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虹色のトラックに込めたゲイとしての思い――世界的な書道家、Maaya Wakasugiさんへのインタビュー

「あなたはひとりじゃない」と書かれたレインボーカラーのトラック「虹トラ岡山」。その車体の「虹」の字を書いたのは世界的に活躍する書道家、Maaya Wakasugiさんです。今回、ゲイとしてのライフヒストリーからドラァグクイーン・書道家としての人生、虹トラに込めた思いまで、いろんなお話をお聞きしました。

虹色のトラックに込めたゲイとしての思い――世界的な書道家、Maaya Wakasugiさんへのインタビュー

 「あなたはひとりじゃない」と書かれたレインボーカラーのトラックがお披露目、これから5年間全国を走りますというニュースでお伝えした「虹トラ岡山」。岡山初のプライドパレードの開催を記念した企画で、地元の運送会社さんが快く承諾してくれたものです。この虹トラの車体に描かれた「虹」の字を書いたのが、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の題字を手がけたことでも知られる世界的な書道家で、現在フランスを拠点に活躍しているMaaya Wakasugiさんです。(コロナ禍で11月末に延期になってしまったのですが)9月に開催予定だった岡山のパレードや、様々なお仕事のために一時帰国していたMaayaさんに、ゲイとしてのライフヒストリーから、ドラァグクイーン・書道家としての人生、そして虹トラに込めた思いまで、たっぷりとインタビューさせていただきました。

 ちょいちょい笑いをはさみながらお話してくださるMaayaさん。人柄の良さがにじみ出る、本当に素敵な方で、こういう方だからこそ世界的に成功したんだろうなと思いました。当日、「写真を撮らせてください」とお願いしたら、「井の頭公園の弁財天に行きましょう」と、「帰国したら必ずお参りしてるんです」とおっしゃって、Maayaさんが弁天様だけでなくその周りに祀られている小さなお地蔵さんたちにも一つひとつ手を合わせている姿を見て、なんと徳の高い方だろうと感じ入りました。
(聞き手:後藤純一)



――今日はお忙しいなかお時間を作ってくださり、ありがとうございます。プロフィールを拝見しましたが、Maayaさんは岡山生まれで東京育ちなんですね?

そうなんです。生まれが岡山県玉野市で、瀬戸内の、高松や直島や豊島とかの入り口にあたるところ。2歳の時に両親の転勤で東京に来たんですが、夏休みは毎年、祖父母や親戚たちが住んでる岡山に行ってて。川で魚を釣ったり捕まえたり、山や海にも連れて行ってもらって。自然に触れられる素晴らしい経験でしたね。帰る頃、二学期のスタート時にはすっかり岡山弁になってました。

――へええ。じゃあ岡山にはとても愛着というか、愛郷心があるんですね。

海も山も本当にきれいですし。祖父母の家の庭になってる桃を食べたり。トマトときゅうりがおやつ、みたいな。東京にいたら、魚を捕まえるということはないじゃないですか。

――そうですよね。育ったのは東京で…ゲイだということに気づいたのはいつ頃ですか?

僕は生まれつき、ゲイであることは神様からいただいたギフトだと思っているんです。自覚したのは小学校1年のとき。好きな男の子がいて、一緒にプールに行きたくて、アイスで釣ったりしてました(笑)。東京の家では、近所に女の子しかいなくて、率先して女の子の輪に入って。なので女の子の遊びしか知らなかった。

――ゴム跳びとか?

そうそう。野球のルールがわからなくて、初めて野球をやった時、三塁に走って、ものすごくバカにされて、それからやらなくなりました。

――たぶん小学校の時とか、"おかま"って言われたりいじめられたりする方、多いんじゃないかと思いますが、どうでした?

中2のときに過酷ないじめがありました。仲間内でよく罰ゲームで1枚ずつ服脱ぐとかあるじゃないですか、バレーボールでボールが落ちたら脱ぐとか。パンツ一丁でグラウンド走らせるとか。からかいの標的にされて。黒板にも「そういう」言葉を書かれたり。たぶん女の子の友達が多かったから、やっかみもあったと思うんです。生意気だったし。モテてるわけじゃないんだけどね(笑)

――わかります。結構そういう方、多いと思います。

いじめられたけど、登校拒否はしたくなくて。一回休んだら二度と行けなくなる気がしたから。母親も「見返しなさい」と言う人で。それで、担任の先生じゃなくて、学年主任に相談したんです。「先生は君のことを守るし、助けるし、でも、君自身が立ち向かわないと」と励ましてくれて。中3のクラス替えのタイミングで、彼らと離れるように気を遣ってもらえて。階も変わって、顔を合わせなくて済むようになりました。


――距離を置くことができたんですね。

その先生は恩人ですね。今だから笑って話せるけど、当時は大変でした。

――つらい経験をされたんですね…。高校のとき、初めて書道の個展を開いたそうですが、そのきっかけを教えてください。

書道自体は6歳のときからやっていて、高校の選択の授業で書道を選択したら、たまたま非常勤で来られていたのが、世界的な赤塚暁月先生で。最初の授業でスカウトされて、浜田山に稽古に通うことになって。高1で書道展に作品を出したら、賞をいただいたりするようになって。最初は古典臨書っていう、大家の方の書を真似て書くことをやっていて。でも、「もう一枚、好きな作品を書いていいよ」と言われて。いきなりそう言われても何を書いたらいいんだろう…と思って、好きな人の名前の一文字を書いたりして。そうこうするうちに作品が溜まっていく。高3のときに、自分で個展をやってみたいと思い立って、ポートフォリオブックを持ってギャラリーに掛け合って、夏休みにやれることになったんです。なぜ個展をやろうと思ったかというと、書道展に来る人って基本的には書道をやってる人しかいなくて、閉鎖的な世界という印象が強くて。こんなに楽しいのに、って。もっといろんな人に見てほしいっていう気持ちでした。

――なるほど。通りすがりの人がふらっと立ち寄るという感じではないんですね。

僕も抱えてるものを吐き出して表現したいという気持ちもありました。「虹」という字を書いて発表しようと思いました。

――虹が性的マイノリティの象徴だということをそのときから知ってたんですね。

実は中1の11月からゲイ雑誌を購読していて、情報は仕入れていた。けど、意味がわからなくて。「ノンケ」とか、「アナル」とか。「それ持ってるかしら私?」みたいな(笑)。辞書にも書いてないから。誰にも聞けないし。ちょうどその頃、『バディ』でも連載してた北丸雄二さんが『エスクァイア』に記事を書いてて、ちょこっとそういう情報が雑誌に載ってたのをスクラップしてたりもして。

――へええ。二丁目とかにも行ってたんですか?

聖地があるのはわかったけど、18歳になるまでは行っちゃいけないと思ってた。怖いイメージもあって。で、18歳になって、初めて行ってみたんだけど、どうしてもたどり着かなかった。魔界というか…

――結界が張られていた?(笑)

そうそう。見当たらない!みたいな(笑)。その後、雑誌の文通欄で知り合ったお兄さんと伊勢丹の屋上で待ち合わせて、連れてってもらったんですが、真っ直ぐに行けばよかったのに、変に遠回りしてたことがわかって。仲通りじゃなくて、丸正あたりの道に入ってたみたい(編注:ちょっと前まで「まるえい」で今はスギ薬局になってる場所が、昔は「丸正」というスーパーで、二丁目のみなさんがよく買い物してました)

――書道の話に戻ると、ゲイで書道を極める人って、そうそういないと思うんですね。音楽とか美術に比べると書道って古式ゆかしい、どちらかというと保守的な世界というイメージで。ドラァグクイーンをやってたくらいゲイゲイしいMaayaさんがそういう書道の世界を選んだのがどことなく意外で…書道を極めることの面白さとか、ポイントを教えていただければ。

書道はみんなのものだと思っていて。紙と筆があれば誰でも書ける。毛筆の筆でその人の心模様を書ける芸術って面白いし、恐ろしいし、いろんな可能性があると思うんです。漢字は中国から来たものですが、独自の変遷があって、日本には平仮名やカタカナもありますし「日本の心」みたいなところもありますよね。

――なるほど。その後、ドラァグクイーンであり書道家であるアーティストとして有名になっていきましたね。

高3のときに赤塚先生が「お稽古は終了です。やめてください」っておっしゃって。初めは、嫌われた?と思って。 

――破門です!みたいな(笑)

「私の字がうつっちゃうから。もうやめなさい」とおっしゃって。で、男の先生に鍛えられるのがいい経験になるとアドバイスをくださって。それで書の名門である大東文化大学の中国文学科に。実は一浪していて、そのときにドラァグクイーンに目覚めたんです。

――ほうほう。そこを詳しく。

ちょうど吉祥寺駅の近くのバーに出入りしていたんですけど、イベントで「化け」たら、拍手喝采をいただいて。ちょうどその頃『プリシラ』が上映されて、ゲイパレードもあって。マーガレットさんとかを目の前で見て。「これだ!」と思って。気がついたら自分でドラァグしてクラブに遊びに行ったり、気がついたら新宿の「Delight」や「CODE」のイベントなどのホステスに抜擢されたり。「四天王」(編注:マーガレットさん、ホッシーさん、オナンさん、クリスティーヌ・ダイコ☆さん)にもかわいがっていただいて。ほぼ同期にバビ江さんとかバブリーナさんがいらっしゃいますね。

――クラブでドラァグクイーンとして活躍しつつ、大学に受かって、書道の勉強も?

そうですね。大学に進学して、書道の正統な団体に入って、師匠や先輩方にも大変可愛がっていただきました…。とてもカムアウトできる雰囲気じゃなかったですね。反動で女装してたかも。そのときは団体に所属しながら書道家になることは現実的ではないと思ってました。

――「昼の顔と夜の顔」的な。

でも「書道クイーン」が『FRIDAY』に載っちゃって、噂になりましたよね。「莫山先生もビックリ。踊る書道家の実力」って見出しで。学校に広まって「誰だ?」って騒がれて。

――以前ネットの記事で、ドラァグクイーンの書道家として表参道でパフォーマンスしてて、見てる方が号泣したという話を読んだことがあります。

浪人生の時に、友達とイベントやっていて、女装でパフォーマンスして、最後にかつらをとって、髪の毛に…当時は髪の毛があったんです(笑)、髪の毛に墨汁をつけて書くということをやってました。究極のギャグかもしれないんですけど、本気でやってたので、みなさんよく泣いていました。拍手喝采を浴びました。あのスポットライトが忘れられなくて…。

――素晴らしい。ちなみに当時は「Maaya Sho」という芸名で、一貫してMaayaを名乗っていると思うのですが、その名前の由来は?

小学校3年生の頃からマーヤって呼ばれてたんです。手紙も「マーヤ」で来るから郵便局の人もそれで憶えてたくらい。

――「みつばちマーヤ」とかもそうですけど、マーヤって女の子の名前ですよね。

周りにもバレバレだったんでしょうね。隠す気もなかったですし。でも、ひどいいじめを経て、TPOはわきまえるようになって。大学のお堅い先生の前では「オッス」みたいな感じで。オッスって言いながら横座りしてたかもしれない(笑)

――(笑)大学卒業後は、ヘアメイクのお仕事とか、飲食店で働いたりとかもしつつ、ほぼ毎年個展を開催していて。最終的には書道家の道に進むようになったんですね。

「人生、無駄ってないから」ってみなさんよくおっしゃると思います。培ってきた経験を背負って、その瞬間に賭けるんです。

――「人生の真髄」的なお言葉をいただいた気がします。フランスに移住することを決意したきっかけを教えてください。

8年前、フランスのボルドーという街に行くことに決めました。きっかけは、パリとベルリンに営業に行ってたときに、セーヌ川のほとりを歩いてて、ふと「人生の最後がフランスでもいいかな」と思ったんです。

――素敵です。

まさかこの年でフランス語を一から勉強するなんて、っていう大変さはありましたけど、作品がコミュニケーションしてくれて。フランスでは、どこにいても大事にしてくれる。芸術家へのリスペクトがハンパない。シャッターがガラガラって上がる感じ。アーティストは花の都ことフランスのパリへ行くと良い刺激がもらえるかもしれませんね。

――たとえ漢字の意味がわからなくても、書をアートとして評価してくれるんですね。

評価してくれるし、買ってくれる。ボルドーが守ってくれる。パリとボルドーの間の新幹線が、以前は3時間半かかってたのが2時間で結ばれることになったっていうプロモーションのビデオに抜擢されて。ダンサーとミュージシャンとMaaya(笑)。なぜアジア人が?って感じですけど。推薦してくれる人がいたんです、ありがたいことに。とある出版社の社長さんが、「ボルドーで大変かもしれないけど、町の名士が君のことをずっと見てるから、毎日手を抜かず、芸術を続けることが秘訣だよ」と教えてくださって、本当にそうで。今はパートナーというお守りもあって、日々、自分の作品に向き合うことができて、本当に幸せです。最高。泣いちゃいそう。早く帰りたいって思います。

――本当によかったですね。フランスに行って、客観的に日本のLGBTQの状況を眺めてみて、気づいたことなどありますか?

ボルドーって想像以上に田舎でびっくりしました。で、毎日ゲイバーを探していました。行ってみたら、化石みたいなおじいちゃんしかいなかったり。それで友達に「いいゲイバーを知ってたら教えて」って相談してみたんです。そしたら、「ここはゲイが特別じゃないから、どこにでもいるのよ」って言われて、本当にびっくりしました。パリのマレ地区とか、サンフランシスコのカストロみたいな街がほしかったんですけど、それは自分の中で「特別扱い」してたんだな、と気づいて。ずっと同じゲイやマイノリティの人への励ましになればと思っていろんな活動をしてきたけど、ゲイを特別扱いしてほしいと思ったことは一度もなくて。今回は二丁目はまだ行ってないですけど、そういうハッピーで陽気(GAY)で楽しいエリアがあるのは望ましいかもしれないけど、もっとゲイが身近に暮らしてる所もあるんだってことをボルドーが教えてくれました。

――街全体がフレンドリーになれば、ゲイバーは必要なくなるということですね。ちょっと寂しい気もしますが…。パートナーさんがいるとおっしゃってましたが、出会いはどのように?

ボルドーのゲイバーです。化石みたいなお店じゃなくて、『Arty Farty』みたいな感じのストレートも混ざってるようなミックスのお店。彼は大学に勤めている生物学の研究者です。

――へええ。素敵ですね。ご結婚はされてるんですか?

実は彼とつきあいはじめたとき、「君の望みは何?」と聞かれて、「結婚というものがしてみたい」と言ったら、「申し訳ないけど、結婚がゴールだったらよそに行ってもらえる?」って言われて(笑)。してもしなくてもたいへん素晴らしい人なので、する必要がないと思って、今に至ります。

――彼はなぜ結婚したくないんでしょう?

紙で束縛っていうのがイヤみたい。おそらく。実は今回、彼も日本に来ることにしていて、日本の旅行を楽しみにしてたんです。でも、コロナの入国制限があって、家族じゃないと入国できないってことがわかって、「どうやら僕は日本に入れないみたいなんだ…」って3日前にがっかりした電話がかかってきて。失望しました…って感じで、意気消沈して。異性の夫婦だったら入国できたんですけどね。同性婚がまだ認められてないっていうのは寂しいこと。とある国の政治家がすごいいいことを…。

――ニュージーランドの国会議員ですね。

それです。明日やりが降ってくるわけじゃない。誰にも迷惑かからない。ゲイが誰かを襲うわけじゃない。別に特別扱いじゃない。 

――ホントそうですよね。


 
――日本でも同性婚を、ということにも関係するかと思いますが、岡山のパレードのことについてお聞きします。今回「虹トラ岡山」に作品提供することになったきっかけを教えてください。
 
『ももたろう岡山 虹の祭典(愛称:ももにじ岡山)』の実行委員のアルミさんが岡山在住で、同郷のよしみで声をかけてくださって。12mのトラックに、直筆ではないけど、思いを書いてくださいと、そのトラックが5年間日本中を走りますというお話で。トラックはすごいアイデアだと思いました。故郷の岡山に貢献できるならこんなにうれしいことはないと、二つ返事でお引き受けしました。そこで考えて、虹を書こうと思ったんですが、17歳から虹を書き続けていて、レインボーフラッグの生みの親であるギルバート・ベイカーさんも知っていて。彼が初めにデザインした8色のレインボーカラーが、岡山で初めて開催されるパレードにふさわしいと思ったんです。8色じゃないほうがいいという意見もあったんですが、ベイカーさんが最初のレインボーのデザインに込めた思いを尊重したかった。いつも虹色のフラッグが僕を励ましてくれたから。

――17歳から虹を書いてきたんですものね。性の多様性のシンボル。そこに思いがあった。

17歳の個展の目玉でした。奇跡。ミラクル。いつも奇跡が起きてほしいと思い続けてきた。今回、虹トラのことがテレビのニュースで流れました。フランスに行く前に両親にカミングアウトしたんですけど、虹トラのニュースを見た父が、「LGBTのLはね…」って説明してくれたんです。父親からLGBTって言葉が聞けただけでも正しく奇跡。母親の姉も大変コンサバな人なんですが、「派手なトラックが出てたけど、あなただったのね。素敵なトラックだね」そう言ってくれて。いちばん嬉しかったのは93歳のおばあちゃんと一緒にNHKのニュースを見ながら、「まーちゃんも映っとるわ。まぁ、ええなー。綺麗ね」って言ってくれたんです。その言葉を聞けてもう十分。みんながハッピーだから。これ以上何を望むんですか。岡山のことに関われて、感無量です。

――本当にいい話ですね。ちょっと涙が…。ちなみにこのMaayaさんがお書きになった「虹」という字は…古代文字でしたっけ?

虹の古代文字ってアーチ型をしてて、両端に足がついたようなかたち。実は古代の人って、虹を見ては龍だと言ってたんですよね。で、僕は作品を書くとき、紙の下に、さらに大きな紙を敷くんですが、これは、虹を書いたときに…

――左右のはみ出した部分がカットされて、この原画になってるわけですね。なるほど。

そうそう。「何これ、うなぎ?」みたいな(笑)。みなさん、たぶん何か言いたげなのにだまって呑み込んで、「虹なんですね」っておっしゃる(笑)。虹の色って、いろいろあって、色の違いやグラデーションが美しさにつながるところもある。書家としては、墨のにじみとかすれ、色を無限に感じてもらいたいという気持ちもある。悩んだのですが、最初から8色で書くのではなく、8本の筆を束ねて墨で書きました。

――もし8色で書いたとしたら、色が混ざってしまって美しくはならなかったかもしれないですね…。

あとでデザイナーさんに8色で彩色していただいて。結果的にこれでよかったと思っています。

――結果、とても素晴らしい仕上がりになりましたね。では最後に、日本のLGBTQのみなさんにメッセージをお願いします。

偉そうなことは言えませんけど、僕が、もし中2でいじめられていたときに、この虹のトラックを見たとしたら、きっと勇気をもらえたと思うんですね。今もきっと悩んでる方は多いと思いますが、もし「ひとりじゃない」と思っていただけたとしたら、本当にうれしいです。感無量です。

――中学でいじめを経験して、17歳のときに奇跡を願って「虹」という字を書いて。そのときからの思いが、この虹トラへとつながってるんですね。



やってることは17歳からずっと変わってない。変わったのは髪の毛がなくなったことくらいです(笑)

――(笑)今日は本当にいいお話を聞かせていただきました。ありがとうございました。


Maaya Wakasugi Official site
https://www.maayamaaya.com/

ももたろう岡山 虹の祭典(ももにじ岡山)
https://twitter.com/2020okayama

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