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ゲイ用語の基礎知識

ドラァグクイーン

 Drag Queenはゲイナイト(クラブパーティ)を華やかに彩る、過剰にゴージャスな女装をしたゲイのパフォーマー※。Dragは「裾を引きずる」という意味に由来していると言われています。Drug(クスリ)と区別するために「ドラァグ」という表記が用いられるようになりました(Drag Queenのマーガレットさんが初めて提唱したと言われています)

※ドラァグクイーンはゲイシーンから生まれたものなので、基本的にクラブのドラァグクイーンはゲイの方なのですが、ドラァグクイーンのスタイルやゲイのクラブカルチャーに共鳴した女性(ごくまれにストレート男性)もドラァグクイーンとなることがあります。

 ドラァグクイーンには特有のメイクのスタイルがあります。例えば、アイラインを異様に太くする、つけまつげを何枚も重ねてつける、眉毛をつぶし、実際の眉毛の上にアイブロウを描く、目と眉毛の間にダブルラインと呼ばれる「二重」のようなラインを入れる、実際の唇からはみ出すくらいリップを塗って、その周りを黒く縁どる、などなど…。それは決してナチュラルメイクではありません。女性に見えるような自然さではなく、「フェイク」を楽しみ、ド派手なゴージャスさ、過剰さを遊ぶものです。これこそ「Camp」というものです。そして、たいへん「クィア」でもあります。
 
 二丁目では昔からゲイバーのママが女装したり、周年パーティでママやミセコがハデな女装をしたり、という伝統がありますが、ドラァグクイーンがクラブカルチャーから生まれたものであるため、両者は区別されていました(前者は歌謡曲ノリのショーで笑いを取ることが多いのに対し、後者は海外のディーバ系ショーでカッコよさをめざすことが多かったと思います)。が、二丁目の『Delight』や『レインボーカフェ』などでドラァグクイーンが出演するイベントが開かれるようになった90年代後半から、だんだん両者が相互に混ざり合い、シームレスになっていった印象です。


<ドラァグクイーンの歴史>
 
 自らもドラァグクイーンであり、音楽学の博士号も持つレディ・J氏は、「drag(ドラァグ)」という言い回しが初めて使われたのは1860年代のビクトリア朝英国だとしています。当時の劇場などで活動していた二人組のパフォーマー「ボルトンとパーク」のアーネスト・ボルトンは、女性の衣装に身を包んだ自身の演技を「ドラァグ」と称していました。二人が演技をする際、ペチコートの裾を床に引きずっていたことに由来すると言われています。(ナショナル ジオグラフィック「ドラァグクイーンの歴史:秘密のパーティーからポップカルチャーへ、最初の「女王」は誰?」より)
 
 19世紀末の米国、ボードビルショーで女性になりきる芸が流行った時代、ウィリアム・ドーシー・スワンは自らを「the queen of drag」だと名乗りました。これがドラァグクイーンの起源だとされています。ウィリアム・ドーシー・スワンは1880年代〜1890年代に「Drag Ball」をワシントンDCで開催しましたが、何度となく警察の摘発を受けています。1888年、自身の30歳のバースデイパーティに華やかなサテンのドレスを着て臨んだウィリアムは、摘発にやって来た警官に対して「あなたたちは礼儀というものを知らないのね」と言って抵抗したそうです。これがLGBTQの歴史における初めてのプロテストだと言われています。ウィリアム・ドーシー・スワンは逮捕され、10ヵ月も拘留されたそうですが、クリーブランド大統領に減刑を求める手紙を書いています(クィアが大統領に物申したのもこれが最初です)
 
 1900年代にはワシントンDCで女装が違法とされ、「Drag Ball」はサンフランシスコ、シカゴ、NYなどで開催されるようになります。1920年代の禁酒法の時代になると、NYのハーレムやグリニッジビレッジの「Drag Ball」のショーはストレートにも(酒の「つまみ」として)人気を博すようになりました。1930年代にはPansy Crazeと呼ばれたドラァグクイーンがNYを中心にLA、サンフランシスコ、シカゴでも人気になり、新聞などでも紹介され、広く認知されましたが、そのことでバックラッシュも始まりました。第二次大戦が始まると、保守化した社会でPansy Crazeは認められなくなり、「Drag Ball」はアンダーグラウンドに潜りました。
 
 1950年代、ゲイに対する抑圧やバッシングが続くなか、ニューオーリンズでゲイが殺される事件が起こり、地元のゲイたちは結束してマルディグラの「Krewe(連)」(ソーシャルクラブ)を作り、「ストレートへの当てこすり」として伝統的・貴族的な様式をパロディにしたド派手な衣装を見せつけるかたちでマルディグラに参加しはじめました。1962年には初の「ボール」を開催、ドラァグクイーンが次々に「生涯で最大の」コスチュームで登場し、観客はフォーマルなタキシードで鑑賞するスタイルでした(しかし、場所が小学校だったために、パトカーがやってきて、逮捕されたそうです…。ニューオーリンズのゲイ・マルディグラというサイトの中に歴史が記されています)

 ストーンウォール暴動以前にも小さな暴動があったことは『LGBTヒストリーブック』にも書かれている通りです。1959年のLAのクーパー・ドーナツ暴動や、1966年のサンフランシスコのコンプトンズカフェテリア暴動がそうですが、これらはいずれもドラァグクイーンやトランス女性による蜂起でした。
 もちろん、マーシャ・P・ジョンソンやシルヴィア・リヴェラのようなドラァグクイーンやトランス女性が、ストーンウォール暴動の英雄として称えられています(最初に「ハイヒールを投げた」人物というわけではなく、暴動の直後に「ゲイ解放戦線」を立ち上げたリーダーとして)
 ドラァグクイーンはプロテストの主役であり、PRIDEの象徴でした。だからこそ、世界中のプライドパレードでドラァグクイーンは主役を張り、リスペクトされているのです。
 
 1976年、NYのゲイのリゾート地として栄えたファイア・アイランド・パインズのレストランで、テリー・ウォーレンというドラァグクイーンが入場拒否されるという事件が起こりました。その話を聞いた友人のドラァグクイーンが7月4日、最高にゴージャスな装いで海上タクシーでレストランに乗り付けるというデモンストレーションを行ないました。そこから毎年、クイーンたちが大挙して船でパインズに押しかけるド派手なイベントが恒例になりました(「パインズの逆襲」と呼ばれ、今でも続いています)
 
 ディヴァイン(Divine=神々しいという意味があります)は、1970年代〜80年代という、今ほどドラァグクイーンが世の中に認知されていなかった時代に活躍し、全米、全世界にその名を轟かせた伝説のドラァグクイーンです。100kgを超える巨体と、極端に額を広くして元の眉毛のはるか上に眉毛を描くような大胆なメイクがトレードマークです。「YOU THINK YOU'RE A MAN」「Shoot Your Shot」など数々のレコードも.
 ゲイの映画監督ジョン・ウォーターズと意気投合し、1968年からジョン・ウォーターズ作品に出演してきました。至上最低の悪趣味映画として名高い1972年の『ピンク・フラミンゴ』では、「世界で一番下品な人間」の座を争い、犬のウンコを食べるという強烈な演技を見せ、世紀のカルト・スターになりました。1988年、ジョン・ウォーターズ初のメジャー作品『ヘアスプレー』に出演した後、心肥大で急逝しました。ル・ポール的なクイーンとは対局にあるレジェンドです。ディヴァインがいたからこそ、後世のドラァグクイーンたちも、世間的な美の価値観に捉われることなく、自由に、大胆に自己を表現し、時に猥雑だったり凶々しかったりするような、Campでクィアなドラァグを追求することができたのではないでしょうか。

 1985年から2001年まで、NYのトンプキンス・スクエアでレディー・バニーが「ウィッグストック」を開催していました。NYに限らず、全米のクイーンが参加し、ロンドンから駆けつけたリー・バウリーも出演したりして、ドラァグ愛に満ちた、夢のような、素晴らしいドラァグ・フェスでした。「ウィッグストック」は世界のドラァグクイーンのシーンに影響を与え、日本でも「ウィッグストック」にオマージュを捧げる野外イベントが開催されています(2001年の東京レズビアン&ゲイパレードの前日祭「GLORY」もそうです)

 リー・バウリーは1980〜1990年代、ロンドンとNYのアートとファッション界に多大な影響を与えたレジェンドであり、真にアヴァンギャルドなクイーンです。
 リー・バウリーは1994年の大晦日にエイズで亡くなりました。キース・ヘリングやロバート・メイプルソープ、フレディ・マーキュリー、デレク・ジャーマンなどと並ぶ、エイズに命を奪われたゲイアーティストの一人です。
 2005年のボーイ・ジョージの半生をミュージカル化した映画『TABOO』では、ボーイ・ジョージは自分自身ではなくリー・バウリーを演じています。
 
 ル・ポールは1980年代後半にNYのクラブで活躍し、頭角を表し、1992年にシングル「Supermodel(You BetterWork)」のリリースで一躍有名になり、1994年にはM・A・Cの顔として広告キャンペーンにも抜擢されるという偉業を成し遂げた(美を武器にサクセスし、社会的地位向上を実現した)レジェンドです。2009年からはLGBTQのケーブルTV局Logoで冠番組「ル・ポールのドラァグ・レース」が始まり、大人気となりました。同番組は2018年、エミー賞でリアリティ番組・コンペティション部門最優秀作品賞に選ばれ、同時に司会賞と作品賞も獲得するという史上初の快挙を達成しました。この番組からどれだけの素晴らしいクイーンたちが巣立っていったか、この番組がどれだけドラァグクイーン(やLGBTQ)に勇気や希望を与えたことか…その功績は計り知れないものがあります。 

 1994年、ゲイ史上に燦然と輝くドラァグクィーン映画『プリシラ』が製作され、世界的な大ヒットを記録しました(日本公開は1995年)。とにかく衣装と音楽が最高に素晴らしく(オーストラリア映画であるにもかかわらず衣装でアカデミー賞を獲っています)、バスの上に巨大なハイヒール型のオブジェを乗せて大きなシルバーラメの布をはためかせ、オペラのアリアに合わせてリップシンクするシーンや、宝塚みたいな衣装でヒールを履いてエアーズロックに登るラストシーン、エリマキトカゲの衣装やゴムサンダルをたくさんつけた衣装など、思わず「素敵!」と言いたくなるシーンのオンパレードでした。これぞゲイテイスト!これぞドラァグクィーン!と世界中から賞賛を浴びました。『プリシラ』はのちにミュージカル化され、日本でも上演されています。

 日本では、ダムタイプの古橋悌二(ミス・グローリアス)さんがNYからドラァグクイーンの文化を持ち帰り、シモーヌ深雪&上海ラブシアターとともに1989年に大阪・堂山で日本初のドラァグクイーンパーティ『DIAMONDS ARE FOREVER』を開催したのが草分けだとされています。『DIAMONDS ARE FOREVER』は1990年からは京都のクラブ「メトロ」に会場を移し、以後30年間も開催され続けている驚異のロングラン・パーティです。
 1994年には日本初のドラァグクイーン・ムービー『ダイヤモンド・アワー』が製作されています。

 東京では、マーガレットさんやホッシーさんがクラブに派手な女装で遊びに行くようになったのが草分けだと言われています。1991年、芝浦「GOLD」で始まったゲイナイト「THE PRIVATE PARTY」でドラァグ・ショーが一般化し、「ミス・ユニバース」という華やかな企画も行なわれました。
 1999年、マーガレット&ホッシーさんがMISIAさんのツアーに同行、メジャーなアーティストのツアーに起用されるのは日本初の快挙となりました。
 
 1994年、パソ通のオフ会からドラァグ集団「UPPER CAMP」が誕生、二丁目の「レインボーカフェ」や「Delight」でショーを披露していましたが、1996年以降、あえてチープな衣装で笑いを取りに行くスタイルに進化していきました。こうした芸風は、もともと二丁目のゲイバーの周年パーティなどでママが女装したりコミカルなショーで楽しませたりという伝統に近いものがあり、二丁目で広く人気を博したと見られます(UPPER CAMPはブルボンヌさん、WAKUWAKUサセコさん、エスムラルダさん、肉乃小路ニクヨさん、バブリーナさん、肉襦袢ゲブ美さんといった人気クイーンを輩出しています)
 
 1999年、堂山のバナナホールで日本初のドラァグクイーン総出演イベント「DIVA JAPAN」が開催され、全国から50名近いクイーンの方たちが集結し、夢のような一夜を繰り広げました(シモーヌ深雪さんがプロデュースしていました)。翌年には新宿の「CODE」でも「DIVA JAPAN TOKYO」が開催されています。
 
 2000年、毎晩ドラァグクイーンのショーを見せる「Blue Oyster Lounge」というお店が二丁目に誕生しました。
 
 2000年代、ドラァグクイーンは東京や札幌のパレードの主役となっただけでなく、名古屋の「NLGR」、大阪の「switch」「PLuS+」、東京の「GRATIA」「VOICE」など、HIV予防啓発の様々なイベントでも活躍しました。
 今ではテレビなどのメディアでも活躍し、全国にたくさんのドラァグクイーンが誕生し、クラブシーンを華やかに盛り上げています。
 

中央のミス・グローリアス(古橋悌二)さんが、80年代にニューヨークからドラァグクイーンのカルチャーを持ち帰り、『Diamonds are forever』という日本初のドラァグクイーン・パーティをスタートさせました。(写真は森美術館「MAMリサーチ006:クロニクル京都1990s―ダイアモンズ・アー・フォーエバー、アートスケープ、そして私は誰かと踊る」より)

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