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【追悼】元東京プライド代表の門戸大輔さん

2026年07月02日

 2011年の東京プライド総会で代表に選ばれたものの、体調不良のため代表を辞任し、2012年夏に予定していたパレードを開催できなくなり、その後、LGBTQコミュニティからは距離を置きながら、関西で障がいを持つ方などが集うダンスカンパニーに参加するなどパフォーマンスアーティストとして活動してきた門戸(もんこ)大輔さんが、今年4月19日にがんで亡くなっていたことがわかりました。享年54歳でした。

 こちらにインタビューを掲載していますが、門戸大輔さんは2011年1月の東京プライド総会における選挙で代表に選ばれました。一人のゲイとして2001年からパレードに参加するようになった門戸さんは、東京プライドという組織ができてからはその会員になり、総会に出たりしていて、砂川秀樹さんが2010年にパレードを終えたあと沖縄に帰ると宣言してからは、砂川さんのもとで事務方のサポートをしたり、その仕事(一人でいろんな地味な作業をやっていたそうです)を手伝うようになりました。そして、砂川さんの後続の代表を決める選挙を行なうことになった際、悩みながらも代表選挙に出ることを決意したんだそうです。
 そうして代表になった後、会計も手作業だし、組織としてのいろんなインフラができていない(陰で誰かが無償でやってきたことがたくさんある)ことを踏まえ、2011年はそういうことの整備に充てたいとして、イベントを開催せず、翌年に東京プライドパレードを開催することにしました。
(他方、2011年5月に東京レインボープライドという団体が設立され、翌年のGWにパレードを開催することが発表され、設立説明会&公開ヒアリングも行なわれました。2012年GWに第1回東京レインボープライドが開催され、約4500人が参加しました)
 門戸代表は2012年8月に東京プライドパレードを開催することとしていましたが、その年の6月、体調不良のため代表を続けることが困難となり、パレードは中止となりました(その後、東京プライドの代表に選ばれたJaNP+の高久さんが、団体の後処理をしてくださいました)。その発表の後、パレードが開催されないことを残念に思った松浦慶太さんらが急遽、「緊急開催!Save the Pride!!」を開催することにしました(その時のスタッフの一人がのちに映画監督となる松岡弘明さんです)
 門戸さんは体調不良で代表を辞したあと、(実家のある京都に帰ったという話は伝え聞いていましたが)LGBTQコミュニティからは距離を置くようになっていました。
 
 
 14年の時を経て、この6月26日、毎日新聞の「医療的ケア児の母らがドラァグクイーンに 企画者他界、遺志継ぐ」という記事に門戸さんのことが載っていました。
 人工呼吸器の使用など医療的なケアが必要な子どもの母親らがドラァグクイーンに変身し、パフォーマンスを披露するイベント「ドゥーリアのボールルーム」が丸の内のアートセンター「BUG(バグ)」で開かれていて、このイベントの発案者こそが、「ダンスカンパニーのメンバーで、同性愛者(ゲイ)であることを公表していた門戸大輔さん」でした。
 記事によると、門戸さんは、若い頃から自身の病と向き合っていました。20代半ばで後腹膜悪性腫瘍と診断され、手術は成功したものの、健康の不安と隣り合わせの「ままならない体」となりました。東京で仕事をしながらパレードの活動にも携わったあと、京都に戻ってからは、身体表現などアート活動に力を入れていたそうです。5年ほど前にがんの再発が判明して以降、目が見えない人、耳が聞こえない人、車いすの利用者など、それぞれ異なる身体性、感覚を持つ人たちが集うダンスカンパニー「Mi-Mi-Bi(ミミビ)」のメンバーとして、「も/(MO)」の名で活動を続けました。
 「ドゥーリアのボールルーム」は門戸さんが「医療的ケア児の養育者が自己表現する場を」と発案、企画したもので、先天性の重い障害を持つ息子の母親の方がピンクノナースフクスキーという名のドラァグクイーンになってパフォーマンスしました。人工呼吸器による呼吸の管理や胃ろう、たんの吸引といった医療行為が不可欠な医療ケア児の養育者は、子どもの状態や気持ちを代弁すると同時に福祉、教育制度の不備や不足があれば意見を言える存在だが、苦悩や葛藤もあるため「自分を表現することが(養育者の)ケアになる」と、「多様な生き方や性の在り方を発信するメッセンジャーでもある」ドラァグがその手助けになると、門戸さんは考えたそうです。
 しかし、この素敵な企画を発案した門戸さん自身は、がんで4月19日に旅立ち、賛同した仲間やアート関係者らが遺志を継いで開催にこぎつけたんだそうです(こちらにも紹介していましたが、関根さんやエスムラルダさんが監修で参加していました)。ドラァグ監修をつとめたエスムラルダさんは「門戸さんは、私たちが共に生きるための居場所、新たな連帯の可能性を追求しようとした」と語っています。


 ここからは、私的なコメントとなりますことをご容赦ください。
 門戸さんと最初に会ったのは、エスムラルダさんに誘われて高円寺で開催されるperfumen(踊ってみたのアイドル的存在だった男子グループ)が出演するPerfumeイベントに行ったときです。阿佐ヶ谷駅で待ち合わせたのですが、床に座っていたのが印象的でした。いろいろ話してみると、とても真面目かつ気さくな人だとわかりました。アイカタさんと住んでいたお部屋にもおじゃましたことがあるのですが、目と鼻の先でびっくりしました。
 2010年、彼のパレードの活動に敬意を表して、という気持ちもあったと思うのですが、当時働いていた(このg-lad xxを作った)ゲイの旅行会社のアルバイトに誘い、2ヵ月ほど一緒に働いていました。その後、まさかの東京プライド代表に就任し、応援しようと思いました。しかし、残念ながら、ああいうことになってしまい…。
 その後、京都に帰ってから、彼がどういうふうに暮らしていたのか、よくわかりませんでした(メールの返事もなく、音信不通になっていました)。ですから、今回、彼がまさかこんなアーティストとして活動するようになっていたとは…と驚くとともに、亡くなっていたことも知り、少なからずショックを受け、悲しみを覚えました。
 東京にいた頃も、「ゲイとシングルマザーつながろう」という会を開いていたり、LGBTQの枠にこだわらず、いろんな人とつながり、支え合おうとすることに意義を見出す方でしたし、独自の感性や意識の高さを感じさせる方でした。
 願わくば、一度でいいから彼が主催するパレードに参加してみたかったです。
 心からご冥福をお祈りします。

(後藤純一)

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