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REVIEW

ホモソーシャルとホモセクシュアル、同性愛嫌悪、女性嫌悪が複雑に絡み合った衝撃的な映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

『ピアノ・レッスン』のジェーン・カンピオンが監督し、『イミテーション・ゲーム』のベネディクト・カンバーバッチが再びゲイの役を演じ、ベネチアで銀獅子賞を受賞、ゴールデングローブで作品賞や監督賞を受賞、アカデミー賞も有力視される作品です。衝撃的な、凄い映画でした。

ホモソーシャルとホモセクシュアル、同性愛嫌悪、女性嫌悪が複雑に絡み合った衝撃的な映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』


※ここからは、物語の結末に触れる部分がありますので、ご注意ください。

 先に述べたように、カンバーバッチ演じるフィルは、過剰に"男らしさ"にこだわり、粗野で、風呂にも入らず、あからさまになよなよしているクィアなピーターをからかい、ひどい仕打ちをして、その母親であるローズをも泣かせてしまいます。端的に言ってクソ野郎です(GQ「最新作『パワー・オブ・ザ・ドッグ』でジェーン・カンピオンが問いかける真の強さとは?」のインタビューの中で監督もそう言っています)

 タイトルの『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は、聖書の詩篇「私の魂を剣から、私の命を犬の力から救い出して下さい」から取られていますが、「犬の力」とは(キリストを殺した)邪悪な人々を意味しており、フィルの放つ「Toxic Masculinity(有害な男らしさ)」こそが、この映画における「犬の力」であると見られます(ほとんどの観客はそのように見ることでしょう)
 
 フィルは一方で、弟であるジョージのことを兄弟として愛していて、二人は一緒にベッドで寝るくらい仲が良いです。牧場の荒くれカウボーイたちの面倒も見て、的確に指導しているカリスマ的な存在で、男たちから見れば、頼りがいのある兄貴です。
 冒頭で描かれているのは、男社会の典型的なホモソーシャル(女性を見下してモノのように扱い、ゲイを排除しながら、男たちの絆を強めていく、男社会にありがちな集団のありよう)です。彼らのような振る舞いは、世界中の軍隊で、職場で、刑務所や、ロッカールームで、今でも見られます。
 近年、こうしたホモソーシャルの「Toxic Masculinity」が、性犯罪や、女性蔑視や、同性愛者差別の温床になってきたとして、批判の声が高まっています。この映画も、女性であるカンピオン監督による「Toxic Masculinity」の告発だと見る向きもあるでしょう。
 
 しかし、そういうフィルが、牧場運営の指導者である亡くなったブロンコ・ヘンリーの鞍をピカピカに磨き、繊細で几帳面な一面も持ち、天才的なバンジョー弾きである(人に自慢したりはしないものの、音楽の才能を秘めている)こと、そして後半、名門イエール大学で古典を学んだほどのインテリであることも明かされます。
 フィルがたびたび讃えているブロンコ・ヘンリーという人物は、すでに亡くなっているのでどのような姿だったのかはわからないのですが(写真なども出てきません)、フィルにとっては、ただの指導者にとどまらない、並々ならぬ敬愛の対象であったこと、そしてフィルと彼とがどんな関係だったかということ(それこそ『ブロークバック・マウンテン』のような男たちの美しい愛だったということ)も明らかにされていきます。
 フィルはブロンコ・ヘンリーという男性とかつて愛し合っていて、今も彼のことを思い、彼に人生を捧げて生きているのです。名門大学卒のインテリとして都会での成功も約束されていたはずなのに、モンタナの田舎で埃にまみれてカウボーイとして暮らしているのは、ブロンコへの愛を貫くためだったのだと思います。
 
 粗野で荒々しく、女っぽい男子や女性をいじめるようなクソ野郎が(後半は態度を変え、ピーターの面倒をよく見ていますが)実はゲイだった…という展開に、観客の多くは困惑すると思います(ゲイの観客は嫌な気がするかもしれません)
 しかし、かつてジョン・エドガー・フーバーロイ・コーンが、自らが同性愛者であることを隠しながら、敵対するゲイを脅迫し、権勢を誇ったという米国の黒歴史が示すように、また、多くのクローゼットの議員たちが議会でLGBTQの権利を擁護する法案に反対してきたように(ドキュメンタリー映画『アウトレイジ』で実証されています)、自分がゲイだとバレないようにするために積極的に他のゲイたちを攻撃する人物が少なからず存在してきました。
 ピーターを真っ先に嘲笑し、ひどい仕打ちをしたフィルは、クローゼットにいるゲイがやりがちな攻撃をしていたと見ることができるかもしれません。
 


 ここからは、少し違った見方もできるのではないかという私の解釈を述べさせていただきます(監督も「本作を“女性目線の映画”と表すのはクリシェだと思います」と語っているように、観る人によって様々な解釈が可能な、様々な受け取り方があるような作品になっているはずです)
 フィルがひどいことをいろいろしているのは確かですが、彼だって悪魔ではなく、一人の人間です。その行動の背景には、決して周囲に「本当の自分」を見せることができない苦悩があり、誰にも言えない愛の真実がありました。彼の孤独や生きづらさや切実な実存に寄り添って考えてみると、「犬の力」の根源は同性愛を認めない社会(ホモフォビア)にこそあると思えてなりません。
 
 ピーターをからかったのは(どのみち誰かがからかったと思いますが)、小学校で男の子が好きな女の子をわざとからかったりして泣かせたりするのと同じ行動だったとは考えられないでしょうか。(私自身はアン・ハサウェイ似の美少年に対して1ミリも性的に惹かれないので、そのような可能性に全く思い至らなかったのですが)フィルが実は、初めからピーターにセクシャルな関心を抱いていたのではないかということに、終盤、気づきました。
 考えてみれば、古代ギリシアから始まって、日本でも伝統的に(貴族も僧侶も武士も)そうだったように、そして今でも中東などではそうだと聞きますが、年長者(念者)が美少年(若衆)を愛する、男臭いタイプの男がクィアな美少年とデキるというパターンが、古今東西、同性愛の王道です。ですから、フィルがピーターに惚れたとしても、なんら不思議ではありません。
 『glee』でカートをいじめていたカロフスキーがカートにキスし、実はカロフスキーもゲイだったと明らかになるシーンがありましたが、フィルの場合も同様で、もともと気があったから、あるいは、のびのびとゲイらしく振る舞えるピーターが羨ましかったからいじめてしまったのだと…。
 
 ローズへの仕打ちについては、フィルの女性嫌悪(ミソジニー)として片付けてしまう見方は一面的過ぎるのではないかと。原作文庫本の解説でもフィルは「一種の超人」と評されていますが、頭脳明晰で牧場の運営を滞りなく進め、あまつさえ音楽の才能にも秀でていたフィルにとって、弟のジョージが断りもなく連れて来た、何の取り柄もない、バーバンク家にふさわしいとも思えない(原作を読むと、それだけではない暗い因縁があることがわかるのですが)ローズという「嫁」を思わずいびってしまったのではないか…という「渡鬼」的な解釈もできるのではないかという気がします。怒鳴ったり暴力を振るったりではなく、自分がバンジョーを見事に弾いてみせてローズを絶望させるとか、結構ゲイテイストないびりに見えるのですが…。

 フィルは口が悪いし、いじめるし、いびるし、ひどい奴だけど、一度も、誰にも、直接は手を出していない、暴力を振るっていないということにはもっと注目が必要じゃないかと思います(西部劇には殴ったり暴れたり銃で撃ったりというシーンがつきものだと思いますが、それが一切ないのです)。俺の方がバンジョーうまいぜ、と見せつけるようなゲイっぽい嫁いびりはするけど、決して暴力は振るわないのです。
 
 しかも後半、クィアなピーターを男として仲間に迎え入れ、馬の乗り方を教え、カウボーイ教育を施し、あまつさえ、お手製の革のロープをプレゼントしようとします。職人気質の立派な親方に思えてきます(考えてみれば、日本の職人的な現場でも、親方が怒鳴ったりいびったりしながらも、新人を一人前に育てていくということ、ありますよね…もちろん今ではパワハラと呼ばれるわけですが…)

 原作にこういう一節があります。フィルの気が変わり、ピーターを仲間に迎え入れてカウボーイ教育を施すようになるきっかけとなったシーンです。
「少年はばかにされ、嘲笑されながらも、開け放たれたテントの前を無防備のまま堂々と通り過ぎていった、少年は、のけ者なのだ。だがフィルは知っていた。たしかに知っていた。のけ者になるとはどういうことかを。だから彼はこの世界を嫌っていた。もしかすると、世界のほうが先に彼を嫌ったのかもしれない」
  
 1920年代の中西部の山中の牧場で、いったい誰がカムアウトしてゲイとして生きていくことができたでしょうか。たとえ都会だろうと、モンタナの牧場だろうと、ゲイがゲイとして生きることは極めて困難な時代でした(1960年代のイニスとジャックすらゲイとして生きられなかったのですから)
 であれば、四六時中「結婚しないのですか?」と聞かれ、妻帯しなければ人間扱いされないような都会の社交界で、仕方なく女性と偽装結婚して生きるより、自分が経営する牧場で、風呂にも入らない粗野な男(変わり者)であるがゆえに結婚もできないのだと周囲に思わせながら、(密かに、かつて愛したブロンコに人生を奉じながら)独身を貫いて生きるほうがどれだけ楽か、ということ。そして、荒くれ男たちを率いて生活する以上、自分自身が尊敬される男たらねばならない、そのためには”男らしさ”を常に鎧のように身に纏っていなければならなかったのではなかったか。大自然のなかで、過酷な肉体労働や地道な職人技を要求され、一歩判断を誤れば牛を死なせ、自分たちの生活も危うくさせてしまうカウボーイの社会においては、”男らしさ”は職業倫理のような意味もあったでしょう。
 ただその”男らしさ”の中に「有害な」ものが含まれているということは、当時の男たちは(ゲイも含めて)誰一人気づけなかったのです…。


 
 さらにここからは、物語の結末に触れ、重要な謎について考えながら、この物語がゲイにとってどういう意味を持つのかということについて掘り下げてみたいと思います。
 
 衝撃的なことに(用意周到に伏線を張りながらのこの結末が、この作品を犯罪小説として非凡なものにしています)、ピーターは、おそらくは母・ローズと結託してフィルを死に追いやります(ローズが熱に浮かされたように、ネイティブアメリカンの親子に干した皮を持って行かせるのは、犯行計画のシナリオです)。それは、さんざん母子をいじめてきたフィルへの復讐であり、「有害な男らしさ」という邪悪な「犬の力」への落とし前です。
 観客(特に女性)のなかには、恐ろしい殺人犯であるピーターのほうに感情移入し(なにしろ見た目が美形ですし)、あのクソ野郎が死んでくれて本当に良かった、スッキリした、とカタルシスすら覚える方もいるかもしれません。
 
 しかし、「めでたしめでたし」なんかではありません。事は計画殺人です。たとえどんなに嫌な人間であったとしても、命を奪われていいはずがありません。しかもピーターは、後半はずいぶん面倒を見てくれた優しいフィルを、裏切って、殺してしまうのです。虫も殺せないような顔をして、ピーターのほうが恐ろしい人間なのです(そういえば、何の躊躇もなくウサギの首を絞めたり、解剖したりするシーンもありましたね)。サイコバスと言っても過言ではないと思います。
 
 もし、ピーターが、ゲイに見えるけど、そうではなく異性愛者だったとしたら、どうでしょうか。ゲイに見える美青年が、クローゼット・ゲイを誘惑し、殺害してしまうわけで、これは由々しき事態です。(たとえいじめられたという恨みはあるにせよ)ホモフォビアに基づくヘイトクライムまがいの殺人事件だとすら言えるのではないでしょうか。傷つけることはしたけれども、ただの一度も暴力を振るっていない、罪に問われることは何もしていないにもかかわらず(しかも、ずいぶん面倒も見てあげていたにもかかわらず)、殺されてしまった哀れなフィル…。ラストシーンのジョージとローズの幸せそうな姿と、それを微笑みながら見つめるピーターの姿は、"まともな"異性愛家族が"異常な"同性愛者を排除したことの象徴とすら受け取れます。こんな結末に喝采を贈る観客がいるとしたら…悪い冗談のようです。「犬の力」はどっちだ?という話です。

 そこで、ピーターが見た目通りゲイだったのか、それとも本当はノンケだったのか?という謎を解くことが重要になってきます(映画では明らかにされていません。気になって原作を読んでみたのですが、やはりわかりませんでした)
 これについて、2つの視点から考えてみました。
 まず、フィルは昔、ブロンコ・ヘンリーとともに遠くの山を眺めていたとき、山肌が犬の顔のように見えたということを大切な思い出としているのですが、ピーターが一瞬で犬の顔に見えると言ったときに、フィルは驚き、明らかにピーターを見る目が変わりました。そのシーンが何を意味するのかというと、おそらく「ゲイにとっては、あの遠くの山が犬の顔に見える」という印として機能しているのです。フィルはブロンコ・ヘンリー以来、初めて「同志」に出会い、だからこそ見る目が変わったのだと解釈できます。
 もう一つは、この映画の原作を書いた作者です。トマス・サヴェージというゲイの作家が1967年に発表した『パワー・オブ・ザ・ドッグ』という小説で、トマスの母親もアルコール依存症だったりして、多分に自伝的要素が反映された作品です。この小説のピーターは、トマス自身がモデルになっているキャラクターと見ることができますので、やはりゲイなのではないかと(とはいえ、作家と作品は別物ですが…)
 以上から、おそらくピーターはゲイだったのであろうと推測されます。しかし、確証はありません。 

 もしピーターがゲイだとしても、同じゲイであるフィルを殺したことになります。ゲイのゲイ殺し…それはそれで、恐ろしいことです。本当に嫌な気持ちにさせられます。

 
 ゲイにとっては、こんなにも後味が悪く、苦々しく、忸怩たる思いを抱かせる作品が、ベネチアで銀獅子賞を受賞し、ゴールデングローブで作品賞や監督賞を受賞、そしてアカデミー賞で最多ノミネートを果たし(作品賞や監督賞、主演男優賞あたり、本命視されているのではないでしょうか)、世界的に評価され、注目を集めているということを、僕らはどのように受け止めたらよいのでしょうか…。『ブロークバック・マウンテン』とはわけが違うのです。
 みんながもっと、フィルもまた時代の犠牲者であるということ、その人格形成の背後にある世間のホモフォビアや、ゲイをクローゼットに押し込め、人間性を歪ませてしまう「犬の力」に気づいてくれるとよいのですが…。

 ある人にとっては差別者であり、抑圧者である人間も、別の面から見るとマイノリティであり、差別される恐怖におののきながら生きているということ。一見弱者に見える人間が、実は恐ろしい力を持っているということ。ことほどさように人間社会は複雑であり、物事は決して一面的に捉えることはできないということ。この作品を観た方が、一筋縄ではいかない世の中の真理(不寛容の表れ方)に触れながら、クローゼット・ゲイの苦しみにも気づいてくれることを願うものです。

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