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特集:横浜エイズ国際会議30周年
1994年8月に開催された横浜エイズ国際会議は、日本初のプライドパレードとともに、ゲイコミュニティにとってのエポックメイキングな出来事でした。今年で30周年を迎える横浜エイズ国際会議に関する特集をお届けします
(「Love Positive 30 - 1994年の国際エイズ会議とアート」より)
今年のTRPは日本で初めてプライドパレードが開催されてから30周年という節目を祝うお祭りになりましたが、実はもう一つ、ゲイコミュニティにとって決して小さくない意味を持つ出来事が30年前にありました。それが1994年8月に開催された横浜エイズ国際会議です。会議自体の参加者は内外の医療関係者や研究者などが中心で、参加費も高額で、市民が気軽に参加できるものではありませんでしたが、草の根の市民版エイズフォーラムとして「AIDS文化フォーラム」が立ち上げられ、講演会や交流会、陽性者のパフォーマンスなどが行なわれたり、古橋悌二さんの発案でVISUAL AIDSの「ELECTRIC BLANKET」というHIV/エイズに関する映像を音楽と一緒に上映するイベントを(DJやドラァグクイーンも入れて)開催し、「LOVE BALL」という野外パーティも開催されました。また、この国際会議をきっかけにぷれいす東京が設立されたり、日本のHIV/エイズ対策の流れが変わる転換点ともなり、いろんな意味で重要な、記念碑的なイベントとなりました。
今年、横浜で30年にわたり開催され続けてきた「AIDS文化フォーラム」だけでなく、「ELECTRIC BLANKET」に参加していた方たちが登壇する貴重なイベントなども開催されるため、横浜エイズ国際会議30周年を記念する特集をお届けしてみたいと思います。
横浜エイズ国際会議のコミュニティ・リエゾン委員会とぷれいす東京の設立
長年にわたってゲイ・バイセクシュアル男性を含むHIV陽性者の支援に携わってきたぷれいす東京は、横浜エイズ国際会議に向けてHIVコミュニティをつなぐ委員会が立ち上げられ、その代表に池上千寿子さんが就任したことがきっかけで創設されました。
2014年にぷれいす東京設立20周年記念シンポジウム「HIV/エイズとともに歩んだ20年と、これからのこと。」が開かれ、池上さんをはじめ樽井正義さん(慶應義塾大学名誉教授。研究者として12年にわたり厚生労働科学研究の研究代表者を務め、ぷれいす東京の理事も務めた方)、根岸昌功さん(前都立駒込病院感染症科部長/ねぎし内科診療所院長。多くのHIV陽性者の診療に携わってきた方)、宮田一雄さん(公益財団法人エイズ予防財団理事、特定非営利活動法人エイズ&ソサエティ研究会議事務局長。ジャーナリストとして古くからHIV/エイズについて発信してきた方)というHIVコミュニティの重鎮たちが登壇し、当時のことを語りました。たいへん興味深い、また、当時を知ることができるとても貴重なお話ですので、横浜会議とぷれいす東京の創設に関わる部分のさわりを以下にお伝えします。
1990年代、先進国でさえあからさまにHIV陽性者への差別があり、アメリカは1992年にHIV陽性者の入国を禁じる法的措置をとったため、ボストンの国際会議がアムステルダムに変更になったりしました。日本も差別的なエイズ予防法の時代でしたから、横浜会議は大変だったそうです。横浜会議の2年前、日本の組織委員会は純粋に医学的な会議にするつもりで、そのあまりにも見当外れな決意を伝え聞いた海外の国際エイズ会議関係者が驚き、WHOの世界エイズ計画のマイケル・マーソン部長と国際エイズ学会のピーター・ピオット理事長が組織委員会の山形操六事務局長(エイズ予防財団専務理事)に対し、「とにかく考え違いをしてもらっちゃ困る、この会議はコミュニティでエイズ対策の現場にいる人たちやHIVに感染している人たちが積極的に参加できるものでないと成り立たない。それがイヤなら横浜でなくバンコクでやってもかまわない」と言ったんだそうです。二人の要求は、まず事務局と同格でコミュニティの参加を促進する受入窓口を作ること、そしてその代表に日本のHIVコミュニティを代表する人物を起用すること、というものでした。そうしてコミュニティ・リエゾン委員会が作られ、池上さんにお願いすることになりました(宮田一雄さんが池上さんにお願いしに行ったんだそうです)
池上さんによると、日本で3年くらい活動をしているNGOの人たちを中心として委員会を作り、世界から来られるNGOやHIV陽性の活動家たちをちゃんと受け入れよう、宿泊拒否や入国拒否などが起きないようにと準備をしました。「エイズの会議というのはみんなでつくるもので、いわゆる医療専門家だけのものじゃないんだという共通認識が国際的にはすでに生まれていて、それに向かって日本の私たちは何ができるかを考え、ありがたいことに何とかできたと思います」
そして、せっかくアジアで初めての会議をするんだから、自分たちの理念で活動していて、みんなとつながっているグループがあるということを発信したい、ということで、会議の数ヵ月前に生島さんをはじめ20人近い方たちでぷれいす東京が立ち上げられました。団体名をどうするかというところで、海外の人にも一目瞭然でわかりやすく、なおかつHIVが入らない(当時、名前にHIVの文字が入っていると東京では事務所を借りられなかったんだそうです)名前をみんなで考え、Positive Living And Community Empowerment、その頭文字をとって PLACE、でもカタカナではなくひらがなにしようということで「ぷれいす東京」になったんだそうです。
1994年7月には国連で、WHOやUNDPやユニセフなどがバラバラにエイズ対策をするのではなく、共同でプログラムを実施していこうという決議がありました。これがのちの国連エイズ合同計画(UNAIDS)になります。そして8月に横浜会議が開催され、12月にパリエイズサミットがあり、GIPA(HIV陽性者のより積極的な関与)の原則が初めて打ち出されました。GIPAの重要性は横浜会議の準備過程で認識され、その具体的な動きの見本みたいなものがコミュニティ・リエゾンで、なおかつ、それを契機に出発したのがぷれいす東京なんだそうです。
生島さんがお話を聞くかたちで池上千寿子さんが当時のことを語ったYouTube動画「1994年 あの夏、横浜で–ぷれいす東京誕生秘話」では、さらに詳しく、生き生きと国際会議のことが語られています。池上さんがもともとハワイでセクソロジーを学んでいて、その時にアメリカ本土でのエイズの流行のニュースが入り、医療職やゲイコミュニティの人たちの冷静な受け止め方を見て、性感染症と差別(人権)の問題が初めてわかった、1985年にアトランタで第1回国際エイズ会議が開かれたが、「神の罰だ」とか「国際エイズ会議なんてナンセンスだ」という反応に接して驚いた、1987年 第3回のワシントンDCでの国際会議では、ナショナルモールの広大な広場にメモリアルキルトがたくさん敷かれている様を見て感銘を受けた、1989年第5回からWHO(世界保健機関)、IAS(国際エイズ学会)、GNP+(陽性者ネットワーク)、ICASO(NGO国際連絡会)が主催団体となり、当事者コミュニティも一緒に運営することになった、90年のサンフランシスコの会議は、米国がHIV陽性者を入国規制するというので欧州がボイコットし、会場の中でも外でも抗議行動が行なわれるなどして荒れた、そういうなかで、アジアでも会議をやる時ではないかとの機運が高まり、横浜でやることになったが、それを聞いたとき「あんな会議できないでしょ」と思った…といったお話から、上記のシンポジウムで宮田さんらが話しているような、主催4団体が日本の組織委に対して「黒船」的な圧力をかけてリエゾンができることになり池上さんに白羽の矢が立って、というお話、インターネットがない時代に、世界中の人たちと連絡を取り合うのが大変だったということや、海外から来られる人たちが満足して帰ってくれるようにいろいろ準備を進めたこと、前年のベルリンで、日本には当時エイズ予防法という社会防衛論的な人権軽視の法律があったため、ボイコットが呼びかけられたが、4団体とも一緒に、誰でも問題なく入国できるし安心して過ごせることを保証するとの文書を出したといったお話がありました。
とても素晴らしいと感じたのは、横浜市との連携についてのお話です。国際会議は広く人々にエイズの正しい知識を知らせる機会でもあり、また海外から来られるHIV陽性者が宿泊先やレストランで嫌な思いをしないようにということで、ホテルや商店街や自治会などに研修を行ない、受け入れ態勢を整えていったんだそうです。当日、会議の会場には救護所などだけでなく陽性者が安心して休めるラウンジを設けたということ、2200人ものメディア関係者がプレスの登録をしたこと、一般公開された展示には7500人もの市民が訪れたことなども初めて知りました。おかげで、会議は無事に開催され、みなさん満足して帰っていかれた、日本のエイズ対策がいい方向に変わる大きな出来事となったんだそうです。
1時間半くらいありますが、お時間ある時にご覧ください。
AIDS文化フォーラム
横浜エイズ国際会議自体は、行政や学会の関係者行政の人たちなどが参加していましたが、その参加費は8万円という高額なもので、とても市民参加できるものではありませんでした。この時、国際会議に並行して草の根の市民版エイズフォーラムをやろうということで、多くのボランティア、NGO、専門家の方たちが「AIDS文化フォーラム」を立ち上げました。そこでは国際会議に集まるリソースパーソンを講演者にしたり、NPOのネットワークを作ったり、感染者によるパフォーマンスがあったり、様々な試みが行なわれました。行政からの直接的援助は受けられませんでしたが、会場の提供など後方支援の協力は得られました。
なぜAIDS「文化」フォーラムなのかというと、フォーラムを医療や福祉の問題だけではなくHIV陽性者やAIDS患者を病気と共に生きる人間としてとらえること、そしてすべての人間が、HIV/AIDSに関わりを持ちながら、日常の生活・社会的活動に関わっているという側面を大切にしたいという考え方でした。「文化」の2文字を入れたことで、フォーラムの開催プログラムの幅は大きく広がることができたといいます。
(AIDS文化フォーラムin横浜公式サイトより)
このAIDS文化フォーラムは、国際会議が終わった後も毎年、横浜で開催され続け、なんと、昨年で第30回を、今年で30周年を迎えるまでになりました。スゴいことです(下記に今年の概要とプログラムをご紹介します)
「ELECTRIC BLANKET」と「Love Ball」
古橋悌二さんの発案で、国際会議の会場「パシフィコ横浜」の広場でVISUAL AIDS(レッドリボンを発案したり、毎年世界エイズデーに映像作品を上映しているアート集団)の「ELECTRIC BLANKET」の上映と野外イベント「Love Ball」が開催されました。
「ELECTRIC BLANKET」はナン・ゴールディンやピーター・ヒュージャー、アレン・フレームなどの写真200点とエイズに関するテキスト、データ、スローガンから構成される作品で、京都でAPP(エイズ・ポスター・プロジェクト)の活動をしていた古橋悌二さんがブブ・ド・ラ・マドレーヌさんが一緒にNYから持って来て、上映(プロジェクターで投影)したのでした(残念なことに古橋さんは体調を崩し、当日は参加できなかったそうです)
『クィア・シネマ・スタディーズ』の記述によると、「ELECTRIC BLANKET」投影直後に行なわれた野外パーティ「Love Ball」では、世界中から訪れた方たちがステージに上がり、笑顔で自己紹介しながら、例えばシンガポールから来たHIVを持つ女性が「政府の支援は何もない。でも私にはあなたたちがいる」と語ったりしたそうです。
そのほかにも、APPやダムタイプの方たちが「SAFER SEXしようぜ」というポストカードを製作し(こちらに載っています)、会議で配布したそうです。
古橋さんは横浜会議に向けて、AIDSの頭文字を使った言い換えとして「And I Dance with Somebody」というフレーズを発案したそうです。そこには他者とともに喜びを享受することへの強い思いが込められています。(「MAMリサーチ006:クロニクル京都1990s―ダイアモンズ・アー・フォーエバー,アートスケープ,そして私は誰かと踊る」の報告より)
今年の「AIDS文化フォーラムin横浜」
1994年の横浜エイズ国際会議をきっかけに、横浜で毎年8月、「AIDS文化フォーラムin横浜」が開催されてきました。これまで途切れることなく30年も続いてきたのは本当にスゴいことです。
g-lad xxでは2020年のAIDS文化フォーラムで開催された「私たちを分断する様々な『ダメ。ゼッタイ。』 ~行き過ぎた予防啓発と規制の功罪~」をレポートしています。薬物などの依存症のことはHIV/エイズのすぐ隣にあるテーマであり、横浜AIDS文化フォーラムではこうしたテーマも含め、幅広い分野のお話を聞くことができます。
第31回AIDS文化フォーラムin横浜
日時:8月2日(金)〜4日(日)
会場:かながわ県民センター
無料
主催:AIDS文化フォーラムin横浜運営委員会(事務局:横浜YMCA)
共催:神奈川県
後援:横浜市医療局、川崎市、相模原市、横須賀市、藤沢市、茅ケ崎市、横浜商工会議所、神奈川県教育委員会、公益財団法人エイズ予防財団、神奈川新聞社、tvk
今年は「伝えるむずかしさ」をテーマに3日間にわたって開催されます。どなたでも無料で参加できます。
『カミングアウトジャーニー』や『リトルガール』のようなクィア映画の上映&トークもありますし、薬物のことや性暴力、宗教のことなど、様々なテーマが盛り込まれています。
ゲイコミュニティからは、JaNP+の高久陽介さんや、NPO法人パープル・ハンズや神奈川の認定NPO法人SHIPの方、牧師の平良愛香さん、ノーマルスクリーンの秋田祥さん、RUSH裁判を支援していた塚本堅一さん(元NHKアナウンサー)、そして『カミングアウトジャーニー』の福正大輔さんらが登壇します。
たくさんあるプログラムの中からいくつかピックアップして以下にご紹介します(3日間フルにご参加いただける方の参考になるよう、日時順に全コマの1プログラムずつをご紹介しています)
8月2日(金)
◎オープニング「エイズ・性教育再考」
開会式に引き続き行なわれるオープニングセッションです。HIV/AIDS教育のこれまでを振り返りつつ、未来に向けての展望、期待を語り合います。日本エイズ学会とのコラボ企画です。NPO法人日本HIV陽性者ネットワークJaNP+の高久陽介代表理事も登壇し、ゲイのHIV陽性者の視点からお話します。
日時:8月2日(金)10:00-12:00
会場:かながわ県民センター2Fホール+YouTube配信
登壇者:高久陽介(JaNP+)、高橋幸子(産婦人科医)、清水美春(コンドーム伝道師)、岩室紳也
◎HIV陽性者の高齢化
HIV陽性者の高齢化で生じる生活課題を、身寄りや縁の乏しい性的マイノリティの老後プランとして考えます。
日時:8月2日(金)13:00-14:30
会場:かながわ県民センター302号室
登壇者:NPO法人パープル・ハンズ
◎薬物依存症をどう伝えるか
「ダメ、ゼッタイ」で薬物依存症は治りませんし、薬物使用は減りません。ではどうすればいいのでしょうか。薬物依存症の治療や、普及啓発の第一人者である松本俊彦先生とその仲間たちが本音で語ります。(2020年の「私たちを分断する様々な『ダメ。ゼッタイ。』 ~行き過ぎた予防啓発と規制の功罪~」の続きのようなお話になるのではないでしょうか)
日時:8月2日(金)15:30-17:30
会場:かながわ県民センター2Fホール
登壇者:松本俊彦(精神科医)、風間暁(保護司、NPO法人アスク社会対策部薬物担当、薬物依存症当事者)、塚本堅一(元NHKアナウンサー)、ピースさん(医師)、岩室紳也
8月3日(土)
◎性犯罪を予防するために 盗撮、痴漢は依存症?
性犯罪が後を絶ちません。「性的同意」という言葉も法律の中に盛り込まれましたが、一方で児童ポルノをはじめとした被害者が後を絶たず、「ダメ、ゼッタイ」というスローガンのようなことが繰り返されるだけです。性教育の中でも「相手が嫌がることはしない」といったことは多くの人が伝えているはずですが、なぜ性犯罪が減らないどころか増えているのでしょうか。多くの性犯罪者の治療に関わってきた精神保健福祉士、インターネットの専門家と共に、いま、何が、どのような視点が求められているのかを、本音で語ります。
日時:8月3日(土)10:00-12:00
会場:かながわ県民センター2Fホール
登壇者:斉藤章佳(大船榎本クリニック精神保健福祉部長、精神保健福祉士/社会福祉士)、宮崎豊久、岩室紳也
◎親しい人にどう伝える? HIV・薬物・セクシュアリティ
薬物依存などヘビーな経験をしてきたゲイの方が親や同僚にカミングアウトする姿を追った映画『カミングアウト・ジャーニー』が上映されます。上映後にこの映画の福正大輔さんと精神科医&参加者のクロストークも行なわれます。
<あらすじ>
ひとりのゲイ男性が2022年夏、友人、職場、家族へカミングアウトする旅に出た。東京・中野の劇場からはじまり、神奈川・川崎から広島へ。自分のセクシャリティ・HIV・依存症のことをありのままに語る旅はどこに辿り着くのか。「生きることに不安だった、自分に嘘をつき続けてきた」と語る彼の本意とは何か。本音が言えずに、人生につまづき、社会から追いやられ、いま困難に直面する人と支援する人に観てほしい”カミングアウトされる側”のREAL。
日時:8月3日(土)13:00-14:30
会場:かながわ県民センター301号室
登壇者:福正大輔(公認心理士・ASK認定依存症予防教育アドバイザー)、ピースさん(医師)
◎映画 Little Girl
『リトルガール』はトランスジェンダーの女の子・サシャの姿と、サシャを支え、彼女が女の子として学校に通えるよう闘う家族の姿を生き生きと映し出し、ベルリン国際映画祭、モントリオール国際ドキュメンタリー映画祭などを席巻、2020年の東京国際映画祭でも上映されたフランスのドキュメンタリー映画です。上映後には特定非営利活動法人SHIPによるミニ講演があります。また、当日会場にて「トランスジェンダーのリアル」パネル展も行なわれます。
日時:8月3日(土)15:30-17:30
会場:かながわ県民センター2Fホール
登壇者:特定非営利活動法人SHIP
8月4日(日)
◎タブーを超えて 日本の性教育に変革を!
公文国際学園高等部男子3人でつくる「セクテル」による講演です。「私たち3人は少しでも日本の性教育を良い方向に持っていきたいという思いで様々な場所に登壇したり、授業を行ない、Instagramなどでも発信を行なってきました。それらを通して私たちがいちばん強調したいのは、高校生が高校生に授業を行なう意味、そしてその効果についてです」
日時:8月4日(日)10:00-12:00
会場:かながわ県民センター2Fホール
登壇者:セクテル
◎国際エイズ会議 ‘94のパーティーとアートのこと
1994年にアジアで初めてとなる国際エイズ会議が横浜で開催されました。その会場となったパシフィコ横浜の広場(野外スペース)では、主に京都の若者らとニューヨークのアーティストにより写真と文字が投影され、2日目の夜にはパーティが行われました。本発表では、このプロジェクトの内容とそこに至るまでの背景について基本的な情報を当時の写真などとともに、アートに詳しくない方にもわかるように説明します。
日時:8月4日(日)13:00-14:30
会場:かながわ県民センター303号室
登壇者:秋田祥
Love Positive 30 - 1994年の国際エイズ会議とアート
古橋悌二さんが発案し、国際会議の会場の外(広場)で開催された野外アートイベントのことは、現状、インターネット上にもほとんど記録がなく、当時のことを知る機会がほとんどありません。そんななか、貴重な資料や記録映像、そこに参加していたアーティストの話を通して、もう一度あの夜に光を当てようとノーマルスクリーンがトークイベントを企画しました。
8月の最後の土曜の夜、横浜の象の鼻パーク(以前パレードやレインボーフェスタが行なわれた海辺の公園)にあるアートスペースとカフェを併設した「象の鼻テラス」を会場に、伝説のOKガールズやダムタイプで活躍してきた砂山典子 a.k.a. SNATCHさん、aktaやジューシィー!でおなじみのジャンジ a.k.a. Madame Bonjour JohnJさん、アーティストのアキラ・ザ・ハスラーさんが語ります。
「アジアで初めて行われた国際エイズ会議から30年。130ヵ国から約12000人もの人が参加した会議場の外、パシフィコ横浜の広場では若いアーティストやその友人たちがパーティーを開催。そこでは、シンポジウムや、ニューヨークでゲリラ的に始まった「エレクトリック・ブランケット」という写真と文字の投影プロジェクトも行なわれました。
これら一連の集まりは、国内外のHIVポジティヴの人々が出会える場となっただけではなく、会議での議論をよりリアリティと熱気をもったメッセージとして共有し、エイズによる死は決して「数」ではなく、生きた「個人」の出来事であることを周知するのに大きな役割を果たしました。
本イベントでは、貴重な資料や記録映像、さらにそこで参加していたアーティストの話を通して、もう一度あの夜に光をあてます。あわせて、2024年現在HIVを身近に感じている人たちの声にも耳を傾けることで、時間の経過や変化をとらえ、これから何ができるのかを考えるきっかけにもなるかもしれません。
あの夏のことを憶えている人もまだ生まれていなかった人も、横浜の水辺であらためて当時のことを一緒に振り返りましょう」(公式サイトより)
Love Positive 30 - 1994年の国際エイズ会議とアート
日時:8月31日(土) 開場18:30、開始19:00(だいたい22:00頃まで)
会場:象の鼻テラス(横浜市中区海岸通1丁目、みなとみらい線「日本大通り駅」出口1より徒歩約3分)
入場料:1000円〜3000円(スケール式。お支払いできる額を会場で現金でお支払いください。お支払いが難しい方は事前にご相談ください)
予約者優先でご入場いただきます(自由席)。予約はこちらから。席に余裕がある場合は予約なしでもご入場いただけます
主催:ノーマルスクリーン
助成:横浜市地域文化サポート事業・ヨコハマアートサイト2024
問合せ:normalscreen@gmail.com
ポーラ美術館がフェリックス・ゴンザレス=トレスの代表作を展示
横浜会議30周年と直接関係があるわけではありませんが、同じ神奈川県で、HIV/エイズに関する素敵なトピックがありましたので、ご紹介します。
箱根にあるポーラ美術館がこのたびフェリックス・ゴンザレス=トレスの代表作の一つである《「無題」(アメリカ #3)》を新たに収蔵し、7月24日から公開しています。
フェリックス・ゴンザレス=トレスは1957年、キューバ生まれのゲイの現代美術作家です。主にNYで活動し、公共の場に個人史を持ち込み、身近な問題に対する気づきをもたらす作品で知られています。1990年代以降の美術史において最も重要な作家の一人であり、没後も多くの後進に影響を与え続けている存在です。
NYのプラット・インスティチュート、ホイットニー美術館のインディペンデント・スタディー・プログラムで社会の諸問題を芸術に組み込むポストモダンの理論を学んだ後、1987年より前衛集団「グループ・マテリアル」に参加、様々なアーティストとコラボレーションし、展覧会を通じてジェンダーや政治問題などに関するメッセージを投げかけました。アンドレア・ローゼン・ギャラリーでの初個展で単独活動を開始し、長方形の紙を積み上げ、その紙を来場者が持ち帰ることを許可し、見る側が介入することで変化が起きるインスタレーション《無題(ブルー・ミラー)》(1990)によって評価されました。翌年、パートナーのロス・レインコックがエイズで他界したことが制作においても転機となり、恋人たちの痕跡が残るベッドの写真をNYの街の24ヵ所の看板に設置した野外作品《無題》(1991)、自身とロス・レインコックの2人分の体重と同じ重さのキャンディを床に敷き詰め、観客に持ち帰ることを許可するインスタレーション《無題(偽薬)》(1991)などを発表しました(こちらにその作品と2人の画像が掲載されています)。1995年、グッゲンハイム美術館で大規模な回顧展が開催。その翌年、エイズによって亡くなりました。(『美術手帖』より)
《「無題」(アメリカ #3)》は、42個の電球が連なる電気コードによって構成された「ライト・ストリングス」と呼ばれるシリーズで、キャンディのシリーズに並ぶフェリックス・ゴンザレス=トレスの代表作の一つです。1991年にロス・レインコックがエイズで亡くなった直後から、自身もエイズでこの世を去る約1年前までの数年間に制作されたシリーズで、時間とともに消耗していく電球は、命の終わりや喪失を暗示しています。その一方、寿命が切れる度に電球が交換されることで、作品は再生を繰り返しながら永続的に存在し続けるとも言えます。一つひとつの生に与えられた有限の時間と、生と死の連続の中で見いだされる永遠の時間を、静かに鑑賞者に問いかける作品です。
ポーラ美術館は近年、現代美術作品の収集・展示に力を入れており、ゴンザレス=トレスの作品を「明快・詩的でありながら極めてラディカルであり、ミニマリズムの文脈にとどまらず、むしろその動向に再解釈を与えた」と評価し、今回の《「無題」(アメリカ #3)》の新収蔵が同館の「戦後アメリカ美術のコレクションと、その後の現代美術への展開との間をつなぐ、重要な位置を占めるものになる」としています。
この作品は「ポーラ美術館コレクション選|印象派からリヒターまで」(~12月1日)で見ることができます。
ポーラ美術館コレクション選|印象派からリヒターまで
会期:〜2024年12月1日
会場:ポーラ美術館展示室3(神奈川県足柄下郡箱根町仙石原小塚山1285)
12月1日まで無休
入館料:2,200円、高校生・大学生:1,700円、障害者手帳をお持ちの方:大人/高校生・大学生とも1,100円(介助者1名まで1,100円)
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