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REVIEW

ドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』

ゲイの高校生と、腐女子の同級生を中心とした青春群像劇。原作の面白さを活かしつつ、魅力的なキャスティングやドラマらしい演出によって、さらに良い作品にしていくことに成功していると思います。

ドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』

 昨年は『女子的生活』『弟の夫』『半分、青い』といったドラマでLGBTをフィーチャーしたNHK。今年は、浅原ナオトさんの小説『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』を原作としたドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』を世に送り出しました。
「(妻子持ちのおじさんとつきあっていながら)ゲイであることを周囲には伏せている男子高校生の純と、腐女子(BL=ボーイズラブの漫画にハマっている女子)の同級生・三浦さんを中心とした青春群像劇。自分の好きなものに正直でいることや、世間にとって“ふつう”の幸せを手に入れることの難しさなどを、高校生の視点でみずみずしく描いた作品」と謳っていますが、よく考えると、ダブル不倫みたいな関係性ですし(どっちにバレてもマズい)、すべては純の欲望がそうさせていて、現実的に見るとドロドロしたお話でもあるのですが、不思議と、確かに「みずみずしい青春群像劇」みたいな(あるいはNHK的な)語り口になっていて、面白みを感じさせます。
 主演は『おっさんずラブ』で栗林歌麻呂の役だった金子大地さん。今回は(あのキレイなイメージの)谷原章介さんとゲイカップルを演じています。

<あらすじ>
安藤純は、ゲイであることを自覚し、年上のマコトさんとつきあいつつも、周囲にはそれを隠し、「異性を愛し、子どもを作って、家庭を築く」という“普通の幸せ”への強いあこがれも持っている男子高校生。そんな純はある日、たまたま本屋で同級生の三浦さんに遭遇し、彼女が“腐女子”であることを知る。「BLはファンタジーだ、現実のゲイは汚い」と言う純に、「それは現実のゲイの人に失礼だ」と猛抗議する三浦さん。三浦さんに興味を持った純は、彼女の愛する同人誌イベントに同行する。一方で三浦さんは、“腐女子”というフィルターを通さずに自分を見てくれる純に、次第に惹かれていった。そしてついに、幼なじみのお膳立てによって三浦さんは純に告白。「三浦さんとなら、普通の幸せを手に入れられるかもしれない」そう考えた純は、三浦さんの告白を受け入れ、順調にデートを重ねていくが……。


 純は周囲にカミングアウトしていませんが、それは世間体を気にして(世の中のゲイへの偏見・差別ゆえに)言えないでいる、というのとはちょっと違います。いざとなれば言ってしまってもいいんだけどね、という感じなのですが、純には、子どもをつくって、家庭を築きたい、「普通の幸せ」を手にしたいという強い気持ちがあるのです。まだ高校生で、たぶん妻子持ちのマコトと(隠れるようにして)ラブホでセックスするということ以外のゲイ活動はしていませんので(原作に、二丁目には昼間しか行ったことがない、とあります)、これからもっとゲイとして花開いていくかもしれませんが、現時点では、「普通の幸せ」にとても憧れているのです。それゆえ、たまたま仲が深まっていくクラスメートの腐女子の三浦さんとつきあうことを決めます。今つきあっているおじさんにバレてもマズいし、三浦さんにゲイでおじさんとつきあってるということがバレてもマズいので、ドキドキなのですが、そこを追及してドロドロに描くのではなく、「自分の好きなものに正直でいることや、世間にとって“ふつう”の幸せを手に入れることの難しさ」を、イマドキの高校生の目線で描いている感じが、面白みだと思います。
 
 ドラマ化にあたり、原作の良さを活かしつつ、魅力的なキャスティングやドラマらしい演出によって、さらに良い作品にしていくことに、成功していると思います(『弟の夫』もそうでしたね)

 まず、金子大地さん&谷原章介さんのラブホテルでのベッドシーンを冒頭に持ってきたのは、インパクトがあったと思います。公共放送としては、(深夜の時間帯とはいえ)全国のいろんな年代の大勢の人たちが観る可能性があるため、もしかしたら「子どもの教育によくない」とか「視聴者からのクレームを避けたい」などの理由で男どうしの性的な描写は控えるという判断もあったかと思いますが、堂々と冒頭に持ってきたのはスゴい。ちゃんとキスシーンもありますよね。あっぱれ!です。

 それから、純は「クイーン」の音楽が好きで、よく聴いているわけですが、第2話の終盤の演出が「クイーン」を効果的に使っていて素敵でした。どういうことかというと、遊園地デートのクライマックスで、純と三浦さんが観覧車に乗り、てっぺんにきた時に三浦さんが告る(別のクラスメートがそういう手はずになってるから、とあらかじめ純に伝えてました)ということがわかっていて、視聴者は、果たして純はどうするのか、いいよと言うのか、断るのか、ゲイだと告白するのか、興味津々なわけですが、シングルマザーとして昼も夜も働いて純を育ててくれたお母さんの「孫の顔が見たい」という切実な思いに応えたいという気持ちや、子どもが欲しい、「普通」の家庭が欲しい、といった内面の葛藤が激しく描かれ(「欲しい」という心の声が何度も、強烈に。ちょっとエヴァっぽいと思いました)、キスをしたあと、つきあおう、と言ってしまう、そのドラマチックなシーンのBGMが「クイーン」の「I want it all」だったのです。友達たちの「おめでとう」と、純の全然うれしくない虚無感のような本心とのギャップが、「I want it all」とあいまって、なんともいえない苦さがありました。ドラマ的な、グッとくる演出でした。
  
 チャット友達のファーレンハイト(彼氏からHIVをうつされたという二十歳のゲイ。妙に達観しているのは、陽性であるということも関係しているのかもしれません)の存在も重要ですね。迷える純に対して、ビシバシと、的確なアドバイスをしてくれます。非常に知的で(「摩擦係数をゼロとする」のたとえは、うならせます。現実は摩擦、ゼロじゃないですものね)、ドラマに重厚感を与えてくれます。顔は見えないけど助けてくれる、あしながおじさんのような存在です。

 そんな感じで、荒唐無稽でもなく、ゲイを茶化すでもなく、BLというわけでもなく、なかなか面白く見れるドラマになっていると思います。ぜひご覧ください(見逃し配信はこちら


ドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』
4月20日(土)23:30-23:59(NHK総合)
原作:浅原ナオト『彼女が好きなものはホモであって僕ではない
脚本:三浦直之
演出:盆子原誠、大嶋慧介、上田明子、野田雄介
出演:金子大地、藤野涼子、小越勇輝、安藤玉恵、谷原章介ほか






【追記】
(※結末に触れていますので、全話をご覧になった方に読んでいただければと思います)
 
 第5話での絶望的な展開(純は、クラスメートの小野から「気持ち悪い」と言われ、親友も「お前も純の仲間か」と言われて「違う」と全否定…純は、大粒の涙を流し、同性愛者というだけで受ける仕打ち、現実のつらさが本当に嫌になり、「もう疲れたよ」と言って校舎から飛び降りるのです。まるで一橋大学ロースクールのあの事件のように…)は、多くの視聴者を驚かせたと思います。主人公が死ぬことはまさかないだろうと思うからです。番組のホームページにも、共感する声が多数、寄せられました。
 ゲイの生きづらさを、シリアスになりすぎることを怖れず(オブラートに包むことなく)、正面からリアルに描いたという点で、画期的なドラマだったと感じます。
 
 一方、ちょっと疑問に感じてしまうところもありました。
 
 最も違和感を感じさせ、問題があると言っても過言ではないのが、第4話。HIVについての時代遅れな描写です。
 Mr.ファーレンハイトの彼氏さんは、エイズを発症して亡くなってしまった(「手遅れ」だった)とのことですが、今の日本の医療では、たとえ発症しても亡くなることはほとんどありません。1996年頃にHAART(カクテル療法)が登場して以降、HIV/エイズは死に至る病ではなくなり、その後も抗HIV薬や治療の状況はずっとよくなり、HIV陽性者もずっと元気に生きていけるようになりました(陰性者と比べて寿命があまり変わらなくなりました)。このドラマは、そういう認識を欠いているのでは…と、時代設定が80~90年代ならともかく、今のドラマとしては、これはナシではないかと、批判の声も上がっています。
 恋人がエイズで亡くなったのを受けてMr.ファーレンハイトが自殺してしまうという展開も、まだ若いのに…と、胸が痛みましたが、同時に、このドラマ(原作)にはセンセーショナリズムのきらいがあるのでは…と感じました。
 
 それから、第7話です。
 三浦さんが海外展で入賞して表彰された際、台の上で、マイクを取ってしゃべり始め、腐女子であることをカミングアウトし、遮ろうとする先生たちとクラスメートたちがもみ合いになり、というシーンは、感動的でした。しかし、純を自殺に追い込んだ張本人である小野が、本当はいやだっただろうに決死の覚悟で終業式に出てきた純に対して、ひとことの謝罪もなく(入院中にHRが行われたそうですが、どんな内容だったのか一切わからず、結局、差別してる側は何も変わってないのでは?と思わせます)、壇上から「お前男だろ?」と純を挑発して、その挑発に乗って(「そうだ、俺は男だ」とでも思ったのでしょうか)純がステージに上がり、三浦さんとキスして、歓声が起きる、という流れには、鼻白みました。
 なんだか、三浦さんをはじめとするチーム・ノンケは、堂々としてて、仲間思いで、カッコよく描かれている一方、純は、自殺までしようとしたのに、気遣われることもなく(「摩擦」を起こした張本人であり、そもそもゲイである純が悪いのだから、と言わんばかりです)、異性とキスすることで、「おめでとう。これでまともになったね」とばかりに喝采を受けるのです。
 さらに、みんなが帰ったあとの教室に純が一人だけ残っていて(そんなシチュエーションってあるでしょうか…)、以前、屋上で「ホモに気をつけろ」とかなんとか言ってた下級生の男の子がやってきて「僕もゲイなんです」と言います。それに対して純は、「あの話相手の人が好きだったのかな? ゲイネタ言って、様子見る。ゲイあるあるだよね」「ぼくら100望んで10返ってくればいい方だから、ゆるく生きていかないと、壊れるよ」と言います。 
 そう言えば、三浦さんは壇上で、「彼の周りには薄い壁があって、彼はそこから見ている。けど、それは自分を守るためではなくて、私たちを守るためだったんです。余計な摩擦は起こさないようにするため。彼は自分が嫌いで、私たちのことが好きだったんです」と言っていました。
 このドラマを観てきて、そこはかとなく漂う空気感…ずっとモヤモヤしていたことが、第7話で像を結びました。このドラマって、ホモフォビアを肯定してる(あきらめてる)んじゃないかな、と。
 ゲイだなんてことはおくびにも出さず、「普通」に生活して、「摩擦」を起こさず、みんなの世界を複雑にせず、なんなら三浦さんみたいな人とつきあって結婚して家族を持ったらいいよ、そのほうが八方丸く収まるじゃん、という世間の異性愛規範のほうに乗っかってしまっている気がします。どうせノンケたちは理解なんてしてくれないから、そんなこと期待するだけ無駄だから、という感覚がベースにあるような気がして仕方ありません(それは多くの当事者が抱いている本音でしょうし、リアルだと思いますが、それを現実だからしょうがないとあきらめ、屈してしまうのと、批判的に乗り越えて前に進むのとでは、雲泥の差があります)
 
 最終話では、いろんな「雪解け」があり、新しい生活がはじまり、希望が感じられる(たぶん大学でカミングアウトする)終わり方になっていました。
 しかし、めでたしめでたし、とは思えませんでした。
 結局、純のクラスメートたちは、ゲイに対する偏見を払拭したのかどうか、よくわかりません(たぶん、あまり変わってません)。そこの葛藤なり衝突なりが描かれていないからです。
 ラストシーンは、新天地でやり直すという物理的な解決法で(それもリアルですし、本人が苦しいのなら、環境を変えることに賛成ですが)状況が好転したように見えているのであって、差別する側のホモフォビアは批判されることなく、温存されている(根本的な解決を見ていない)としか思えません…。
 
 これが30年前に作られたドラマだったら、すごい名作として評価されたかもしれません。が、先のHIVの話が特にそうですが、今の時代の高校生を描いた作品とは思えませんでした。まるで『薔薇族』の時代のような後ろめたさ、日陰者感。自己肯定感が低すぎるように感じました。暗い雲のようなものがずっと、この作品全体を覆っていました。「QUEENが泣くんじゃないかな…」と思いました。
 

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