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REVIEW

小説『百年の憂鬱』

伏見憲明さんがひさしぶりに直球のゲイ小説、それも熱いラブストーリーを書いてくれました。あまりにもリアルで、心がわしづかみにされるような、胸がギューっと締めつけられるような、熱くて苦い作品です。現在発売中の『すばる』に掲載されています。ぜひとも、お読みください。

小説『百年の憂鬱』

ジェンダー/セクシュアリティに関する第一人者として世間にも認められている「知の巨人」伏見憲明さん。2003年、小説『魔女の息子』で文藝賞の栄誉に輝き、作家としても世に認められました。昨年には、第2弾となる小説単行本『団地の女学生』(集英社)が刊行され、当サイトでもインタビューをお届けしました。そんな伏見さんが、ひさしぶりに直球のゲイ小説を、それも、熱いラブストーリーを書いてくれました。それは、あまりにも真に迫っていて、心がわしづかみにされ、胸がヒリヒリ痛むような、そして最後は思わず涙がこぼれるような…本気で恋したことがある方ならきっと共感できるだろう傑作でした。これゲイ史に残る、いえ、永遠の名作だと思います。この小説に出会えたことに感謝しつつ、心をこめてレビューをお届けします。(後藤純一)


 作家生活にも行き詰まりを感じ、体力の衰えに悩まされている太った中年の主人公・義明は、水曜日だけ二丁目でゲイバーを営業しています。ある日そこに、学生の集団がやってきます。そのなかにユアンというアメリカ人と日本人のハーフだというモデルのような美青年がいて、お互いに意識するようになり、mixiでつながり、デートをするようになります(イマドキな出会いですね)。聡明な青年・ユアンは「義明さんの書くものって、冷めた文体に被われているけど、その仮面の下に、武士の志みたいな熱量がありますよね」と語り、主人公はその言葉に胸を打たれ、恋に落ちます。しかし、その恋は決して一筋縄ではいかず…という物語です。(そんな、中年のデブとモデルみたいな美青年がデキるなんてありえない!と思う方もいらっしゃるかと思いますが、ユアンはいわゆるフケデブ専。よくある話です。そして、「エフメゾ」をご存じの方は、すぐにユアンのモデルが誰なのか、ピンとくると思います。この小説は私小説でもあるのです)
 義明はユアンを、二丁目初のゲイバー「ペールギュント」の伝説のマスター・松川の家へと連れて行きます。もうすぐ百歳になろうとする松川は、同性愛者が「変態」と蔑まれ、憎み合うことでしか互いを確認できなかった(呪いでしかなかった)不幸な時代を生きてきたがゆえに「猜疑心に骨の髄まで冒され、なかなか人を寄せつけない」人でした。しかし、義明は根気よく(15年もかけて)松川のもとを訪ね、その心を開かせ、話を聞くことができるようになっていました。明治生まれの松川と、平成生まれのユアン、同じゲイであっても考え方や生き方が180度も異なる二人が、対照的に描かれていきます。
 義明とユアンの恋は、初めのうちこそ、ロマンチックに燃え上がっていましたが、やがて、義明に海外在住の忠士という長年のパートナー(「命の恩人」という表現が本当に秀逸だと思いました)がいることが、しだいに若くて純粋な青年には耐えられなくなっていきます。ユアンは「ぼくと忠士さんのどっちが大事なの!」と義明にくってかかるようになり、二人は激しいケンカを繰り返すようになります。そのセリフのリアルさときたら(遠い昔に自分が浴びせられた言葉そのものです)…あまりにも痛くて、苦くて、胸がギューっと締めつけられるような思いがします。
 10年以上もつきあっているような長年のパートナーとは、恋愛感情やセックスもとうになくなり、おだやかな家族のような存在です。長い歳月に培われた信頼関係(絆)は、容易には壊れません。ユアンは、若さゆえに、そして、その情熱の本気さ、純粋さゆえに、二人が培ってきた時間の長さ、そして信頼(絆)に勝てないことを思い知るや、どうしてもそれが許せなくなるのです。しかし、義明にとってはそれぞれが全く別次元のものであり、「どちらも大事」としか言いようがありません…それも真実です(よくわかります)。そして二人は、泥沼のような言い争いを重ね(一方で熱烈に互いを求め合い)、身も心もボロボロになっていくのです…

 あまり詳しくは書きませんが、ラストが本当によかったです(決してハッピーエンドではないです)。ちょっと雷に打たれたような…ゾクゾクするような感動がありました。正直、泣けました。そして、この小説が本当に好きになりました。恋をした、と言ってもいいくらいです。
 
 
 僕自身もそうですし、これを読んでいるみなさんのなかにも、同じような経験をした人はたくさんいると思います。
 本気で好きになった相手が彼氏持ちだったり、長年のパートナーがいたり、結婚していたり(あるいは逆の立場だったり)…苦しい恋。でも、どうしてもあきらめきれなくて、身悶えするような、焼けた火の上を歩くような毎日を送るのです。いっそ別れたほうが楽になるだろうかとか、死んでしまいたいとか…
 相手のほうも、本気で好きな気持ちに変わりはなく、ボロ雑巾のように彼を捨てるなんてこともできるはずがなく、かといって長年の家族との関係を解消するつもりもなく、目の前で泣き叫ぶ彼に翻弄されながら、同じように苦しみ、疲れ果てていくのです…
 僕は両方の立場を経験しているので、それぞれの気持ちが痛いほどわかります。それはもう、どちらが間違ってるとか悪いとかではなく、「答えのない問い」なのだと思います。(だからこそ、小説でしか描けないのです)
 
 恋愛が美しくてドラマチックで絵になるようなことだなんて、誰が言いはじめたのでしょうか? 現実はもっと悲惨で醜くてしょうもないものです。世界と彼の存在を天秤にかけてなお、彼のほうが大事だと思えるほど、自分の将来とか生活とかプライドとか、そんなものは全部どうでもいいと思えるほど、恋愛の魔力は強烈なもの。身の破滅を招き、地に落ちるかもしれない、すさまじいものです。しかし、それでも、人を恋うる(乞うる)ことをせずにはいられない、その気持ちとは、なんと純粋なのでしょう。なんと人間くさいのでしょう。きっと、そんな恋を経験した人は、ほかの何にも勝るほど強烈な「生」を味わっていたはずです。
 この小説が素晴らしいと、永遠の名作だと感じるのは、そういう恋というものの、理屈を超えたなりふりかまわなさ、すべてを捨ててもかまわないと思えるほどの情念の激しさ、激しさゆえの純粋さを、見事に描いているからです。ユアンが「冷めた文体の下に、武士のような熱情を感じる」と看破したように、義明は、理性の下の熱情を爆発させます。そこが素晴らしく人間的であったがゆえに、僕はこの小説が本当に好きになりました。
 
 そして、その恋の激しさ、切実さこそが、ゲイがのびのびと生きていける今の時代の幸せにつながっているのだ、とも伏見さんは書いています。
 こういうくだりがあります。
 松川が生きた時代、ひとたび同性愛者とバレたら「『変態』のレッテルを貼られ、そのまま人間失格、まっとうな社会から放逐されることを意味した」。「そんな絶望の内でさえ、人は誰かのぬくもりを求め、気持ちを通じ合わせることを断念しきれなかった。その愛し合うことへの希求、関係し合うことへの切望が、今日のユアンの足下にもつながっている」
 
 小説のタイトル『百年の憂鬱』とは、百歳を迎えようとする松川の生きたゲイとしてのリアリティ…何十年も毎日「呪い」のようにホモフォビアを浴び続けてきた人の苦難(受難)に対してつけられた形容のように見えます。その毒は、百年たってもそうそう消えることはなく、ずっと心を蝕んでいるのだと。でも、恋が本気すぎて鬱っぽくなってしまうユアンの姿に視点を移してみると、誰かを求め、恋せずにはいられない、その気持ちの変わらなさこそが『百年の憂鬱』なんだろうなぁ、とも思えます。
 百年後にはきっと、もう松川の時代のリアリティなんて誰も理解できなくなっていることでしょう。もしかしたら、彼氏とそのパートナーと自分の三角関係みたいなことも、誰も気にしない(オープンリレーションシップが当たり前な)時代になっているかもしれません。しかし、それでも変わらず未来のゲイたちは本気で恋するだろうし、それゆえの「憂鬱」はなくならないだろうな…と思います。人類が何百万年も前から経験してきた(遺伝子に刷り込んできた)恋愛の衝動とは、どれだけ社会が「進歩」したとしても解明できない、人類に残された最後の自由であり、人間らしさの拠り所であり続けるだろうからです。そういう意味で、この小説は百年経っても読み続けられるだろうと思います。
 
 
『すばる』9月号
集英社/880円(税込)

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