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REVIEW

同性の親友に芽生えた恋心と葛藤を描いた傑作純愛映画『マティアス&マキシム』

天才グザヴィエ・ドランが世に放つ、イケメンどうしの純愛ラブストーリー。幼馴染であり親友であるマティアスとマキシムが、戯れのキスをきっかけに恋に目覚め、戸惑い、葛藤する、ジリジリとした苦しく切ない恋心が、ドランならではの感性で描かれています。

同性の親友に芽生えた恋心と葛藤を描いた傑作純愛映画『マティアス&マキシム』

自身もゲイであり、カンヌで三冠を獲ったデビュー作『マイ・マザー』からしてゲイの高校生が主人公で、これまでさんざんゲイの映画を撮ってきた(前作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』ではホモフォビアがいかにゲイを苦しめるかということを告発するような作品でした)グザヴィエ・ドランが、まだこんな映画を作れるのか!と感嘆させられました。原点回帰といいますか、真っ直ぐでピュアな男どうしのラブストーリーです。レビューをお届けします。(後藤純一)


<あらすじ>
幼馴染で30歳のマティアスとマキシムは、ひょんなことから友人の妹が撮る短編映画への出演を懇願される。撮影が始まり、男性同士のキスシーンを演じることになった二人は、キスをきっかけに秘めていた互いへの気持ちに気づき始めるが、婚約者がいるマティアスは親友に芽生えた感情に戸惑いを隠せない。マキシムは友情が壊れてしまうことを恐れ、気持ちを隠したままオーストラリアへと旅立つ準備をしていた。別れの日が迫る中、二人は互いへの想いを募らせていくが……



 
 グザヴィエ・ドランの作品は、画面の圧が凄いというか、人間関係のヒリヒリするような緊張感があります(おかげで、眠くなる暇がありません)。今回も、最初からそうでした。若いノンケ男子に特有のちょっと乱暴で攻撃的なノリ…映画を観た女性客などは「男の子たちのじゃれあい」的な微笑ましいシーンとして観ていたようですが、個人的には「とてもじゃないけど、この輪の中には入っていけないや…」と震えあがりました。リヴェット、フランク、ブラス、マティアス、マキシムという仲良しグループ(ドランと、ドランの実際の友達が演じています)が週末、リヴェットの別荘に泊まっているのですが、リヴェットの妹のエリカが、映画の撮影を予定してたけど主役を演じるはずだった人が来れなくなった、代わりに誰か出てくれない?ということで、でも男どうしのキスシーンがあるからということですったもんだして、最終的に、マティアスとマキシムが出ることになります。エリカは撮影前に「あなたたちの世代では抵抗あるかもしれないけど、自然なこと。男二人でもいいし。女二人でもいい」と言います。これは、Z世代の感覚はこうだよ、と見せているだけでなく、この映画はこういうスタンスでいくよ、という宣言だと感じました。
 そして、いよいよ撮影のシーン。映画の宣伝写真にもあるように、赤いセーターを着たマティアスと、水色のセーターを着たマキシムが、並んでソファに座り、おもむろにキスするのです(しかし、肝心のキスシーンは、見せてくれません。ええっ?と思う間もなく、次のシーンに移行します。天才的演出だと思いました)
 
 この「キス」という肉体的な、官能的な行為によって突然、マティアスは、マキシムへの恋愛感情に目覚め、性的な欲望のドアをこじ開けられ、狂おしいほどの恋心に、激しく葛藤しはじめます。マティアスは弁護士の父を持つ裕福な家の長男で、彼女もいて、イケメンで、仕事も順調で、何不自由ない暮らしをしているのですが、誰もが「おかしい」と感じるほど、動揺したり、奇矯な行動をとったり、マキシムの気を引くためにわざとイヤな言葉を投げつけたりします(はっきり言って「クソ野郎」と言いたくなるようなイヤな言葉で、周りのみんなもドン引きです)
 マキシムの方は、対照的に、家庭環境に恵まれず、顔に目立つアザがあり、「毒親」である母親(『マイ・マザー』『Mommy/マミー』でも主人公の母親を演じていたアンヌ・ドルヴァルが演じています)と日々ぶつかり、文字通り血を流しながら、ストリップクラブのバーテンとして働き、なけなしのお金も母親に取られそうになるという、砂を嚙むような現実を生きています。そんな地獄から抜け出すため、(英語もろくにしゃべれないのに)オーストラリアに移住することを決めています。あと十数日で出発することになっている、このままだと離れ離れになってしまうという設定が、マティアスとマキシムの物語をドラマチックに盛り上げます。
 幼馴染であり無二の親友である人への恋、それは、成就すれば、めでたしめでたしかもしれませんが、失敗したら、かけがえのない親友を失ってしまうことにもなりかねません(しかもマティアスにはフィアンセがいます)。マティアスは、胸がかきむしられるような思いをしながらも、どうしていいかわからず…。ジリジリするような、苦しい恋。果たして二人は結ばれるのだろうか?という、ありがちといえばありがちな物語です。しかし、二人が男どうしであるというところが、世の多くの物語と異なっています(『おっさんずラブ』が、男どうしの純愛であるがゆえに新鮮で、感動を呼び、大ヒットしたように)

 いつものようにドランの才気やセンスが炸裂したまぎれもない傑作です。
 これまでもさんざんゲイにまつわるあれこれを描いてきた監督が、まだこんな、男どうしの純愛映画を作れるのか!という感嘆。映像表現もそうですが、音楽の選曲もセンスを感じます(マティアスが接待でストリップクラブに行くシーンがあるのですが、そこでかかっていたのがブリトニーの「Work Bitch」でした)
 
 冒頭、「エリザ、フランシス、ジョエル、ルカに捧ぐ」というテロップが入ります。これは、『ブルックリンの片隅で』のエリザ・ヒットマン監督、『ゴッズ・オウン・カントリー』のフランシス・リー監督、『ある少年の告白』のジョエル・エドガートン監督、『君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノ監督のことだそう。『ブルックリンの片隅で』は日本で上映されなかったのですが、男性に性的に惹かれるということを自覚しながらも、なかなか受け容れることができず、女の子とつきあってみたり、誰にもバレないようにハッテンしたりというイケメンのセクシュアリティの揺れを描いた映画です(この映画に主演したハリス・ディキンソンが、女たらし自慢をするイヤなノンケ男として今作にゲスト出演しています)。『ある少年の告白』以外は、若い男性が(戸惑ったりしながらも)男性と恋に落ちる様を描いた作品です。『マティアス&マキシム』もまた、そういう、セクシュアリティの揺れや、世間のホモフォビアに悩んでたりする若い男の子たちへの励ましになるような作品であろうとしている、という意思を感じさせます。
 
 以上です。ぜひ映画館でご覧ください。と言いたいのですが、そうもいかない、驚愕の出来事が、この映画の公開前にありました。


  
 この映画が日本で上映されることが決まったとき、ドランがこの作品について語った、このようなセリフが紹介されました。
「僕にとっては、これは同性愛についての映画ではないし、ゲイの愛についての映画でもない。もちろん、その要素はある。だけど主人公の二人が、これがゲイの愛だと気付いているとは思わない。ただの愛だ。25年にわたって兄弟同然の親友だったのに、ある日、愛がドアをたたく。あのキスでね。オープニングでのキスが全てを揺さぶり、二人の関係が再定義されることになる。僕にとって、これは第一に友情についての映画なんだ。友情は愛よりも確かで、強いものなのか? 友情は愛なのか? それがこの映画で僕が提示したものだ」
 この「同性愛についての映画ではない」「ただの愛だ」という言葉を(日本ではいかに(BLではない)男どうしの愛をリアルに描いた作品が少なかったか、いかに世間のホモフォビアが根強く、また、法的な保障などもなされていないか、といった差別的な現状を解さず)額面通りに受け取った配給会社は、あろうことか、マティアスとマキシムが並んで座っている映画のイメージフォトを、男女に置き換えたイラストを発注し、宣伝ポスターを作るという信じられないことをしでかし、物議を醸しました(詳細はこちら
 
 そういうこともあって、この映画で描かれる愛が、「ゲイの愛」ではなく「ただの愛」と言うべきものなのかどうか、慎重に見極めなければ…という使命感のようなものが生まれました。男どうしではあるけど、それは、『君の名前で僕を呼んで』のような、まるで世の中にホモフォビアというものが存在しないかのような「理想状態」下における「ただの愛」としてのラブストーリーなのかな?との予想で、この映画を観ることになりました(余計な情報なしに、まっさらな気持ちで観たかったです…配給会社を恨みます)
 
 しかし、観終わった後、果たしてあの二人の恋が、「ゲイの愛」と言うべきものなのか、「ただの愛」と言うべきもなのかという点について、どう言えばよいのか…非常に悩みました(このレビューを書くのに10日以上かかりました)
 
 問題は、マティアスの苦悩が果たして、幼馴染の親友を好きになってしまったことゆえの葛藤だけなのか、そこに「同性を好きになってしまったこと」の葛藤はないのか、ということです。ドランは前者を想定していたはずですが、観客の中には、同性であるがゆえの葛藤だと解釈する人もいるだろうな、と思います。
 ちょっとガサツな、一見「ホモソーシャル」ノリに見える男の子たちも、同性愛については全く嫌悪を感じていない様子です。最もケンカっ早い男の子が実は最もイイ奴で、アライだったというところが、それを証明していると思います(最初に「若いノンケ男子」と書きましたが、もしかしたら、みんなノンケとは限らないのかも…)。一方で、その文脈でそのセリフ要る?というようなタイミングでゲイをバカにするようなセリフが飛び出したりして、それをどう捉えたらよいのか、悩みました(特に意味はないよ、ということなのか、何なのか…)
 ドランはおそらく、等身大でリアルなイマドキの若い人たちの輪の中で、ホモフォビアのない「理想状態」の世界における「幼馴染に恋してしまったことの葛藤」を「ただの愛」として描きたかったのでしょう。でも、どうしても「男でありながら男を好きになってしまったことの葛藤」のようにも見えるような、「現実世界」へ引き戻そうとする微妙な「引力」のようなものが働いてしまいます。それは、カナダのようなLGBT先進国の感性と、日本という同性愛差別が払拭されていない国の観客の違いなのだと思います。
 マキシムについては、何ヶ所か、彼はもともとゲイ(というかバイセクシュアル)なんだろうな…と思わせるシーンが出てきます。そもそもゲイであることをカミングアウトしているドラン自身が演じているのですから、ゲイだと思わないほうが難しいです。でもそれは、どちらでもよいのです(焦点はマティアスの苦悩にあるので)

 映画やドラマ、演劇などは、誰でもわかる(誰が観ても同じ受け止められ方をする)タイプの作品もありますが、観る人によって解釈が異なるようなタイプの作品もあります。『マティアス&マキシム』は後者で、ストーリーこそシンプルですが、それをどう解釈し、説明するかは、人によってずいぶん異なってくるような作品なのだと思いました。
(実際、ネット上に書かれている感想を見てみると、「あの男の子たちが全員ゲイに見える」と言う人もいたりして、実に多様です)
 
 同時に、ドランが「ただの愛」と言った発言自体もまた、それをどう解釈し、説明するかは、人によってずいぶん異なってくるのだと思いました。
 ある種のレトリックだろう、と受け止める方もいらっしゃることでしょう。
 いや、男どうしの恋愛を描いていることは事実なのだから、本人がゲイだと自覚していないにせよ、これは「同性愛についての映画」にほかならないだろう、と思う方もいらっしゃると思います。
 一つ言えるのは、ドラン作品に登場するゲイというのは、あまりゲイっぽくないということです。見た目ノンケと変わらないような人、「たまたま男好きに生まれついたけど、それがどうした?」と言いそうな感じの人です。(デビュー作の『マイ・マザー』でゲイバーに行くシーンが描かれているという例外はあるものの)オネエノリで騒いだりとか、ゲイクラブでイェイイェイ盛り上がったりとか、パレードを歩いたりする姿が想像できないような人物像です。ステレオタイプでは決してなく、また、ゲイゲイしいタイプでもない、(実はマジョリティであるような)リアルなゲイ像を常に提示しています。その流れで、今回のような、初めて同性を好きになった青年を描くことは、極めて自然なことです。多くの人は、身近な男性に恋をして初めて、自分はゲイかもしれないと思いはじめるのですから。そういう意味で、「これはゲイ映画じゃない」というのは、ドラン作品に通底するスタンスだと言えるのでは?という気がします。
 
 「ただの愛」問題について長々と書いてしまいましたが、そんなことを考えなくても十分、楽しめると思いますし、カナダの美しい自然も描かれていたり、いろんなキャラクターが登場したり、映像美や音楽を気に入る方は多いと思います。セクシー・シーンのドラマチックな官能表現や、いよいよマキシムがオーストラリアに出発するという日のシーンの演出の素敵さ(なぜマティアスとマキシムという似たような名前にしたのか、その意味が、最後にわかります)を、ぜひ堪能してください。


マティアス&マキシム 
2019年/カナダ/監督:グザヴィエ・ドラン/出演:ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス、グザヴィエ・ドランほか/9月25日より新宿ピカデリーほか全国公開

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