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NYでモデルとして活躍する柳喬之さんへのインタビュー

NYでカミングアウトしてモデルとして活躍する柳喬之さんにインタビューをお願いすることができました。ゲイであることで生きづらさを感じることのない国で暮らしたい、世界に羽ばたきたいという夢を持つ方にとっても、きっと有意義な、希望が持てるようなお話になったかと思います。ぜひご覧ください。

NYでモデルとして活躍する柳喬之さんへのインタビュー

先日、NYでモデルとして活躍する柳喬之さんが、ゲイとして地元紙でフィーチャーされたというニュースをお伝えしました。今回、南日本新聞の記事で柳さんのことを知り、NYでセクシュアリティをオープンにしながらモデルとして活躍する方がいるなんて!と驚き、素晴らしいと感じ、もっと詳しくお話をお聞きして日本のLGBTQコミュニティに伝えたいと思い、ダメモトで柳喬之さんにインタビューをお願いしたところ、快く引き受けてくださいました(なんと優しい!)。LAでのお仕事の合間にお時間をつくっていただき、zoomでお話をお聞きしたのですが、とても気さくな方で、ますます好感が持てました。ライフヒストリーから日本での俳優時代、NYでの生活、そして日本の皆さんへのメッセージまで、いろいろお聞きしています。日本で閉塞感を感じていて、海外で暮らしたいと思っている方、何かの分野で世界に羽ばたきたいという夢を持っている方などにとってもきっと有意義な、希望が持てるようなお話だと思います。
(聞き手:後藤純一)(お写真は柳喬之さんのSNSからお借りしています)
 

――柳さんはLA出身だそうですが、ご両親がLAにいらして、LAで生まれて、5歳の時にご両親と一緒に日本(鹿児島)に来たということでしょうか?

 そうですね。父親がもともとLAで育った人で、母は鹿児島出身で。5歳までLAにいて、それから日本の鹿児島に移り住みました。
 
――そういう意味では、もともとバイリンガル?

 5歳までなので、カタコトくらいですね。そんなには記憶になくて。ただアメリカへの親しみはずっと感じていました。
 
――懐かしさというか、愛着を感じていたと。まだ小学校に上がる前なので、「帰国子女」として特別扱いされたりいじめられたりとかは特になかった?

 ないですね。僕はもともと目立ちたがりなので、珍しがられるのを楽しんでいました。
 
――186cmという高身長を活かし、バスケットの選手として活躍されていたそうですが、同時に、子どもの頃から芸能界への憧れを抱いていたんですね? 椎名林檎さんが好きだったとか。
 
 音楽が好きで、椎名林檎さんとか宇多田ヒカルさん、安室奈美恵さん、あゆ、aikoさん…洋楽邦楽問わず、女性歌手が好きでしたね。でも、鹿児島にいたので、遠い世界のことのような…夢というか、憧れていた感じですね。
 
――南日本新聞の記事によると、セクシュアリティの葛藤があったのは大学時代というふうに読めますが、思春期の頃から自覚があったりしました?
 
 たぶんずっとそうだったと思います。小学校のときに「女の子っぽい」って言われることがすごく嫌で。「柳くんってオネエみたいだよね」と言われて「違う!」ってブチキレたり。男らしく自分をコーティングして。部活でも男らしさをすごく自分なりに表現してましたし、女の子とも付き合ってました。葛藤が生まれてきたのは高校時代です。携帯を持つようになって。携帯って情報を調べられるじゃないですか。そこで「ゲイ」という概念があることを知って。でも、その「ゲイ」という単語を検索に入れることすらためらっていました。「扉を開けてしまう」んじゃないかって。自分にも嘘をついてたし、そうじゃないって言い聞かせていました。背徳感というか、後ろめたさ。恐ろしいと感じていて。 
 
――わかります…。偏見かもしれませんが、鹿児島はどちらかというと保守的で、男尊女卑な風土だったのではないかと思います。そういう土地で育ったこともあって、ゲイであるということをとても周囲に言えない雰囲気だったのではないかと想像します。
 
 他県のことはよくわからないですが、セクシュアリティに関して話せる相手もいなかったですし、相談できる大人もいなくて、受容できる環境がなかった。周りもみんな男くさい人ばかりで。

――そんななか、大学時代にモデルのお仕事を始めて、卒業して東京に出て俳優の道に進みました。都会で少しは生きやすさを感じられるようになったのでは?
 
 逆でした。東京って寛容なイメージもあったし、東京に行けば楽になる、自由になれると思って行ったのに、誰にも話せず…。母親にもカミングアウトしてて、友達にも言っていたんですが、芸能事務所に入って俳優のお仕事をするようになって、言えなくなってしまった。とある人に「現場では絶対言うな」と、「そんなこと言ったら俳優の仕事はできなくなる、二丁目で働くしかなくなるよ」と言われて…。そこからは苦悩の連続でした。
 
――そうでしたか…。『仮面ライダーゴースト』への出演などで俳優として活躍するようになった一方、ゲイだと言うなと釘を刺されてしまったんですね。南日本新聞の記事でも「人知れず苦しみ、撮影現場でも隠すことばかり考え、感情がなくなっていった」と書かれていました。

 人に心を開けないんですよね。心が死んでいった。仕事はあったけど、デートもできないし、自分を犠牲にしていると感じていました。日本の俳優って恋愛ものが多いんですが、役者として男女の恋愛がわからない、表現できないっていうのも痛手で。恋愛して人生経験を積んでる子たちに勝てないんですよね。真実味がやっぱり違うので。そういう意味で、キャリア的にも頭打ち状態になって。
 
――そんなときにANAのCMのお仕事でNYに行き、LGBTQのスタッフが自然と受け容れられている様を見て、感銘を受けたそうですね。
 
 日本でも、スタッフでたまにゲイの方とかいらっしゃいますが、言わなかったり隠したりしてて、周りの人が詮索したり、「こっち系?」みたいな噂をしてました。でもアメリカの人たちはプライベートのことをセンシティブなこととして尊重します。NYは特にそう。現場でそういう人がいても全く気にしないし、いじったりしない。ただ自然にそこにいた、特別じゃなかったというのがとても素晴らしくて。日本とは違うと感じました。NYの街中でも手をつないで歩いてるゲイカップルもたくさん見て、そういうオープンな土地柄に憧れましたね。俺たちは特別じゃない、ただ男性が好きなだけっていう。アンダーグラウンドじゃないっていう感覚。
  
――そういうNYに憧れて、2018年、柳さんはそれまでの日本でのキャリアを捨て、単身アメリカに渡りました。きっと、希望と不安が入り混じった気持ちだったのでは?と思います。

 日本の芸能界に嫌気がさしてしまって。実力主義じゃなくて、事務所の力関係で仕事が決まったりする。そんなことに振り回されて自分の時間を無駄にしたくないという気持ちもありました。NYに行こう、実力で勝負しようと決めて。決めてからは早くて、数ヶ月で行きました。きっとなんとかなるという気持ちで。それでも、事務所を辞めるときは泣きましたね…マネージャーが背中を押してくれて、うれしかったです。

――そうでしたか…。NYではウェイターをして生計を立てながら、ご自身の写真を現地事務所などに送っていたところ、マネージャーがついて、モデルとして事務所に所属し、お仕事をいただけるようになり、ユニクロ、ナイキ、フィラ、リーボック、アバクロなどそうそうたるブランドのモデルとして活躍するように。本当によかったですね。
 
 全くのゼロの状態で、27歳で、夢いっぱいだったんですが、着いてから「どうしよう…」っていう。絶望でしたね(笑)。英語もそんなにしゃべれなかったので、ウェイターをしながら勉強した感じです。たくさんトラブルもありました。自分では決して成功したとは思っていないんですが、南日本新聞さんが「割とスムーズにいってますよね」と言ってくださって、そうなのかな、と。確かに恵まれてるんだろうなと思います。
 
――私も2019年にNYに行って、こんな街で暮らせたらどんなに素敵だろうと思いましたが、おそらく若いゲイの方なども、NYに暮らしてモデルとして活躍する柳さんのサクセスストーリーに憧れる方が大勢いらっしゃると思うんです。アメリカで成功する秘訣やポイントなどあれば、ぜひ教えてください。

 アメリカって、しかもNYって本当にモデルの競争率がとんでもなく激しくて。マネキンみたいに美しい人たちがたくさんいるなかで、勝たないといけない。事務所が決まってからも数ヶ月間はオーディションに受からなくて。髪型を変えたり、試行錯誤してたんですが、たぶんいちばん効いたのは筋トレを始めたことですね。求められるイメージに合ったのか、スポーツ系ブランドのお仕事をいただけるようになって。あとは、実直にまじめに仕事をするということが信頼につながったと思います。アメリカ人は仕事の相手にもフランクに接したりするわけですが、自分はそういうふうには振る舞えないし、日本と同じで、遅刻しないとか、敬意を持って接するとか、職人気質で仕事はきっちりやるということを心がけていました。

――実力を伸ばしつつ、まじめに仕事をするという、王道のことをきちんと続けた結果なんですね。アメリカでは、きっとのびのびとゲイでいられるというか、周りの人にカミングアウトしても自然に受け容れられてきたのではないかと思いますが、いかがでしょう?
 
 みんなプライベートのことは特別聞かないんですよ。特に体型や出自や性的指向に関わることに触れるのはタブー。絶対に口にしない。でも、英語って、デートをしたのが「him」なのか「her」なのか明確にしないといけないっていうところがあるので、「昨日男の子とデートして」と話すようになって。それでも誰も驚かないですよね。最初はビクビクしながらそういう話をしてたんですが、誰も気にしないです。ふつうに受け止める。日本だと笑いのネタとしていじられたり、あと「めんどくさい」って言われたこともあるんですが、全く立ち位置が違うと感じました。個を尊重する姿勢。

――履歴書でも年齢とか性別とかの項目がないと聞いたことがありますが、パブリックな場ではそういう事柄には触れないし、何か差別事案が発生したらクビになりかねないという社会なんですよね。日本との違いがよくわかりました。たぶんお仕事も安定して自信がついたし、また、ロックダウンの最中だったということも関係があるのかなと思いますが、2020年4月にYouTubeでカミングアウトしましたね。
 
 当時は、NYのパンデミックが本当に深刻で。冗談じゃなく、外に出れない状況。何かのゲームみたいな。外に出たら生き残れないっていう感覚。そんななかで、打ち明けずには死ねない、自由になりたいと、家族や友達だけじゃなく世界に言おうという気持ちになりました。自由になったもん勝ち。よし、やろうと思って、ビデオを撮って、それをアップするボタンを押す手が震えてましたね。
 
――勇気ある、偉大な一歩だったと思います。私もYouTubeを拝見させていただきましたが、「初めて自分の言葉で発信したいと思った」と。僕はこういう人です、よろしくね、という感じで。「知ってる人誰にも嘘つかなくていい、気が楽」「隠そうとして距離をとることが悲しかったけど、今後はそういうことをしなくてよい」「ポジティブに過ごせたら」と語っていらして、とてもいいお話でした。で、カミングアウトの中味として、ゲイではなく、ノンバイナリーという概念がしっくりくるとおっしゃっていました。サム・スミスとかジョナサン・ヴァン・ネスのように、ゲイに見えるけどノンバイナリーというアイデンティティを持つ方だと受けとめてよいでしょうか。

 こちらではheでもsheでもないtheyという代名詞が使われていて、自分もtheyが心地いい、しっくりくるなと感じて、名乗るようになりました。こちらのクライアントは、アンケートでプロナウン(代名詞)を確認するんですね。で、僕がtheyと記入したら、theyとして扱ってくれるんです。昨日、カメラマンのおじさんが、お昼に深刻そうな顔で「謝りたい」と言ってきて。「実はheを使ってしまっていました。すみません」と。

――へええ、すごい! 日本ではまずありえないことですね。

 もう一つ、日本で俳優をやっていたときのトラウマがあって。「ゲイ」や「オネエ」という言葉が自分の中でゴシップとセットになってる。「あいつ、ゲイらしいよ」「オネエ系だったりして?」みたいな。
 自分はカテゴライズにとらわれず、自分らしくありたいという気持ちが強くて、結果、theyを名乗ることになった。男らしさとか女らしさにとらわれなくていいよね、意識しなくていいよね、と。ただ、他の方にそれを押し付けるつもりはなくて。どっちに受け取っていただいてもいいですよ、と。
 
――素敵です。宇多田ヒカルさんもノンバイナリーの概念を知って「これだ」と思ったとおっしゃってましたが、今後、ノンバイナリーのアイデンティティを持つようになる方、増えるかもしれないですね。話は変わって、先日、地元の南日本新聞にSDGsや多様性という趣旨の記事で取り上げられました。鹿児島出身でNYで活躍するモデルという、ある意味、「県民の誇り」というニュアンスもあったかと思います。そのように地元紙でフィーチャーされたお気持ちは?
 
 うれしかったです。記事が載った後も、先生や友達からメールをもらって、メディアの力ってすごいなと思いました。新聞に載ってからYahoo!のニュースにもなり、反響もたくさんあって、フォロワーも増えました。記事を見て「応援します」という声も初めていただいて、うれしかったです。以前は、言ったところで世界が変わるわけじゃないし、意味があるのかな、と思ってた。でも、「勇気をもらえた」「元気が出た」と言ってもらえて、必要としてる人がいるんだってリアルにわかりましたし、自分の仕事の意味とか、顔を出して発信する意義が見出せるようになりました。
 日本で俳優をやっていたときは、自由になりたかったのに、なれない無力感に苛まれ、満たされない気持ちでした。今回、初めて、人の役に立てるという実感が得られて、自分の存在意義を見出すきっかけになりました。当事者の人にもそうじゃない人にも認知してもらえて、両者の架け橋のようになりたいという気持ちも生まれて。頑張ろうと思えました。
  
――本当によかったですね。鹿児島市では今年1月1日から同性パートナーシップ証明制度が実現しましたが、そのことについてコメントをお願いします。
 
 素晴らしいです。保守的と思われる鹿児島が、着実に前に進んでいることはうれしい。何より、今の子たちが悩まずにいられる社会に近づいたことがうれしいです。今後への期待。未来への、次の世代への希望になると思います。誇らしいです。
 
――南日本新聞の記事のなかで、10年後に日本に戻る頃には「誰もが個性を発揮でき、生きやすい社会になっていたら」と願っている、日本のみんなに「もっとわがままになってもいい」と伝えたい、と書かれていました。まだまだ日本では、地域や環境によって、本当の自分をオープンにしてPRIDEを持って生きることが難しいという方も多いのですが、そんな日本のLGBTQコミュニティのメンバーに何かメッセージをお願いします。
 
 カミングアウトすることは、誰の迷惑にもならないと思うんです。SNSへのコメントで、みんなすごくポジティブに、応援の言葉を書いてくださってうれしかったのですが、その中に1つだけ、「柳さんはよかったけど、ブランドさんはどうなんだろうね…」というコメントがあって。悪気はないだろうし、怒ってもいないのですが、そう言う背景には、日本でカミングアウトすると周りに迷惑がかかるんじゃないかと思ってしまう方がまだまだ多いということがあると思って。人に迷惑をかけないことが第一、という社会のありよう。和を重んじる。それはいいけど、本当の自分のセクシュアリティをオープンにすることは別に誰にも迷惑をかけないですよ、と言いたいです。言うなと強要することのほうがおかしいです。何も恥ずかしくない。恥でも、罪でもない。当たり前のことです。後ろめたさを感じてしまうのは、そう思わせる社会のせいなんです。そういう意味で「もっとわがままになってもいい」と言いたいですね。自分は自分だということ。受け入れない人のほうがfxxk!だってこと。そう思えるようになった自分はラッキーだと思っています。
 みなさんも多かれ少なかれそうだと思うのですが、子どもの頃から「他人と違う」ことで悩んで、周りに言えなかったり、つらい思いをしてきて、そういうなかで、優しさとか、他の人に配慮しながら生きていける人間になれたと思うんですね。それはラッキーなことだと思います。自信を持ちましょう。
 
――素敵なメッセージ、ありがとうございます。最後に、モデルとしての今後の目標などあれば、教えてください。

 カルバン・クラインのモデルになることかな。カルバン・クラインって本当に美しいモデルじゃないと出られない。最高峰。憧れがある。そこがゴールですね。

――いつか柳さんがカルバン・クラインの広告に出て、「夢が叶ったんですね、おめでとうございます!」とお伝えできる日が来ると信じます。これからも応援します。どうもありがとうございました。



柳喬之さんのYouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCXXA7xywM7trBlAI6Jpfs1A

Instagram
https://www.instagram.com/dvdtyng/

Twitter
https://twitter.com/dvdtyng

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