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REVIEW

映画『傷』(RRT2018)

南アフリカのコサ族男性の通過儀礼にまつわる映画『傷』。ゲイが否認されてしまっている社会で、どのように生きていったらよいのか…とても深くて鋭い問いを突きつけられました。

映画『傷』(RRT2018)

レインボー・リール東京2018で上映された映画のレビュー・シリーズです。『傷』は、南アフリカのコサ族男性の間で通過儀礼として行われている割礼キャンプにまつわる映画ですが、実は割礼自体は主題ではなく、欧米の価値観とは相容れない、ゲイがいないものとされる社会で、本当に好きな人と一緒に暮らしていくこと(ゲイとして生きていくこと)が可能なのか、いったいどうやって伝統社会にゲイということを理解させればいいのか…とても深くて鋭い問いを突きつけられました。これまで観たことのないタイプの作品で、少なからず衝撃を覚えました。(後藤純一)


 2017年、サンダンス映画祭で上映され、ベルリン国際映画祭のパノラマ部門にも選出されています。そして、第90回アカデミー賞外国語映画部門の南アフリカ代表作品にも選ばれています(ちなみにこのとき、たくさんの作品の中から外国語映画賞受賞の栄誉に輝いたのは『ナチュラル・ウーマン』でした)
 
 本国、特にコサ族が多く住む東ケープ州では、非難や反対運動が相次ぎ、監督などへの脅迫も起こり、上映中止に追い込まれたそうです。
 コサ族は、南アフリカ共和国における主要な民族の一つで(人口は700万人以上)、コサ語は南アフリカの公用語の一つになっています(ネルソン・マンデラもコサ系でした)
 
 たとえばパプア・ニューギニアのサンビア族は、少年が大人になるための通過儀礼として年長の男性が少年に精液を授けるということが知られていて(古代ギリシアや日本の戦国武将もそうですが、年長者が年少者を立派な大人に育てあげる過程で男どうしのセックスが制度的に組み込まれている事例というのは結構あって、人類学的に普遍的なことなのではないかと思います)、この『傷』という映画もそういうことを描いているのかな?と思っていたのですが、そうではありませんでした。
 実は割礼のことも主題というよりは背景的な事柄で(すべては「男」になるため、ということはよくわかりました)、メインテーマは、コサ族の男社会において、ゲイがどのように捉えられているか、そして、ゲイである主人公がそこで生きていくためにはどうしたらよいのか…ということでした。これまで観たことのないタイプの作品で、少なからず衝撃を覚えました。
 
 南アフリカ共和国といえば、アパルトヘイトの反省から、たいへん先進的な憲法をもつに至り、アフリカで唯一、同性婚を認めている国です。2006年に同性婚が承認されてからだいぶ経ちますが、ゲイシーンが発展して欧米からもゲイツーリストが訪れているケープタウンなどはゲイが生きやすい街なのでしょうが、そこから離れ、伝統的な色合いが濃い地方の村に行くと、こういう感じなんだな…と、ガツンと現実を突きつけられた気がしました。





<あらすじ>
南アフリカのコサ男性の間で成人の通過儀礼として受け継がれている「割礼」。10代の少年たちが山奥のキャンプにこもって割礼を受け、先輩の若者(教育係)から大人の男としての規律を学ぶ。工場労働者のコサニは毎年、教育係をつとめているが、今年受け持ったのはヨハネスブルクから来た少年クワンダだった。コサニは、キャンプで中心的な役割を果たしている教育係のヴィジャと仲良くしているが、クワンダはコサニとヴィジャの隠された関係を知ってしまい…。

 コサ族の社会では、ゲイはありえない存在です(否認されています)。たとえ男どうしでセックスをしていて、親密な関係を続けていたとしても、それは決してゲイとかなんとかではないのです。実はホモセクシュアルという概念が生まれたのは19世紀で、それ以前は男とセックスするという(犯罪、逸脱としての)行為の問題だったそうですが、おそらくコサの社会も、その他の第三世界の多くの地域も、同様の認識だと思います。そもそも同性愛者という人はこの世にいないのです。
 毎年割礼キャンプで会うたびにセックスをしていたコサニとヴィジャですが、ヴィジャに「なぜ教育係をやっているんだい?」と聞かれたコサニが、「それは君に会うためだ(君が好きなんだ)」と言った瞬間、ヴィジャが顔色を変えてコサニを突き放し、立ち去ってしまうシーンが、そのことをよく物語っています。
 劇中で何度か「ゲイ」という言葉が出てきますが、村の勇敢な「男」たちとは異質な、都会の(白人文化に染まったりしている)軟弱さのようなものとして排除されています。俺たちの村にはゲイなんかいないよな、という感じです。
 ヴィジャは、男とセックスしているということよりも(それはおそらく、先輩たちもやってきたんじゃないでしょうか)、コサの社会のなかで「男」とみなされないことがどれだけ恐ろしく、どんな制裁を受けるかもわからない(村では生きていけない)ということをよく知っていて、だからこそ、割礼キャンプではわざと「男」らしく、荒々しく、粗野な振る舞いをして見せるんだと思います(セックスだって、絶対にタチです。これは非常に重要なことです。古来、ウケ役というのは非常に不名誉なことでした)。「男」として結婚して子をなし、教育係もつとめ、村の繁栄に貢献することは、コサ男性にとっての至上命題なのです。
 コサニは、ヴィジャのことを愛しているので、ゲイだと自覚しつつも、村のルールにうまく適合するかたちでこっそりヴィジャと関係を持ち続け、現状を維持しようとします。しかしここに、ヨハネスブルクという大都会で「近代」や「平等」や「人権」を学んできた少年・クワンダがやってきて、コサニを撹乱しはじめます…。

 「未開」の部族の間ではまだまだホモフォビアが根強く残っている、もっと「近代化」を進め、「平等」や「人権」を「啓蒙」していかなければ、というような話では全然ないな、と思いました。ホモフォビアがあるのは確かですが、欧米の物差しでバッサリと切ってしまうことは逆効果でしかないだろう、と。

 では、どうしたらよいのでしょうか。本当は、伝統的な部族社会の価値観も熟知しているコサニと、新世代のクワンダが手を取り合い、知恵を絞れば、もしかしたらフリクションを起こさずに少しずつ変えていく、道が拓けていくこともありえたかもしれないな…と思います。しかし、現実は全くそういうふうには進みませんでした。
 この映画で起こった悲劇は、伝統社会で男どうしが愛し合って生きていくことの困難さを浮き彫りにしています。LGBTという言い方に象徴されるような欧米のモノサシでしか見てこなかった人たちに、どうしたらよいのか?と鋭く問いかけます。
 
 たいへん後味の悪い映画ではありましたが、観てよかったと思いました。
 今後、どこかで上映されることはないかもしれませんが、もし機会があれば、ご覧になってみてください。




監督:ジョン・トレンゴーヴ
2017年|南アフリカ、ドイツ、オランダ、フランス|88分|コサ語 ※日本語字幕つき
日本初上映

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