PEOPLE
新宿を変える、日本を変える。歌川泰司さんインタビュー
blog「【漫画】♂♂ゲイです、ほぼ夫婦です」や『じりラブ』でおなじみの歌川泰司さんへのインタビューをお届けします。きっとこの春、ゲイシーンにとびっきりの明るいニュースを届けてくれる、そんな予感を感じさせる方です。
歌川泰司さんは2001年、リーマンとしての本業のかたわら、メジャーな一般サイト内で同性愛についての良質な読み物を提供するAll About[同性愛]を立ち上げ(歌川さんがいなかったらこのサイトはなかったはずです)、長年にわたってパレードやレインボー祭りの実行委員を務めてきました。二足の草鞋どころか三足も四足も…驚異的なパワーでやり遂げてきたスーパーマンであり、ゲイシーンの人気者でした。仕事の都合からAll Aboutをやめた後も「【漫画】♂♂ゲイです、ほぼ夫婦です」という漫画ブログをヒットさせて世間でも人気を博し、集英社から単行本『じりラブ』を発表し、第2弾『ツレちゃんに逢いたい』では読者の涙を誘いました。そして「君のままでいい.jp」というサイトを立ち上げ、全国のセクシュアルマイノリティの中高生を応援する活動もスタートさせました。
そんな歌川さんが、新宿区政にチャレンジすることを決意しました。歌川さんとはどんな人生を送ってきた人なのか、そして、その大きな胸にいったいどんな思いが去来したのか。じっくりお聞きしてみました。(聞き手:後藤純一)
※なお、今回の統一地方選にチャレンジするオープンリー・ゲイの方としては、ほかに、中野区の石坂わたるさん、豊島区の石川大我さん、そして、尾道市長に挑戦する河野正夫さんがいらっしゃいます。また、トランスジェンダーの方としては、世田谷区の上川あやさんがいらっしゃいます。
誰も助けてくれなかった子ども時代
——全国のセクシュアルマイノリティの中高生を応援する「君のままでいい.jp」というサイトを立ち上げられた歌川さんですが、歌川さん自身は子どもの頃いじめられた経験はありますか?
だいぶやられましたよ。今とちがって中2くらいまではしゃべり方とかもなよなよしてたんで、わかりやすかったし。
——意外! 超男の子だと思ってました。
学校の先生からも叩かれてた。通信簿に「態度が女性的」と書かれたり。家庭訪問で「親御さんのほうで女性的な態度をなんとかしてください」って言われたり。当時、子どもがやるいじめは無邪気だからまだ飲み込めたけど、大人がこちらを責めるばかりでかばってくれないことにとても傷つきました。
——つらいことですね…孤立感を覚えます。
周りにわかってくれる人が誰もいない。僕だけがこうで、このままずっといくのかなって。痛かったですね。子どものときは無力で、偏見を持つ社会を問題視するなんてできない。こんな自分だから誰も仲間にしてくれない…と、自分を責めるようになってしまう。
いまでもそんな想いを抱えている子がたくさんいるとわかったんで、「君のままでいい.jp」を企画したんです。大人が声をかけてあげなきゃと思って。
——ゲイだと気づいたのはいつ頃?
小1のとき、三浦友和と山口百恵の『伊豆の踊り子』を見て。三浦友和さんの入浴シーンにウズいてしまいました(笑)。
——三浦友和、カッコよかったですよね~わかります。そういう、男性にドキドキする自分に気づいて、自分は他の人とは違うって自覚した?
はっきり男の子に恋心を抱いたっていうのは、中2の頃かな?
——そのときは、小学校時代以来の孤立感もあって、後ろめたい気持ちだった?
僕はものすごくエネルギーがある子だったから、自分のエネルギーに押し流されて、気持ちが外に出ちゃった。
——告白もしたんですか?
ずっとその子を目がハート状態で見てたから、周りからはバレバレで。でも、その子も変わった子で、それをいやがらず、「おまえ俺のこと好きなんだもんな」みたいな感じで、僕のことをちょっと特別な存在っていうふうに見てくれて。そんなに悪い関係にはならずに卒業しました。
——なるほど~。そういう感じだと、少し気持ちもやわらぎますね。
高校に行くとまた人間関係が変わって。自分のエネルギーに押し流される自分と、自分をおさえなくちゃと思う自分とが常にせめぎあってました。でも、初のゲイ友や彼氏も高校のときにできて。
——彼氏も同じ高校だったんですか?
クラスメートでした。
——じゃあ、わりと、彼氏もできて、同じゲイの友達もできて、順調に。田舎育ちの僕なんかとはちがって、ちょっとハッピーな路線だったのかな。
全体的にハッピーというカンジではなくて…出てきちゃうエネルギーが押さえきれない、コントロールできないって感じかな。特殊キャラとして、奇異な目で常に見られていましたね。
——クラスでは疎外感を味わっていた?
クラスの友達づきあいとかはできなかったですね。周囲の子たちにしてみれば、なんか出してるオーラがちがってて怖かったのかも。その後、二丁目にデビューしたんですけど、当時は「変わり者オーラ」全開の人が多くて、それと正面衝突してゲイ嫌いのフォビ子になってしまったんです。
——二丁目も80年代はそういう感じだったんですね。昼間はギラギラできないから夜に、みたいな。
昼間でも隠しきれてない人が多くてね(笑)。それをお互いに軽蔑したりすることも多かった。当時は二丁目もゲイフォビア(ゲイ嫌悪)の影響を多分に受けていて、僕も二丁目でフォビアを増幅させた。僕の居場所はここではないと思ってた。
スーパーリーマンから全国的な有名人に
——そうやって社会人になって、いわゆるクローゼットなリーマンとして、ノンケとつきあったりしながら…
クローゼットではなかった。過剰なエネルギーが出てるから、すぐにバレちゃって(笑)。オープンにならざるをえなかったんです。
——ものすごく特殊な進化を遂げてきたんですね(笑)。僕ですらそうだったけど、会社ではバレるのを怖れてできるだけ「フツウ」にしようとする人が多かったと思います。職場にいづらくなるんじゃないか…というような恐怖心はなかった?
僕もやっぱそういうことは怖かったんで、常に仕事上でスターでいなければいけないと思ってた。リクルートで営業やってたんですが、入社1年目から業績ではトップを取って、宴会では明菜の「デザイア」とか歌って盛り上げて。地方の支社まで名前が轟いてた。仕事で一目置かれる存在にならないとだめだろうと思ってたんです。みんな20時に帰るところを23時までがんばったり。仕事が終わってから宴会の席に行ったり。当時はですけど、そのくらいゲイであることをハンデだと感じていたんです。
——仕事でも成績を上げて、人気者になって、有無を言わさず、ゲイでもいいんじゃない?っていう空気を自力でブルドーザーのように切り開いたんですね。努力の賜物であると同時に、歌川さんのスーパーマン並みのパワーがあればこそ。All About[同性愛]も、歌川さんがいなかったらできなかったんじゃないでしょうか?
心の中ではゲイである自分を責めてたけど、人とは仲良くなりたい。じゃあどうやったら仲良くなれるか?ってことを、トライ&エラーを繰り返しながら常にやってきた。20代だったから失敗もいっぱいあったけど、それでもつながりを大事にしてきた。世界の隅っこに独りっきりって、耐えられない。でも当時はフォビ子だった自分に、ゲイの世界につながりは求められなかった。だから、自分はノンケの世界でお互いを理解して親和的にやっていこうと思った。そういうのがAll About[同性愛]につながった。
——たとえるのはちょっとちがうかもしれませんが、戦後のゲイ史を切り開いてきた美輪さんとかと同じかもしれないですね。一般社会でいかに認められるかっていう。
ゲイのコミュニティを確立してきた90年代のゲイブームの時代の人たちと対立するわけではなかったけど、僕はノンケとゲイのエッジに立つことが居場所だと思ってました。
——All About[同性愛]のガイドとして、新聞にもバーンと本名と顔写真が出て。あれは当時としてはものすごいインパクトがありました。全国的にカミングアウトするって、すごい勇気が要ることだったと思います。
あの新聞広告は聞いてなかった(苦笑)。でも、22歳のときからずっとトライ&エラーを繰り返しながらオープンリーゲイとして周りとうまくやってきたし、大人の世界では受け入れられるキャラになってれば大丈夫だっていう確信が持てていたので、受けて立ってやると思っていました。
——経験に裏付けされた自信があったんですね。
自分にはできると思ってました。そして、自分のようにはカムアウトできない人たちの気持ちを理解しなくてはと思っていました。
——一方で、パレードやレインボー祭りの実行委員をやったり、コミュニティ活動もものすごく熱心にやるようになりました。それ以前はコミュニティと距離を置いていたと思いますが…何か転機があったんでしょうか?
2001年、All About[同性愛]を立ち上げたときには、これからはコミュニティに目を向けるって決めていて、レインボー祭りの実行委員もやって、パレードにも参加しました。20代のときはずっとフォビ子で、自分がゲイであることへの嫌悪感が拭えなかった。でも、それはやっぱりさびしいことだと思っていて。伏見さんが初めて「君はそのままでいいんだよ」と書いてくれて。80年代にはそういう本なんてなかった。
——本当になかったですね。
あるのはエロの情報か、難しすぎてわからない『ユリイカ』とか。自分に届くメッセージってまったくなくて。90年代にそういう動きがあって、うれしかった。自分を許してもいいような気持ちになったし、他のゲイの人も許せるようになった。それと、大塚隆史さん主催の「エドエイツ」というスクエアダンス・サークルに参加するようなって、コミュニティっていいなと初めて実感できた。
——ゲイの人が集まってワイワイやってる場所っていうのを経験して。
そこで方向がガラっと変わった。フォビア感情がじゃまして気づいてなかったけど、フォビアの壁が取れたときにバーっとやりたくなったんだと思う。
——その時期に一気に物事がワーっと広がったんですね。風船の中に空気がたまっていたのが、パンとはじけたような。
あの頃はゲイコミュニティに求心力があったしね。みんなでやれば何かできるという思いをみんな抱いていた。
子どもたちの希望、僕らの未来
二丁目にも配布されているフライヤー
——考えてみれば「なるほど。歌川さんならぴったりだ」なのですが、区政へのチャレンジというニュースはけっこうビックリでした。いつ頃から考えていたのですか?
そんなに昔ではないんです。どっちかっていうと、行政にチャレンジする人を応援するスタンスで、自分はそういうのに適してると思ってた。ところが、ブログの漫画が人気を呼んで『じりラブ』が出ると、セクシュアリティについての講演会の依頼も来るようになって、そこに来てた保健の先生から相談されたり、メールとかも来るようになった。中学生が不登校になったり、保健室登校になったり、自殺未遂したり、自殺したりすることがあとを絶たないけれど、よく聞くと実はセクシュアリティが原因となるケースがたくさんあると。本人も周囲の大人もそれを隠そうとするし、なかなか表には出ない。でも、本当は親にカムアウトしたけど認めてくれなくて、とか、友達に言ったらいじめが始まったり、とか、表に出ないかたちでたくさんあるそうなんです。学校側もセクシュアリティのことなんてよく知らないから、そういう問題じゃないことにしようとする。
——それで、都庁に陳情に行ったんですね?
自治体とか東京都とかに出向いて「人権問題として取り上げるチャンスをください」と。教育現場でパンフレットを配るとか、東京都の人権部で発行する機関誌で取り上げてくださいってお願いしました。でも、ことごとくつぶされました。最初は「いいですね」とか言ってるけど、横やりが入ってなくなってしまう。ではと思って、味方になってくれる人を探したけど、「役人は動かないよ、当たり前」とか言われたり、聞こえないふりをされたり。そこで感じたのは、会議室の外で何か言ってもだめだ、会議室の中で言うしかない、ということ。
——実態はそんな感じなんですね…。
もう1つは、これから先、僕らが年をとったときに、シングルでもカップルでも安心っていうインフラがないことが大問題になると思うんです。今は働き盛りで元気でも、高齢者になったとき、きっと制度の壁にぶちあたることも出てきます。エイズ問題で尽力された方たちのおかげもあって、行政で初めて男性同性愛者が認知されるようになった。なのに、基本的なインフラはまだ何もない。世間的にはだいぶ差別ってなくなってきたけど、行政のうえでは無視されている状態。シングルもカップルも支えるような制度になっていない。議論すらされていない状態から制度を変えるのはとても時間がかかるので、今から動かないと、と思うわけです。
——『ツレちゃんに逢いたい』を読むと、本当にリアルに感じますね。僕もダンナとの関係が家族と認められないのはとてもせつないです。
僕ならわかりやすい言葉でみんなに伝えられると思った。All Aboutのときもゲイとノンケのエッジに立ってやったけど、今度もそう。
——パレードに東京都の人権部が後援してくれないという話もあって、札幌とは大違い。そういう現実がある。東京都の中にゲイの議員さんがいるっていうのは大きな意味があります。
1人でもいたら全然ちがう。複数いたらもっといい。石坂わたるさんも石川大我さんも、みんな当選してほしいです。
新宿区が変われば日本も変わる
——サイトに掲載されている政策、とても説得力があると思いました(ぜひこちらをお読みください)。ほかに何か、新宿区にお住まいのゲイの方へのアピールがあれば、お願いします。レインボー祭りや二丁目との関係で、何か考えていることなどあれば。
2006年にオリンピック招致の名目で、景観法を持ち出して、新宿二丁目を一掃しようとする動きがあって、それは、けっこうヤバいことだった。現状では、そういったことに抵抗する人がいない。市井の人が闘いを挑んでも、丸腰で向かっていくようなもの。二丁目がなくなったら、友人関係も含めさまざまな活動の拠点の大きなパーツがなくなってしまう。ゲイである自分を肯定できる、居場所が見つかる、そんな機会を与える大きなひとつが失われてしまいます。二丁目ばかりが重要ということではないけれど、あるのとないのとでは全然ちがう。自然に必要なくなるのであればいいけど、つぶされるのは違う。
——本当にそうですね。
また、新宿区だけじゃないんですが、おひとりさまの高齢者は放置されているという現実がある。おひとりさまの高齢者って、すなわち僕たちの将来です。ところが現状では、家族がいない人はモチベーションが低い外郭団体に丸投げで実質上見てみぬふり。おひとりさまの高齢者を行政が支えないから、孤立や自殺など、いろんな問題が発生しています。他人事じゃない僕らの将来の問題として、まず変えていきたい。言うまでもなく、新宿は首都・東京の都心。行政って横並びで変わっていくことが多いから、新宿が変われば日本が変わる可能性がある。なので、ノンケにもメリットがあって僕たちにもメリットがあるようなかたちで新宿を変えていくことがベストだと思うんです。
——モデルケースになれる。日本のサンフランシスコに、みたいな。
アジアのほうにもいい影響があるかもしれない。教育と福祉…子どものことと、高齢者のことを解決していきたい。僕たちのインフラを作りましょう。
——話は少し変わりますが、3.11の震災後、日本の社会は大きな困難に直面しています。今までのようにはいかないこともいろいろ出てくると思います。ゲイの未来ということについて、何かお考えがあれば、教えてください。
被災した人たちも家族単位で何でも割り当てられるわけですが、たとえば、僕らが高齢者になってからああいう被害にあったら、バラバラにされてしまうかもしれません。僕たちのことを家族だって認めてくれるフランスのPACSのような「新しい絆」の制度を作らないと、大事な人を守っていけない。家と家じゃなく、気兼ねなく誰でも…ノンケの人でも利用できて、恋愛をはさまなくてもよくて、カムアウトしなくてもOKな、支え合いの連帯という制度。それだったら、親類に気兼ねなく利用できるかもしれない。
——なるほど。いろんな可能性があるんですね。では、最後に何かひとこと、お願いします。
シングルで生きていくにしろ、友達やパートナーと生きていくにしろ、カムアウトして生きていくにしろ、そうでないにしろ、選択肢は多いほうがいい。僕らが勉強して進学したのも将来の選択肢を増やすためでした。僕はその選択肢をちゃんと確保したい。結婚とかPACSみたいなかたちで彼氏との関係が認められたり、安心して僕らが年をとっていけるようなインフラがあるのとないのとでは大違い。
——将来に希望が持てるように。
そうです。お金があれば何とかなるだろう、ではない。後見人がいない人やHIV陽性者は老人ホームに入れないとか、いろんな問題がある。もっと隅々までリテラシーを高めていかなくては。そのために、会議室の中に入ってどんどん言っていかないといけない。そうでなくてもできるんだったらそれをやるけど、今はこれが最善だと思っています。
——どうもありがとうございました。歌川さんならきっとやってくれる、そう確信しています。がんばってください!
(写真はバー『タックスノット』にて撮影。歌川さんが月曜日に入っています)
そんな歌川さんが、新宿区政にチャレンジすることを決意しました。歌川さんとはどんな人生を送ってきた人なのか、そして、その大きな胸にいったいどんな思いが去来したのか。じっくりお聞きしてみました。(聞き手:後藤純一)
※なお、今回の統一地方選にチャレンジするオープンリー・ゲイの方としては、ほかに、中野区の石坂わたるさん、豊島区の石川大我さん、そして、尾道市長に挑戦する河野正夫さんがいらっしゃいます。また、トランスジェンダーの方としては、世田谷区の上川あやさんがいらっしゃいます。
誰も助けてくれなかった子ども時代
——全国のセクシュアルマイノリティの中高生を応援する「君のままでいい.jp」というサイトを立ち上げられた歌川さんですが、歌川さん自身は子どもの頃いじめられた経験はありますか?
だいぶやられましたよ。今とちがって中2くらいまではしゃべり方とかもなよなよしてたんで、わかりやすかったし。
——意外! 超男の子だと思ってました。
学校の先生からも叩かれてた。通信簿に「態度が女性的」と書かれたり。家庭訪問で「親御さんのほうで女性的な態度をなんとかしてください」って言われたり。当時、子どもがやるいじめは無邪気だからまだ飲み込めたけど、大人がこちらを責めるばかりでかばってくれないことにとても傷つきました。
——つらいことですね…孤立感を覚えます。
周りにわかってくれる人が誰もいない。僕だけがこうで、このままずっといくのかなって。痛かったですね。子どものときは無力で、偏見を持つ社会を問題視するなんてできない。こんな自分だから誰も仲間にしてくれない…と、自分を責めるようになってしまう。
いまでもそんな想いを抱えている子がたくさんいるとわかったんで、「君のままでいい.jp」を企画したんです。大人が声をかけてあげなきゃと思って。
——ゲイだと気づいたのはいつ頃?
小1のとき、三浦友和と山口百恵の『伊豆の踊り子』を見て。三浦友和さんの入浴シーンにウズいてしまいました(笑)。
——三浦友和、カッコよかったですよね~わかります。そういう、男性にドキドキする自分に気づいて、自分は他の人とは違うって自覚した?
はっきり男の子に恋心を抱いたっていうのは、中2の頃かな?
——そのときは、小学校時代以来の孤立感もあって、後ろめたい気持ちだった?
僕はものすごくエネルギーがある子だったから、自分のエネルギーに押し流されて、気持ちが外に出ちゃった。
——告白もしたんですか?
ずっとその子を目がハート状態で見てたから、周りからはバレバレで。でも、その子も変わった子で、それをいやがらず、「おまえ俺のこと好きなんだもんな」みたいな感じで、僕のことをちょっと特別な存在っていうふうに見てくれて。そんなに悪い関係にはならずに卒業しました。
——なるほど~。そういう感じだと、少し気持ちもやわらぎますね。
高校に行くとまた人間関係が変わって。自分のエネルギーに押し流される自分と、自分をおさえなくちゃと思う自分とが常にせめぎあってました。でも、初のゲイ友や彼氏も高校のときにできて。
——彼氏も同じ高校だったんですか?
クラスメートでした。
——じゃあ、わりと、彼氏もできて、同じゲイの友達もできて、順調に。田舎育ちの僕なんかとはちがって、ちょっとハッピーな路線だったのかな。
全体的にハッピーというカンジではなくて…出てきちゃうエネルギーが押さえきれない、コントロールできないって感じかな。特殊キャラとして、奇異な目で常に見られていましたね。
——クラスでは疎外感を味わっていた?
クラスの友達づきあいとかはできなかったですね。周囲の子たちにしてみれば、なんか出してるオーラがちがってて怖かったのかも。その後、二丁目にデビューしたんですけど、当時は「変わり者オーラ」全開の人が多くて、それと正面衝突してゲイ嫌いのフォビ子になってしまったんです。
——二丁目も80年代はそういう感じだったんですね。昼間はギラギラできないから夜に、みたいな。
昼間でも隠しきれてない人が多くてね(笑)。それをお互いに軽蔑したりすることも多かった。当時は二丁目もゲイフォビア(ゲイ嫌悪)の影響を多分に受けていて、僕も二丁目でフォビアを増幅させた。僕の居場所はここではないと思ってた。
スーパーリーマンから全国的な有名人に
——そうやって社会人になって、いわゆるクローゼットなリーマンとして、ノンケとつきあったりしながら…
クローゼットではなかった。過剰なエネルギーが出てるから、すぐにバレちゃって(笑)。オープンにならざるをえなかったんです。
——ものすごく特殊な進化を遂げてきたんですね(笑)。僕ですらそうだったけど、会社ではバレるのを怖れてできるだけ「フツウ」にしようとする人が多かったと思います。職場にいづらくなるんじゃないか…というような恐怖心はなかった?
僕もやっぱそういうことは怖かったんで、常に仕事上でスターでいなければいけないと思ってた。リクルートで営業やってたんですが、入社1年目から業績ではトップを取って、宴会では明菜の「デザイア」とか歌って盛り上げて。地方の支社まで名前が轟いてた。仕事で一目置かれる存在にならないとだめだろうと思ってたんです。みんな20時に帰るところを23時までがんばったり。仕事が終わってから宴会の席に行ったり。当時はですけど、そのくらいゲイであることをハンデだと感じていたんです。
——仕事でも成績を上げて、人気者になって、有無を言わさず、ゲイでもいいんじゃない?っていう空気を自力でブルドーザーのように切り開いたんですね。努力の賜物であると同時に、歌川さんのスーパーマン並みのパワーがあればこそ。All About[同性愛]も、歌川さんがいなかったらできなかったんじゃないでしょうか?
心の中ではゲイである自分を責めてたけど、人とは仲良くなりたい。じゃあどうやったら仲良くなれるか?ってことを、トライ&エラーを繰り返しながら常にやってきた。20代だったから失敗もいっぱいあったけど、それでもつながりを大事にしてきた。世界の隅っこに独りっきりって、耐えられない。でも当時はフォビ子だった自分に、ゲイの世界につながりは求められなかった。だから、自分はノンケの世界でお互いを理解して親和的にやっていこうと思った。そういうのがAll About[同性愛]につながった。
——たとえるのはちょっとちがうかもしれませんが、戦後のゲイ史を切り開いてきた美輪さんとかと同じかもしれないですね。一般社会でいかに認められるかっていう。
ゲイのコミュニティを確立してきた90年代のゲイブームの時代の人たちと対立するわけではなかったけど、僕はノンケとゲイのエッジに立つことが居場所だと思ってました。
——All About[同性愛]のガイドとして、新聞にもバーンと本名と顔写真が出て。あれは当時としてはものすごいインパクトがありました。全国的にカミングアウトするって、すごい勇気が要ることだったと思います。
あの新聞広告は聞いてなかった(苦笑)。でも、22歳のときからずっとトライ&エラーを繰り返しながらオープンリーゲイとして周りとうまくやってきたし、大人の世界では受け入れられるキャラになってれば大丈夫だっていう確信が持てていたので、受けて立ってやると思っていました。
——経験に裏付けされた自信があったんですね。
自分にはできると思ってました。そして、自分のようにはカムアウトできない人たちの気持ちを理解しなくてはと思っていました。
——一方で、パレードやレインボー祭りの実行委員をやったり、コミュニティ活動もものすごく熱心にやるようになりました。それ以前はコミュニティと距離を置いていたと思いますが…何か転機があったんでしょうか?
2001年、All About[同性愛]を立ち上げたときには、これからはコミュニティに目を向けるって決めていて、レインボー祭りの実行委員もやって、パレードにも参加しました。20代のときはずっとフォビ子で、自分がゲイであることへの嫌悪感が拭えなかった。でも、それはやっぱりさびしいことだと思っていて。伏見さんが初めて「君はそのままでいいんだよ」と書いてくれて。80年代にはそういう本なんてなかった。
——本当になかったですね。
あるのはエロの情報か、難しすぎてわからない『ユリイカ』とか。自分に届くメッセージってまったくなくて。90年代にそういう動きがあって、うれしかった。自分を許してもいいような気持ちになったし、他のゲイの人も許せるようになった。それと、大塚隆史さん主催の「エドエイツ」というスクエアダンス・サークルに参加するようなって、コミュニティっていいなと初めて実感できた。
——ゲイの人が集まってワイワイやってる場所っていうのを経験して。
そこで方向がガラっと変わった。フォビア感情がじゃまして気づいてなかったけど、フォビアの壁が取れたときにバーっとやりたくなったんだと思う。
——その時期に一気に物事がワーっと広がったんですね。風船の中に空気がたまっていたのが、パンとはじけたような。
あの頃はゲイコミュニティに求心力があったしね。みんなでやれば何かできるという思いをみんな抱いていた。
子どもたちの希望、僕らの未来
二丁目にも配布されているフライヤー
——考えてみれば「なるほど。歌川さんならぴったりだ」なのですが、区政へのチャレンジというニュースはけっこうビックリでした。いつ頃から考えていたのですか?
そんなに昔ではないんです。どっちかっていうと、行政にチャレンジする人を応援するスタンスで、自分はそういうのに適してると思ってた。ところが、ブログの漫画が人気を呼んで『じりラブ』が出ると、セクシュアリティについての講演会の依頼も来るようになって、そこに来てた保健の先生から相談されたり、メールとかも来るようになった。中学生が不登校になったり、保健室登校になったり、自殺未遂したり、自殺したりすることがあとを絶たないけれど、よく聞くと実はセクシュアリティが原因となるケースがたくさんあると。本人も周囲の大人もそれを隠そうとするし、なかなか表には出ない。でも、本当は親にカムアウトしたけど認めてくれなくて、とか、友達に言ったらいじめが始まったり、とか、表に出ないかたちでたくさんあるそうなんです。学校側もセクシュアリティのことなんてよく知らないから、そういう問題じゃないことにしようとする。
——それで、都庁に陳情に行ったんですね?
自治体とか東京都とかに出向いて「人権問題として取り上げるチャンスをください」と。教育現場でパンフレットを配るとか、東京都の人権部で発行する機関誌で取り上げてくださいってお願いしました。でも、ことごとくつぶされました。最初は「いいですね」とか言ってるけど、横やりが入ってなくなってしまう。ではと思って、味方になってくれる人を探したけど、「役人は動かないよ、当たり前」とか言われたり、聞こえないふりをされたり。そこで感じたのは、会議室の外で何か言ってもだめだ、会議室の中で言うしかない、ということ。
——実態はそんな感じなんですね…。
もう1つは、これから先、僕らが年をとったときに、シングルでもカップルでも安心っていうインフラがないことが大問題になると思うんです。今は働き盛りで元気でも、高齢者になったとき、きっと制度の壁にぶちあたることも出てきます。エイズ問題で尽力された方たちのおかげもあって、行政で初めて男性同性愛者が認知されるようになった。なのに、基本的なインフラはまだ何もない。世間的にはだいぶ差別ってなくなってきたけど、行政のうえでは無視されている状態。シングルもカップルも支えるような制度になっていない。議論すらされていない状態から制度を変えるのはとても時間がかかるので、今から動かないと、と思うわけです。
——『ツレちゃんに逢いたい』を読むと、本当にリアルに感じますね。僕もダンナとの関係が家族と認められないのはとてもせつないです。
僕ならわかりやすい言葉でみんなに伝えられると思った。All Aboutのときもゲイとノンケのエッジに立ってやったけど、今度もそう。
——パレードに東京都の人権部が後援してくれないという話もあって、札幌とは大違い。そういう現実がある。東京都の中にゲイの議員さんがいるっていうのは大きな意味があります。
1人でもいたら全然ちがう。複数いたらもっといい。石坂わたるさんも石川大我さんも、みんな当選してほしいです。
新宿区が変われば日本も変わる
——サイトに掲載されている政策、とても説得力があると思いました(ぜひこちらをお読みください)。ほかに何か、新宿区にお住まいのゲイの方へのアピールがあれば、お願いします。レインボー祭りや二丁目との関係で、何か考えていることなどあれば。
2006年にオリンピック招致の名目で、景観法を持ち出して、新宿二丁目を一掃しようとする動きがあって、それは、けっこうヤバいことだった。現状では、そういったことに抵抗する人がいない。市井の人が闘いを挑んでも、丸腰で向かっていくようなもの。二丁目がなくなったら、友人関係も含めさまざまな活動の拠点の大きなパーツがなくなってしまう。ゲイである自分を肯定できる、居場所が見つかる、そんな機会を与える大きなひとつが失われてしまいます。二丁目ばかりが重要ということではないけれど、あるのとないのとでは全然ちがう。自然に必要なくなるのであればいいけど、つぶされるのは違う。
——本当にそうですね。
また、新宿区だけじゃないんですが、おひとりさまの高齢者は放置されているという現実がある。おひとりさまの高齢者って、すなわち僕たちの将来です。ところが現状では、家族がいない人はモチベーションが低い外郭団体に丸投げで実質上見てみぬふり。おひとりさまの高齢者を行政が支えないから、孤立や自殺など、いろんな問題が発生しています。他人事じゃない僕らの将来の問題として、まず変えていきたい。言うまでもなく、新宿は首都・東京の都心。行政って横並びで変わっていくことが多いから、新宿が変われば日本が変わる可能性がある。なので、ノンケにもメリットがあって僕たちにもメリットがあるようなかたちで新宿を変えていくことがベストだと思うんです。
——モデルケースになれる。日本のサンフランシスコに、みたいな。
アジアのほうにもいい影響があるかもしれない。教育と福祉…子どものことと、高齢者のことを解決していきたい。僕たちのインフラを作りましょう。
——話は少し変わりますが、3.11の震災後、日本の社会は大きな困難に直面しています。今までのようにはいかないこともいろいろ出てくると思います。ゲイの未来ということについて、何かお考えがあれば、教えてください。
被災した人たちも家族単位で何でも割り当てられるわけですが、たとえば、僕らが高齢者になってからああいう被害にあったら、バラバラにされてしまうかもしれません。僕たちのことを家族だって認めてくれるフランスのPACSのような「新しい絆」の制度を作らないと、大事な人を守っていけない。家と家じゃなく、気兼ねなく誰でも…ノンケの人でも利用できて、恋愛をはさまなくてもよくて、カムアウトしなくてもOKな、支え合いの連帯という制度。それだったら、親類に気兼ねなく利用できるかもしれない。
——なるほど。いろんな可能性があるんですね。では、最後に何かひとこと、お願いします。
シングルで生きていくにしろ、友達やパートナーと生きていくにしろ、カムアウトして生きていくにしろ、そうでないにしろ、選択肢は多いほうがいい。僕らが勉強して進学したのも将来の選択肢を増やすためでした。僕はその選択肢をちゃんと確保したい。結婚とかPACSみたいなかたちで彼氏との関係が認められたり、安心して僕らが年をとっていけるようなインフラがあるのとないのとでは大違い。
——将来に希望が持てるように。
そうです。お金があれば何とかなるだろう、ではない。後見人がいない人やHIV陽性者は老人ホームに入れないとか、いろんな問題がある。もっと隅々までリテラシーを高めていかなくては。そのために、会議室の中に入ってどんどん言っていかないといけない。そうでなくてもできるんだったらそれをやるけど、今はこれが最善だと思っています。
——どうもありがとうございました。歌川さんならきっとやってくれる、そう確信しています。がんばってください!
(写真はバー『タックスノット』にて撮影。歌川さんが月曜日に入っています)
INDEX
- 映画祭の代表・宮沢英樹さんへのインタビュー
- 「Save the Pride」を終えて…実行委員長に再びインタビュー
- パレードへの熱い思い~「Save the Pride」代表のケータさんにインタビュー
- NLGR+2012で結婚式を挙げたお二人にインタビュー
- NLGR+2012の結婚式をプロデュースしたVALENTY WEDDINGにインタビュー
- NLGR+2012の共同代表の方たちにインタビュー
- 東京レインボープライドの広報担当・乾さんにインタビュー
- 舞台『AKA-TONBO!』に出演するゲイの役者さんにインタビュー
- 映画祭代表・宮沢英樹さんへのインタビュー
- 舞台『Lipsynca』の関係者へのインタビュー
- 日本初のゲイホリデー「G-TOUR JAPAN」主催者インタビュー
- 東京プライドの新代表になった門戸大輔さんへのインタビュー
- NLGR+の実行委員長をつとめたシンヤさんへのインタビュー
- 舞台『BENT』を上演する俳優の蓮池龍三さんへのインタビュー
- 新宿を変える、日本を変える。歌川泰司さんインタビュー
- 座談会「洋上の楽園・ゲイクルーズを語り尽くす」
- 映画『スプリング・フィーバー』チン・ハオ&チェン・スーチョンへのインタビュー
- 「Less Than Human」の星野泰一郎さんへのインタビュー
- レインボーマーチ札幌の実行委員長・牧祐介さんにインタビュー
- 日本初? ゲイによるゲイのための総合スポーツイベント
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