g-lad xx

PEOPLE

『老ナルキソス』『変わるまで、生きる』を監督した東海林毅さんに、映画に込めた思いやセクシュアリティのことなどをお聞きしました

切実に迫る「老い」の問題や、「ゲイとして生きることを許されなかった」世代の生き様、自意識のこじれ、マゾヒズムなど、今まであまり光が当てられてこなかったようなテーマがたくさん盛り込まれ、すべてを包摂して慈しむような素晴らしいクィア映画『老ナルキソス』。これを監督した東海林毅さんに、お話をお聞きしました。

『老ナルキソス』『変わるまで、生きる』を監督した東海林毅さんに、映画に込めた思いやセクシュアリティのことなどをお聞きしました

映文連アワード2022準グランプリを受賞するなど、内外で評価されている『片袖の魚』の東海林毅監督。昨年のGWにはレインボーマリッジフィルムフェスティバルも成功させました。そのようにLGBTQコミュニティに多大な貢献をしている東海林さんは、もともと1995年、第4回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭でゲイのセクシュアリティの受容を描いた作品で賞を獲り、自身もバイセクシュアルであることをカムアウトした方で、2018年の第27回レインボー・リール東京のコンペティションでは『老ナルキソス』という年老いてすっかり容姿が衰えてしまったゲイの主人公とウリ専ボーイの体と心の交わりを描いた作品でグランプリに輝いたのでした。この『老ナルキソス』という短編が、このたび長編化され、5月20日から劇場公開されることになりました(レビューはこちら)。また、『老ナルキソス』長編版のスピンオフ的な意味を持つような、50代以上のゲイの方たちがご飯を食べながら和気藹々と語り合う会の様子を映し出した短編ドキュメンタリー『変わるまで、生きる』が4月23日(日)15:30-、TRPのステージで上映されます(レビューはこちら)。僕らにとって切実な、大切な意味を持つような2つの作品の公開を控える東海林毅監督に、いろいろお話をお聞きしました。
(聞き手:後藤純一) 


<プロフィール>
東海林毅(しょうじ・つよし) 映像作家
 武蔵野美術大学映像学科在学中から映像作家活動を開始し、1995年に第4回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭コンペ部門にて審査員特別賞を受賞。『劇場版 喧嘩番長』シリーズや『お姉チャンバラ Vortex』『はぐれアイドル地獄変』などの商業作品を監督する一方、VFXアーティストとしても幅広く活動し、NHK BSPの科学史番組「フランケンシュタインの誘惑」では放送開始時よりVFXを務める。近年では『老ナルキソス』(2017)、『ホモソーシャル・ダンス』『帰り道』(ともに2019年)など、自主制作した作品が国内外の映画祭で高い評価を得ている


 
すべての世代の男性同性愛者を描くという離れ技

――『老ナルキソス』は、もうすぐ喜寿を迎えようとする老いたゲイと、ウリ専ボーイであるレオとの偶然の出会いがそれぞれの人生に少なからぬ影響を与えていくという物語を通じて、昨今のLGBTQムーブメントからは取り残されてきたかもしれない「ゲイとして生きることが許されなかった」世代の方たちに光を当て、その思いを掬い上げ、今の時代へと接続し、包摂するとともに、ナルシシズムや自意識(プライド)とも関連したSMというkinkyなセックスを(当事者目線で)描き、性を全面的に肯定するような、至高のゲイ映画であり、クィア映画でした。2018年にグランプリをとったときもいい作品だなぁと思いましたが、長編になってさらに素晴らしいものになったと思います。長編化しようということは2018年当時から考えていらっしゃったのでしょうか?

いや、逆に、短編は完結したつもりでした。いろんな国の映画祭で上映され、評価をいただいたときに、結構みなさんから「長編でやらないの?」と言われたんです。さらに、日本のコミュニティのなかでも、世代の違いとか、いろんな考えや感想を聞くことが多くて、せっかく世代の違いを描くのであれば、歴史や社会と接続した描き方をして、ちゃんとした長編を作れるんじゃないかと思うようになりました。そこでプロットを書きはじめたら、要素がてんこ盛りになって、作る価値があると思えるようになりました。

――なるほどそうでしたか。主人公の山崎カオルは、昔は美青年だったかもしれないが、今は見る影もない、すっかりシワシワで髪もボサボサでキショガリで…どこに行ってもモテないだろうなと、ちょっと気の毒になるような見た目です。しかも、(あの時代を生きた文化人にありがちなのかもしれませんが)自意識のこじらせ方がひどいです。自己愛(ナルシシズム)を必死にふくらませてなんとか自分を保っているものの、その「ナルシス」は脆く、傷つきやすく、死んでしまおうと思ったり…。考えてみれば、あんなに性格がねじくれた老翁が主人公の映画ってそうそうないですよね。スゴいことだと思います。そもそも東海林さんがこのような「老い」や、語弊を恐れずに言えば「醜さ」に直面したゲイを描こうと思ったきっかけは? 

僕自身が、フケ専。年をとった人に対して“劣化した”という言い方がされることがありますが、それは違うんじゃないかと思っていました。年をとって、肉体がたるんでも、それはそれで美しさがあると僕は思っていて。でも多くの人はエイジズムにとらわれて、老いたら自分の肉体に価値がないと思ってしまう。自意識をこじらせた人というのも、僕は嫌いじゃない。近い距離で一緒に仕事をしようと思うと大変かもしれないが、たまに会って飲んだり話したりするのは悪くないと思う。正直言って、好き。だからこそ、そういう人を主人公にしたんです。そんな人でも一緒に文化を作ってるし、同じ社会に生きてる。肯定しようという気持ちです。

――ゲイコミュニティ からも見捨てられそうな人を憐れみ、救ってあげようという上から目線ではなく、純粋に愛情を持って描いたのですね。

もう一つ、しょうもないきっかけがありまして。短編を撮る前の年に、広告業界の人が集まる忘年会だか新年会だかがあって、そこに20代のファッション雑誌の仕事をしている前髪系のゲイの人がいて、「僕もそうなんですよ」と言ったら、急にライバル視というか、「昨日も2回トコロテンしちゃいましたよ」とか自慢げに話しだして。面白いなと。僕自身は若さにこだわったことがないんだけど、自分の若さの価値へのアピールがすごいなって思って。そのとき、この人が将来70、80になったときどうするんだろう?って思ったんですよね。

――ゲイの世界は女性ほどじゃないけど、若さ信仰はあって。若さや美しさを誇示して、ちやほやされて、味をしめて、という方も多いですよね。でもみんなに必ず「老い」はやってくるわけで、年をとったときどうするかというのは切実ですよね。そういう意味で、この映画の「老いて、衰えて終わりじゃない」っていうメッセージはとても大事。これまでの映画ではほとんどなかったですよね。

最近では、『叔・叔(スク・スク)』とか。『スワンソング』もとても好きですね。

――僕はアジアンクィア映画祭で上映された韓国の『蛍の光』という短編がとても好きでした。日本映画ではほとんどなかったのではないかと思います。「老いて、衰えて終わりじゃない」と思える重要な要素として、カオルの友人たちの存在があると思います。昔一緒に遊んでいた仲間たち。一人は日出郎さん演じるゲイバーのママ。そして、田舎に帰って女性と結婚して家族をもっている方もいました。あの世代の多くの人は、世間体を気にして結婚せざるをえなかったわけですが、そういう人たちのことを断罪するのではなく、幸せそうな姿を描いていたのが印象的でした。

そうですね。既婚ゲイの人を誰も断罪できないと思います。それは間違いない。今の家族との関係もあるだろうし、いろいろ、計り知れない感情があると思うのですが、うまいこと楽しんで生きてほしいと思います。

――カオルとは対照的に、レオ(キョウヘイ)はイケメンで、自由で満ち足りた生活を送っていて、イマドキの世代らしい自然な優しさや屈託のなさで、実に好感が持てるキャラクターになっています。ウリ専をやりながらパートナーもいて、制度を使うかどうかを悩んだり、というあたりに今の時代のリアリティが描かれていました。恋愛、パートナーシップ、家族ということがいろんな人の立場から、ゲイの過去と未来を行き来するような仕方で描かれていたと感じます。

そうですね。レオもパートナーのハヤトもセックスワークへの抵抗はない。一方、関係の不安定さは感じていて、このままでいいのかというふらつきがある。ハヤトは、描いてないけど、「毎年TRPに行ってるような人」だと想定してるんです。でも、レオはそうでもない。レオは、仕事柄、年上の人と接する機会も多く、上の世代の人たちの感覚も身近に感じている人です。なので、山崎とハヤトの間にいる感じです。

――なるほど。橋渡しというか、架け橋的な存在ですね。レオがいたおかげで、「ゲイとして生きることが許されなかった」世代の生き様から同性婚も視野に入ってきた若者の生き様まで幅広く描くことに成功しています。よく考えるとそれって「すべての世代」なんですよね。

そうですね。男性同性愛者の生きる社会をまるごと。

――70代と20代の生き様が接点なく別々に描かれるのではなく、ふつうだったら「ジェネギャプ」がすごくてなかなか理解しあえないだろう二人が、セックスという接着剤によって結ばれ、絵本という魔法の小道具によって心の交流まで生まれるという、奇跡のような展開で、過去を忌まわしいものとして切り捨てるのではなく、未来をキラキラした理想としてだけ描くのでもなく、すべてを包摂するような離れ技をやってのけていると思います。


クィア映画史上最高の乱交シーン

――離れ技が成立したのは、ウリ専というセックスワークがあったおかげですし、この映画のコアの部分にゲイセックスがどーんとありますよね。

肉体って重要。特に同性愛がどうしてこれだけ差別されてきたかというと、その根本には肉体に関わるものがあると思っていて、肉体を使った行為もまた同性愛の大切な歴史であると考えています。だから同性愛者を描くのであれば肉体的な表現から逃げるということはしたくなかったんです。山崎の裸も、本当は性器も見せているのですが、泣く泣くカットした。

――ほとんどのゲイ映画は、若くて美しい青年の肉体しか見せない。僕らの世界ですら忌避されるような、老いた“醜い”肉体を見せたことは画期的ですよね。露悪的じゃない。ありのまま。水中のシーンとかも美しいし、スパンキングされたときの飛び散るようなイメージも美しく描いていた印象です。

そうですね。そもそも僕自身が醜いと思ってない。灯台の下で、全裸で、というシーン。あれがどうしてもやりたかった。太陽の下で、ありのままの裸をちゃんと見せたかった。その肉体こそが、歴史なんです。

――かつて“日陰者”とか“隠花植物”と言われた時代がありましたが、そう言われてきた世代の人が、太陽の下で裸になることの感動。

撮るのは大変でしたけど。実は灯台の先で山崎が裸で踊るシーンも撮ったんですが、尺の関係で、それもカットしました。

――何かの機会にそういうシーンも拝見できたらうれしいです。僕は職業柄、ゲイ映画やセックスにまつわる映画を何十年もたくさん見てきましたが、ジョン・キャメロン・ミッチェルの『ショートバス』という作品で描かれた乱交のシーンが感動的に素晴らしくて、それはゲイだけじゃなく女性も混ざっていましたが、個人的には「心のベスト乱交シーン」として不動の1位だったんです。でも今回、『老ナルキソス』がそれを塗り替えました。ゲイだらけの、しかもみんなかわいくて、超笑顔で、本当にキラキラしてて。あのシーンだけ30分くらい観たいです。

(笑)その瞬間は快楽にのめり込んでいたかもしれないけど、あとあと美しい思い出としてよみがえるってことがあると思うんです。乱交って露悪的で不道徳なものとして描かれやすいと思うんですが、美しく描いています。

――おどろおどろしい、地獄みたいな描かれ方が多いですよね。でもあのシーンは、後ろめたさや恥ずかしさを微塵も感じさせない「讃歌」「祝祭」として描かれていて、本当に素敵でした。クィア史に残る、記念碑的な乱交なんじゃないかと。それとも関係するかもしれませんが、SMが繰り返し描かれるのも重要。カオルの自己愛とM性が分かち難く結びついているところも説得力がありますし、70代も後半で勃たなくなってしまった方がSMで攻められることで快楽を得るというのもリアルだと思いますし、もちろんSMを”変態”扱いしたりせず、魂の回復といいますか、生きてる!って感じるための切実な営みとして描かれていたのもよかったと思います。

ナルシズムとマゾヒズムって密接に関係していると思います。それは自分の経験から言ってもそう。例えばゲイSMの掲示板を見ると、自分がMで、Sを募集する人が、60代を超えると本当に少なくなって…本来はそんなに変わらないのに、自分が攻める方に回らないといけないというバイアスがあるように感じます。本当は攻められたいんだけど、「こんな自分を攻めてくれる人なんていないだろう…」という引け目を感じてしまう。それで「S転」しちゃうんですよね。

――たいへん興味深いです。

SMって、SMの関係性じゃないとだめで、恋愛感情よりも強い。SMのパートナーシップが大事なんです。

――支配/被支配的な関係性ということでしょうか。

極端に言うとそう。信頼関係も必要。共依存もある。連帯に近い。場合によっては恋愛よリも濃いリレーションシップです。山崎もそこから逃れられないんですよね。

――もし、SMを望む人が、そうじゃない人とつきあおうとしても、理解しあえないというか、パートナーシップは難しい感じでしょうか?

生活を共にすることはできるかもしれないけど、性的な面では、お互いにそういうところがないと成立しないですよね。この話を始めると長いんですが、基本的にはSがリードし、一見攻撃的に見えるけど、実はMが求めてるものを差し出す。それがお互いにとっていい関係。それってすごく深いつながりなんです。いわゆるゲイSMの乱交オフ会に行くと、大きな会場のあちこちでそれぞれ、出会った人どうしがいろんなプレイをしていて。でもその一期一会なプレイは、プレイ自体は僕にとってはさほど面白いものではありませんでした。正直、どっちかが我慢してると思います。そこで出会った人と関係を深めて、お互い好きなことを探っていく。その場限りじゃなく。個と個の深いつながりが大事で、そこが難しいし、面白いところでもあります。

――ちょっと目からウロコかもしれない…。その場限りのハッテンよりも、相手のことを思ってる。深い絆なんですね。思いやりがないと成立しない関係。

そうですね。だからこそ、食い違いが生まれると、怖い。その辺りのことを『老ナルキソス』のパンフで大黒堂ミロさんに書いていただく予定です。

――素晴らしい。余談ですが、昨年スペイン大使館の展覧会でお会いしたときに東海林さんが「シャワ浣してるときに人は哲学者になる」みたいなことをおっしゃっていて、名言だなぁと思いました。
 
『老ナルキソス』でも何度か性的なシーンを描いていて、若い二人が予想外のタイミングで行為に及ぶとき、ウケの方が「洗ってくる」って席をはずすと思うんですけど、男性どうしのアナルセックスに関して言うと、行為が始まる前に洗ってる時間、相手がそれを待ってる時間って、すごく愛おしいと思うんです。でもたいがいのゲイ映画ってそういうところを端折るんですよね。

――前戯もせずにいきなり挿入とか、ありえないですよね。

いやいやいや!って(笑)。あと、潤滑ゼリーとコンドームを使うカットも入れました。ローションじゃなく、あえての潤滑ゼリー。

――なぜローション(ラブオイル)ではなく潤滑ゼリーなんですか?

粘膜に優しいんです。この二人は意識が高いんだなって見る人が見たらわかってくれると思います。ちなみにあの潤滑ゼリーは僕の私物です。未使用ですけど。コンドームに関しては、『POSE/ポーズ』で、エンジェルが自称ノンケの白人男性と行為するときに、引出しからコンドームを出すカットがあって、とてもよかった。その人がどういう人なのかとか、いろんなことが伝わるシーンだったんですよね。そういうことを丁寧に描くことに意味があると思いました。
 


スピンオフ作品の上映と、コミュニティへの貢献
 
――4月23日、TRPのステージで上映される『変わるまで、生きる』は、『老ナルキソス』のスピンオフ的な作品だと東海林さんもおっしゃってましたが、NPO法人パープルハンズの「ちゃぶ台の会」のドキュメンタリーでした。一品持ち寄りでみんなで夕ご飯を食べながら、いろいろ語り合う素敵な会です。参加した方が、若い頃の写真を見せたり、昔つきあってた人のことを話したり(『薔薇族』の文通欄で知り合い、会うまでに3ヵ月かかったとか)。なかには、パートナーをエイズで亡くした方などもいて、身につまされました…。短いなかにたくさんのドラマがあり、とても豊かな、印象深い作品でした。これを撮ろうと思ったきっかけは?

今回、長編版『老ナルキソス』で、役所にパートナーシップ申請に行くシーンや、持ち寄りの食事会のシーンの監修で、パープルハンズの永易至文さんに監修をお願いしたので、その流れで『タックスノット』にお伺いしたとき、取材してくれないかと言われたんです。確かに、やってみたいと、みんなに知ってほしいと思って。実際、撮りながら、これは『老ナルキソス』のスピンオフのようだなと思いました。

――あの年代の方が顔出しで出てくださっていることもすごいですよね。

顔出しできない方もたくさんいらっしゃる。それは社会の側の問題なのではないかと思います。『変わるまで、生きる』というタイトルは永易さんの提案で、制度で保障されたり、世の中が変わるまで生き延びるという思い。大事。声を上げることも大事。

――『片袖の魚』を撮ったこと、昨年レインボーマリッジフィルムフェスティバルを主催したことなども含めて、東海林さんはLGBTQの様々な社会的課題を自分ごととして引き受けて、コミュニティのために貢献している方だと思い、尊敬しています。そもそも第4回の映画祭で受賞して、自身のセクシュアリティを確信し、その後、どのようにコミュニティに関わってこられたのか、お聞きしたいと思います。

映画祭で受賞した最初の作品は、自分のセクシュアリティに悩む男性が、どうしていいかわからないけど、最終的に自分を許す。それも神様によって許されるという終わり方で、なんで神様を出したのか憶えてないのですが、心情としては、それくらい、許されない存在だと悩んでいたんですね。初めて男性とセックスした直後だったので、わかんない!っていう気持ちをそのまま表現して。その作品とともに周りにカミングアウトし、雑誌の『DICE』のインタビューでもカミングアウトしました。でも、周囲の反応があまり…強い拒絶ではなかったものの、受け容れられてるという感じでもなかったんです。

――1995年だとそんな感じだったんですね。

それで、あまりオープンにしない方がいいのかなと思って。当時は20代前半で。作品に関しても、当事者が当事者性のある作品を作るのは、怖いと思って。当事者の作家として評価されてしまう。

――色眼鏡で見られる。

バイアスがかかった状態。若くて生意気だったので、自分の当事者性を武器にして、振りかざすのは卑怯じゃないかと思った。最初に撮った映画の次もクィア性もある作品でしたが、そこから先は、仕事で撮ったものとかも一切、クィアネスがないものでした。じゃあなぜ、『老ナルキソス』を撮ったのかというと、40過ぎまでやってきて、何を撮っても自分の作品じゃないような気がして。納得がいかない。自分の作品を撮ろうと思ったとき、自分に戻ろうと、クィアネスと向き合わなければいけないんじゃないかと思ったんです。

――そうでしたか。20年近く経って、自身の原点に立ち返って『老ナルキソス』を撮ることに。それまでの間、コミュニティとは関わっていた感じですか?

映画祭で賞を獲ってから、誘われて二丁目に飲みに出たこともありますが、ほとんどコミュニティに目が向いてなくて。一つは、貧乏な学生で、そもそも新宿に出る電車代もなかったということ、それから、いわゆるゲイコミュニティの中のバイフォビアにも触れて…。

――ゲイバーで何かいやなことが?

「バイの人は信用できない」みたいな発言を耳にして。深刻ではないけど、そういう感情があるんだなとわかって。20代の若い頃だったし、離れてしまいました。それからだいぶ経って、状況が変わって、LGBTQの映画やBL作品もたくさん世の中に出てきたので、興味を持って観はじめて。それが自分のテーマとして向き合うきっかけにもなりました。

――そうでしたか…。若い頃にはいやなこともあったけど、見捨てず、コミュニティに帰ってきてくださったこと、うれしいです。日本でバイセクシュアル男性であるということをオープンにして活動している方もあまりいないので、貴重な存在だと思っています。最後に、今後、こういう作品を撮ってみたいという気持ちや、予定などあれば、教えてください。

いくつかあります。一つは、トランスジェンダーやノンバイナリーの当事者の表象。『片袖の魚』でも描きましたが、もっと掘り下げたいという思いがあります。もう一つは、性的マイノリティのコメディ。笑える作品をやってみたい。笑いと差別は紙一重で、一歩間違うと踏んでしまうので、すごく難しい。社会の成熟度合いのバロメーターだと思います。

――それはぜひ観たいですね。とても楽しみです。今日は本当にありがとうございました!


老ナルキソス
2023年/日本/110分/R15+/監督:東海林毅/出演:田村泰二郎、水石亜飛夢、寺山武志、日出郎、モロ師岡、津田寛治、田中理来、千葉雅子、村井國夫ほか/配給:オンリー・ハーツ
5月20日から新宿K's cinemaほか全国で順次公開

変わるまで、生きる
2023年/日本/9分/監督:東海林毅/協力:NPO法人パープル・ハンズ
4月23日(日)15:30-、TRP2023「プライドフェスティバル」の一プログラムとして代々木公園イベント広場のステージで上映されます

INDEX

SCHEDULE

    記事はありません。