g-lad xx

REVIEW

安堂ホセさんの芥川賞ノミネート第2作『迷彩色の男』

東京のハッテン場で起きた傷害事件をめぐって、主人公がその事件の犯人を突き止めるミステリー的な作品ですが、ゲイの世界のある種のリアリティが鮮やかに描かれていて、少なからず衝撃を受けると思います。この作品が世に送り出され、芥川賞候補となったこと自体がスゴいことだと感じます

安堂ホセさんの芥川賞ノミネート第2作『迷彩色の男』

 安堂ホセさんの第1作『ジャクソンひとり』は、ものすごく現代的なディテールのポップさや高揚感や疾走感、現代を生きるミックスルーツのゲイの若者の生き生きとしたライフスタイルが活写された作品でしたが、第2作『迷彩色の男』は、雑居ビルの地下にある「FIGHT CLUB」というクルージングスポットで起きた傷害事件を起点とした、死の影が覆う、暗くて重いトーンの作品でした。
 
<あらすじ>
2018年12月23日、26歳の男が都内のクルージングスポット「FIGHT CLUB」で血だらけで倒れているのを発見される。それはブラックミックスのポルノ男優・いぶきだった。いぶきとセックスフレンドだった「私」は、彼の安否もわからないまま、再開した「FIGHT CLUB」を訪れる。そして、そこで出会った男が事件の犯人なのではないかと疑うようになり…。

 言葉を交わさず、アイコンタクトやボディタッチによって「ヤリたい」「OK」「保留」といったシグナルを交わす様子のリアルさ、また、生々しくもあり、美しくもある男たちのハッテンの描写(指を絡ませようとして手首とロッカーキーの間に指が入ってしまったというシーンのリアルさよ)は、例えば『怒り』のハッテン場のシーンなどとは異なり、実際にそこに足を踏み入れ、自身もハッテンした経験がある人じゃなければ書けないようなものですし、「血肉化」されていると感じました。
 一方で、ゲイサウナやヤリ部屋など屋内の有料ハッテン場でノンケによるヘイトクライム(憎悪犯罪)が起こったことはなく(ただ、こういうハッテン場の存在は今ではノンケの間でも知られていて(YouTubeに「潜入レポート」を上げている人もいます。本当にやめてほしいですよね)、悪意を持った男性がハッテン場に紛れ込んでゲイを殺すということはありえなくはないし、将来起こりうることかもしれないと危惧します)、ゲイ客による殺人事件も確かにあったけれども金品目当ての強盗犯であり、決してヘイトクライムではなかったので、この作品で描かれたような殺人(未遂)事件というのはリアルではないかも…と思いました(警鐘を鳴らす、という意味かもしれませんが)
 
 印象的だったのは、与党の国会議員が「LGBTには“生産性”がない」と発言したことがチラリと書かれていることです。こちらのインタビューで安堂さんは、2018年は「日本でのゲイバッシングの方向性が変わった」年であると語っています(「なんの脈略もなくマイノリティ同士を戦わせる構図に持っていこうとする方法は、現在のシス女性とトランスジェンダーを対立させる風潮にもつながっています」)。『ジャクソンひとり』は2021年〜2022年のリアリティを切り取っていますが、『迷彩色の男』はその前日譚のような作品なのだそうです。そう考えると、この作品の暗さ・重さが腑に落ちます。
 ゲイの風俗店での傷害事件の報道をめぐるSNS上での投稿で「ホモがホモを虐殺なんて、不都合な真実もいいところ」というホモフォビックな言葉が書かれていたことも、その話とつながります。
 事件後、「FIGHT CLUB」の店の前で警官が張り込み、店から出てきた人に職質を行なっていることに抗議をする人のことが描かれていたのもそうだと思います。
 
 主人公である「私」は職場でバレないように、自分を殺してやり過ごしています。言うまでもなくそれは、社会に(そういう言葉で書かれているわけではありませんが)ホモフォビアが蔓延しているせいです。職場の上司から「女っ気ないよね」「ゲイだって噂あるけど」と言われる場面も描かれています。
 2018年という年の、チクチクと世間の悪意に刺されたり、与党議員が「LGBTには“生産性”がない」と発言して差別を煽るような時代。なんだかんだ言ってもまだゲイが尊厳をもって扱われていると感じられない、ゲイであることに誇りを持って生きることが難しい時代の空気感です。
 ブラックミックスの生きづらさとゲイの生きづらさが共に描かれているというのは『ジャクソンひとり』と同様で、今作ではゲイのほうにより重点が置かれています。そのことがハッテン場での凄惨な傷害事件の背景にもなっており、また、(あまり詳しく書きませんが)「迷彩色の男」にもつながっているのです。「迷彩色」はカモフラージュであり、このホモフォビックな社会の中で「擬態」し、本当の自分の姿を悟られまいとするありようを象徴しています。「私」もまた、職場で「ノンプレイヤーキャラクター」と呼ばれるくらい、無色透明で存在感のない人であり続けています。
 
 終盤の展開は確かにショッキングで、悪夢としか言いようのない結末なのですが、作者も「全体的に目指していたのは治癒されるような感覚でした。憂鬱な物語に癒されることって絶対あるから」「本当に何も受け付けないほど憂鬱なときに読んでもらえるような、ヒーリング効果のある悪夢感を作りたかった」と語っているように(FREENANCE「安堂ホセが芥川賞候補作『ジャクソンひとり』に続く『迷彩色の男』を発表」より)、それは今現在「地獄」にいる人にとって「救い」ともなるような悪夢なんだと思います。
(ちなみにこのインタビュー記事では、「自分が自分であることを起点にしてフィクションを作るっていうのは変わらないんだけど」とか「私を含め”当事者もの”って揶揄されるタイプの作家は、どうしてもその人=ジャンルみたいにされちゃうんですよね」という言葉もありました。事実上のカミングアウトだと思います)
 
 あらゆる書評やインタビュー記事で触れられているように、この作品では、青と赤のような色彩へのこだわりが、実に見事に、巧みな効果を上げています。「FIGHT CLUB」もブルーの光に包まれたクルージングスポットで、そこではいぶきや「私」のようなブラックミックスの男の肌も「単一な男たち」の肌も皆ブルーに輝いています。『クルージング』に登場するレザークラブは「Blue Oyster」という名前でしたが、男たちが互いを求めあい、欲望を満足させる場所にはブルーが似つかわしいのでしょう(ハッテン場ではないですが、EAGLE TOKYO BLUEもそういう意味なのかな?と思ったり)
 そして、クリスマス前に男女のカップルが皆青い服と赤い服の組み合わせで描かれていたように、青は男性性の象徴で、そういう意味でも、男のセクシーさを誇示しあう「FIGHT CLUB」はブルーである必然性があるし、そこではゲイも(クィア的ではなくシスジェンダーの)男なのだということがある種の批判性をもって示されているのかもしれません。
 
 ゲイの映画監督ガス・ヴァン・サントが撮った『エレファント』という作品があって、実際にあったコロンバイン高校の銃乱射事件を描いているのですが、銃撃犯であるアレックスとエリックが出かける前にシャワーを浴びながらセックスをするシーンが描かれてたんですよね。絶望的な、しかし、美しい男たちの、今生での最後の情事…。この映画のことをなぜか、思い出しました。

(文:後藤純一)
 


INDEX

SCHEDULE

    記事はありません。