど、出てきたのは彼の母親だった。
ずっと私が家の前に立っていたのに気づいていたらしく、半開きの扉に手をかけたまま、戸口からジロリと私を睨みつけた。
忘れもしない。あの人の掌。いつかこの家で私と黄が裸で抱き合っているのを見とめて、私を打擲したあの冷たいざらついた掌。
「あんた、うちになにか用かい?」と、無愛想に母親は尋ねた。
「黄に……」と、私はこのチャンスに飛びついた。「黄に会いたいんですが……」
「いないよ。酒屋の配達で遠くまでお使いに出されている。今日は帰りが遅いんだ」
そっけない返事が返ってきた。
<母さんは僕を手当てしてくれたことで、お兄ちゃんに感謝している>いつか黄が私に話してくれた。<あの子のことが心配なら、うちに連れてくるといい――そう言ってくれたんだ>
私は、記憶の中のその言葉をあてにしていた。一度は私を打擲した母親だが、怪我をした黄を背負ってこの家まで送り届けたことで、私をもう許してくれているのだと…… だけど、彼女は私のことなんかもうはなもひっかけずに、すぐさま家に引っ込んだ。目の前で拒絶するようにぴしゃりと扉が閉まった。
夫を日本軍に殺されたという怨恨はなおも続いているのだ。故郷の村は破壊され、実家の家も土地も奪われたという……
私はその場で黄を待つことにした。母親の言っていることが本当で、黄が外に仕事に出ているのなら、彼が仕事から帰ってくるのを。母親の言っていることが嘘で、黄が家の中にいるのなら、彼が私に気づいて家から出てくるのを。
家の窓にしぶとく目を向ける。そこに人の気配を感じたのは彼の母親だったか…… 黄は本当にいないのだろうか?
背後を通り過ぎる満人たちがジロジロと私のことを眺めていく。
「日本のガキめ!」「ジャップのガキめ!」
彼らの胸の内から声が聞こえてきそうだ。それらは実際に発せられたものではなく、警戒心でいっぱいの私の心が勝手に作り上げた想像上の声なのだけど。
だけど、その声はしっかりと私の耳の鼓膜を揺るがした。
「東洋小鬼(ルーベンクイズ)!」
背後にはっきりとした人の気配。通りに現れた便衣の少年は、じっと立ち止まって私を見ていた。
「おまえ、なんでここにいるんだ?」
金だ。黄と同じ居住区に住む金が、通りの向こうから私のことを睨みつけていた。
「帰れよ! ここはおまえなんかの来る所じゃない!」
早くも金は敵意を剥き出しにしていた。日本人に向けられる憎悪の刃。表向きの治安は回復したものの、内面上の怨恨の深さには変化がなかった。
先の質問も、次の「帰れ」という命令も、私は無視した。自分はまだ黄に会っていないんだ。ここを立ち去るわけにはいかない。
「おまえももう日本に帰るのか? なら、ちょうどいい。帰る前におまえに思い知らせてやる!」
金がジリジリとにじり寄ってきた。私は後ずさりしながら、拳を固め、身構えた。一年前に彼らのグループに暴行を受けそうになった時には、彼らと一緒にいた黄に助けられたが…… 翌日にはここを立ち去るというのに、その間際に、なんてことだろう。やはり、こいつとは対決しなければならない宿命にあるようだ。私は覚悟を決めた。金は大柄でがっしりした体格だけど、年齢は私と同じだし、今回は前回と違って一人対一人だ。こっちだって簡単にはやられない。やり返してやる! 
金が私の胸倉を掴んだ。荒々しい手が私の首を絞めつけ、ぐいぐい揺さぶった。私はその手を掴み引き離そうとするが、力は想像以上に向こうの方が上だった。こいつ、鍛えている、と私は思った。こいつも八路軍への入隊を志願しているのか? 国民党の国府軍と戦うために体を鍛えているのか? 喉許に食い込んだ奴の手を容易に外せない。そして、高く掲げられたもう片方の奴の手が私の顔面めがけて振り下ろされようとした時……
「おやめ!」
黄の家の扉が開いて、黄の母親が私たち二人を睨みつけていた。
「小金(シャオキム)、その子を放してやりな!」
金は拳を下ろし、反発するようにチッと舌打ちした。それから、乱暴に私の胸をどんと押して、私を突き放した。
「またもや黄の家の者か! あの家の家族に二度も救われるなんて、おまえはあの家のなんなんだ?」と、彼はウンザリしたように私を横目で睨んだ。
「さあ、あんたはこっちへ来な!」と、母親は私に向かって手招きした。私を打擲したはずの冷たいざらついた掌が、この時ばかりは私を保護するように差し出された。「うちの子に用があって来たんだろう? 中で待っているといいよ」
「小母さん、なんで日本人の肩なんか持つんだよ? あんたの旦那さんだって、日本人に殺されたんだろう?」と、憎憎しげに金が言った。
「ああ、そうだよ。でも、それはその子には関係ないことだよ」
「小母さんは日本人が憎くないのか?」
「憎いさ。だけどね、この子を苛めたってしょうがないだろう? そんなこと、卑怯者のすることだよ」
「あんた、この俺を卑怯者呼ばわりするのか?」
母親は金を無視して、私を家の戸口に導いてくれた。だけど、後から自分も家に入ろうとした直前に、金は背後から勢いよく喚きたて、彼女はそれまでも無視することはできなかった。更なる金の攻撃が始まった時、彼女は扉の外でぴたりと動きを止めた。
「あんたの旦那、日本軍にどんな目に遭わされたかわかってんのかよ? あんた、日本軍が降伏して撤退していった後で、捕虜収容所へ行って、さんざん旦那の遺品を探し回ったんだろう? だけど、一つでもそれらしい物は回収できたかい? なんにもなかったんだろう? だって、奴ら、撤退する間際に施設を破壊して行ったんだから! 書類はすべて焼却して、証拠隠滅を図ったんだから! もしもそのことが世界にばれたりしたら、厳しい国際非難にさらされるからな。あの場所でいったい何が行われていたか……」
いったい何のことを言っているんだ? 日本軍が何をした? 捕虜収容所で何があったっていうんだ? 黄の母親は立ち止まったままなかなか土間に入ってこない。私はじりじりして金の次の言葉を待った。
「話じゃあ、人体実験が行われていたっていうじゃないか? あいつら、囚人を細菌兵器の実験台にしやがった! あんたの旦那だって、そうだよ。モルモットにされたんだ!」
「ああ、よしてくれよ、その話は!」
母親の悲痛に歪んだ声。苦しげな息遣い。扉の外にいる彼女は明らかな動揺をきたしていた。
「あんたの旦那は、ペストかコレラの細菌を体に注射され、苦しんで苦しんで死んだんだよ!」
「およしったら!」
<平房(ピョンファン)にある捕虜収容所、731部隊という日本軍のいる軍事施設……>
いつかこの家で盗み聞きした黄と彼の母親の会話を私は思い出した。黄の父親が人民革命軍のスパイの容疑を受けて、731部隊の捕虜収容所に入れられたこと…… だけど、この時、金の言っていることなんて、なんのことだかいっこうにわからなかった。あいつの言っていることなんて出鱈目だ。黄の母親を味方に引きつけたいために口から出まかせを言っているんだ。捕虜を細菌兵器の実験台にしただって? 黄の父さんも実験台にした? 神の国の日本がそんなことをするはずがない……!
「戦争に関係ない人間だってモルモットにされたんだ。大勢が殺された。やられたことをやり返して何が悪い? 日本人なんか、みんな死ねばいいんだ!」
「ああ、いいから、もう行ってくれよ!」母親が泣きながら叫んだ。「後生だから、お願いだよ!」
金の声が止み、疲弊しきった様子の母親が家に入ってきた。彼女はまだ外にいるのかもしれない金の攻撃に備えるかのように、震える指先で扉を閉ざし、次々と窓も閉めた。未だ動揺をきたしている彼女に私はどう対していいのかわからなかったが、とりあえず、「おばさん、大丈夫ですか?」と、おざなりみたいな声をかけた。「あいつの言っていることなんか、嘘ですよ。日本軍がそんなこと……」
「ほっといてくれよ!」
冷たい返事が返ってた。彼女は髪を振り乱し、憤怒のこもった眼で私を睨みつける。<東洋小鬼(ルーベンクイズ)!>その眼が今にも私をそう罵倒するようだ。いつかの時と同じように……
ああ、何も変わりはしない。私はなす術なく黙り込んだ。”気をつけ”の姿勢を命じられたみたいに、その場に屹立しているしかなかった。それこそいつかの時のように、私の頬を打擲した母親の掌をあまんじて身に受けるべく、直立不動の姿勢で構えていたように。所在なげに土間から奥の部屋に目を向ける。板間の部屋には黄はいないようだった。これだけ外が騒がしいのだから、家の中にいれば当然顔を見せるだろう。彼が酒屋に働きに出てまだ帰ってきていないことは本当のようだった。
「あんた、なんでそんなにうちの子に会いたいんだい?」
ようやく落ち着きを取り戻した母親の声が響いた。閉め切った暗い土間で黄の母親と向き合う。彼女は私を詰問するようにまじまじと見下ろしている。
「……」
「会って何をするつもりだい?」
「さよならを…… お別れの挨拶をしたいんです……」
「それだけかい?」
「はい」
この家だ、この家で私は黄と一緒のところを彼女に見られた。裸で彼と抱き合っていたところを…… 「それだけ」と聞いた母親の頭の中には、当然その時の記憶があったろう。<本当に挨拶だけなのか? おまえはまたうちの子にいやらしいことをしたいんじゃないのか? 男のくせに、同じ男の子を裸にしたりして……!>そう咎める母親の声を私は想像した。
「本当にそれだけなのかい?」
「はい」
「なら、私が伝えておいてやるよ」
「自分で……」と、つい言葉が突いて出た。「自分で言いたいんです」
「なんでそんなにうちの子に会いたいんだい?」
「と、友達なんです」
「友達ねえ……」と、母親は思わせぶりに言った。
「日本人は男同士であんなことするのかねえ」
私は黙って唇を噛み締め、こらえた。
「うちの子にはそんな趣味はないよ! あんたら日本人は知らないがねえ。私らは違うんだ。うちの子に妙なこと、教えないでおくれよ!」
「……」
駄目だ、何も言い返せない。
礼をしてそのまま帰ろうとすると、「待ちな」と、思い直したように母親が呼び止めた。
「あんた、そんなにうちの子が好きなのかい?」
心臓が止まりそうになるくらいドキッとした。顔が熱く火照って、声が出ない。咎められることを恐れもしたが、この家での黄と私のあんな場面を見られた以上もう誤魔化しようもなかった。
「おかしな子だね。男の子なら、普通、女の子を好きになるものだけどね」
貝のように黙り続ける。何を言われても仕方がない。自分が彼を好きだということ――この事実だけは否定したくない。
「うちの子もそうなのかい? うちの子も女の子より男の子が好きなのかね?」
そう聞かれて返答に窮した。あの頃、黄は本当に私のことを好きだったのだろうか? たんにまだ女の子を知らなかっただけなのだろうか?
「うちの子に別れの挨拶がしたいってことだけど、遺送が始まっているんだろう? あんたも自分の国へ帰るのかい?」
“遺送”――引き揚げのことを、地元の送り出す側の人達はそう呼んだ。
「はい」
「いつ出発するんだい?」
「明日です」
「朝、早いんだろう?」
「8時出発です」
「じゃあ、うちの子に言っておくよ。うちの子は朝も酒屋で配達の手伝いをしているけど、最後だからね、お別れぐらいしたいだろうから……」
「ありがとうございます」と、私は深くお辞儀をした。
黄の母親が気を許してくれている様子なのに乗じて、私はこんなことを尋ねた。
「あのう、黄は…… 黄も入隊するんですか?」
「八路軍にかい?」と、母親は含み笑いを浮かべた。「うちの子は軍隊には入らないよ。あの子は上の学校に行かせるよ。勉強させてうんと賢くなって、医者か学校の先生になってもらうんだ。人殺しの道具なんかにさせはしないよ!」
黄の母親は窓を覗き、外を確認してから、
「さあ、もうお行き。金とこのせがれももういないようだから。まっすぐ家に帰るんだよ。あんたの家の人も心配しているだろうし…… このへんをまだウロウロしていたら、今度こそあいつに見つかって何されるかわからないからね」
「はい」
私は黄の母親の忠告どおりにした。翌日になればきっと彼に会える。この言葉を信じた。
満人居住区からの帰り道、なおも同じ道を通るかもしれない彼の姿を探し続けながら、遂にキタイスカヤの大通りまで来てしまった時、私はそっと来た道を振り返り、呟いた。
「さよなら、黄……」



出発の日は来た。出産前で身重の母は見送りには来てくれなかった。私が引き揚げた後に出産することになるのだろう。
「関さん、すまないね。奥さんが大事な時だってのに。女手が必要なんだから、本当は私は奥さんの傍についていてあげたいんだけどね」と、この日の引き揚げ隊のメンバーに加わっている安藤夫人は、母の出産に立ち会えないことを、見送りに来ている父にすまなさそうに告げた。
そんな安藤夫人とは対象的に、私は腹の中でこう思っていた。
母の出産に立ち会えないのは好都合だ。きっと私の代りとして可愛がられるのであろう、子供の顔なんて見たくないから……
「一年後か、二年後におまえを迎えに行くよ」と、父はそんな私の腹の中を探りもせずに言った。「生まれてくるおまえの兄弟と、三人で……」
私は何も言わず、父から顔を背けた。父よりも、黄のことが気になった。だから、私の目は駅のホームを彷徨い、必死で黄の姿を探していた。
「奥さん、家内のことは心配ないですから。それよりもご主人と息子さんの消息について何かわかりましたら、必ず連絡しますよ」と、父は安藤夫人に告げた。
「よろしくお願いしますよ、関さん」
見送りには犀さんも来てくれた。犀さんも同じ駅で働いているから、この時間に都合をつけて来てくれたのだろう。
「向こうに着いたら、必ずお父さんとお母さんに手紙を書くんだよ。二人とも君が心配でならないんだから。それにここはまだ内戦中だ。何が起こるかわからない。もしも両親との連絡が途絶えたら、私に宛てて手紙を書くんだ。もしも君のお父さんとお母さんに何かあった場合は、私が君に連絡するよ」
一瞬、犀さんに黄のことを頼もうかと思った。犀さんは黄のことを知っているはずだ。もし彼に会ったら、手紙が欲しいと…… いや、そんなこと頼めない。そんなことは自分で伝えるべきだ。そうだ、今にきっと彼が会いに来てくれるはずだ。見送りに来てくれるはずだ。そうしたら、自分で伝えればいい。ずっと君と繋がっていたい、連絡を取り合っていたいと……
でも、なかなか彼は来てくれない。そこへ代わりに現れたのは……
「関さん、遅くなりました」
父の知り合いで、私を本国まで連れて行ってくれる人だ。
「ああ、中村さん」と、父の顔に安堵の笑みが浮かんだ。
父は中村さんとなにやら密かに話し始めた。志を等しくする者同士の今後の活動計画についてでも打ち合わせているのか。
その隙に犀さんが私に小声でそっと囁いた。
「君はお父さんのことを誤解している」
「なにがですか?」
「君のお父さんは君が考えているような人じゃない。ずっと立派な人だ……」
不審げに犀さんの顔を見返す。いったい何が言いたいのか?
「満州国は偽満州国で、実態は日本の植民地だった。君のお父さんもそんな国のために働いてきたことを恥じている。でも、今は違う。私たちは自分たちの手で自分たちの国家を作り始めている。君のお父さんは、犯してきた過ちを償い、今こそこの国の人たちのために尽くすべきだと考えたんだ。だから、ここに残り、私たちとともに働くことを選んだ。立派な人だ」
”長い物には巻かれろ”だ。
表では頷きながら、私は心の奥底では犀さんに反発している。父はそんな高邁な人じゃない。打算の塊だ。共産党に賛同しているのは、今ここでは共産党が一番勢力が強いからだ。
「それに…… いつか話しておきたいと思っていたんだが、君のお父さんは……」
その時、話しこんでいた父がこちらに顔を向けた。中村さんとの話が終わったらしい。
「さあ、満緒、そろそろ出発だ」
犀さんは残念そうに口を閉ざし、「いつか機会があれば君に話すよ」と、素早く私に耳打ちした。

私は最後の最後まで黄の来るのを待ち続けた。でも、列車の出発時刻が来たのに、彼はいっこうに姿を見せない。
無蓋貨車での移動だった。雨に降られたらずぶ濡れになるのを覚悟しなければならない。開かれた貨車の扉に向って順番に引揚者たちが連なっている。
「さあ、行くんだ」と、背後から中村さんが促した。
「でも……」と、私はためらった。
まだ黄が来ていないんだ。彼はきっと来るはずなんだ。彼の母親と約束したんだから。最後なんだもの、彼に会わせてくれるって。さよならの一言ぐらい、告げさせてくれるって…… 
「どうした? もう行きなさい」と、見送りの父も言う。犀さんも頷いている。
「いったい何をしているんだね?」と、引き揚げ隊の旗を抱えたリーダーが忌々しそうに私を見ている。
リーダーの声に反応して、列車の順番待ちの後尾にいる人たちがこちらを振り返った。
その中のずんぐりした人を見て、私は目を疑った。そこには意外な人物がいた。リーダーの相棒役、威圧感たっぷりの巨体の持ち主……
ああ、あいつだ。
私の家の隣に住んでいて、突然姿を消した自称運満鉄役員とその家族。彼らが今また突然に姿を現したのだ。
まだハルピンにいたのか? この引き揚げの日に合わせて、一時的に行方をくらましていただけだったのか……
”あのボウズ、なにやってんだ?”と、いつか私に対して使った”ボウズ”という言葉を今にも言い出しそうにして、嘲るように私を見ている。
背後にいた父も驚いたようだ。顔をこわばらせ、一足先に列車の乗車口に移動する自称満鉄役員とその妻と娘たちを見送った。
自称満鉄役員の一家が無蓋貨車に乗り込むと、中から歓声がした。
「おやじさん、暫くでした!」
「元気そうで、なによりです!」
「奥さんもお嬢さんもお元気そうで!」
取り巻きたちの声だ。失踪して半年あまりのブランクがあったとはいえ、それまで目をかけていた同じ居住区の連中を、あの連中は早くも味方に引きつけたらしい。
「さあ……」と、父が背後から私の肩に手をかけた。
自称満鉄役員がいるんだ。あんな奴のいる一緒の車両になんて乗りたくない。それに、まだ黄にも会っていないんだ…… ああ、黄の母親は本当に今日のことを息子に伝えてくれたのだろうか? 俺に会わせまいとして黙っていたんじゃないのか? 俺が日本人だから? ガキだから? 同性愛の変態だから? 俺はあの婆アに騙されたのか?
だけど、もうこれまでだった。何度振り返っても父は乗るように促すだけだ。自称満鉄役員や引き揚げ隊のリーダーが乗っていたって、子供の私にまでは危害は及ぼさないだろうとの判断らしかった。それに、信頼のおける”同志”の中村さんも同行してくれるのだし。
私はしがなくタラップに足をかけた。続いて中村さんが乗り込んだ。
引き揚げ隊のリーダーが、モタモタしていた私たちを非難するようにしかめっ面で最後に乗り込んだ。
扉が閉められた。見送りの人たちの姿はもう見えなくなった。
座席も何もない車両に、私たちは腰を下ろした。普段は石炭を運んでいる、窓一つない貨車。天井は筒抜けだったけど。外を見ることはできないので、私はじっと耳をこらした。屋根はないから、音だけはよく聞こえた。
黄の声を聞こうとした。彼が見送りに駆けつけてくれたなら、きっと私の名前を呼んでくれる。でも、何も聞こえない。見送りの人々のざわめき。騒音。
ふと、黄の声が聞いたような気がした。「お兄ちゃん……」って、いつもの甲高い少年の声で。
彼だ、彼が駆けつけてくれたんだ。
車両の中央で自称満鉄役員と引き揚げ隊のリーダーと取り巻きたちがくだらない世間話をしている。酒でも飲んでいるみたいに、やたらデカイ声で笑いながら喋っている。
うるさい! 黄が来ているんだ。彼の声が聞こえないじゃないか!
私は心の中で毒づき、必死になって耳を澄ます。
だけど、次の瞬間、追い討ちをくらわすように長々と汽笛が鳴り響いた。悲鳴のようなけたたましい響きが、私の聴覚を麻痺させた。
彼が車両のすぐ外にいるのに、窓のない無蓋貨車では、その姿を見ることも、声を聞くこともできないなんて…… 出入り口の扉はしっかり閉まっていて、一筋の光も通さない。
無蓋貸車の扉をこじ開けようと指を突き立てる。鉤のかかった扉はびくともしない。苛々して汽笛が鳴りやむのを待った。でも、そいつが鳴りやんだ時には、もう…… いくら耳を澄ましたって彼の声は聞こえない。すでに音をたてて列車は走りだしていた。滑るように移動する空。列車のたてるレールの力強い響きが、周囲の物音を飲み込み、ホームにいる人たちの気配を私から遠ざける。
目の上で振動している無蓋貨車の扉の鉤。スライド式の扉が内側から金属の留め具で固定されてある。あれなら自分でも外せそうだ。
「君、どうした?」
隣にいた学生服の人が私に声をかけた。
「黄が……来ている……」
「え? なんだって?」
「扉の外に……黄が……」
「黄って、誰だ!?」
その人の力強い声で私は我に帰った。鉤に向かって伸ばしかけていた自分の手をすんでのところで抑えた。
「いえ、なんでもありません」と、私は扉から目をそらし、素っ気なく答えた。
大学生だろうか? 学生服の人は時折不審げに私をジロジロ見ている。眼が合うと、優しげに笑いかけてくる。私はそれに対して冷たく無反応で、素知らぬフリをする。あいつ、お節介焼きの邪魔な奴……と、私は心の中でその人をののしった。

列車の旅は続く。すでにまる一日、列車は走っている。
無蓋貨車の側板の上から首を突き出し、流れる外の風景を眺める。既にハルピンは遠く、コーリャン畑が続いている。地平線に落ちてゆく巨大な夕陽。熟れた柿の実色にあたり一面を染めつくしている。いつか安藤さんとシンチャンが話していた光景だ。
あの夕陽の中に溶けこんでしまえば…… そんなことを私は幾度も考えた。この列車から降りて、残留孤児になろうと…… 
この大陸から離れたくない。日本には帰りたくない。黄と一緒にいたい。原野の中を彷徨って、大陸の塵になったっていい。彼のいる同じ場所にいたい……
なんでこんな側版のある車両が自分に割りあてられたのか? 後ろの方には屋根がないどころか、側板さえもないフラット車も連結されている。床板だけの車両だ。すべての引揚者を側板のある安全な車両に搭載しきれない以上、そのうちの何十人かは危険なフラット車に乗せなければならない。急カーブの度に転落する者も出てくるという危険な車両だ。私と中村さんは側板のある車両に乗せられた。でも、本当は私は側板によじ登らなくても風景の見えるフラット車の方がよいのだ。そして、なにかの拍子を装って転落してしまってもかまわない。原野の中に取り残されたって……
”お兄ちゃん……”
声を聞いた気がした。かん高い少年の声。黄の声だ。発車間際に駅で聞いた同じ声が、大地の中から風の唸りのように蘇ってくる。
”お兄ちゃん……”
ヤモリのようにしがみついていた側板から下り、側板に沿って車内を移動し、扉の前に立つ。乗客たちは皆、疲れたようにぐったりしている。寝転がっている者。腰を落としたまま居眠りをしている者。誰も私の方になど注意を向けてはいない。中村さんも安藤夫人も背中を曲げ、頭を垂れて、まるで船でも漕いでいるみたいだ。
今だ、今なら誰も見ていない。逸る気持ちでこっそりと扉の留め具を外した。カチリと金属質の音が響いたが、地鳴りのようなレールの響きに掻き消されて、誰も聞き分けた者などいなかったろう。力を込め、少しだけ扉を開けようとする。ガタンと音をたてて列車が揺れた。その拍子で扉が開く。私は前のめりにバランスを崩しそうになる。
「あぶない!」
背後から体を抱きとめられた。ゴーッと獣のような唸り声が耳を突く。飛びかかってきた風が頬をなぶる。目の先には開け放たれた扉。飛ぶように真横に流れてゆく外の風景。私との間に仕切りがなにもない。一歩前に踏み出せば外に転がり落ち、その風景の中に簡単に紛れ込んでしまるだろう。
「君、正気か?」
誰かが両腕でがっちりと私の胴体を掴んでいた。私はその人によって車両の奥に引き戻された。あいつ……あの学生服を着た人だった。学生服は私の体を風のあたらない安全な側版の前に投げ出すと、扉を閉めにかかった。
「どうしたんですか?」
中村さんが慌てて傍に寄ってきた。側版の前で尻餅をついている私を見やり、「大丈夫か?」と、囁いた。
「転落するところでしたよ。子供をこんな扉の前に座らせるなんて、危ないですよ!」
「だって、鉤は? 扉には鉤がしてあったはずだが……」
「自分で外しました」と、私は正直に告げた。
「どうして?」と、中村さんが不審げに顔をしかめた。
「おおい、なにをやっているんだ?」と、車両の奥から誰かが叫んだ。
「誰かが扉を開けやがった!」
「え? 走行中なのにか?」
「なんてあぶないことをするんだ! 人が落ちたらどうすんだよ?」
怒った大人たちの声が口々に聞こえた。
「ボウズの仕業だろう?」
“ボウズ”という声に私の耳は敏感に反応した。声の主は自称満鉄役員の中年男だ。
「あの満鉄の運転手んとこの家は親の躾がなってないからな! 親が親なら、子も子だよ!」
どっと取り巻きたちの笑い声が起こった。
「悪戯者の悪ガキめ!」「あんなガキを一人で汽車に乗せるなんて……」「まったく何やっているんだよ、もと満鉄の運転手野郎は!」
声のした方を確かめると、ニタニタしながらからかうように私のことを眺めている豊満な中年男の顔があった。自称満鉄役員は車両の中央で仲間の取り巻きたちと胡坐をかいて座っている。食糧だってたんまり持ち込んでいるらしく、気楽そうにしていた。
学生服の人が中村さんの助けを借りて、開いた扉をもとに戻した。学生服の人が扉を押さえつけている間に、中村さんは素早く鉤をかけ、作業を終えると、私の方を振り返った。
「君は変わった子だ。みんなこの日の来るのを楽しみにしていた。内地に帰れる日を待ち焦がれていた。なのに君ときたら、今朝からずっと元気がない。そんなことにはまるで関心がない感じだ……」そこで中村さんは車両の中央にいる自称満鉄役員たちの方を振り向いてから、「それともあの人たちの言ったとおり、お父さんとお母さんが恋しいのかな?」
お父さんって、あんたの“同志”のことかよ? 代わりの子供が生まれるのを楽しみにしている、あの両親かよ! 
そう思いもしたが、私を内地まで連れて行ってくれる人の手前、しおらしく首を横に振った。それにこんな時に自分の父親のことを悪く扱うなんて、あの自称満鉄役員たちと一緒になってしまう。そうだ、あいつらがいる、この車両には自称満鉄役員と取り巻きたちがいる。今のところ、自分の味方といえる人はこの中村さんだけだ。これ以上敵を作るわけにはいかなかった。
「いいえ、そんなじゃないです」
「じゃあ、君はそんなにここが好きなのかい?」
「いえ……」と、またもや首を横に振った。最後の満州の暮らしはひどいものだった。姉と妹だって失くしてしまった…… 
けど……
私には満州を嫌いになることなんてできない。だって、私はここで彼と知り合えたのだから。本当はこの列車から降りて、満州の土になったっていい。この土地にいて、ずっと永久的に彼のことを見守っていたい……
「この子を扉の前にいさせるのは危険です。この場所には私がいます。この子はもっと奥の方へ」
「すまない」と、中村さんは学生服の人に頭を下げ、「君はこっちへ来るんだ」と、私の腕を引っ張った。
扉の前に陣取っている学生服の人は、私の顔を見ながら、まるで昔からの知り合いのように気さくに頷いた。不思議な人だった。引き揚げ隊は住んでいる居住区ごとに編成されているから、近所の顔なじみやどこかで見かけた人が多いのだが、この学生服の人とはまるで面識がない。会うのは今回が初めてのはずだった。親戚でも兄弟でもないのに、この車両にいる間、ずっと私のことを気にかけてくれているかのようだった。
学生服の人の正体は不明だ。だけど、自称満鉄役員と取り巻きたちが中心を占めている、なにか一波乱ありそうなこの車両で、中村さん以外に少しでも味方となってくれそうな気配のする人の存在は、私にとって心強くもあったのだ。

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