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REVIEW

千葉雅也『デッドライン』

芥川賞候補となったことで話題になった千葉雅也さんの『デッドライン』、哲学的で、知的な刺激も受けましたし、2000年代のゲイのリアリティに懐かしさを覚えたりもして、読んでよかったと思える作品でした。

千葉雅也『デッドライン』

芥川賞候補となったことで話題になった千葉雅也さんの『デッドライン』のレビューをお届けします。修士論文を書き上げるのに苦労している大学院生の生活が描かれた青春小説であると同時に、ハッテン場のシーンがバンバン出てくる、2000年頃のゲイのリアリティが描かれた小説でもあります。そうした事柄が、「道徳」ではなく、フランス現代思想の影響を強く受けた哲学的思考によって語られ、関連づけられ、提示されている、小説自体が哲学の実践であるような作品だったと思います。知的な刺激がスゴい、そういう意味でとても面白い作品でしたし、従来の「リブ」とは異なる方法でゲイの現実(実存)を世間に突きつけ、マジョリティの価値観を相対化しようとしている(「生成変化」を遂げている)作品でもあったかと思います。(後藤純一)
 

 
 パッと見、二丁目(ニチョ)、仲通り、ビッグスビル、観光バー、店子(ミセコ)、タチ・ウケ・リバといった僕らが「ふつうに」使ってる言葉が頻出するのがイイと思います。親しみが持てます。
 ゲイバーのシーンも面白かったですが、それ以上に、ハッテン場のシーンが繰り返し、たくさん出てくるところが印象的でした。高円寺のハッテン場の「競パンデー」とか。砧公園での「ホモ狩り」を目撃して止めさせた「通りすがりの兄ちゃん」の話は胸アツでした。HIVには気をつけてる、コンドームは必ず使うし、口の中に傷があったらフェラはしないとか、そういう話もちゃんとあって(「道徳」というより、自分を守るために)
 もしかしたら新木場のような野外ハッテン場でのハッテンや、RUSHや、キメセク(「米」)の話は、今の時代、お堅い方などは眉をひそめたりするかもしれませんが、紛れもなく、2000年代前半のゲイのリアル(「ふつう」にみんなやってたこと)でしたし、懐かしさを禁じえませんでした。
 そういうハッテンの描写が、おどろおどろしい、ノンケさんが読んで「うわー」と思うような(思うかもしれませんが)ある意味、俗情に媚びたようなものではなく、ポルノ的なものでもなく、過度にゲイを美化するものでもなく、端的な現実であり主人公にとっての日常の一部であるようなものとして、ニュートラルに提示されているのが、イイと思います。
(ちなみに、ハッテン場を描いた文学作品は、古くは三島由紀夫の『禁色』で日比谷公園のことが出てきますし、伏見さんの『魔女の息子』もそうでしたし、決して初めてではありません)
 
 主人公は、哲学を学んでいる学生ですが、多くの人たちがそうであるように、田舎から大学進学で東京に出てきて初めて同性愛を生きるようになって(実家の父親から「お前はゲイだと触れ回ってるのか」と電話がかかってきたこともあったそうですが)、不安を感じることもありましたが、そんなとき「現代思想は助けになってくれた」といいます。
 
 荘子、スピノザ、ヘーゲル、アルトー、モース、レヴィ=ストロース、フーコー、ラカン、デリダ、ドゥルーズ、といった思想家の人たちの名前がたくさん登場し、大学での哲学の授業の場面などもありますが、難解なフランス現代思想も、煙に巻くでもなく、衒学的でも、スノッブでもない、ちゃんと読んで理解できるような平易な言葉で書かれています。例えばドゥルーズ/ガタリの『千のプラトー』という本ではマイノリティ論が展開されていて、芸術を通して人は動物になる、人間/動物という対立はマジョリティ/マイノリティという対立を含意している、人間を表す言葉はしばしば「男性」も意味する、人間の支配を逃れて動物になる、男性の支配から逃れて女性になる(生成変化する)、マジョリティの支配を逃れるためには、必ず女性になることを経由しなければならないと書いてあるが、自分は決して「女性になりたいわけじゃない」し、むしろ男性性に憧れる…というように、哲学的な思考の流れが自身のセクシュアリティの実存と結びつけられて語られるようなところは、千葉さんじゃないと書けない部分(面目躍如)だと思います。
 
 いちおう、哲学を学ぶ大学院生が修士論文を書けるのか、締め切り(デッドライン)に間に合うのか、といった話が中心的といえば中心的なストーリーラインなのですが、大学の友達とのほのぼのとしたやりとりや(そこは青春小説ですね)、ハッテン場やゲイバーで出会った男の子たちのこと、サラサラの金髪でジャージ姿でチェーンとかしてるノンケっぽい男に欲情すること(荒々しい男たちに惹かれる)、といった話が並列的に(等価に)描かれています。とはいえ、そうしたいろんなエピソードが無関係に並置されているのではなく、あえて、物語的、意味論的な「ふつうの」並べ方ではない、現実の近接性(「円環」とか、形の近さ)にしたがって並べられているところがあると思います(隠喩(メタファー)ではなく換喩(メトニミー)と言うのでしょうか)。しかも哲学の授業のシーンのなかでちゃんと「近接性」に言及されています。
 ラストシーンの、「あ、これで終わりなの?」みたいな感じも含めて、(小説の中にはその言葉は出てこないのですが)ツリー構造ではなく「リゾーム」(『千のプラトー』に登場する哲学用語。中心も始まりも終わりもなく、多方に錯綜するもの)を意識しているのではないかと思いました。
 
 とても緊迫したシリアスな話も、お涙頂戴的なエモーショナルな書き方ではない、哲学的な表現で、換喩的に描かれていたのは、ちょっとゾクゾクしました。
 文学作品を網羅しているわけではないので、純文学の世界においてこの作品のこうした手法がどこまで新しいのかはよくわからないのですが、少なくとも僕にとっては、非常に新鮮で、知的な刺激を受けました。一言で言うと、とても面白かったです。
(なお、こちらのニュースで紹介した芥川賞の選考委員の「一種のカミングアウト小説」という評は、やはり的外れではないかと思わざるをえませんでした。北丸さんの「『デッドライン』はカミングアウトからずっと先の場所で書かれている意欲作です」に同意します)
 
 
『デッドライン』
著:千葉雅也/新潮社

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