g-lad xx

COLUMN

ゲイの世界におけるルッキズムとは?

昨今、世間でもゲイの世界でも取り沙汰されるようになった「ルッキズム」という言葉。なんとなく使われてはいるものの、きちんとした定義や、何が問題なのか、ゲイの世界で問題となるルッキズムってどういうことなのか、明確にスパッと答えられる方、あまり多くないと思います。今後ゲイコミュニティ内で議論が深まることを願いながら、その辺りをまとめてみました

ゲイの世界におけるルッキズムとは?

(2024年のバンコク・プライドのパレードに参加していたBearフロート。素敵でした)


一般的に、ルッキズムとは?


 ルッキズムとは「外見至上主義」などとも呼ばれ、外見に基づく差別や蔑視(見下し)を意味することもあります。
 ルッキズムという言葉は、1970年代アメリカのファット・アクセプタンス運動(肥満への社会的偏見の解消を目指す社会運動)のなかで初めて生まれたと言われています。日本ではここ数年で認知されるようになった言葉です。その背景には、メディアやSNSの影響で「ルッキズムの加速」が目に余るものになってきたから、ということがあります。
 
 多くの媒体で、世間の“美の規範”がもたらす強迫観念のせいで摂食障害に陥る女性の話や、就職に際して見た目で優劣がつけられるケース、ミスコンのことが引き合いに出されるように、特に外見上の差別に晒されてきたのは女性です。ルッキズムは性差別(セクシズム)と密接に関連しています(同様に、典型的な男性/女性に当てはまらないような人への差別やチャレンジドな人への差別、人種差別(レイシズム)、年齢差別(エイジズム)などとも密接に関連しています)
 しかし近年は、男性も美容に気配りする時代だ(そうじゃないと女性にモテない)と叫ばれ、脱毛やダイエットやAGA治療の広告が巷にあふれ、男性の“美の規範”が(企業論理で)作られつつあることが問題視されるようになってきています。
 
 ルッキズムが引き起こす問題を大別すると、以下のようなことが挙げられます。
・差別や不平等の助長
 社会にルッキズムが浸透してしまっていると(アンコンシャスバイアス的に)美しい外見を持つ人が優遇され、就職や昇進、教育の機会などで有利になる一方、外見が整っていないとされる人は不利な立場に置かれやすくなるという不平等が起きます。
つまり、個人の自尊心や社会的地位に影響し、経済的、社会的格差を広げるのです。メディアや広告が特定の美の基準を強調することで、人々がその基準を内面化し、外見による差別が制度的に固定化されるという問題もあります。
・自尊心の低下
 ルッキズムが浸透した社会では、「自分は優劣の"劣"だ」と思う人の自己評価や自尊心(セルフエスティーム)を低下させ、自信の喪失や孤独感、不安を引き起こし、心理的なストレスを増大させることにつながります。外見で人の価値を測るような社会では、個人の多様性が認められず、"劣っている"と思う人の自己受容を困難にするのです。
・健康リスクの増加
 容姿に対する過剰な懸念や不安は、摂食障害や心身の不調を引き起こす場合があります。またルッキズムが個人の自己受容感を低下させ、うつ病や不安障害のリスクを増加させます。外見に対する差別が社会的孤立感を助長し、心理的・身体的な健康に悪影響を与えることもあります。
(ELEMENIST「外見至上主義「ルッキズム」とは」より) 

 「差別や不平等の助長」は、持続可能な開発目標(SDGs)の目標10「人や国の不平等をなくそう」にも抵触することから、D&Iを推進するために、相手の違いを受け入れ、尊重し、ルッキズム的な風潮を見直していこうという機運が世界的に高まっています。ミスコンテストの廃止が相次いでいること、外見を蔑視するお笑いが見直されつつあること、プラスサイズ・モデルの活躍などは、その具体的な解決策の例です。
(KYOWA KIRIN「【解説記事】ルッキズムとは?SDGsとの関係や解消するためにできることとは」より)

 Z世代のライターとしてカリスマ的人気を誇る竹田ダニエルさんは、日本の女性が「容姿がかわいくないとダメ」「かわいいと得をする」と感じさせられていて、見た目がいいと「いいね」がたくさんついてインフルエンサーとしての市場価値が上がったり、お金持ちに好かれて結婚できるという“成功(しているように見える)ルート”がSNSを通じて拡散され、憧れの対象になりつつあると語っています。また、日本における“女性はかわい方がいい”、“若いほうが価値がある”という考えは、家父長制の価値基準に基づいているということも指摘しています。ちなみにアメリカでは「守ってあげたくなるような弱い存在=かわいい」といった概念はないそうです。
 竹田さんはさらに、「ダイエットや整形によって外見は美しくなっても、結局見た目だけを評価する人に気に入られるだけで、自分の内面を見てくれる人が増えるわけではありません。表層的なつきあいは孤立を深めます。ルックスで判断しない人がそばにいてくれるほうがメンタルヘルスにもいいはずなんです」とか、「外見だけを見て人を判断していたら、自分と話が合う人や親身に向き合ってくれる人と出会うチャンスをなくしているかもしれない。これはとてももったいないことです」とも語っています。「自分の本当の幸せに気づくこと、自分自身の価値観やメンタルヘルスを大切にすることが、ルッキズムに振り回されないきっかけになるのではないでしょうか」
(yoi「【竹田ダニエル連載】過度なルッキズムとメンタルヘルスとの関係。可愛くなければ価値がない? その可愛さは誰が決めた?」より)

 「ルッキズムの呪い」をテーマにしたトーク番組「上田と女がDEEPに吠える夜」(9月10日深夜放送)をご覧になった方もいらっしゃるかと思います。SHELLYさんは、お子さんが「二重(まぶた)でよかったね」と言われた時に、「じゃあ、一重だったらダメだったの?」と思い、ルッキズムに気付かされたと語っていました。「子どもの前では太った、痩せたの話は絶対にしない」とも。ほかにも「私、おばさんだから」という自虐ネタは、その年齢以上の人たちみんなを傷つけたりするという指摘もあって、これ、ゲイの世界でもあるなぁ(30代とかの方が自虐的に“おっさん”とか“BBA”って言っちゃうと、それ以上の年代全員を敵に回すケース)と思いました。
 また、漫画『臨死!!江古田ちゃん』の作者として有名な瀧波ユカリさんが、「私はルッキズムを利用して生きてきた(見た目を逆手にとって自虐ネタにしてきた)けど、最近は触れられなくなってきた」と言う大久保佳代子さんに対して、「うちの中学の娘は大久保さんのネタを見て、イジられてる大久保さんがかわいそうだし、イジってる人たちを嫌いになったと言ってました」と語っていて、なるほどな…と思いました(ホモオダなんとかもそうですが、テレビでやってることは純真な子どもたちに悪影響を与えますよね。イジっていいんだと思わせてしまいます)。4段落目で紹介した「外見を蔑視するお笑いが見直されつつある」って、まさにこのことですよね。テレビで“オネエ”イジリがなくなったように、今後は外見でのイジリもなくなっていくのでしょう。
 
 同番組で上田さんが「キレイな女性にキレイって言うのもダメなの?」と聞いていたように(それに対して瀧波さんは「魅力的」と言い換えてはどうかと提案していましたが)、男女間では男性が女性に「美人」と言うこともルッキズムだと見なされることがあります。それは男性が女性を見た目で「品定め」すること、つまり、ジェンダーの不均衡が背景にあるからです(竹田ダニエルさんが指摘していた家父長制とも関係があります)
 
 まとめると、世間で言うルッキズムは主に(男性優位の社会状況を背景に)男性から女性へと注がれる視線、容姿でジャッジすること、容姿によって扱いを変えることの不平等、そして女性の側が常に「美しくあらねばならない」という強迫観念やプレッシャーにさらされ、自尊心を損なったり健康を害したりするという問題(ルッキズムの呪い)、といったことになりそうです。


 


ゲイの世界におけるルッキズムとは?

 翻って、ゲイの場合はどうでしょうか。
 
 ゲイの場合そもそも、ルッキズムよりもっと深刻な、性的指向による迫害、差別、嫌悪、侮蔑の対象となってきた歴史があります。性的指向による差別は人種や性別、性自認、障害の有無、出自などと同様、差別禁止法の対象となるような重大な差別です。ゲイは権威主義国家においてしばしばスケープゴートとして迫害や抑圧のターゲットにされてきましたし、そうでなくても家父長制社会において女性やトランスジェンダーなどとともに虐げられてきた弱者(被害者)の側です(『虎に翼』において女性とゲイ、トランスジェンダーの連帯が描かれたのは象徴的でした)
 ゲイは女性を性的に見ないので、世の強者である異性愛男性が女性を「品定め」するような行為とも無縁ですし(なので、世間的に容姿が“劣っている”とされている女性の友達や味方になる方、多いですよね)、男女間のジェンダー不均衡を背景としたルッキズムの問題でゲイが加害者となることはほとんどないと言えそうです(だからと言って女性蔑視から完全に自由というわけではなく、なかには女性を見下したり嫌悪している方もいるかもしれませんが)
 ですから、「ゲイの世界におけるルッキズム」の問題を掘り下げるにあたっては、とりあえずはゲイの世界の中での見た目(ルックス)の優劣に関する問題に的を絞ってよいでしょう。というか、ここではそのような視点で考えたいと思います。
 
 ゲイの世界では昔から、世間的にはマイナスとされ、忌み嫌われたりしがちな太った男性や髪の毛が薄い男性、体毛が濃い男性、お年を召した殿方なども一つの「モテ」のジャンルとなってきました(言葉はあまりよくないですが「二丁目に捨てるゴミなし」という名言もあります)。世間で「多様性」ということが叫ばれる以前から自然にD&Iを実践し(理念的にそうしようと言って始めたことではなく、そもそも性愛のありようが多様だったということですが)、“世間的な美の基準”から自由で、ルッキズムに囚われずにきたのです。素晴らしいことです。

 では、ゲイの世界におけるルッキズムとは、どういうことなのでしょうか?

 一つには、ルックスのいい(モテ筋な)集団が、その集団の基準に達しないような人たちを排除するような行為が挙げられます。ガチムチ集団が細身の前髪系の子をロコツに排除する様を描いたこちらの漫画をご覧になった方もいらっしゃることでしょう。フィクションとはいえ、「こういうことってあるよね…」と思わせるくらいにはリアリティがあります。
 例えばゲイバーで、例えばゲイサークルで、顔の良し悪しや体型や年齢によって参加を断られること、あったりするでしょうか。ハッテン場が体型や年齢、国籍などで制限を行なっているケースはどうでしょうか。欧米の差別禁止法が制定されているような国や州では、そのような制限を設けることが許されないところもあります(オーストラリアのビクトリア州では、お店がお客を性別、人種、年齢、容姿などで限定することが認められていないそうです。ただ1店舗だけ、「古くからのゲイコミュニティの遺産」ということで特別に許可をもらって男性限定での営業を続けているゲイバーがあります)
 
 「美人に美人と言ってはダメなのか」問題について言うと、ゲイの場合、男女間のようなジェンダーの不均衡がありませんから、外見的に魅力的な人を「推し」たり、褒めたり、持ち上げたりすることがルッキズムに当たるかというと、そうとは言えないと思います。
 そもそも古今東西、人間は、外見的に魅力的な人に惹かれ、一目惚れしたり恋したりしてきました(神話や民話、童話にもそういう物語が山ほどありますよね)。性愛にはそういう側面があります。内面の美しさに惹かれあって恋が始まることもあるでしょうが、見た目(身体性)の情報量は圧倒的で、左右されやすいですよね。もし人が見た目(身体性)でセックスや恋の相手を選ぶことを禁止されたら(現に同性間の性交渉が有罪とされる時代や社会ではそうだったわけですが)ゲイも女性とつきあうことを強要されかねません。「どんな人を好きになるか」は決して世間に押し付けられてはいけないし、見た目も含め、誰かを好きになることや、好きな人と関係を結ぶことは個人の自由や尊厳に属することです。僕らは学校や職場で、ノンケのクラスメートや同僚と違って、好きな男性の話を自由にできませんでした。そういう意味では「○○くんカワイイ」「つきあいたい」と語れることは素晴らしいことです。
 カッコいい、カワイイ人を愛でるのはいいとして、(さすがにそれはないと思いますが)あまりカッコいいとかカワイイとか言われなさそうな人に対して容姿を貶めるような物言いをしたり、(自戒を込めて言いますが)二丁目でひさしぶりに会う友人に「太ったね」「痩せたね」と言ったり、容姿についてあれこれ言うのは避けたほうがよいでしょう。海外では、そういう身体的なことには触れず、服装や髪型のセンスを褒めることがマナーとして定着しています。いずれ日本もそうなると思います。
 
 自分は他の人を見た目で差別したりしないけど、自分自身がジムに通ったり髪を短く切ったりヒゲを生やしたりして見た目をモテ筋に近づけることは、ルッキズムの問題と言えるでしょうか? そこはかなり微妙な…難しい話です。
(ちなみに世の異性愛男性にとってのルッキズムの問題は、企業が執拗に勧めたり、これをしないと女にモテないぞと脅してくる「お腹スッキリ」や「お肌スベスベ」「髪フサフサ」「ズルムケ」などの“美の基準”に感化されて、必要のない脂肪吸引やヒゲ脱毛や包茎手術をするよう仕向けられることですが、幸い、ゲイの世界には独自の“美の基準”があるため、その影響から逃れやすかったと思います)
 「自分磨き」やおしゃれ、外見を理想のイメージに近づけようとする行為が、純粋に自分のためであり、そうすることで気分が良くなったり幸せを感じられるのであれば、何も問題はないのですが、もしゲイの世界の「髪は短くなければならない」「ジム通いして筋肉をつけなければならない」といった“美の基準”にとらわれ、見た目が一定の基準に達してないと“人権がない”とか、モテるためにはそうせざるをえないというプレッシャーから「不本意ながら」そうしているのであれば、それは世の女性たちと同じ構図の問題にハマっているわけで、ルッキズムがそこにあるということになるでしょう。
 ただ、モテたいから見た目をモテる方向に変えていくというのはごく自然な欲求ですし、本当は嫌だけど、みんながそうしろと言うから…とかじゃなければ問題ないのではないでしょうか。そういうモチベーションや心の働きは外から見えませんし、自分でもはっきり自覚できない部分もあるため、本当に自分で納得しているのか、周囲のプレッシャーによってそうするように追い込まれているのか、判断が難しいところです。
(なお、メンタルヘルスの問題で言うと、日高さんの調査などでも浮き彫りになっているように、職場などで異性愛を装うことの心理的なストレスでメンタルヘルスが悪化する方は多いです。また、幼少期からいじめられたり心に傷を負ってきたことなどとも関連し、過剰防衛的な反応として自己愛を募らせたり、承認欲求をこじらせたりする方もいらっしゃるため、(例えばSNSでの「自分大好き」感が漂う投稿や、やたらと見た目を取り沙汰する発言なども見られると思いますが)ルッキズムの問題だけでなく、もっと大きな視点で見ていく必要があると思われます。摂食障害の女性へのケアと同じように、過剰に容姿にこだわることで何か問題が生じているゲイの方がいらっしゃるとすれば、カウンセリング的なことを試してみてもよいのではないでしょうか)
 
 身体の健康への影響という点では、世間のスリム志向とは真逆で、(GMPDの仲間入りをしたい、ガチムチと見られたいという一心で)頑張って体を大きくする方、少なくないと思います。そういう方が糖尿病になったり体を壊してしまったことに対して「それ見たことか」的に批判的な言葉を投げかける方もいらっしゃいます。確かに(ゲイ用語で「養殖」と言われたりしますが)もともと痩せ型だったのに頑張って無理して急に太ることが健康面でマイナスの影響をもたらすことはあるでしょうが、それは健康診断などでチェックしつつ自己管理していけばよいことで、「なりたい自分」との兼ね合い、バランスだと思うんですよね。もし(女性が「痩せなければモテない」と思い込まされているように)「太らなければモテない」という強迫観念に苛まれているのであれば問題でしょうが、そうではなく、理想のイメージに近づきたい、ゲイとしての幸せを追求したいという気持ちで無理のない範囲で筋トレしているのであれば、他人がとやかく言うことではないと思います(「いいじゃないの幸せならば」です)。以前、D専の若い方が「頑張って太って本当によかった。いま本当に幸せ」とキラキラした笑顔で語るのを見て、とても清々しい気持ちになったことがあります。太めだろうと細めだろうと、みんな「なりたい自分」になる幸せを追求してよいのです。
 
 一方、哲学者の戸谷洋志さんがこちらの記事で指摘しているように、学校などの社会で見た目での「スクールカースト」がある場合(映画『ミーン・ガールズ』を思い出しましょう)、ルックスがいい集団に入りたいがために自分の外見に執着し、何とか上位集団に入ろうと認めてもらおうとすることは、ビジュアルがいい集団の「権威」を認め、ルッキズムに加担してしまう側面もあるということには注意が必要かもしれません。
 ゲイの世界でも盛んに“カースト”の存在が取りざたされていますが、冷静に考えると、個人のイケるイケないってものすごく多様で(60歳以上が好きな方もいれば、体重100kg以上が好きな方もたくさんいますよね)、必ずしもGOGO BOYをやってるような人たちが全員からモテるわけでもなく(比較的多数からモテるのは事実でしょうが、絶対ではないですよね)、“カースト”とか“ゲイピラミッド”みたいなのは「かりそめ」というか「幻想」なんじゃないでしょうか(まぼろし〜)。ゲイシーンでスポットライトを浴びてるからといって、そういう「比較的多数からモテるタイプ(うわずみ)」の人たちを神格化したりことさら持ち上げたり、自分をそこに近づけようと頑張る必要は全くなくて、僕はタイプじゃない、とか、自分は別に短髪マッチョになりたいとは思わない、とはっきり表明してもよいのです。タイプは人それぞれ、十人十色、みんなちがってみんないい、です。
 
 海外では、Michelangelo Signorileという米国のジャーナリストが1997年時点でゲイコミュニティにおけるルッキズムの問題を指摘していました(「全員が身体的美に関する厳格な基準に従うべきだというプレッシャーを受けている。この基準に合わなかったものは身体的魅力がなく、性的に望ましくないとみなされる」)。ジムに通ってほどよく体を絞り、ほどよく筋肉をつけたマッチョなボディが欧米のゲイの美の基準で、その基準に合わない太った人たちはゲイコミュニティ内でも差別されていました。それゆえにボディポジティブな意味合いでBEARプライドが生まれたのです。

 日本のゲイコミュニティでも(若い方はピンとこないかもしれませんが)90年代までは太った人への蔑視が割とあからさまにあって(“デブ専”は蔑視に近い言葉で、特殊な人たちと見られていました。『豊満』というゲイ雑誌をバカにする人も多かったです)、『G-MEN』誌が打ち出した「SG系」ブームを経て、GMPDやDD/DSというジャンルとして定着し、受け入れられるようになってきましたが、今でも細専の人たちがネット上で“デブ”と罵ることは多々あって、悲しい気持ちになります(逆もまた然りです)。 “ブス”も同様です(ゲイの世界におけるブス差別の問題に切り込んだのが名作漫画『アグリっ娘』でした)。褌やレザー、BDSM、フィストなどを好む人たち、ビデオモデルやセックスワーカーへの蔑視もかつては根深いものがありました(今はだいぶニュートラルになってきたと思いますが)
 たまに「太めの人、嫌いじゃないけど、太ってることに引け目を感じてるような太めの人が好き」といった発言も見かけますが、「太ってるんだからえらそうにするな」という差別的感情(無意識の偏見=マイクロアグレッション)が垣間見えますよね…気をつけた方がよいかもしれません。
 
 この世界、スリムな人(S)が好きか、でっぷりした人(D)が好きかという磁場のようなものがあって(マッチョは王道なのですが、その両端で磁力を持っているイメージ)、いろんなことがどちらかに分かれていると思います。今や、短髪のGMPD兄貴系と、前髪系の若いスリムな方たち、どちらがマジョリティでどちらがマイノリティなのかわからないほどで、イベントもたいていどちらかに寄っていて、両者は一見、相容れないように見えたりします。そういう見た目で分かれている集団が、平和的に仲良く住みわけする分には全然いいと思うのですが、お互いに罵りあったりするのはとても悲しいことですよね。僕らゲイはみんな世間から差別されたり嘲笑されたりという経験を乗り越えてやってきた同士だと思うので、そんなゲイの集団の中でもさらに差別されたり嘲笑されたりすると、本当にいたたまれない気持ちに…。しかも、どちらの集団にも属することができない方たちもいたりして…。もっといろんなタイプの人が混ざりあって、見た目のイケるイケないは抜きにしてお話したり友達になったりすることで生まれる素敵なことってきっとあるはずなので、もし、そういう機会から遠ざかってると思う方は、ちょっと意識的に、いろんな人が混ざり合う場所に行ってみるとよいかもしれません(AiSOTOPE LOUNGEやEXPLOSIONの周年パーティなど、ちょうどいい機会じゃないでしょうか)
 
 まとめると、ゲイの世界におけるルッキズムとは、身体的な特徴や顔の美醜で誰かを罵ったり嘲笑したりということの問題と、見た目で「選ばれた」集団が基準に満たない人を排除する問題、そして、ゲイの世界のモテの基準にとらわれて、本当はそうしたくないのに体型や髪型をモテに寄せていくことの問題、と言えるのではないでしょうか。

 ルッキズムという概念(考え方)自体、比較的新しいものですし、今よくわかっていないとしても責められたりはしません。これを機に、考えてみましょう、という感じです。ゲイコミュニティのなかでももっと議論されるようになるといいなと思います(「堂山センチメンタル」の第1話でもフィーチャーされてましたね)

(文:後藤純一)2024.9.12

INDEX

SCHEDULE

    記事はありません。