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【追悼】青森レインボーパレードを立ち上げるなどして地方でのLGBTQコミュニティの可能性を切り開いた宇佐美翔子さん

2021年09月30日

 2014年に同性カップルとして初めて公に市役所に婚姻届を提出して社会に一石を投じ、青森の街でレインボーパレードを立ち上げ、「故郷を帰れる街にしたい」と訴え、地方のLGBTQに多大な勇気を与えてきたレジェンド、宇佐美翔子さんが9月30日、亡くなりました。数年前からがんを患い、闘病生活を送っていました。


 
 宇佐美翔子さんは、(私もそうですが)保守的な青森の地で生まれ育ち、「とてもじゃないけどここでは生きていけない」と故郷を離れたがる方たちと同様、東京に出てきていました。朝日新聞の記事「「同性カップル宣誓1号になりたかったね」 訴え続けた53歳の死」によると、翔子さんは20代の頃、レズビアンであることをお母様にカムアウトしましたが、「二度と帰って来るな」と言われたそうです。
 東京に住んでいたときは、共生ネットの副代表をつとめ、LGBTQのための電話相談などの支援活動をしていました。しかし、青森のお母様が亡くなり、青森駅前の(戦後闇市の時代からある)駅前銀座という飲屋街の中のお店を相続したことをきっかけに、パートナーのおかっちさんと一緒に青森に戻り、2014年4月にコミュニティカフェ&バー「Osora ni Niji wo Kake Mashita(通称そらにじ)」をはじめました。LGBTQが安心して集える居場所というだけでなく、DV被害者やメンタルがよくない方、ひとり親、生活が苦しい方など様々な悩みを抱える方たちの相談に乗ったりもするお店でした。
 同年6月、翔子さんとおかっちさんは(もしかしたら以前にも提出した方がいらしたかもしれませんが、公に、新聞にも載るようなかたちとしては)日本で初めて市役所に婚姻届を提出し、(青森中央学院大学の方が「不平等状態を解消するため、議論を尽くす必要がある」と東奥日報にコメントするなどして)歴史に名を刻みました。まだ同性婚訴訟どころから渋谷区のパートナーシップ条例も始まっていない時代です。しかも東京などではなく、男尊女卑で異性愛規範が根強い(結婚圧力がものすごい)ゲイやレズビアンとカミングアウトして生きていくことが困難な青森の地で、です。たいへんな勇気が要ることです。尊敬に値します。
 同時に、翔子さんたちはレインボーフラッグを持って、地元の駅前の商店街をパレードしました。初めはたった3人で。翌年には24人になりました。その次の年は45人になりました。2017年は東京などからも応援に駆けつけ、ついに100人を超えました。2018年には173人、2019年には200人を超えるまでになりました。
 東京のパレードにも参加し(青森ブースを出展し)、「故郷を帰れる街にしたい」と書いたのぼりを掲げて歩きました。
 2016年の熊本初のパレードにも来られていました。
 
 青森という男尊女卑的な意識(やホモフォビア)が根深く浸透している土地で、レズビアンとして生きるだけでも大変なことですが、(反発や誹謗中傷を覚悟のうえで)市役所に婚姻届を提出して社会に一石を投じ、たった3人でパレードを立ち上げ、パートナーシップ制度の導入をはじめLGBTQ支援策を公に求めるという闘いをしてきました。お金があるわけでもなく、社会的地位や何かがあるわけでもないけど、「私にはこれを言う権利があります」と堂々と、威厳を持って、真っ正面から、ブレずに訴え続けた方だと思います。その姿に感動し、共感を覚えた方はとても多いはずです。
 性暴力の法律について性的マイノリティの実情に即した見直しを求める声を上げたり、セックスワーカー支援の活動にも携わっていました。日本でインターセクショナリティということを最もよく実践してきた方だったのではないでしょうか。
 一方で、翔子さんは「そらにじ」をベースとして日頃からいろんな悩みを抱える方たちとつながり、サポートし、安心できるあたたかな居場所をつくってきました。2018年のパレードでは、青森のゲイバーの方や、地元の「LUSH」の店員さんたち、「故郷を帰れる街にしたい」という思いに共感した全国各地の方たちなど、多彩な人々が集まっていて、翔子さんの人徳を感じさせました。アフターパーティでは翔子さんが手ずから料理を作ってもてなし(ホタテが山盛りで感激しました)、地元の方たちにステージを提供していました。「そらにじ」は他の地方に住む方にも影響を与え、姫路などにも伝播しました。
 
 そんな翔子さんは、2018年、がんを患い、闘病生活に入っていることを公表しました。青森のパレードのときには「病院で同性のパートナーがいるということをなかなか理解してもらえませんでした。同性のパートナーにも手術や治療の方針を聞く権利を。同性のパートナーにも緊急連絡先として連絡がいくような仕組みを」と訴え、参加者の目頭を熱くさせていました。
 
 2019年、国会議員の方々に同性婚を実現しましょうと伝えるために開催された院内集会で、翔子さんは「がんの治療のために病院に行くときに、青森では同性パートナーシップ証明がまだ認められていませんので、自分たちで公正証書のような書類を作り、見せたのですが、それでも『緊急時に連絡が行かないかもよ』『それがイヤなら違う病院に行けば?』と言われました。誰もが等しく受けられるはずの治療に、専念することができませんでした。パートナーシップが認められているような自治体なら大丈夫かもしれませんが、青森はまだ…私たちは生きる場所を制限されているのです。これは、命の問題です。早く同性婚を決めてください。私の命が尽きる前に」と訴え、涙を誘いました(私も泣きました)

 そして今日、宇佐美翔子さんが9月30日午前5時に永眠したとTwitter上で発表がありました。10月4日に少人数で火葬を行ない、葬儀は予定していないものの、あらためて「送る会」を行う予定だと伝えられました。
 このツイートには、「たくさんのものをコミュニティに与えてくれてありがとう」「翔子さんのパワフルな行動力と洞察力を尊敬していました」「教えられること、ほんとたくさんあった」「翔子さんにいただいたバトンを必ず繋いでいきます」など、たくさんの感謝のコメントが寄せられています。
 
 今年10月に開催予定(日にちは直前に発表)の青森レインボーパレードは、青森県でのパートナーシップ制度の実現を!と県知事に求める要望書の提出を準備していましたが、翔子さんは今年のパレードも、青森市や県でのパートナーシップ制度の実現も目にすることなく旅立ちました。(佐藤郁夫さんもそうでしたが)同性婚実現にも間に合いませんでした。さぞかし無念だったと思います。Marriage For All Japanが「パートナーとの結婚を望みながらも果たせず亡くなる人をこれ以上見送りたくありません」とツイートしていましたが、同じ思いの方、本当にたくさんいらっしゃると思います。
 
 いつか青森でパートナーシップ制度が認められ、日本で同性婚が認められ、同性婚を求める闘いが婦人参政権運動などと同じように重要な意義を持つ社会運動であったと認められる時代が訪れたとき、翔子さんは青森が生んだ偉大な活動家として讃えられるにちがいありません(サンフランシスコにおけるハーヴェイ・ミルクのように)。そうあってほしいし、そうなるように、私たちが彼女の偉業を語り継いでいかなければならないと思います。
 
 


 最後に、個人的な謝辞を述べさせてください。
 今日、訃報を聞いて、いつかこの日が来ることは覚悟していたとはいえ、悲しみが洪水のように押し寄せてくるのを禁じえませんでした。
 いつ翔子さんと知り合ったのか、記憶が定かではないのですが、たしか2000年代の「gaku-GAY-kai」がきっかけだったと思います。同郷のよしみということもあり、会えばお話するお友達という感じでした。
 私は2010年に父親を亡くしたのですが、2014年、お墓参りのために家族で弘前市から青森市に車で行き(運転したのは母親ですが)、ついでに駅前で「そらにじ」に立ち寄りました。翔子さんもおかっちさんも快く(ちょっとクセが強い)私たち家族をもてなしてくれて、母親もたいそう喜んでいました。母親はその後、雪道で転んで手首を骨折するという事件をきっかけに、「もう青森で独りで暮らすのは無理だ」と言って上京してきたため(そして今は足が悪く、青森に行くことは困難なため)、家族水入らずで青森で過ごした思い出というのは、たぶんあれが最後です。「母親がこれこれこういう事情で東京に来ることになった」とメールしたら翔子さんは、たぶん何か勘違いしたと思うのですが、「お母さんとの最後の日々を精一杯あたたかなものにしてくださいね」と心からのいたわりのメッセージをくれました。本当に優しい人だなぁと思いました(そんな翔子さんががんになるなんて…本当に悲しかったです)
 高校卒業と同時に「石をもて追はるるごとく」な気持ちで故郷から逃げ出した私が、青森のパレードに参加して、故郷がこんなに希望の持てる場所に変わったのか(そういうふうに翔子さんたちが頑張ってくれたのか)…と胸がいっぱいになったことはレポートでお伝えした通りです。本当に感謝しています。その後、特に青森コミュニティに対して何かお役に立てるようなことはしておらず…いま、申し訳なさを感じています。これから何らかのかたちで恩返しをしていきたいです。
 翔子さん、本当にいろいろありがとうございました。心からご冥福をお祈りします。
 
(2021.9.30 後藤純一)

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