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映画『怪物』レビュー

カンヌで脚本賞とクィア・パルムを受賞したことで話題の映画『怪物』。受賞も納得の、とてもいい映画でした。観てよかったです。

映画『怪物』レビュー


※ここからは、物語の結末や映画の核心に触れる部分がありますので、ご注意ください。

 『怪物』という作品は、(『羅生門』のようだ、とよく言われていますが)最初に提示された物語が、別の人の視点で語り直されることによって、全く違う印象を与えるような構成になっています。一見、“暴力教師”、“モンスターペアレント”、“問題児”であるかのように見えた人々が、彼ら自身の立場に立って、彼ら自身の目線で物事を見ると、決して“怪物”ではなかったということがわかり、では一体、“怪物”とは誰のことなのか?と観客に問いかけ、考えさせるような作品なのです。

 湊が教室で暴れたり、先生に暴力を振るわれたと大げさに言ったり、走っている車から飛び降りたりという問題行動の、その理由は、同級生の依里くんへの恋心でした。大人たちは理解してくれるはずがない。だから、男の子を好きになってしまったということを周囲に悟られたくなくて、ああいう行動をしてしまったのです。先生もお母さんも、そのことを知らず、思いが及ばず、誤解してしまったのです。
 湊と依里くんが山奥の秘密基地のような所で過ごすシーンの愛らしさときたら…(坂本龍一さんの音楽も相まって)胸がキュンとなり、どうか二人が幸せになってくれますようにと祈らずにはいられないような、素晴らしいシーンでした。日本映画史上最高レベルの、男の子どうしの恋の名場面になったのではないでしょうか。
 そして、あの美しく、意味深なラストシーンです。いろんな解釈が成り立つと思います。湊と依里くんにとって、あの嵐の夜は「世界が生まれ変わる日」(「怒りの日」)であって、二人は「生まれ変わった世界」へと飛び出していったんだ…ということじゃないかと、多くの方は感じるのではないでしょうか。希望を感じさせながらも、二人のセリフによって、現実は変わっていないということも伝えられます。現実世界にいる観客に投げ返すように…。
 ジョン・キャメロン・ミッチェルが「クィアの人々、なじむことができない人々、あるいは世界に拒まれている全ての人々に力強い慰めを与え、そしてこの映画は命を救うことになるでしょう」と語っていますが、それは、単にファンタジーとしてゲイが受け容れられている世界を描くのではなく、苦しい現実からスタートしながら、男の子たちの同性愛を美しく、優しく描きながら、希望が感じられる終わり方につなげていた(現実社会と接続していた)からだと言えるでしょう。
 そういう意味で、この映画はカンヌで、最も優れたクィア映画だと満場一致で賞賛されたのです。

 是枝監督が「LGBTQに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話」「誰の心の中にでも芽生えるのでは」と語ったのもうなずけます。そもそも描きたかったこと、テーマが大きすぎて、決してLGBTQに特化していたわけではないですし、小学5年生の湊は、同性を好きになってしまったことを自分自身で否認したり、悩んだり、葛藤しているわけで、これは思春期の少年の内的葛藤の話にほかならず、誰もが経験しうる、身近でリアルなことだと思います。
 監督や製作スタッフのみなさんが、最大限のリスペクトや優しさをもって、二人の男の子の恋愛を描いていたことは、映画をご覧いただければよくわかります。
 
 是枝監督はこれまで、育児放棄された子どもたちが生きる姿を映した『誰も知らない』や、業田良家さんの漫画を映画化した『空気人形』や、新生児取り違え問題を題材に家族のありかたを描いた『そして父になる』など、社会的マイノリティや奇異な目で見られがちな人々、世間に見捨てられたり、取り残されたり、不条理な状況に置かれた人たちを描いた作品を多数、発表してきた方で、常にマイノリティや不遇な人々に寄り添ってきたと思います。当代随一の人気女優たちを起用した、眩しくも華やかな作品『海街diary』でさえ、複雑な家庭に生まれ育った腹違いの妹を家族として迎え入れようとする様を描いた作品でしたし、『万引き家族』は団地の中で凍える幼い女の子を家族に迎え入れる話でした。旧態依然とした社会規範や、窮屈な“道徳”や“常識”からはこぼれ落ちてしまうような人たちを社会に包摂しようとする是枝監督姿勢は、『怪物』にも通底していると思います。
 ですから、『怪物』は(予告編がちょっとセンセーショナリズムに走っていたきらいはあるものの)安易に同性愛を「ネタ」として扱うような作品では決してなく、クィア(同性愛的)な関係性を祝福し、希望や解放へとつなげる意志を持った作品だったということは確かだと思います。きっとご覧になった方はそう感じていただけるはず。
 
 「なぜ同性愛がこの社会で忌避され、同性愛者が差別を受けるのかということについての掘り下げや社会批判的な意識に欠けている」といった内容の批判も目にしましたが、「豚の脳」の元凶となる差別的な人物の行動は、あまりにも無垢で愛らしい依里くんと好対照をなしており(『チョコレートドーナツ』における蛇のような目の男とマルコたちとの対比のように)、観客に「ホモフォビア」というものを(「怪物」として、と言ってよいと思います)具体的にありありと伝え、わからせることに成功していると思います。それだけでも十分に意味があるのでは? それに、そもそもLGBTQを扱うすべての文学、演劇、映画が直截的に社会批判を行なう必要はないのではないでしょうか。芸術表現も自由や多様性を認められるべきです(差別を煽動したり偏見を助長したりするのでない限りは)
 ただ、ラストシーンを中心に、この作品をどう見るかという見方は一つに定まるわけではなく、さまざまな解釈が成り立ちうる作品ではありますので、多様な感想、多様な批判もありえるでしょう。
 できれば彼氏さんやお友達と観に行って、観終わったあとであーだこーだ話すのがよいと思います。
(文:後藤純一)



【追記】2024.3.15
 朝日新聞の「映画『怪物』クィアめぐる批判と是枝裕和監督の応答 3時間半の対話」という記事で、是枝監督が、この映画のプロモーションのありかたをめぐってLGBTQ目線で様々な批判を受けたことについて語っています。ぜひ読んでみてください。

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